Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号53番「日野大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号54番「朝倉大教会」について勉強します。
- 朝倉大教会(あさくら だいきょうかい)
- 2代会長・内田松吉の生い立ち(文久3年〜明治25年頃)
- 内田松吉の入信(明治25年)
- 内田松吉の布教(明治25年頃〜明治25年頃)
- 朝倉出張所の設立〜内田松吉の会長就任(明治29年〜明治34年)
- 教会移転(明治34年〜明治35年)
- 創設時の中心人物、平田喜七の出直し(明治35年頃)
- 朝倉決死隊の結成(明治37年頃)
- 朝倉支教会への昇格(明治42年)
- 神殿ふしん前後(明治43年頃〜明治45年頃)
- 教祖30年祭〜教祖40年祭・教勢倍加運動の頃(大正5年頃〜大正12年頃)
- 更なる教勢倍加運動(大正13年〜大正15年)
- 上級・筑紫中教会昇格奉告祭へのお供えとしての教会設置運動(昭和初期〜昭和6年)
- 内田松吉2代会長の出直し(昭和11年)
- 内田弥之助3代会長時代(昭和11年〜昭和20年)
- 内田トモ4代会長時代(昭和20年〜昭和36年)
- 内田光三郎5代会長の就任(昭和36年)
- おわりに
朝倉大教会(あさくら だいきょうかい)

2代会長・内田松吉の生い立ち(文久3年〜明治25年頃)
2代会長・内田松吉は、
文久3年(1863) 3月20日、
福岡県甘木市大字板屋153番地 (当時・下座郡板屋村) に、
父・長作、母・ユキの間に長男として生まれた。明治19年 (1886)、
同郡(朝倉郡) 安川村持丸の 塚本彦一の長女・スミと結婚。
農業を営み、一家を支えた。(内田)松吉は、生来 無口、終始一貫 実践躬行の人で、
入信前より 特に親孝心の道を通った。(内田家の) 家計は 決して豊かではなかったけれども、
(内田松吉は) 物事を一度やり出せば 一生懸命 黙々として
倒れても止まない 非常に精神力の強い人で、
入信後の通り方にも その性格がはっきり出ている。
内田松吉の入信(明治25年)
(内田)松吉の入信は 明治25年(1892) 8月の事で、
父・長作の眼病 (アガリ目)からである。(内田長作の眼病は) それ迄 八方手を 尽くしても何の効もなく、
何とかして この眼病を救けて頂きたいと、
(内田松吉が)
当時 三奈木村川原の小西与市という 稲荷の代人のもとに詣った時、
来合わせた同村(三奈木村) 鍛冶職の平田伊右ヱ門という人より、
天理教という(宗教があって、それは) 元の神の霊験 顕著なる故、信仰しては?
とすすめられた。これが、信仰の手引きの第一となる。
内田松吉の布教(明治25年頃〜明治25年頃)
当時は、入信してすぐ「人を救けて我身救かる」との信仰に徹した時だけに、
(内田)松吉は(天理教の話を聞いて)
どうでもこうでも父の病を救けて欲しい一心より、
毎日 おたすけに出るようになった。以来、上級教会・筑紫の初代・能美会長、および、大和、または 湖東の森井、羽治らが出張し、
その都度「助ける理が助かる」と諭され、
(それを受けて内田松吉は) 一層 布教の念を強くした。或る日、癪の病に苦しむ人がお諭しにより不思議に快癒して以来、
(内田松吉は) 益々「たすけ一条」の精神を定め、布教に専心することとなった。(内田)松吉は、村内切っての働き者とうわさされた人であったが、
神様に一 旦誓ってから(は、より)徹底的に それを実行した人であった。かくして、家も妻も顧みず 布教に奔走したが、
(当時は) 世間の反対攻撃の盛んな時代で、
家業の農業を止めての毎日の出歩きは、近隣の人々にとやかく言われるため、
仕事着のまま鍬や肥桶を担いで 1里2里の道を歩き、
途中で 着物を着替えて おたすけに励んだ。
朝倉出張所の設立〜内田松吉の会長就任(明治29年〜明治34年)
こうした燃えるような熱心さに、次々と教えが伝わり、
隣村・大庭村 徳次の 平田喜七宅に神様をお祀りして
「朝倉」の小さな一粒の種の芽生えを見るに至った。爾来、日一日と(内田)松吉の徳を慕って 入信する者多く、
遂に 教会設立出願の議が決せられた。
(設立場所は)
将来のため、地理的にも 現在の処 (福岡県大庭村) ではいけないと、
昔からの田舎での宿場町であった 県道筋 隣村・宮野村比良松に決定した。明治29年 (1896)6月16日、
(福岡県)朝倉郡 宮野村 比良松411番地に
教第1310号を以て「朝倉出張所」の許しを本部より受け、
同年(明治29年) 8月、地方庁の認可を得た。(その)当時、(内田)松吉が おたすけに励んでいた(わけだ)が
(内田松吉には) 教職がなかったので、
(朝倉出張所設立当初は)
(福岡県)三井郡 立石村(の) 千歳分教会 (筑紫部属) 役員・重松市郎を 担任教師として許しを得た。(そして、その後)
明治34年(1901) 3月1日(に)、
内田松吉(を)会長(として) 任命の承認を受けた。
教会移転(明治34年〜明治35年)
最初 許しを得た宮野村比良松は、屋敷も極めて狭隘、家屋も普通の民家を改造したばかりの粗末なもので、
到底 大勢の信徒の収容(は) 覚束なかった。(朝倉出張所として) 他に屋敷を求めたが、
村民の反対と 適当なる場所もないため、
現在地 (当時 原野) 7反歩余り (70アール) を候補地として 上級教会の視察を受け、
明治34年(1901) 7月7日(に) 移転の許しを得て、
翌(明治)35年(に) 移転(した)。(そして)
当時の熱心なる者 20数戸(が) 逐次転住し、
今日の基礎的形態を整えるに至ったのである。(朝倉出張所は) 移転当時、
すでに 50数名の教会住み込み人を擁していた。引越した者は、それぞれ 居住地にての講元・ 講脇または周旋人が殆どで、
(その) 一方、反対に遭い、信仰を止めた者も 多数いた。
引越しを世話取りした 水城金太郎の功績も 大きかった。
創設時の中心人物、平田喜七の出直し(明治35年頃)
しかし、講元ともいうべき平田喜七が天然痘となり、
親神にお願いしたが (残念ながら) 出直すに至った。当時 (朝倉出張所は) 信仰的にも まだまだ幼稚な事とて、
この事から いずみ勝ちとなった。
(そして) 地方よりの信頼感も次第に薄らぎ、おたすけの上でも 一頓挫してしまった。その(ような)時、上級教会・筑紫(支教会)より
「近隣ではお救けに出難い。でも、足を伸ばして10里20里踏み出せば そんな事知る者はない。必ず道がつく」
との言葉を頂き、一同 大いに発奮した。(そのお言葉を受けて) 遠く 大分県、熊本県に(まで) 踏み出した事が、
現在 同地方に 多くの部属教会の設立をみる原因となった。平田(喜七)の出直しは、
一面、草創時代 非常に忍び難い出来事であった反面、
今日の教勢を創った基ともなった(のである)。
朝倉決死隊の結成(明治37年頃)
明治37年(1904)、日露国交断絶開戦 (日露戦争) と共に、国内一般(が) 不況にあえいだ。
朝倉(出張所) でも、
大勢の住み込み人が 夫々の仕事を投げうち 家屋敷を売り払って布教に専心していたため、
全家族、また教会自体も 立ち行かなくなり、
生活のため、再び職を求めて 出稼ぎに行く人も 現れた。残った人達も、その日その日の食物にも事欠く(ような) 真にどん底に陥ち入り、
全般的に行き詰まってしまった。こんな事では 親神様にも申訳ない、こんな事でどうするか、というので、
筑紫(支教会) の会長を迎えて 教えを頂く事となった。(筑紫支教会長からの教えを頂いて)
朝倉(出張所) は「決死隊」を組織してこの難関を打開すべしと (相談がまとまった。)「決死隊」の綱領として、
- 決死隊は 3年間 わらじの紐を解かない。
- 家妻子を顧みず おたすけに専念する事。
- 家庭は女に委せ、役員の家庭は 会長宅の炊事場から煙の出ない時は お互いに喰わなくとも 留守を守り通す事。
- 各自の御恩報じの精神定めを○○円。
おおよそ、このような事が申し合わされた。
かくして、
内田松吉、平田分太郎、和智善七、和智惣平、永野市太郎、高瀬平太郎、半田弥三郎、大内田卯四郎、平田和平、高山甚三、水城金太郎、諫山芳太郎、諫山ムメ、佐藤直平、橋本久兵衛、矢野弥平、野村千代八、
以上 17名の「決死隊員」が組織された。以上の人々の苦労により、
現在の(朝倉)大教会 直轄教会 20数ヵ所の基が 築かれていった。
朝倉支教会への昇格(明治42年)
「決死隊」の奮起により、
(朝倉出張所は) そのどん底の道から一大飛躍を遂げて、
明治42年には「朝倉支教会」に昇格した。(そして) 同年(明治42年)、
大分県に 玖珠宣教所と 2ヵ所の部内(教会) を設置した。
神殿ふしん前後(明治43年頃〜明治45年頃)
翌(明治)43年に、大分県臼杵市に 理豊宣教所の設置となり、
翌(明治)44年2月には、苦労の中にも勇み切って、
久しい間の懸案であった神殿建築の議を興し、本部の許しと共に着工(した)。同(明治)45年3月(に) その落成を見、盛大なる開筵式を執行(した)。
この時、おぢばでは、丁度 北礼拝殿建築中の事とて、
「決死隊魂」を奮い起こして、それこそ 血のにじむ(ような) 伏込みにつとめ切った。しかし その結果、
(その後 朝倉支教会は) 神殿建築の負債に 永年 非常に苦しむことになったのであった。
教祖30年祭〜教祖40年祭・教勢倍加運動の頃(大正5年頃〜大正12年頃)
大正5年、教祖30年祭の後、2ヵ所の教会を設置(した)。
大正10年、おぢばより教祖40年祭の打ち出しと同時に「教勢倍加運動」が提唱された。
(教祖30年祭後) 大正6年には 久留米市に梅満宣教所、
同(大正)8年、(福岡県) 浮羽郡に 田主丸宣教所を設置した。(「教勢倍加運動」が提唱されたものの)
朝倉(支教会) としては、
教祖20年祭後に設置した教会には まだ力がないということ、また 世間の反対もあって歩みが鈍い(という)こともあって、
そのような教会を また設置しても駄目だ、(信徒の集まりに) 今少し実力がついてでなければ 教会設置はしない、
という方針であった。しかるに、本部の方針は
「教祖40年祭は 教会設置の「旬」だ、この旬に出願して 後で実力をつくれ」
というものであった。(そのような本部の方針を受けて)
(朝倉支教会としても)
ここに初めて、実力のあるものから
大正11年に 3ヵ所、翌(大正)12年に 4ヵ所… と(教会になり)、
(教勢の)倍加が 実現した(のであった)。
更なる教勢倍加運動(大正13年〜大正15年)
(何とか教勢の倍加を実現することができたと安堵した)
ところが、
(上級の)筑紫(分教会)より “さらにもう一度 これの倍加をせよ” という厳しい命がくだった。
(そのような親の声を受けた朝倉支教会は、改めて奮い立ち)
完全に人間の考えを捨て切った精神を定めることとなった。(大正)13年には、分教会(に)昇格。
同年(大正13年)から翌(大正)14年にかけ、(朝倉支教会は) それこそ 再び 決死の覚悟でつとめ切り、
大正15年1月、教祖40年祭を迎える時には、42ヵ所という教会の設置をみた。教祖40年祭提唱前は僅かに6ヵ所だった教会が、丁度 7倍になった(のだった)。
上級・筑紫中教会昇格奉告祭へのお供えとしての教会設置運動(昭和初期〜昭和6年)
昭和6年1月(に)、筑紫(分教会)が 湖東大教会より分離する事になった。
上級教会(の)分離ということで、(朝倉支教会としても) 懸命の働きを続けた。
そのような中、(上級・筑紫分教会より)
この(筑紫中教会)昇格奉告祭の御供に、“朝倉(支教会)として 教会10ヵ所 設置せよ” との厳命を受けた。(その時の朝倉支教会は) 教祖40年祭の(教勢倍加運動に伴って教会数は) 7倍加を達成しており、多少とも力のある処は 悉く設置した後の事であった。
(人間思案では到底不可能に思えたが) 一同は「ハイ」と素直に受けて つとめた。
その結果、鮮やかに11ヵ所の(新設教会) 設置を見た(のであった)。
内田松吉2代会長の出直し(昭和11年)
2代会長・内田松吉は、
九州の片田舎に呱々の声を挙げ、
あらゆる苦難の道中に「教祖ひながた」を慕い、
ひたむきの信仰に入って 実に45年。会長在職年限 36年、
昭和11年9月6日、齢76歳で 出直した。明治25年 入信、(明治)30年 教導職試補、(明治)34年 会長就任…
以来、年と共に累進し、出直しに当たり、中教正を贈られた。この間、福岡教区主事、筑紫大教会役員等を 永年(にわたって) 勤めた。
内田弥之助3代会長時代(昭和11年〜昭和20年)
(内田松吉)2代会長の出直しにより、
昭和11年11月9日 許しを得て、
3代会長に 内田弥之助が就任した。教祖50年祭から立教百年祭にかけて、(新設教会) 9ヵ所を増設(した)。
朝倉大教会への昇格(昭和15年)
こうして、教祖年祭毎に歩みを続けて来た朝倉(支教会)であったが、
天理教の革新により、
昭和15年2月26日、筑紫より分離し、遂に大教会昇格となった。同年(昭和)11月28日、
本部より真柱を始め本部員を迎えて 盛大な昇格奉告祭を執行(した)。
内田弥之助3代会長の出直し(昭和20年)
終戦の昭和20年10月11日、
(内田弥之助)3代会長が
大教会長 在職5年で 出直した。齢52歳だった。
内田トモ4代会長時代(昭和20年〜昭和36年)
昭和20年11月25日、
内田トモ (3代会長夫人)が 4代会長就任となった。
戦後復興〜部内教会100ヵ所設置運動(昭和20年〜昭和22年)
本部においては真柱より
「戦時色を拭い去り、道本然の姿に立ち返れ」
と復元の諭達 があり、さらに、朝倉(大教会) に 中山為信が来会。「女は嫁して 3年経てば子供を生み出す。教会も分離して3年経てば理の子供の教会を生み出せ」
とのお言葉を受けた。(そこで、朝倉大教会として)
(かつての) 先輩17名の「決死隊」を偲び、盛大な慰霊祭を執行すると共に、
「部内教会 百ヵ所」を目標に働く事を 固く誓ったのである。教祖60年祭をすませた昭和22年迄に 目標の41ヵ所設置を見て、
遂に、昭和49年には 部内 111ヵ所を擁するに至った。
詰所建設(昭和20年〜昭和36年)
(朝倉大教会は) 昭和15年に大教会(へ)昇格分離した後も
(おぢばでの)詰所は 筑紫(詰所)を使用していた。しかし、いつ迄もこのままでは申し訳ない というところから、
一同協議の上、
せめて 屋敷だけなりとも…という事から、(天理市)守目堂に土地を購入。
筑紫(大教会)より 木造瓦葺2階1棟を譲りうけ、
昭和25年9月(に 朝倉詰所の移築を) 起工、(そして) 翌(昭和)26年3月30日(に) 完成(した)。一部の落成を見て移転したものの、狭隘で信徒の収容(が) 覚束ないため、
(改めて) 新館増築の議(が)起こった。(そして) 同年(昭和26年) 11月 起工、翌(昭和)27年 6月 建物の着工となり、
同年(昭和27年) 10月、(詰所の) 新館 および 事務所倉庫が 完成を見るに至った。
内田光三郎5代会長の就任(昭和36年)
昭和36年3月27日、
養嗣子・内田光三郎が5代会長に就任した。
(5代会長就任)奉告祭をつとめる上から、
当時の客間は古くて狭いので、新しく客間建築(した)。同(昭和)36年10月21日、
真柱臨席のもと盛大に奉告祭を執行し、
その後、付属建物の一部増築 及び 改築等を行い、
現在の大教会の形勢をみている。〔現住所〕 〒838-0023 福岡県朝倉市三奈木六本松 1945番地の3
〔電話〕0946-22-3137(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,14〜16)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
54回目の今回は、
「朝倉大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) という本の中にも朝倉大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
朝倉の道は、福岡県三奈木村川原の鍛冶屋・平田伊右ヱ門が、明治二十五年、神経病者のおたすけを請いに松尾徳之助宅を訪ねたことから始まる。
佐田川の対岸、板屋の内田松吉は、父・長吉の白内障のことで稲荷下げへ詣った時、伊右ヱ門より勧められて入信。
また、胃の患いから板屋の地主・諫山芳太郎が入信した。
高齢の伊右ヱ門に代わって芳太郎が講元、松吉が講脇になり、講社は川原から板屋へ移った。二十六年、来訪した福原惣太郎に「神恩に報ゆる道はこの道しかない」と強く仕込まれ、松吉、芳太郎らは奮い立った。
松吉は、藁ふごや綺麗に洗った肥桶の中に風呂敷を包んだ羽織を隠し、畑仕事に行くような格好で村を出て、途中で着替えておたすけに回った。
六本松(現在地)の雑木林に神殿竣工、九戸が家屋財産を処分して教会の門前に家を建て、教会入り込み家族団 (麓と呼ぶ) を構成して尽くした。三十七年、日露戦争勃発後、朝倉は解散寸前まで追い込まれた。
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,100
福原惣太郎の「布教決死隊を作れ」の一声で窮地を脱し、起死回生の壮挙を果たした。
当記事では
『天理教事典』の中の「朝倉大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も、また知らないことばかりでした。
朝倉大教会は、筑紫大教会から分かれた大教会ですね。
すなわち、斯道会の流れ汲む大教会。
筑紫大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

今回の『天理教事典』「朝倉大教会」解説文は 2代会長の解説から始まっていたので、
なぜ?と、最初 疑問に思いました。
しかし、よく読むと、その理由がわかりました。
朝倉出張所を設立する時に、実質的な初代である内田松吉先生には教職(資格)がなかった。
なので、一旦 上級教会の教職(資格)のある先生を会長としてお許しを受けた。
そして その後(きっと内田松吉先生が教職(資格)を得られた後)、
内田松吉先生が会長になられた。
それで、
組織史としては「2代」ということになるけれども、
実質的には初代である「内田松吉」先生の解説が冒頭に来ていた。
そういうことだったのですね。

今回の「朝倉大教会」書写学習の中で 強烈に印象に残ったのは、
「朝倉決死隊」でした。
「決死隊」(゚Д゚;)!
ネーミングがすごい。
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) の中でも、結構なスペースを割いて解説してあるところからしても、
このような運動は、たぶん教内でも大いに注目される活動だったのではないのだろうか、と感じました。
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) の中では次のように書かれてありました。
明治37年、日露戦争勃発。
国内は 不況にあえいだ。50数人の教会住み込み人を抱える「朝倉」は 解散寸前にまで追い込まれた。
筑紫の福原惣太郎が 3昼夜 教理を説いた。
こたえて一人が「命ある限りやり抜こう」と言うと、間髪を入れず「布教決死隊を作れ!」と惣太郎は提案した。
一同の腹は 決まった。こうして17人の 決死隊 の奮起と活動により、どん底から一大飛躍を遂げ、現在の朝倉の直轄教会 20数ヵ所の基が 築かれた。
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,61
日露戦争勃発時、朝倉出張所は、解散寸前にまで追い込まれた‼︎
『道〜天理教伝道史をあるく』の中に、上級・筑紫の福原惣太郎が3昼夜教理を説いた、と書かれてありますから、
その時、おそらく、朝倉に住み込んでおられた方々の間では、ほぼ解散が決まっていたのではないか、
と想像致します。
そのことを知った上級・筑紫の福原惣太郎先生は、
ほぼ気持ちが切れてしまった朝倉の人々を翻意させるべく駆けつけ、粘り強く説得を続けられたのではないでしょうか。
「もう無理です」「もう少し頑張ろうよ」
おそらく、そのような押し問答が重ねられ、
福原惣太郎先生の誠真実が、
3昼夜(!)かかって、朝倉の人々の心に届いた‼
それが「命ある限りやり抜こう」という朝倉の方々の決意につながり、
そして「布教決死隊」につながっていったのですね。
「決死隊」の綱領がまたすごい…
- 決死隊は 3年間 わらじの紐を解かない。
- 家妻子を顧みず おたすけに専念する事。
- 家庭は女に委せ、役員の家庭は 会長宅の炊事場から煙の出ない時は お互いに喰わなくとも 留守を守り通す事。
- 各自の御恩報じの精神定めを○○円。
ウ〜ン、なんとも凄まじい…
逆に言うと、
それほどに、当時の「朝倉」の人々は 追い込まれていた、ということかもしれません。
そして、「決死隊」の、文字通り『命懸け』の活動によって、
「朝倉大教会」は、解散の淵から脱出し、奇跡の大躍進を遂げられたのでありました。
まるで ドラマか 映画のよう…
天理教版『プロジェクトX』のストーリーを見ているかのようです。
このような先人先生方の並々ならぬご苦労があったからこそ、
今、お道の大きな柱として輝く「朝倉大教会」があるのですね。
私たちは、折に触れて元一日・歴史の大切さを教えられているわけですが、
こうして歴史を学び、実際の史実に触れるたびに、
「本当にそうだなぁ…」と 感じさせられます。

その他にも、これまで知らなかった多くの尊い話を知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「朝倉大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。





















































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