天理教 各教会の歴史探索(第61回)【治道大教会】『天理教事典』より

「治道大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号60番「豊岡大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号61番「治道大教会」について勉強します。

  1. 治道大教会(はるみち だいきょうかい)
    1. 矢追楢蔵の生育環境(明治2年〜明治10年頃)
    2. 初代会長 矢追楢蔵の身上たすかり(明治10年〜明治11年)
    3. 矢追楢蔵の求道(明治11年〜明治21年)
    4. 治道大教会母体としての誠心講(明治21年〜明治22年)
    5. 発展する誠心講(明治25年〜明治26年)
    6. 矢追楢蔵・植村梅吉の大分布教と治道布教所の設置(明治26年)
    7. 矢追楢蔵、布教方針の大転換(明治26年〜明治27年頃)
    8. 高まる反対攻撃、その克服(明治27年頃)
    9. 矢追楢蔵・八尾留次郎の九州布教(明治28年)
    10. 矢追楢蔵の誠心講長就任〜治道支教会への引直し(明治28年〜明治29年)
    11. 教会移転〜矢追楢蔵の熊本布教〜教勢の伸長(明治29年〜明治33年頃)
    12. 矢追楢蔵 初代会長の結婚〜早過ぎる妻の死別(明治38年頃〜大正7年)
    13. 治道中教会への昇格(大正8年)
    14. 教会の移転建築(大正9年)
    15. 教勢倍加運動への呼応〜教祖40年祭(大正9年〜大正15年)
    16. 矢追楢蔵 初代会長の出直し(昭和4年)
    17. 芝甚之助の2代会長就任(昭和4年)
    18. 芝甚之助2代会長の生い立ち(明治16年〜明治23年)
    19. 芝甚之助2代会長時代(昭和4年〜昭和11年)
    20. 3代会長・矢追富夫(明治43年誕生〜昭和11年会長就任)
    21. 治道大教会への昇格(昭和15年)
    22. 戦中・戦後〜神殿ふしん(昭和19年頃〜昭和46年)
  2. おわりに
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治道大教会(はるみち だいきょうかい)

治道大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビュー より

矢追楢蔵の生育環境(明治2年〜明治10年頃)

初代会長・矢追楢蔵は、
明治2年(1869) 陰暦9月28日、
(奈良県) 伊豆七条村 第11番屋敷、矢追惣五郎・なか の長男として生まれた。

伊豆七条村は、早くより 教えの伝わった村であった。

一時は、殆ど 全村挙って信仰していたが、
明治初年には 信仰も下火となり、
逆に 教えに反対したり、嘲笑する者も多くなっていた。

(矢追)楢蔵の父・惣五郎も、天理教に反対であった。

初代会長 矢追楢蔵の身上たすかり(明治10年〜明治11年)

ところが、
明治10年夏、(矢追)楢蔵 9歲の時、
近所の子と川遊びに行き 下腹部を蛭にかまれ、
2〜3日後に異常にはれ上がるという事故に遭遇した。

しかし(その時は)、別に痛みもなかったので、そのまま打ち過ごしていた。
しかしながら、何と言っても 急所の患いであるので、
両親始め家族 及び 近隣の人々は心配して、
種々と治療の方法を試みた。

しかし、何の効果もなかった。

当時、(伊豆七条村では)
喜多治郎吉の伯母・矢追こう と 桝井伊三郎の母・きく が熱心に信仰しており、
この二人が (矢追)楢蔵の祖母・こと(当時61歳、明治40年91歳で出直す) に (熱心に) 信仰を勧めた。
(そして) このことが契機となって、(矢追)楢蔵のおぢば帰りが実現した。

(矢追楢蔵は) 祖母の こと に連れられ 教祖に病気の箇所を見て頂いたのであるが、
その時 教祖は
「家の真柱、真の処に真のなやみ、心次第で 神様は救けて下さるで」
と 仰せられた。
以来 3日毎に、祖母・こと と 母・なか が交替でおぢばへ参拝したが、すっきりとは平癒しなかった。

明けて 明治11年2月中頃、祖母に連れられて参拝した時、丁度、辻忠作が来合わせた。
(辻忠作は) 祖母に向って
「今は 神様は仰せ下さらぬけれど、男の子は父親付きで、と聞かして下さる。
あなたさんは 孫可愛いさで何時もよくお参りになりますが、一度、(父親である) 惣五郎さんが 楢蔵さんを連れて参りなされ。
私も外ではない (=遠縁に当たる意) から 御咄し致しますのや」
と 話した。

祖母の こと から(楢蔵の父親である)惣五郎への頼みで、
(明治11年) 陰暦2月22日 (矢追)楢蔵は、父と共におぢばへ帰った。

すると 不思議なことに、
翌朝 更に 病気の部分がひどく腫れたけれども、翌々(2月)25日の朝には すっかり全快した(のだった)。
(それを見て) 家内中はもちろんのこと、近所の人も (その)不思議な守護に (たいそう)驚いた。
(矢追)楢蔵 (当時10歳) は 子供心に しみじみ感涙にむせんだ、と手記に残されている。

(『稿本天理教教祖伝逸話篇』98-100頁参照)

『天理教教祖伝逸話篇』
57.男の子は、父親付きで

明治十年夏、大和国伊豆七条村の、矢追楢蔵(註、当時九才)は、近所の子供二、三名と、村の西側を流れる佐保川へ川遊びに行ったところ、一の道具を蛭にかまれた。

その時は、さほど痛みも感じなかったが、二、三日経つと、大層腫れて来た。
別に痛みはしなかったが、場所が場所だけに、両親も心配して、医者にもかかり、加持祈祷もするなど、種種と手を尽したが、一向効しは見えなかった。

その頃、同村の喜多治郎吉の伯母 矢追こうと、桝井伊三郎の母 キクとは、既に熱心に信心していたので、楢蔵の祖母 ことに、信心をすすめてくれた。

ことは、元来 信心家であったので、直ぐ、その気になったが、楢蔵の父 惣五郎は、百姓一点張りで、むしろ 信心する者を笑っていたくらいであった。

そこで、ことが、
「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。どちらかにしてもらいたい。」
とまで言ったので、惣五郎は やっとその気になった。
十一年一月(陰暦前年十二月)のことである。

そこで、祖母の ことが 楢蔵を連れて、おぢばへ帰り、教祖にお目にかかり、楢蔵の患っているところを、ごらん頂くと、教祖は、
「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」
と、お言葉を下された。

それからというものは、祖母の ことと 母の なかが、三日目毎に交替で、一里半の道を、楢蔵を連れてお詣りしたが、はかばかしく御守護を頂けない。

明治十一年三月中旬(陰暦二月中旬)、ことが 楢蔵を連れてお詣りしていると、辻忠作が、
「『男の子は、父親付きで』と、お聞かせ下さる。一度、惣五郎さんが連れて詣りなされ。」
と、言ってくれた。
それで、家へもどってから、ことは、このことを惣五郎に話して、
「ぜひ お詣りしておくれ。」
と、言った。

それで、惣五郎が、三月二十五日(陰暦二月二十二日)、楢蔵を連れて おぢばへ詣り、夕方 帰宅した。

ところが、不思議なことに、翌朝は、最初の病みはじめのように腫れ上がったが、二十八日(陰暦二月二十五日)の朝には、すっきり全快の御守護を頂いた。
家族一同の喜びは 譬えるにものもなかった。

当時十才の楢蔵も、心に沁みて 親神様の御守護に感激し、これが、一生変わらぬ 堅い信仰のもととなった。

矢追楢蔵の求道(明治11年〜明治21年)

(矢追家は) 以後、一家を挙げて入信したのであるが、
(矢追)楢蔵は、入信後 每晚每晚、桝井伊三郎宅へ行って話を聞き、
桝井宅の燈火を見ないと 夜は眠られない という程、熱心であった。
「鶏の鳴かん日はあっても、楢蔵さんの来ぬ晩はない」と言われた。

(矢追楢蔵は) 10歳の時には「てをどり」の手を学び、
同志の子供が 5〜6名出来たので (共に) お手振りの稽古をする一方、
小学校卒業後は、新谷寅雄につき 勉学する程の 向学心に燃えていた。

明治16年夏の大旱魃の時には、15歳で、
辻忠作、桝井伊三郎に連れられ 諸所へ雨乞い勤めに行った。
また、18年(17歳) 春より、
近村の 番条、横田、六条へ てをどりの手を教えに回る程の 熱心さであった。

このように、幼い頃から信仰に熱心であったので、
明治21年7月20日には 教導職試補を授けられ、
同年(明治21年) 11月2日(陰暦9月28日) には、おさづけの理を拝戴した。

(しかし) 父・(矢追)惣五郎は、厳格であり、篤農家で非常な働き手であったため、
(矢追)楢蔵が 家業をおいて 布教に回ることは、絶対に許さなかった。
故に、(矢追)楢蔵は、家業にも 人一倍精を出し、農事の休みを見つけては 布教に回った。

(矢追)楢蔵自身、幼い頃より 堅固な信仰を持っていたが、
矢追家の信仰には、祖母・こと と父・惣五郎の 陰の力を見逃すことが出来ない。

治道大教会母体としての誠心講(明治21年〜明治22年)

明治21年春「誠心講」の職制制定の際、
(矢追楢蔵は) 3名の取締役の中の一人となった。
(誠心講は) 当時 広がっていた12ヵ村と、奈良に 講元・周旋を置いた。

翌(明治)22年春には、都介野村 小山戸の「銘心講」を合併して、
新たな「誠心講」となった。
これが「治道大教会」の母体である。

発展する誠心講(明治25年〜明治26年)

(誠心講は) (明治)25年には、
奈良の地を選んで 布教所 (現在の佐保分教会) を設置するまでに至った。

それと共に、元の 銘心講であった 都介野村小山戸にも 
(明治)26年2月、都介野布教所 (現在の都介野分教会) を設置した。

また「誠心講」としては、
近在の布教のみならず 遠国へも教えを広めようと努力し、
(矢追)楢蔵と植村梅吉の2名が、大分県地方へ布教に出る という運びとなった。

こうして「誠心講」の伝道線は、広く 遠国布教へと 発展してゆくのである。

矢追楢蔵・植村梅吉の大分布教と治道布教所の設置(明治26年)

布教の拠点づくりに出た (矢追)楢蔵、(植村)梅吉の両名は、
同地方(=大分県地方)を布教していたが、
事情により、第1回目は 20日間程で帰国した。

出立前に地方庁へ出願した「治道布教所」設置の認可が
(明治26年) 5月24日付で下った。
(※本部お許しは明治26年4月13日)

(誠心講の)土地の信者も大いに勇んでいた時であったので、
(矢追楢蔵は) 安心して 再び 大分 ・福岡県へ布教に行った。

しかし、この時も また、
教会の問題のため (涙を飲んで) 2ヵ月程で帰国した(のだった)。

こうした中、
(治道)布教所の開講式を執り行うことを 一同と相談(の上、ご本部に願い出た。その結果) 明治26年4月13日、(無事) 許しを受け(ることが出来)た。

(明治26年) 9月25日 (陰曆8月16日)に 盛大に (治道布教所の) 開講式を執行し、
布教所設置(の動きに)も 一段落(が) ついた(のであった)。

この年(明治26年) は、
布教所設置、九州へ2度+信州へ1度の 計3度の 遠国布教…と、
(矢追)楢蔵にとって (極めて)多忙な年であった。

しかし、
(矢追楢蔵の)こうした(懸命の)努力にもかかわらず、
遠国布教は 実を結ばなかった。

矢追楢蔵、布教方針の大転換(明治26年〜明治27年頃)

(懸命の努力にもかかわらず実を結ばなかったという)
この経験から、(矢追楢蔵は) 
遠国布教は 何年かかっても…との心掛けで出て行かねば成功しないと悟った。

(そして) まず それには、
足元から地固めすることが先決だ
と(考えるようになり)、
以後(は) 近在の布教に力を入れる(という)ことに、方針を変更した。

高まる反対攻撃、その克服(明治27年頃)

(近在布教に方向転換した矢追楢蔵の奮闘により)
(天理教への) 改式者も 段々増加して来た。

しかし、当時(は)、天理教に対する 他宗教の反対演説が 方々で盛んに行なわれ(るような社会情勢で)、
伊豆七条村もその渦中にあって、(天理教)入信者は 村八分にされる状態(なの)だった。

しかし、(そうした苦しい状況の中からも) 
反対者の中にも 入信する者が(だんだんと) 現われ(るようになった。)

また、(治道布教所としても) 寺の方へ これまでと同様に区費や寄付をする、ということで、元通り交際するようになった。

矢追楢蔵・八尾留次郎の九州布教(明治28年)

こうして、(矢追楢蔵は) 明治27年中は 土地の人達に布教し、
翌(明治)28年、いよいよ(治道布教所の) 留守を世話方に託して、
(明治28年) 5月より、八尾留次郎を同伴して 九州布教に旅立った。

(矢追楢蔵・八尾留次郎) 両名が 熊本県へ足を伸ばした時、
ここで『大和屋』と号して 遊廓を経営していた 大和出身の 高橋かね宅を訪ねて 泊まった。

(奇しき縁により) そこにおいて (高橋かね の) 養子・高橋卯治郎が、
天理教の話を聞き分けて入信し、熱心に信仰するようになった。

これが足がかりとなって、
2年後の(明治)29年の 正月大祭 及び 教祖10年祭には、
九州から3名を連れて おぢばに帰(るという姿を見るに至)った(のであった)。

実に、これが「治道」が九州へ伸びていく始まりであり、
こうして 熊本から長崎 及び 佐世保へと伸び、
現在では 佐世保から 大牟田・福岡・宮崎へも伸びている。

矢追楢蔵の誠心講長就任〜治道支教会への引直し(明治28年〜明治29年)

なお、
この間 (=矢追楢蔵の九州布教中) に
(治道布教所とは別に) 1ヵ所 布教所を設置し、
これで「誠心講」部内に 4ヵ所の布教所ができた。

一方、
「誠心講」の講長である 喜多治郎吉が、
本部のつとめが 忙しくなってきたので (誠心講長を)辞任。
(それを受けて) 明治26年4月13日、
矢追楢蔵が「誠心講長」に就任した。

(それと) 同時に「治道布教事務取扱所」を設置した。
明治29年6月2日には 「(治道)支教会」に 引直しの許しを受けた。

教会移転〜矢追楢蔵の熊本布教〜教勢の伸長(明治29年〜明治33年頃)

「(治道)支教会」は それまで (奈良県) 伊豆七条村の 東垣内11番屋敷、矢追惣五郎宅に設置してあったが、
この時 (=明治29年6月2日 治道支教会へ引直しのお許しを頂いた時)
西垣内244、247番地 (現在の元治分教会の場所) へ 許しを得て移転した。

なお、(矢追)楢蔵は 改築など万事を留守方に任せて、
再度、(明治29年) 6月下旬より、
八尾留五郎、松本要三郎と共に 熊本へ布教に行った。
(約4ヵ月布教に励んだ後) 秋季大祭に(治道支教会へ) 帰った。

こうして、近在は勿論、九州、大阪方面への布教が続き、
明治33年になると、 隣県において 信者も 追々 増加していった。

このように、教勢は伸長の一途であった。

矢追楢蔵 初代会長の結婚〜早過ぎる妻の死別(明治38年頃〜大正7年)

教勢伸長の牽引者である(矢追)楢蔵は、
これまで 独身を通し 布教に従事していた。

しかし、教会活動も活発となり、部内教会も増加し、
一人では充分のつとめも出来ないので、
周囲の奨めもあって、三浦よし (当時27歳) と結婚(した)。
(矢追楢蔵・よし夫妻は) やがて 3男4女を授かった。

(仲睦まじく夫婦生活を送っていた矢追夫妻であったが) 
大正7年11月10日、結婚生活13年で、
病気のため、(妻の) よしは 39歳で出直し(てしまっ)た。
(その早過ぎる別れは、あまりにも悲しく、痛ましいものであった。)

治道中教会への昇格(大正8年)

この (矢追よし夫人の) 出直を契機として、教会の昇格、移転 及び 詰所改築の議が持ち上がり、
大正8年(1919) 1月30日に 治道分教会は「治道中教会」に昇格を許された。

このとき、部属教会数は 41ヵ所である。

教会の移転建築(大正9年)

これまで所在していた (奈良県) 伊豆七条村は、
古くより教えの伝わった ゆかりの地であるが、
教会の隆盛にともない建物が狭隘となり、かつ 交通も不便であったので、(かねてより)移転地を考慮中であった。

(そのような状況下において、不思議なご守護で 治道中教会として) 帯解にまとまった土地を入手することができた(のであった)。

それで、大正9年9月23日に(治道中教会は) 移転建築をなし、
同時に、(治道)詰所の増改築にも 着手した。

教勢倍加運動への呼応〜教祖40年祭(大正9年〜大正15年)

この頃(大正9年頃)は、治道(中教会)としては多事多難な時期であったが、
こうした時、大正10年に (ご本部より) 教祖40年祭の(教勢)倍加運動の提唱があった。

(教勢倍加運動の提唱を受けた) 矢追楢蔵は 教会設置に東奔西走し、新設された教会は35ヵ所にのぼった。
その結果、(治道中教会は) 大正14年3月31日末で、部属教会数 75ヵ所となった。

(大正14年4月1日) 肥長(分教会)が、所属する教会数 42ヵ所を伴い、分離昇格した。

(それにより) 治道(中教会) に残った部属教会数は 33ヵ所となり、
(治道中教会は) 肥長分離後に 6ヵ所の教会を新設して、計39ヵ所で 
(大正15年) 教祖40年祭を迎えたのである。

矢追楢蔵 初代会長の出直し(昭和4年)

昭和4年(1929) 7月21日、初代会長・(矢追)楢蔵が出直した。
享年61歳であった。

(矢追楢蔵は) 足掛け37年間というもの、教会長としてつとめ、
一代で 布教所長より中教会長となり、
全生涯を 天理教信仰の上に捧げつくしたのである。

芝甚之助の2代会長就任(昭和4年)

「治道」の土台となった (矢追楢蔵)初代会長 出直し後、
2代会長となるべき矢追富夫は まだ学生であったため、
役員会議の結果、芝甚之助 が 後任会長に推された。

(そして) 同年(昭和4年) 9月28日、許しを得て
(芝甚之助が) 治道中教会の2代会長となった。

芝甚之助2代会長の生い立ち(明治16年〜明治23年)

芝甚之助は、
明治16年(1883) 7月1日、
八尾勇治郎の次男として 今の大和郡山市 下三橋に生まれた。

八尾家は 甚之助の祖母・ならへ の病気から 明治23年に入信した。

(八尾)甚之助は 幼名を 勇治と言ったが、
芝甚之助 長女・ツヤ と養子縁組をし、
養父 出直し後、甚之助を襲名した。

芝甚之助2代会長時代(昭和4年〜昭和11年)

(芝)甚之助は 家業にいそしみ 店は繁昌していたが、
(治道中教会の) 会長就任を契機として、伝統を誇る問屋を廃業し、
一家をあげて (治道)中教会へ住み込んだ。

(そして) 将来の3代会長の成長を祈りつつ、
部内教会の「修理」に、また 教勢の拡張に心をつくした。

就任直後(に) 妻のツヤ (昭和7年1月3日享年50歳) が出直す という出来事の中(も 心を倒すことなく乗り越え)、
ただ黙々として 教えの上に真実を尽くし、
部内教会の教信徒からは 真の親として慕われた。

(芝)甚之助は、
昭和6年1月、教祖50年祭(=昭和11年) の打出しがあり (その際) その準備委員を拝命。
不眠不休で年祭活動に専念し、部内教会一般を激励した。

その結果、
北倭、横田、佐紀道、治倉、治宮 の各宣教所の設置を見ると共に、
部内教会の中の 機能を果たさない教会の手直しや整理も 行われた(のであった)。

かくて、(昭和11年の) 教祖50年祭の御用も無事つとめ、
昭和11年6月、(芝甚之助は) 会長の職を辞し、
矢追富夫を3代会長に立て、
自らは 本部の青年として おぢばで勤めることとなった。

3代会長・矢追富夫(明治43年誕生〜昭和11年会長就任)

3代会長・矢追富夫は、
明治43年(1910) 3月21日、
天理教治道支教会において、矢追楢蔵・みち の長男として誕生。

昭和5年5月2日、喜多ひろ と結婚。

昭和11年6月18日、
芝甚之助より会長を引継ぎ、(矢追富夫が)3代会長に就任した。

治道大教会への昇格(昭和15年)

昭和15年3月25日、
治道(中教会)は 大教会に昇格(した)。

戦中・戦後〜神殿ふしん(昭和19年頃〜昭和46年)

第2次世界大戦のため、(矢追)富夫は 昭和19年 (軍役)応召。
その留守中(は)、妻・ひろ が 代務者となって 教会を守った。

(昭和20年) 戦争も終結し、
昭和21年7月6日 (矢追)富夫が 無事復員した。
(そして) 
昭和22年、長男・富和が誕生した。

(矢追富夫)3代会長は、
天理教の教育機関における活躍が目ざましかった。
戦前は、教校別科・本科講師、別科主任、教学部員、教学審議会委員、教校教頭を歴任。
戦後は、新制の天理中学、天理高等学校長を歴任した。

昭和27年から28年にかけて、
「教会創立60周年記念祭」執行のための神殿増築、客間新築を行った。

その後、10年を経て、
昭和39年9月には (治道)詰所を 大教会へ移し、
連絡事務所として 芦津詰所の一部を借りることとなった。

更に、
昭和42年には 神殿ふしんの打出しを行い、 
(無事) 完成して、昭和46年4月13日に 神殿新築落成奉告祭を執行した。

現在、部内教会、よふぼく、信者一丸となって、
日夜 たすけ一条に邁進している。

〔現住所〕〒630-8444  奈良県奈良市今市町285−1 
〔電話〕 0742-61-7608

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,684〜686)

おわりに

治道大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

61回目の今回は、
「治道大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

治道大教会GoogleMapより
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

文久三年ごろには 中街道沿い 伊豆七条村の 桝井伊三郎一家が入信した。

キク は 夫の伊三郎 (子供も伊三郎。道で活躍したのは子供の方) が 喘息で困っている時、隣家の 矢追仙助に教えられ、帰参した。

教祖は キク があちこちの詣り所へ通ったことをお見抜きで、
「あっちこっちと えらい遠回りをしておいでたんやなあ。
ここへおいでたら、皆んな おいでになるのに」
と おっしゃったという。

翌 元治元年、キク が重体に陥った際、
十五歳の伊三郎は 一日に三度も 約五・五キロの道程を 教祖のもとへ お願いに行った。

(喜多)治郎吉も 伊豆七条の生まれ。
十六歳で 眼を患った時、伊三郎より話を聞いた。
明治七年に 大病にかかってから 熱心になり、融通念仏宗の 喜多家へ婿入り後も、隠れて 道の信仰に励んだ。
明治十三年、(喜多治郎吉) 二十七歳の時、近所の信者を一丸とした 誠心講をつくった。

また 同村の 矢追楢蔵は 明治十年、川遊びをしていた時、一の道具を 蛭に噛まれて 祖母・こと が 信仰を始めた。
伊三郎の母・キク と 治郎吉の伯母・こう の勧めによる。

二十六年、楢蔵は 治道布教事務取扱所を設置した。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,66〜67)

治道大教会の母体は「誠心講」なのですね。

最初、「誠心講」がそのまま「治道大教会」になったのかと思いましたが、
読み進むと、どうも違うような…

ザッと流し読みした時点では「誠心講」と「治道大教会」の関係が今ひとつよく分らなかったので、
何回か読み直して、なんとか理解することができました。

おぢばに程近い地域で、喜多治郎吉先生を講元として結成されたのが「誠心講」。
その「誠心講」という信仰共同体の内部機関として組織されたのが「治道布教所」。
その治道布教所が発展して、今の「治道大教会」になっている。
そういうことだったのですね。

『天理教事典』「治道大教会」解説文の中には、
誠心講は、明治25年には 奈良の地に 現在の佐保分教会の前身となる布教所を設置した、とも書いてありました。
なので、「誠心講」がそのまま「治道大教会」になったわけではなくて、
「誠心講」の中からいくつか布教所が生まれた、その中の一つが「治道布教所」であり、その治道布教所が治道大教会に発展した。
そういう理解で間違いないのだと思われます。

天理教大教会、初期歴史の勉強を重ねる中で、
大教会「最初の一歩」の名称には 様々な種類がある という知識が積み重なってきました。
⚪︎⚪︎支教会だったり、⚪︎⚪︎分教会だったり、今回の治道のように⚪︎⚪︎布教所だったり…

それは、教会組織が誕生する時点での「教規」等の様々な背景によるもので、それぞれに意味があるのだとは思いますが、
私のような基礎知識が乏しい者にとっては混乱を招く部分ではあります。
(別に気にする必要のない部分であるかもしれませんが…(^^;)

今回、『天理教事典』「治道大教会」解説文書写学習記事をまとめるにあたって、
書き写しを終えた後、
いつものように「おわりに」として 少しばかり自分の感じたことを書こうかと思って、ネットであれこれ検索しておりました。

そうしたところ、
朱夏という方による「天理教勉強blog」というブログの中の、
治道大教会 初代会長・矢追楢蔵先生が入信された際の逸話である
「稿本天理教教祖伝逸話篇57 『男の子は、父親付きで』」についての悟り
を書いておられる文章に 出会いました。

一読して、非常に深い感銘を受けました。

当ブログは、私の自己学習ブログという位置付けで、
私個人の自己学習を最大の目的としております。

当シリーズで、これまで 最後に私が感じたことを書き加えてきたのも、
感想をまとめることで自身の思考を整理する機会を確保し、
それにより 文章を漠然と流し読むだけの「表層的」な姿勢から脱却して、
それが 内容をより深く読み込み理解しようとする「深層的」な姿勢につながることを 期待したものでありました。

すなわち(大げさだと言われそうですが)
私としては、それは、
単なる情報の受け取り手から 積極的に学びを深める主体へと成長すること、
それを目指した取り組みだった、というわけです。

しかし、
今回「治道大教会」について勉強する中でたまたま出会った「天理教勉強blog」さんの文章は、私にとって非常に勉強になる内容で、
自己学習という目的に照らし合わせても、
ここは、私個人のつまらない感想を書き加えるよりも、
「天理教勉強blog」さんの文章をそのまま転記させて頂いて 後々読み返せるようにした方が、
より、当ブログの主旨に沿う、すなわち「勉強になる!」と感じました。

長々と能書きを書き連ねてしまいましたが (-_-;)
そういうことで、
以下に、
治道大教会初代会長・矢追楢蔵先生入信のご逸話に関わる
天理教勉強blog」さんの「さとり」文章を 書き写しさせて頂きます。

「天理教勉強blog」様。
これは、個人的な学習および備忘録の目的で複写するものです。
どうか、事前の承諾なくリンク掲載することをご容赦いただきますよう、お願い申し上げます m(_ _)m

☟【朱夏様「天理教勉強blog」より引用】

『稿本天理教教祖伝逸話篇』五七「男の子は、父親付きで」
【今現在できる、自分なりの「さとり」】

(『稿本天理教教祖伝逸話篇』57「男の子は、父親付きで」のお話は)
治道大教会 初代会長・矢追楢蔵先生が 入信された際の御逸話です。

この御逸話で感じるのは、教祖(おやさま)が引き寄せようとされたのは、
矢追楢蔵先生の父親・惣五郎先生を芯とする「矢追家」だったのであろう ということです。

そして、家族ぐるみで信仰してこそ意味がある、ということを伝えようとされたのではないか、と思います。

惣五郎先生は、母親である こと先生が、
「わたしの還暦祝をやめるか、信心するか。 どちらかにしてもらいたい。」
とまで言って、ようやく おぢばに楢蔵先生を連れて行っても良い と決められました。

還暦は、今現在ではごく当たり前で、むしろ「まだまだ若い」という感覚かもしれません。
しかし、当時の感覚からすると、還暦というのは 本当に珍しく、
もし 家族が還暦まで長生きできたら、お祝いをしないなどというのは、考えられないことだったであろう と思います。

それを辞めるというのは、相当な重さを持つ言葉だったでしょう。

しかしそれでも、惣五郎先生は、
自らが 息子・楢蔵先生を連れて行くのではなく、こと先生に任せておられます。

おそらく、惣五郎先生は、やはり信じることができないまま、
こと先生に 押し切られたような気持だったのだと思います。

そんな 矢追家の状態に対して、教祖(おやさま)は、
「家のしん、しんのところに悩み。心次第で結構になるで。」
と仰せられています。

楢蔵先生の「一の道具」を「しん」と表現されているだけでなく、
「家のしん」
つまり、家長である 惣五郎先生を指しておられるようです。

なかなか御守護が頂けない中、
辻忠作先生の『男の子は、父親付きで。』という御助言もあり、
ようやく 惣五郎先生が おぢばに帰られます。

惣五郎先生は この段階でも
なお、信じることができずにいたのではないか、と推察します。

しかし、たったこれだけのことで、
楢蔵先生の身上は 不思議な御守護を頂かれます。

冒頭に書いたように、
教祖(おやさま)は「矢追家」の信仰を求めておられたのだと思います。

もし仮に、
惣五郎先生がおぢばに帰らなくても 楢蔵先生の身上がたすかっていたとしたら、
その後「矢追家」は、どんな信仰をしていたでしょうか。

惣五郎先生は、親神様を信じるという気持ちにはなったとしても、
他の家族が 熱心に信仰するほどの姿は、むしろ 煩わしく感じられたのではないでしょうか。
家長である人間がそういう気持ちでは、
「矢追家」の信仰は まず 深まらなかったでしょう。

たった一人、家長が、反対しないまでも 煩わしく感じる というだけで、
その一家の行動、心は 大きく違ってきます。

そう考えると、
惣五郎先生がどういう行動を取られるかを事前に把握されていたかのような 教祖(おやさま)のお言葉には、
とてつもないものを感じます。

惣五郎先生が半信半疑のまま(半ば強引に) おぢばに帰られたという気持ち、行動があったからこそ、
感謝や驚きの気持ちも大きくなり、
「矢追家」は信仰を深め、大教会を設立するまでになれたのだと思います。
教祖(おやさま)は、きっと 全部わかっておられたのでしょうね。

さて、
教祖(おやさま)が現身を隠されて後の私たちは、
よく 次のような一家を見聞きします。

代々 天理教を信仰されている一家に、
未信者のお嫁さんやお婿さんがやって来る。

そのお嫁さんやお婿さんは、
よく分からないまま
教会で結婚式を挙げたり、参拝させられたり、をびや許しを頂いたり、証拠守りを頂かれたり、あるいは 別席を運んだり…
と されていくことが 多くあります。

そうして、
徐々にであったり、ある日を境にであったりは それぞれですが、
それぞれなりに 信仰を深めていかれることが よくあります。

一方で、
代々 信仰されていた方々が、
ふとした拍子に信仰心を失い、
結局 そのお嫁さんやお婿さんが一番熱心に信仰されているという姿。
本当によく、そんな家庭を、見聞きします。

一般的な信仰者から見ると、
「そんな中で信仰心を失って、もったいないなぁ」
と 思うかもしれません。

しかし 私は、
それはそれで良いのではないか と思うのです。

なぜなら、
信仰の糸は切れていないし、そういう「不信」の時期があるからこそ、
信仰を深められるのではないか と思うからです。

信仰や心の成人には、色々なタイミング、節、旬があります。
今 信仰心が無いからと言って、
一生そのままである という訳ではありません。

また、今 熱心に信仰されているからといって、
何の節、辛いことも無い とは言えませんし、
信仰の心が折れない とも言えません。

大切なのは、
家族や親戚、友人の中で、誰かが信仰している ということです。

人と人は必ず繋がりあっていますから、
様々な信仰の姿を見て、考えさせられることはたくさんある と思います。

根が切れてさえいなければ、きっとまたお引き寄せ下さるはずです。

慌てず、焦らず、自分なりに信仰を深め、
家族や友人にその姿を見せる という にをいがけをしていきたいものです。

天理教勉強blog稿本天理教教祖伝逸話篇五七 男の子は、父親付きで より)

実に素晴らしい文章で、感動しました。

その中でも、私が特に心に残ったのは、次の一節でした。

代々信仰されていた方々が、ふとした拍子に信仰心を失い、結局そのお嫁さんやお婿さんが一番熱心に信仰されているという姿。
本当に よく、そんな家庭を、見聞きします。

一般的な信仰者から見ると、
「そんな中で信仰心を失って、もったいないなぁ」
と 思うかもしれません。

しかし 私は、
それはそれで良いのではないか と思うのです。

なぜなら、
信仰の糸は切れていないし、
そういう「不信」の時期があるからこそ、信仰を深められるのではないか
と思うからです。

(※太字はブログ主による)

――「不信」の時期があるからこそ、信仰を深められるのではないか――

この言葉は、ひたすら「さまよう」ばかりの私の心に 深く刺さりました。
「天理教勉強blog」様、ありがとうございます。

治道大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビューより

その他のことも含め、今回も、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「治道大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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