Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号28番「東本大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号29番「嶽東大教会」について勉強します。
- 嶽東大教会(がくとう だいきょうかい)
- 鈴木半次郎 初代会長
- 初代会長 鈴木半次郎の入信(明治21年)
- 嶽東の道明け(明治22年)
- 嶽東の道の広がり(明治22年~明治23年頃)
- 斯道会 第135号講の結成(明治23年)
- 爆発的な嶽東の発展(明治22年~明治23年頃)
- 嶽東出張所の設立(明治25年~明治26年)
- 嶽東の神殿普請(明治31年~明治34年)
- 嶽東の道の更なる広がり(明治34年~明治40年)
- 支教会から嶽東分教会へ(明治42年)
- 鈴木半次郎初代会長の出直し、鈴木平作2代会長就任(大正13年)
- 教祖40年祭前後(大正11年頃~大正15年頃)
- 分教会から中教会、そして嶽東大教会へ(昭和4年~明治10年)
- 鈴木平作2代会長の出直し、鈴木つる3代会長就任(昭和12年)
- 鈴木仁郎4代会長就任(昭和16年)
- 嶽東の戦後復興(昭和20年〜昭和40年頃)
- 鈴木つる3代会長の出直し(昭和41年)
- 神殿普請、そして鈴木邦広5代会長就任(昭和44年〜昭和47年)
- おわりに
嶽東大教会(がくとう だいきょうかい)
鈴木半次郎 初代会長
初代会長 鈴木半次郎は
安政元年(1854)5月9日、
静岡県駿東郡 大岡村中石田にて、
父 平吉、母 とみの長男として生まれ、
明治13年(1880) 5月28日、
同村(大岡村) 渡辺佐平の二女 よねと結婚。家は 代々農業で
(鈴木)半次郎は、後継ぎであったが、
元来 任俠義憤の念に燃えた快男子で、
青雲の志を抱いていたので、
家業を 弟・三吉に譲り、土木工事に従事した。
初代会長 鈴木半次郎の入信(明治21年)
明治21年秋、
一人息子(当時3歳)が
恐風の虫という、引きつけの激しい病気に罹り、
身体は 骨と皮ばかりに痩せ細った。両親は身延山に願をかけたり、多賀神社にも祈願したが、
病気は 悪化する一方であった。そんな折、
3年越の脊髄炎を救けられた 水口の 井上佐市より
懇々と「かしもの」「かりもの」の教理を聞いた。(鈴木半次郎は)
その教理に感服すると共に、
子供の姿からすると、これは多勢の人を苦しめてきたその結果である、
というおさとしを聞くに及び、
成程、親神は 見ぬき見透しである、と感じた。(鈴木半次郎は)
事 ここに至っては、
親神より外に救けて頂ける道はない と悟り、
過去を懺悔し 信仰の道につくことを決意した。明治22年 6月頃、
井上佐市と (鈴木半次郎) 親子3人、
「おぢば」に初参拝した。その道中、奈良 大文字旅館にて、
鈴木半次郎は
一切を捧げて「たすけー条の道」に進む心定めをなし、
身につけていた腹掛、手甲、脚絆を
潔く 窓の外に投げ捨てた。(鈴木半次郎親子が)「おぢば」到着後、
骨と皮ばかりに痩せ細った一人息子は
親神の鮮やかな御守護を頂いた。奇蹟的なご守護を頂いて
(鈴木半次郎親子は) 身も心も 生まれ替わった。
嶽東の道明け(明治22年)
明治22年(1889) 9月
大岡中石田314番地において、
(鈴木半次郎の) 布教活動が始まった。村社の拝殿の上棟式の時、
梁からチョンナが落ち (作業員が)怪我をした。
その際、鈴木半次郎は
「お息の紙」を傷口にはり、一心に拝んだ。
すると、痛みが止まり、まもなく痕跡もなく治った。
また、近くの子宮病の人も救かった。これが、
(嶽東の) 珍しいたすけの始めとなった。近所や近くの村から「おたすけ」を願って来るようになり、
「お息の紙」と「御供」と、また「話し一条」で
不思議な御守護が 相次いだ。
嶽東の道の広がり(明治22年~明治23年頃)
こうして 親戚知人を伝って、
教えは 地元の大岡村から 近村に
次第に広まっていった。地元の中石田から、
鈴木三吉、鈴木石太郎、秋元忠次郎、秋元仙蔵、渡辺辰蔵、
上石田から 菊地庄蔵、
北小林から 中村金平に伝わり、
更に
長泉村から 鈴木伊平、その子藤吉、神山忠七、前田銀次郎、西川伊太郎、長嶋作造、日吉伊平、遠藤太作、
金岡村から 長沢福太郎、柏木林蔵、内田平吉、杉山儀八、下山佐太郎 が道につき、
清水村では 岩崎周次郎、
揚原村では 芹沢常晴、
片浜村の 海福多吉、工藤磯右衛門、
進んで
富士郡では 帯金藤七、山田常太郎が入信した。明治23年(1890) 3月頃までに、
嶽東の初代として活躍した人達は 大体入信し、
その基礎は築かれた。次いで
初代会長の妻 鈴木よねの実弟 湯原甚平が 沼津の寺脇にいる処から、
沼津方面の 大岳久造、武藤吉に道がつき、
(鈴木)よねの縁者が 伊豆韮山多田にいる処から、
奈古屋の 荒木はなに教えが伝わり、
(鈴木)よねは 荒木はな と共に
小間物を背にして、伊豆方面を布教した。三島、田方、北豆の道は
大体 この布教線による。また (鈴木よね)夫人は
伊豆から山を越え、伊東に出て、
林与平の家にいて布教し、
伊東から、大島千葉方面に達し、館山の道がついた。更に (鈴木よね)夫人は
熱海で布教し、熱海松田の道がついた。一方、鈴木半次郎は
トンネル工事で 武尾近三郎を使った事から、小田原の道がつき、
また 神山忠七、杉山儀八を 泉村につかわして、
鈴木朝蔵、服部仙太郎に 教えが伝わり、
佐原野、御殿場、神場 の道がついた。
斯道会 第135号講の結成(明治23年)
この年(明治23年)の 4月
宇治田原の 永谷粂太郎、三大寺 田代兵蔵、井上佐市 らが来訪して、
布教 及び 仕込みを受け、
4月21日 布教届を 沼津警察署へ提出した。続いて(明治23年) 5月、
初めて 斯道会 第135号の講を結成し、
講元 鈴木半次郎、講脇 鈴木石太郎 (24年から 岩崎周次郎)、周旋方21名であった。これ以来
頻繁に 河原町(主として斯道会第2号) から巡教があり、
特に 井上佐市は 永く、鈴木半次郎と共に布教、
初代の人々は 皆 指導を受けた。また 終始
(斯道会の) 田代(兵蔵)、井上(佐市) の両名より「身上さとし」の手紙を頂き、
それをもって布教に励み、「おたすけ」は 益々上がった。
爆発的な嶽東の発展(明治22年~明治23年頃)
この年(明治23年) の10月、
鈴木半次郎、 稲葉江七郎、岩崎周次郎、鈴木石太郎
らが 初席を運び、
稲葉与惣次、芹沢常晴、神山忠七、同おはる、鈴木はな、広瀬甚平、小島小平、武尾近三郎、水野忠七、山本善七
などが「おぢばがえり」をした。明治24年 3月13日
鈴木半次郎は
38歳で「おさづけの理」拝戴。明治26年 (鈴木よね)夫人は
熱海にて 湯治に来ていた島田某と知り合い、
埼玉方面に教えが伝わり、
池上岩太郎のたすけから、鶴瀬の道がついた。明治24年末までに
部内の斯道会の講は、
第291号講元 山本善七、講脇 鈴木源次郎、
第331号講元 鈴木朝蔵、講脇 服部仙太郎、
第332号講元 武尾近三郎、講脇 水野忠次郎、
第426号講元 大岳久造、講脇 武藤吉、
第427号講元 勝又半次郎、講脇 勝亦紋治郎、
第428号講元 勝又藤太郎、講脇 勝亦安太郎、
第429号講元 鈴木太治衛門、講脇 渡辺磯次郎、
第430号講元 佐藤藤蔵、講脇 海老名弥吉、
第431号講元 林与平、講脇 森田利八、
以上 9講が結成された。また「おぢばがえり」の信者31名に達し、
岩崎周次郎は「おさづけの理」拝戴、
山本善七は 初席を運び、
いよいよ教勢は
燎原に火を放つ勢いで 四方に伸び広がった。
嶽東出張所の設立(明治25年~明治26年)
明治25年末には、
講結成24ヵ所、おさづけの理 拝戴者9名、初席者25名、教導職試補24名、帰参者126名となり、
内容充実し、
明治25年(1892) 8月20日
教第121号を以て、嶽東出張所設立の許しを頂いた。(明治)26年1月26日、
静岡県駿東郡 大岡村中石田314番地、
神殿40坪、教祖殿22坪、其他17.5坪、敷地128坪の所において、
約3,000名の参拝者があり、
盛大に 開筵式が行われた。
嶽東の神殿普請(明治31年~明治34年)
教勢は 日の出の勢いで進展し、
明治31年末には、
出張所34ヵ所、布教所9ヵ所、周旋2,100名以上、平講社8,500戸以上
の盛況であった。明治31年 秋季大祭頃は
部内教会 殆ど 神殿建築を完了していたが、
嶽東は 設立当初のままで、
手狭で 粗末なものであった上から、
部内教会 相談の結果、
神殿建築費として たちまち 7,000円集まった。その時 (鈴木半次郎) 初代会長は
嶽東が このように栄えたのは
ひとえに「おぢば」のおかげであるからと、
嶽東のふしんの前に、その金子をそっくり御供えし、
喜んで 真実の種を伏せ込んだ。それから 移転建築の計画が進められ、現在地に決定し、
明治32年 4月23日 神殿建築の許しを受けた。所在地 静岡県駿東郡 大岡村中石田2490番地、
敷地2,726坪で 建坪171坪であった。主な建物は
神殿:木造瓦葺平家建、間口6間、奥行11間、66坪。
教祖殿:木造瓦葺平家建、間口2間、奥行3間半、7坪。
付属建物:客殿14坪、会長室14坪、事務所18坪、
その他 である。明治32年は 敷地の整備に終わり、
同(明治32年) 12月26日 神殿ふしん起工式、
同(明治)33年 7月1日 上棟式、
完成は同(明治)34年 2月、
この間 1年2ヵ月で 堂々たる神殿が建築された。普請のお金はすべて「おぢば」に伏せ込み、
何もない中から工事が始まったが、
随所より、ふしん金、ふしん材料、食糧等、我先に真実が集まり、
また
ふしんに当たった
大工、杣、木挽、左官、かじや、建具職、畳屋、石割、石垣造り、その他75名の職人が
それぞれ構内に 詰所を設け、自費で寝泊まりし、
毎日「ひのきしん」に勇み立ち、
更に 部内教会先々より 一般「ひのきしん」者が 数知れず集まり
陽気づくめの 勇みに勇んだふしんであった。当時の台帳を調べたところ、
献納物 及び 材料以外の建築費 17,955円30銭6厘、
部内教会よりのふしん御供 27,050円16銭3厘、
差引 9,200円の 残金が出たのである。更に 献納物に至っては 莫大なものがあった。
教祖殿、客間、事務所等の物品をはじめ
色々な物が 御供えされた。明治34年(1901) 4月2日 鎮座祭、
翌3日 移転建築落成、支教会 引直しの奉告祭が
内外来賓 多数臨席の下、盛大に行われた。
嶽東の道の更なる広がり(明治34年~明治40年)
明治34年以降、
勝又兼太郎は
長野方面で単独布教し、南北の道がついた。鈴木勝吉・長嶋作造は
越後方面へ 布教に出た。鈴木源次郎は
田方の事情から、青森に教えを広め、
更に 群馬木崎の道を開いた。鈴木梅蔵、日吉伊平は
埼玉に道をつけた。また 明治28年
室伏安兵衛夫妻、山本安太郎夫妻は
青森県八戸町を中心に 布教に励んだ。同(明治)31年 小南郡、五戸の出張所設置以来、教勢伸展したが、
事情により、同(明治)37年 水口分教会に所属することとなった。明治39年 2月18日、教祖20年祭執行され、
嶽東より 82名参列し、別席者237名、一般参拝者372名あった。国内布教が 日露戦争後の社会情勢のもとで沈滞したこともあり、
明治40年
韓国にて (鈴木よね)初代夫人を始め14名が布教を開始し、
漢城に教えが伝わった。
支教会から嶽東分教会へ(明治42年)
明治42年(1909) 2月12日
天理教一派独立を期し、
教改第491号をもって、分教会昇格の許しを受ける。また この時、部内では
佐野原も 分教会に昇格し、
秦野、沼津、北豆、小田原、伊東、鶴瀬、田方、熱海、 御殿場、神場、駿東、金田、上川、小石川
の14ヵ所は 支教会に昇格、
その他 宣教所は 65ヵ所あった。この当時の教勢、
部内教会 80ヵ所、教師 799名、教徒(よふぽく) 1,743名、信者 18,076戸である。大正5年 (1916) 1月25日 教祖30年祭が執行され、
教会長および教師172名参列、一般参拝者945名あった。
鈴木半次郎初代会長の出直し、鈴木平作2代会長就任(大正13年)
大正13年(1924) 2月5日
初代会長 鈴木半次郎が、
71歳をもって出直した。大正13年 1月31日、
鈴木平作が 2代会長の任命の許しを受け、
同(大正13年) 3月20日
就任奉告祭が盛大に執行された。
教祖40年祭前後(大正11年頃~大正15年頃)
大正15年 教祖40年祭が執行されるにつき、
全教的活動目標として、倍加運動が提唱され、
懸命の布教が展開された。大正11年末、教会数125ヵ所、
(大正)12年末135ヵ所、
(大正)13年末160ヵ所、
(大正)14年末224ヵ所、
(大正)15年末256ヵ所、
4ヵ年間に、実に 131ヵ所の新設教会をみたのである。大正15年 1月15日、同20日、同25日 3次にわたり 教祖40年祭祭典が執行され、
参列者、教会長193名、役員121名、一般参拝者4,000名余あった。
分教会から中教会、そして嶽東大教会へ(昭和4年~明治10年)
昭和4年 上級 水口大教会神殿ふしんにあたり、
嶽東として、真実の限りつとめた。嶽東部内 283ヵ所の教勢となり、分離の機運が熟し、
昭和10年(1935)4月25日
中教会と昇格改称の許しを受け、分離して本部直属となった。その折、佐野原に所属する131ヵ所は、水口大教会に残す事となった。
昭和10年 6月1日
天理市別所400番地に詰所建築の許しを受け、年内に竣工した。更に 同(昭和10年) 12月3日、
大教会昇格の許しを受けた。この時の教勢は、
分教会2ヵ所、支教会15ヵ所、宣教所142ヵ所、教会2ヵ所、計161ヵ所、
教師1,092名、教徒1,776名、信者17,800戸であった。昭和11年 12月2日、
真柱斎主の下、初代真柱、本席の霊(みたま) が合わせ 祀られ、
翌(昭和11年12月)3日、
真柱はじめ、教内外の来賓多数臨席のもと、
参拝者3,000名余の中、盛大に 大教会昇格奉告祭が執行された。
鈴木平作2代会長の出直し、鈴木つる3代会長就任(昭和12年)
昭和12年 7月11日、
嶽東の生みの親、井上佐市が出直した。昭和12年 9月6日には、
2代会長 鈴木平作が出直した。昭和12年(1937) 9月27日、
鈴木つるが任命の許しを受け、3代会長となった。
鈴木仁郎4代会長就任(昭和16年)
戦争は厳しさを増し、
嶽東としても、従軍留守家族一同、
懸命に農事「ひのきしん」等に奉仕した。昭和16年3月23日、
初代会長夫人 鈴木よねが出直した。昭和16年(1941) 11月28日、
鈴木仁郎が任命の許しを受け、4代会長に就任した。
そして、
同(昭和)17年 4月15日 奉告祭が執行された。
嶽東の戦後復興(昭和20年〜昭和40年頃)
昭和20年 8月15日終戦となり、
「復元」の提唱とともに、
嶽東は、
いち早く 戦災教会20ヵ所の 神殿建築の復興を成就した。昭和21年1月26日より、教祖60年祭が執行された。
嶽東大教会においても、
(昭和21年) 3月23日、 真柱の臨席を得て、教祖60年祭を行った。昭和24年5月7日、
嶽東保育園を開設して、翌年(昭和25年) 現在地に移転建築した。その後、創立60周年に向けて構内の整備を計り、
昭和27年9月20日、
真柱の臨席を得て、創立60周年記念祭を執行した。(昭和31年の) 教祖70年祭では、嶽東から 5,318名の帰参者があり、
また、(昭和31年) 5月20日、(嶽東)大教会においても 教祖70年祭が執行された。昭和32年 2月、会報『嶽東』を発刊し、今日に至る。
昭和37年 10月15日、
真柱の臨席のもとに、創立70周年記念祭を執行した。
その記念として、
同(昭和)41年 2月9日 ブラジルに スールアメリカ教会の許しを受け、
石崎真司を会長とし、鎮座祭 並びに 奉告祭が行われた。昭和39年 10月23日、
第5・第6母屋が竣工し、別所の詰所より移転した。昭和40年 10月28日、
鈴木邦広が 洲本大教会長 松村隆行の次女 恵美子と結婚した。教祖80年祭は 昭和41年 1月26日よりつとめられ、
嶽東からは、初席者449名、おさづけの理拝戴者243名、帰参者10,516名であった。また (嶽東)大教会に於て
(昭和41年) 4月3日 80年祭を執行した。
鈴木つる3代会長の出直し(昭和41年)
昭和41年 1月24日
3代会長 鈴木つるが出直した。また (昭和41年) 5月22日には
4代会長夫人 鈴木つる枝が出直した。昭和42年 10月26日、
沼津分教会が、教勢進展の上から大教会陞級の許しを受け、
沼津大教会と改称され、本部直属となった。昭和43年 10月25日 真柱継承奉告祭当日、
4代会長 鈴木仁郎が 本部員に登用された。
神殿普請、そして鈴木邦広5代会長就任(昭和44年〜昭和47年)
(嶽東)大教会 創立80周年を記念して、神殿建築の議が起こり、
昭和44年 5月26日
神殿建築 及び 付属建物移動増改築の許しを受けた。(昭和44年) 9月1日 起工式を行い、
同 (昭和)46年 7月20日 上棟式がつとめられ、
同 (昭和)47年 10月5日 神殿及び客殿其他竣工し、
一切の準備が整った。昭和47年(1972) 8月26日
鈴木邦広が 任命の許しを受け、5代会長となった。昭和47年 10月20日、
真柱夫妻の臨席を得て、教内外の来賓多数の列席のもと、
部内教会長、よふぼく、 信者1万人以上参拝の中、
創立80周年記念祭、神殿落成奉告祭、5代会長就任奉告祭が
盛況裡に執行された。〔現住所〕 〒410-0022 静岡県沼津市大岡2488番地1の1
〔電話〕055-921-0521(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,187〜189)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
29回目の今回は、
「嶽東大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】29回目の当記事では
『天理教事典』の中の「嶽東大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
嶽東大教会は、水口大教会から分かれた大教会ですね。
水口大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
私は、1977年版『天理教事典』の書き写しを通して、
各大教会初期の歴史を勉強させて頂いています。
『天理教事典』の中の解説文というのは、
当然、諸先生方が手分けして執筆しておられます。
その関係で、
解説文のスタイルは、
執筆者の先生によって 全然異なります。
執筆者の先生によって、
情感に訴える記述が非常に多かったり、
ある特定の史実を非常に詳しく解説されたり…等々。
で、今回の「嶽東大教会」の解説文ですが、
執筆して下さっている先生は、
史実を淡々と羅列するというタイプのようで、
(まぁ、『事典』なのだから、それが正統なのかもしれませんが)
エピソード記述は少なめでした…(т_т)
史実のすき間には 表面に現れた部分だけでは分からない多くの物語がある筈で、
出来れば、そういう話を知りたいと思うのですが…
『天理教事典』にそれを求めるのは、
それは、ちょっと筋違い!
ですよね… (>_<) 分かっております。
そう思うなら 天理図書館行って資料探せよ!
という話なのですが、
残念ながら、
そこまでの元気がありません…(-_-;)
ということで、今回もまた、
『天理教事典』解説文のみで 勉強させて頂きました (^^;)
当記事では
『天理教事典』の中の「嶽東大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
鈴木半次郎 初代会長様は 任俠義憤の念に燃えた快男子で、
先祖伝来の農業を弟に譲って 土木工事に従事するような、
いわゆる、男気のあふれた方だったのですね。
その初代先生が、
最愛の一人息子が 引きつけの激しい病気に罹って骨と皮ばかりに痩せ細る、
という姿を見せられた。
近隣の神社仏閣に縋ったが、何の変化もない。
途方に暮れていた そんな時、
水口の 井上佐市先生から、
かしもの・かりものの教理、
及び、
子供の姿は「過去に多勢の人を苦しめてきた種が芽を出した姿である」
という 因縁の教理を聞いた。
その教理を聞くに及んで、
鈴木半次郎 初代会長様は、
翻然と、己の因縁を悟られた。
「あぁ、この子供の姿は、過去に 我が蒔いたる種が芽を吹いた姿であるのか…」
と。
俗にいう「パウロの回心」のような境地に至られたわけですね。
お道で言えば、
任侠の世界からこの道に入られた「平野楢蔵先生」の如き価値観の転換があった、
という感じでしょうか。
そして、鈴木半次郎 初代会長様、因縁の自覚により
一切を捧げ「たすけー条の道」に進む心定めをなしたところ、
骨と皮ばかりに痩せ細った一人息子を たすけて頂いた。
その感激から、
鈴木半次郎 初代会長様ご夫妻は、
文字通り生まれ変わって
全身全霊を尽くして布教に歩かれた。
そして、
本当に 文字通り「燎原の火」の如く、
全国に
爆発的に嶽東の道が広がっていかれたわけなのですね。
…それにしても、
道が広がっていく勢いが「ハンパない」‼
鈴木半次郎初代会長様が入信されたのが、明治22年。
その3年後の 明治25年には「嶽東出張所」設立の許しを頂き、
翌 明治26年 開筵式。
『天理教事典』を読むと、
鈴木半次郎初代会長様 入信後 2~3年の内に、
嶽東大教会の基礎が ほぼ出来上がったことが分かります。
嶽東の道が拡大していく その驚異的な勢いは、
初代会長様ご夫妻の全身全霊を傾けた布教によるものであることは言うまでもありませんが、
と同時に、
お道の教えが、如何に 当時の人々のニーズに応えるものだったのか、
ということも示している気がします。
そのような嶽東大教会初期の歴史を学んで感じること、
それは、
ここまでの拡大パワーを生んだ そのエネルギー源は何だったのだろう、
ということです。
そのようなエネルギーに満ち満ちた当時と比べると、
今のお道は、すっかり勢いを失ってしまったように見えます。
今回の「嶽東大教会」勉強を通して、
当時の熱気の背景を分析して それを今に活かす道を探る
ということも必要なのではないかなぁ…
「お前が言うな」的立ち位置の私にもかかわらず、
密やかに そんな事を思ったりもしました。
――その他のことも含め、今回も知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「嶽東大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
追記
今回の記事をまとめ終えた後、たまたま
本棚の奥に『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) という本があるのを見つけました。
その中に、「嶽東大教会」の歴史に関する記述を見つけました。
(この記事を書き上げる前に見つけたかった… (T_T))
自分自身の覚え書きとして付け加えておきます。
【伊豆を揺るがすおんな二人】
鈴木よねは
後年、子供たちから “伊豆・駿河・相模のおばあさん” と呼ばれた。
訪ねた先で、よく、
「わしぁ、伊豆・駿河・相模の三国を 荒木はなさんと 小間物をしょって、商いしながら布教したんだよ」
と話していたためであった。よねとはなは、狐狸や猿、猪、さらには 追いはぎの出没する伊豆の山々を駆け巡り、
道ひろめに身を焦がし、嶽東の道の礎を築いた。
すさまじいまでの熱情で、伊豆に燃えた おんな二人であった。明治二十二年のことである。
鈴木半次郎と 妻よねは、
滋賀県三雲で 一人息子の病から この道に引き寄せられ、
おぢば帰りして御恩報じを誓い、
布教のため 故郷の静岡県大岡村(現沼津市) に戻った。半次郎は にをいがけは 得手でなかった。
しかし、
「教祖のご苦労がいつも胸にささって離れない」
という三十二歳のよねは、
家庭をも顧みず 神名流しに没頭した。上方から不思議な神さんが来た、という噂が伝わり、
たすけを求める人々が 次々現れた。半次郎は、
我が子のたすけられた事実を台に、
かしもの・かりもの・いんねん一条の話を
訥々と取り次いだ。(荒木)はなが導かれたのは 二十三年初春のこと、
夫と離婚同然となり、婦人病にさいなまれていた時だった。
(鈴木)よねと出会って、四十歳で (荒木)はなは 布教者に生まれかわった。ここに、車の両輪のような、
形影相伴う 二人のおんな布教師が誕生する。二人は、
三島の問屋から仕入れた小間物類を背負い、
商いながら 伊豆一帯を歩いた。
(鈴木)よねは、ひたすら神名流しに捧げきり、
(荒木)はなは 後ろに回って、その修理と丹精に精魂を傾けた。また、(鈴木)よねは、
伊豆の行き帰りに 熱海の湯治場に足を延ばしては、
天衣無縫に 神様の話を説いた。
ここで知り合った人を頼って 埼玉へ、さらに宮城へ、そして海外へ。一方、(荒木)はなは、
単身、伊豆大島に渡り、命懸けの布教を展開する。
それから数々の道の人材の芽吹きをみた。しかし “はなの命は短くて”
燃焼し尽くした(荒木)はなは、
四十九歳で先立っていった。(『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) P,12~13 より )
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【嶽東の歩み】
鈴木半次郎(嶽東初代)は、仕事で滋賀県にいた時、
一人息子(三歳)が激しい引きつけで骨と皮ばかりになった。
その時、妻よねが 天理教の先生に会うように懇請した。明治二十二年、
(鈴木半次郎は)甲賀郡三雲の井上佐市に会った。
佐市は、かしもの・かりものの教理を取り次ぎ、
子供の病む種は親にあることを諭した。半次郎は半生を顧みた。
豪胆直情な彼は、思い返しも鮮やかであった。
その時、初めておぢば帰りし、
一日も早く御恩報じを と
故郷・駿東郡大岡村(現沼津市)へ帰った。数日後、村の神社社殿の上棟式があった。
その時、梁の上から手斧が落ち、
大工手伝いの若者の頭がパックリ裂けた。
半次郎は家にとって返し、お息の紙を傷口に貼り、大声をあげて祈念した。
翌日、包帯姿で普請現場に来た若者を見て、村人は三度驚いた。珍しいたすけが道あけとなって、
近隣の村々から おたすけを願い出るものが増えた。
妻 よねは、家族を顧みることなく、おたすけに東奔西走した。(明治)二十三年、
小泉村の 眼を病んでいた鈴木朝蔵は、
ある日、姉が畳の上へ斜めに刺しておいた縫い針を
踏んで折ってしまった。
(そこから)脱疽にかかって苦しみ、発声帯まで損なった。嶽東の布教師・神山忠七と杉山儀八が やって来た。
相続違いはないか、色情の間違いはないか
と尋ねられ(鈴木朝蔵は)深くさんげした。
後の、佐野原大教会の母胎となった。鈴木よねの親戚は、沼津町で乾物商を営んでいた。
同年(明治二十三年)、
斯道会二号(河原町系)から巡教員が来て、
その二階で講演会を行った。菓子店を営む大岳久造も 誘われて来た。
血の道を病む妻 てうが 三日三夜の願いで御守護を頂いて、
きっぱり商売をやめた。
沼津の道の始まりである。(『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) P,90~91 より )
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