Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号109番「鹿島大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号110番「此花大教会」について勉強します。
- 此花大教会(このはな だいきょうかい)
- 此花の礎を築いた 扇 清次郎の入信(明治19年)
- 大阪清心組の結成(明治21年)
- 扇 清次郎の出直し(明治21年)
- 扇 卯之助の大阪清心組2代講元就任、大阪清心組の発展(明治21年頃~明治26年頃)
- 此花支教会の開設(明治27年)
- 初の部内教会設立(明治28年)
- 大阪・野田町へ教会移転(明治30年)
- 大阪・周防町へ教会移転(明治33年)
- 九州布教の始まり(明治37年)
- 大阪・難波河原町へ移転(明治39年)
- 田辺藤之助の2代会長就任(明治40年)
- 此花分教会へ改称 ~ 大阪・国分寺町へ移転(明治42年)
- 広がる此花の道(明治43年頃~大正2年頃)
- 教会内事情の続発(大正3年頃~大正6年頃)
- 大阪・生野国分町へ教会移転(大正8年)
- 相次ぐ部内教会の設立(大正9年頃~大正15年頃)
- 田辺藤之助2代会長の出直し、竹中とめ3代会長の就任(昭和3年)
- 竹中とめ3代会長時代、教会内容の充実・たすけ一条の道の徹底(昭和3年~昭和16年頃)
- 此花大教会へ陞級(昭和16年)
- 終戦前後(昭和19年~昭和20年頃)
- 竹中とめ3代会長の辞任、田辺教一4代会長の就任(昭和21年)
- 信者詰所の開設 ~ 移転新築(昭和22年~昭和28年)
- 昭和中期の動き
- おわりに
此花大教会(このはな だいきょうかい)

此花の礎を築いた 扇 清次郎の入信(明治19年)
此花の道は、
明治19年 (1886) 8月に入信した 扇 清次郎に始まる。扇家は、
大阪市南区大宝寺西ノ町で古着屋を営み、
当主・(扇)清次郎(25歳) が 肋膜 (結核性胸膜炎) をたすけられたのが 信仰の始まりである。(扇 清次郎は)
天恵5番講(の)講元・小松駒吉 (御津大教会 初代会長) から お話を聞いた。
大阪清心組の結成(明治21年)
明治21年(1888) 1月、
扇 清次郎は、大阪清心組を起こし、
平真講(の)講元・紙谷安治郎 (中河部内・平野分教会 初代会長) の仲立ちにより、
小松駒吉より分かれて 講を結んだ。明治20年から22年 (1887-1889) にかけて、
大阪を中心に、岡山県倉敷、香川県高松市へ 大阪清心組から道が伝わった。
扇 清次郎の出直し(明治21年)
明治21年(1888) 3月9日、
扇 清次郎 (27歳) は、教祖1年祭へ参拝した。
しかし、病気のため、その翌日(3月10日) 平野楢蔵に伴われて 河内柏原に赴いたが、
(残念ながら 扇 清次郎は) 出直し(てしまったのだっ)た。
扇 卯之助の大阪清心組2代講元就任、大阪清心組の発展(明治21年頃~明治26年頃)
同年(明治21年) 6月、
田島定治郎を後見人として、
(扇)清次郎の長男・扇 卯之助 (7歳) を、大阪清心組2代講元とすることとなった。(扇)清次郎 出直し後、
大阪清心組の道は 難波を中心として、徐々に伸びた。貴田孫次郎 (明治22年信仰始め) は、
(香川県)高松市(の) 中村直三郎に 道を伝えた。池端政治郎 (明治21年9月19日信仰始め、大阪在住) は、
弟・春松 (26歳) に道を伝え、これが 紀州伝道の始まりとなった。明治26年(1893) には、
田辺藤之助 (22歳・後の此花2代会長)、竹中とめ (20歳・後の此花3代会長) が、共に教理に感じ、信仰を始めた。明治26年当時の「大阪清心組」の支講は、以下の通りであった。
第1号:岡山県・倉敷【講元】吉田重吉 (明治23年)。
第2号:大阪・野田町【講元】貴田孫治郎 (明治23年)。
第2号の内:香川県・高松【講元】中村直三郎 (明治23年)。第3号:大阪・難波【講元】塚谷多藏 (明治23年)。
第3号の内:和歌山県・由良 【講元】原新五郎 (明治24年)。
第3号の内:和歌山県・湯川【講元】上野富蔵 (明治25年)。第4号:和歌山県・湯浅【講元】金丸初吉 (明治24年)
―→【講元】は、明治24年 池端春松、 明治25年 田中甚左衛門、明治26年 金丸初吉、明治27年 田中甚左衛門、と変更している。
第4号の内:和歌山県・南広【講元】田中甚左衛門 (明治26年)。号不明:兵庫県室津【講元】新谷与蔵 (明治24年)。
此花支教会の開設(明治27年)
明治27年(1894) 9月23日、
大阪市南区湊町18番屋敷に「此花支教会」が設立された。
初代会長は、小谷ヱン(58歳)。
小谷ヱンの経歴
小谷ヱン は、
村田善兵衛の次女で、奈良市に生まれた。
幼くして 大阪・小谷佐兵衛の養女となり、長じて 養子縁組したが、夫と死別。1女を残して、扇清兵衛に再縁。
甥・黒江清次郎を 扇家の養子に迎え、(扇)清次郎の死後(は)「大阪清心組」信仰の中心となった。明治40年、
(小谷ヱンは) 正式入籍して、扇ヱンと改姓した。
初の部内教会設立(明治28年)
此花支数会の設立後、
明治28年に
湯浅・阿知 の二つの出張所が設立された。
大阪・野田町へ教会移転(明治30年)
明治30年(1897) 4月3日、
此花支教会は、
内務省訓令の影響により 家主より立退きを要請され、
大阪市北区野田町35番屋敷へ 移転した。この頃から、大阪の講社はいずみ、教勢不振となった。
しかし、
明治32年には、紀州に
有広・湯和 の2つの布教所の設置をみた。
大阪・周防町へ教会移転(明治33年)
明治33年(1900) 2月27日、
此花支教会は、
大阪市南区周防町第1番屋敷へ移転した。大阪地方では なお 教勢不振が続いたが、
紀州では、明治36年、広布・南有 の 2布教所が設置された。
九州布教の始まり(明治37年)
また、明治37年(1904) 1月、
竹中とめ、他 2名が、(和歌山県)湯浅より 宮崎県へ 布教に出た。
此花 九州布教が 始まった。
大阪・難波河原町へ移転(明治39年)
明治39年(1906) 10月14日、
(大阪)府庁よりの 教会取消勧告により、
此花支教会は、
大阪市南区難波河原町1丁目1553番屋敷へ移転した。大阪地方は、
この頃より、田辺藤之助 の活躍により、教勢が立ち直り始めた。
田辺藤之助の2代会長就任(明治40年)
明治40年、
大阪府庁より会長変更の要請があった。そのため、同(明治)40年(1907) 1月13日、
田辺藤之助が
此花支教会長に任命された。
田辺藤之助の入信 ~ 神一条の道に至る経緯
(田辺)藤之助は、
和歌山県湯浅村の出身で、家は酒商を営み、本人は 左官職を身に付けた。(田辺藤之助は) 寺で 天理教の悪評を聞き、
(そもそもは) 反対のため(に) 天理教の話を聞いたのだった。(当初、天理教とは どんなとんでもない教えか確かめてやろうとの思いで聞き始めたのが、
お話を聞く聞く内に、逆に、その)教理に (深く)感じ(るものがあり、
田辺藤之助は、ついに) 信仰を始め(るに至ったのであっ)た。
(田辺藤之助が天理教へ入信して) 以降、
(田辺藤之助は) 信仰のため、親から勘当を受け、親族からは縁切りされた。そのような中も、(田辺藤之助は) ひたすら教えを求め、人たすけに専念し、(和歌山県) 湯浅伝道の推進力となった。
(また) 明治38年頃からは、月の半ばを 大阪で(の) 教勢立て直しに費やした。
此花分教会へ改称 ~ 大阪・国分寺町へ移転(明治42年)
明治42年(1909) 3月31日、
此花支教会を 此花分教会と改称(した)。当時(の) 此花(に)は、分教会相応の教勢はなかったのだが、
部内教会の増設と 適当な土地建物に移ることを条件に、分教会となった。(そして) 同年(明治42年) 12月、
此花分教会は、
大阪市南区国分町563番地へ 移転建築した。
広がる此花の道(明治43年頃~大正2年頃)
明治43年に、高鍋宣教所が設立された。
明治44年(1911) には、梶原安吉が 東京へ 布教に出た。
此花 東京布教の始まりである。翌年(明治45年)、小塚はる が 福井市へ 布教に出た。
これが、此花 北陸布教の始まりである。(また、同年=明治45年) 藤岡芳太郎・杉本木次郎・北谷藤七が、宮崎へ布教に出た。
藤岡(芳太郎)、北谷(藤七)は、直ちに 東京市・横浜市へ それぞれ布教地を変えている。大正2年には、
東京に 神花、
大阪市に 大花・正花 の宣教所が 設立された。
教会内事情の続発(大正3年頃~大正6年頃)
翌 大正3年の頃より、
役員の内紛、住込人の事情、負債などの問題が 重なっ(て発生し)た。会長への脅迫状、上級教会役員による辞職勧告など (様々な事情が重なって)あり、この整理に 3ヵ年を要した。
大阪・生野国分町へ教会移転(大正8年)
大正8年(1919) 12月25日、
此花分教会は
旧所在地が 市電敷設に伴う変電所設置のため、
大阪府東成郡 生野国分町243番地へ 移転建築した。
相次ぐ部内教会の設立(大正9年頃~大正15年頃)
翌 大正9年には、此宮宣教所が 設立された。
その後、教祖40年祭 (大正15年執行) に際して、
大正10年に、向陽、
同(大正)11年に、日州・湯保・湯三尾、
同(大正)12年に、此浜・国分町・此平・此福、
同(大正)13年に、橘・有神・和神、
同(大正)14年に、此越・此都・此橋・今福・正竹・此由良・此沢・此高、
同(大正)15年に、此戸部・此湯和・此岡・此肥・此鶴・此多摩・此陽・岩脇・此豊・此別府・此江・此晑・此富・晑都・此広・此神、
以上の 各宣教所が 設立された。
田辺藤之助2代会長の出直し、竹中とめ3代会長の就任(昭和3年)
昭和3年(1928) 7月25日、
2代会長・田辺藤之助 の出直 (57歳) により、
昭和3年10月23日、
竹中とめ (55歳) が、此花分教会3代会長に任命された。
竹中とめの教歴
(竹中)とめは、
和歌山県出身で、明治26年、教理に感じて信仰を始めた。
(和歌山県) 湯浅にいて、田辺藤之助を師と仰ぎ、湯浅伝道に力を尽くした。(明治37年) 宮崎県へ単独布教に出て、(明治43年) 高鍋宣教所を設立。
(その後) 神花宣教所長、湯浅支教会長を歴任した。特に、大正初年頃の 此花の 事情(が重なって発生して一同が苦労した時代)には、
(田辺藤之助2代)会長の片腕となり、
また、此花の理事 (役員) として、此花部内の修理・丹精の上に尽力した。(竹中とめは) 田辺藤之助の孫・教一を 乳児の頃から養育しており、
(田辺)教一が成長するまで 此花の会長としてつとめる(という)心を定めて、
(つなぎ役という意識で 3代会長に) 就任したのだった。
竹中とめ3代会長時代、教会内容の充実・たすけ一条の道の徹底(昭和3年~昭和16年頃)
竹中(とめ3代) 会長 就任後、
(此花分教会は) 教祖40年祭(の教勢倍加運動)時に増設された教会の内容充実に努めた。(そして、先代・田辺藤之助2代会長時代の) 昭和2年に購入した 此花移転の候補地の負債の整理を完遂し、
たすけ一条の信仰に徹底、(誠真実の心をもって)つとめ抜いた。
此花大教会へ陞級(昭和16年)
昭和16年(1941) 4月1日、
天理教革新に伴う教会制度改正により、支教会・宣教所は すべて分教会と改称されることとなり、
同年(昭和16年) 8月6日、
此花分教会は、大教会へ陞級・改称した。会長は、竹中とめ。
終戦前後(昭和19年~昭和20年頃)
昭和19年から20年にかけて、
戦災によって (此花大教会のおいても) 家屋の焼失した教会が 相次いだ。また、昭和20年 (1945) 9月、
台風のため、日州・此晑、両分教会の神殿が倒壊した。
竹中とめ3代会長の辞任、田辺教一4代会長の就任(昭和21年)
昭和21年5月26日、
(竹中とめ) 3代会長(の) 辞任により、
田辺教一 (28歳) が 此花大教会4代会長に任命された。(田辺)教一は、田辺藤之助2代会長の孫に当たり、
(既述の如く) 父が若くして死亡したため、竹中(とめ3代)会長が養育した(のであった)。(田辺藤之助2代会長の片腕として此花の修理丹精に尽力し、その孫である田辺教一が成長するまでのつなぎ役という意識でつとめていた 竹中とめ3代会長は)
(田辺)教一が (無事) 軍隊より復員(したので、それと)共に 会長をゆずったのである。
信者詰所の開設 ~ 移転新築(昭和22年~昭和28年)
翌(昭和)22年 5月、
此花大教会は、
従来の信者詰所であった第18寮 (中河詰所) より分立して、
(奈良県) 丹波市町豊田に 第86寮 (信者詰所) を開設した。昭和24年に、此武分教会が 設立された。
昭和26年 5月26日、
此花信者詰所は、丹波市町三島159に 移転新築され
昭和28年4月10日、開所された。
昭和中期の動き
昭和27年7月、兵庫分教会が設立され、
翌(昭和)28年7月、鉾島分教会が設立された。昭和28年8月18日、
竹中とめ3代会長(が)出直(した) (80歳)。その後、
同年(昭和28年)、此高千穗分教会、
(昭和)29年に、此生分教会・湯王分教会、
(昭和)30年に、此石川分教会、
(昭和)31年に、此湯保分教会・此市分教会・此越分教会、
(昭和)33年に、此有田分教会・此中分教会、
以上が、続いて設立された。昭和39年(1964) 5月、
第7母屋 (此花詰所) 新築 着工。同(昭和)40年3月26日、
此花信者詰所は 第7母屋 (天理市布留町) へ移転した。昭和42年10月、此嶺分教会 設立。
昭和44年3月26日、
此花大教会 神殿 及 付属屋建築に着工(した)。昭和46年8月、此河内・此里、各分教会 設立。
昭和46年9月22日、
此花大教会 神殿 及 付属屋(が) 竣工(した)。【出版物】:
・昭和4年7月25日、『田辺前会長殿追想録』B6版・P,275(200部)非売品。
・昭和22年4月より 月刊、24号まで『教風』(教会機関紙) タプロイド半裁・P,8(200部)非売品。
・昭和24年4月より 月刊、『いちれつ兄弟』(教会機関紙)タプロイド・P,2(1,000部)非売品。
・昭和31年11月22日、『此花大教会の沿革』A5版・P,300(500部)非売品。
・昭和38年8月18日、『3代会長 竹中とめ略伝』B6版・P,100(1,000部)非売品。〔現住所〕〒544-0024 大阪市生野区生野西4丁目3−5
〔電話〕 06-6731-6004(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,354〜356)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第110回目の今回は、
「此花大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】110回目の当記事では『天理教事典』の中の「此花大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
当記事では
『天理教事典』の中の「此花大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回もまた知らないことばかりでした。
此花大教会は、中河大教会から分かれた大教会ですね。
中河大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

当シリーズでは、これまで『天理教事典』1977年版の天理教大教会解説文の書き写し学習を行ってきたわけですが、
通算100回以上行う中で、解説文には いくつかのパターンがあることがわかってきました。
多くの先生方が『天理教事典』1977年版作成に携わられたと思うのですが、
その中でも、天理教大教会の解説文執筆を担当した先生は、ある程度 限られていたのではないか、と思われます。
それで、執筆担当した先生ごとにそれぞれ個性が出てくる というのは、まぁ 当然のことでありましょう。
きちんと分析したわけではありませんが、
それは、執筆した先生ごとに いくつかパターンに分類できるように感じます。
今、ザっと思い出せるのは、
・感情的な表現を どんどん挟んでくるパターン。
・ある特定の史実を 非常に詳しく描写するパターン。
・出来事を 淡々と羅列していくパターン、
… 等です。
そして、今回の「此花大教会」の解説文。
今回は、典型的な「史実を淡々と列挙していくパターン」でありました。
すなわち、今回の「此花大教会」解説文は、
執筆した先生が セレクトした史実を 淡々と羅列するスタイル。
で、その史実に関しても、最小限の記述のみで、
そこに至る経緯が ほとんで書かれていませんでした。
なので、毎回わからないことが 多々あるのですけれども、
今回は、特に わからないことが多かったです (>_<)

まず、
此花大教会の礎を築いた 扇 清次郎先生と 小松駒吉先生 (御津) との関係が よくわかりませんでした。
『天理教事典』によれば、
此花大教会の母体となった「大阪清心組」を結成した 扇 清次郎先生は、
結核性胸膜炎をご守護いただいた後、
小松駒吉先生 (御津大教会 初代会長) からお話を聞いたとのこと。
普通に考えれば、その後、御津大教会の部内教会となりそうなもの。
しかし、現実には、
此花は 御津の部内ではなく 中河の部内教会となって、
昭和16年に 中河大教会から分離独立して 大教会へ昇格し、本部直属となられました。
最初に 小松駒吉先生からお話を聞いたのに、
此花は、なぜ 御津の部内でなく 中河から分かれたことになっているのか、
というところが よくわかりませんでした。
文献を探して読めば わかることかとは思いますが、
お恥ずかしながら、そこまでの元気がありません… (~_~;)
…しかし、
まぁ、お道の初期は、どこの系統に属するかという、
いわゆる帰属意識は 非常にユルイものだったようですから、
此花が 中河の部内となったのも、
ガチガチのルールに則ったというよりも、その当時の人間関係による、成り行き的な部分が大きいのだと思われます。(違ったらスミマセン m(_ _)m )
当シリーズ18回「中河大教会」の勉強をした際、
中河大教会は、
高安分教会を分割して開設した集談所が その始まりだったことを知りました。
明治21年に 天理教教会本部が設置された後、
河内地方の講社を統合して 教会を設置する運びとなった。
で、明治22年に、松村吉太郎先生を会長として、教興寺村に 高安分教会が開設された。
けれども、高安として統合された講社の中には、
山本利三郎先生を親として戴きたい という人々が多くおられた。
それで、高安を分割して、山本利三郎先生を会長として 柏原村に 新たな集談所 (柏原集談所) を開設。その後、地方庁の認可がなかなか得られないので「中河」(河内の中心の意) と名称を改め、認可を受けた。
それが、発展して 現在の中河大教会となった。
当シリーズ18回「中河大教会」で、以上のような流れを学んだのでありました。
以上のような、お道初期の大阪・河内方面における教会史からも、
初期の天理教教会においては どこの系統に属するか という帰属意識は 非常にユルいもので、
その当時の人間関係に基づく 成り行き的な部分が大きかった、
という実態を 読み取ることが出来ると思います。
そのような成り立ちを考えると、
天理教の教会にとって、
ある意味、どこの部内だとかどこの系統だとかいうことは、信仰の本筋から外れた 枝葉末節な属性だという見方も 出来るような気がします。
というより、
そもそも、どこの部内だとかどこの系統だとかいうことに関心を持ってしまうという心の動きそのものが、私の精神性の未熟さを表している、ということを自覚した方が良いのかもしれませんね (^^;)

今回は わからないことが多かったわけですけれども、
扇 清次郎先生から 小谷ヱン先生、また、小谷ヱン先生から 田辺藤之助先生へ…
と 代表 (講元・会長) が変更となっていった経緯についても、
史実の記述のみで その背景について書かれていないので よくわかりませんでした。
特に、
明治40年の 小谷ヱン初代会長から 田辺藤之助2代会長への交代については、
『天理教事典』「此花大教会」解説文に「大阪府庁の会長変更の要請を受けて…」と書いてあり、
大阪府庁から会長交代の要請? なんで? (°д°)
と、頭の中が 疑問符でいっぱいになりました。
あるいは、
「大正3年の頃より、役員の内紛、住込人の事情、負債などの問題が重なっ(て発生し)た。会長への脅迫状、上級教会役員による辞職勧告など (様々な事情が重なって)あり、この整理に 3ヵ年を要した。」
という記述も、どのような出来事があったのか書かれていなかったので、どんな事情があったのだろう…と気になりました。
…しかし、これもまた、私の精神性の未熟さによる、野次馬的好奇心以外の何ものでもなく、
( 自覚はあります (^^ゞ)
そんなこと知ってどうする、という類の情報でありましょう。
当シリーズでは、毎回「おわりに」の中で感想みたいなことを書いていますが、
今回は、このままでは、感想というよりもわからないことの列挙に終始してしまいそうです (>_<)
なので、
以下、締めくくりに、少しばかり 印象に残ったことも書き添えておきたいといます。

今回、私が印象に残ったのは、竹中とめ3代会長の存在でした。
『天理教事典』によると、
竹中とめ先生は、明治26年20歳の時に、田辺藤之助先生 (後の此花2代会長)と共に、教理に感じて信仰を始めた、とのこと。
細かいことはわかりませんが、この記述だけを見ると、どうも大きな身上や事情などの節を契機として入信したのではなく、お話を聞いて入信されたように読めます。
竹中とめ先生は、そこから、明治37年には 若い身空で九州・宮崎へ布教に出られ、
また、大正3年頃から 教会内事情が続発した際には、田辺藤之助2代会長の右腕となり、此花分教会を支えられたとのこと。
そして、昭和3年に 田辺藤之助2代会長が出直されたのを受けて、
2代会長の孫である田辺教一先生が成人するまでのつなぎ役として 3代会長に就任。
その後、田辺教一先生が成人し、昭和21年 軍役を務め終え復員された後に 会長職を譲渡して、
その 7年後の 昭和28年、80歳にして その天寿を全うされた とのことでした。
しっかり文献に当たったわけではありませんが、
以上のような『天理教事典』の記述を読むと、
竹中とめ先生は、まさしく自分というものを捨て切って「此花」の上に生涯を捧げ尽くしたように感じられます。
それも、決して 自分が自分が… と前に出るわけでなく、
常に一歩下がって、2代会長や 後の4代会長を立てて 自分は裏方に徹する、
しかし 本当に苦しい時には 逃げることなく前面に出て それに立ち向かう、という感じで。
私の勝手なイメージですが、
栄える組織というものには、必ず、陰で支える 大きな存在があるような気がします。
そして、此花大教会の場合は、竹中とめ先生が その役割を果たされたのではないか、と感じました。
短い『天理教事典』「此花大教会」解説文だけしか情報がないのにそこまで述べるのは 思考が飛躍し過ぎているかもしれません。
しかし、今回の書写学習を通して 竹中とめ先生の存在を知って、直観的に、以上のような感想が私の中に湧き上がってきました。
なので、そのような受け止め方は、きっと 当たらずとはいえ遠からずではないか、という気がします。
そして、このような感想を抱くに及んで、改めて、
「陰」の大切さというものを見つめ直したい、と思った次第であります (^^)
以上、締めくくりに蛇足的な感想を付け加えましたけれども、
いずれにしても、
今回の書写学習では、
事実の羅列のみで背景記述がほとんでなくて不明なことが多いと感じながらも、
それでも、実に様々な困難を乗り越えた上に 今の「此花大教会」の繁栄した姿がある、
と 想像できるような大まかな流れを感じることが出来たのは間違いありません。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「此花大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「此花大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。




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