Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号124番「宇佐大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号125番「岡山大教会」について勉強します。
- 岡山大教会(おかやま だいきょうかい)
- 神沢滝蔵 初代会長時代
- 茨木基敬2代会長時代
- 伊藤半七3代会長時代
- 高田政治郎4代会長時代
- 高田政治郎4代会長の経歴
- 高田政治郎4代会長の入信(明治23年)
- 青野原支教会の理事・会計係としてつとめた高田政治郎(明治25年~明治29年頃)
- 単独布教へ出た高田政治郎(明治29年頃)
- 神戸港布教事務取扱所を開設し、所長に就任した高田政治郎(明治29年~明治31年頃)
- 岡山支教会事情整理のため岡山支教会4代会長に就任した高田政治郎(明治40年)
- 岡山分教会へ昇格(明治42年)
- 教会の移転建築ふしん ~ 付属建物ふしん(明治43年~明治45年)
- 茨木事件 ~ 北 大教会からの分離・本部直属へ(大正7年~大正14年)
- 岡山市大供の土地を売却し岡山市東山へ教会移転(昭和6年~昭和7年)
- 高田政治郎4代会長の退任 ~ 出直し(昭和8年~昭和10年)
- 高田徳治5代会長時代
- 高田キミノ6代会長時代
- 高田 晃7代会長時代
- 高田静可8代会長時代
- おわりに
岡山大教会(おかやま だいきょうかい)

神沢滝蔵 初代会長時代
岡山大教会の初代会長は、神沢滝蔵である。
神沢滝蔵 初代会長の経歴
(神沢滝蔵は)
天保11年(1840) 10月12日、
兵庫県美襄郡 東這田村、小林音右衛門の2男として生まれた。明治9年(1876) 6月24日、
同郡 (兵庫県 美襄郡) 高木村65、神沢音右衛門の養子となった。
神沢滝蔵 初代会長の入信(明治20年)
明治20年(1887)、
永年の眼病がはかばかしくなく、鋸の目立を生業としていたので、思う様に仕事も出来ず困っていた。
(神沢)滝蔵の妹婿に、室田 某がいた。
(神沢)滝蔵は、室田から天理教の話を聞き、さらに 室田の一族の 室田吉太郎からも (天理教の) 神様の話を聞いた。
(神沢滝蔵は) 連日にわたる教理に感銘し、また、不思議(なこと)に 眼病も日を経ずして治ったので、
明治20年5月5日、(天理教に) 入信した。
時に (神沢)滝蔵 49歳であった。
(ちなみに、神沢滝蔵に教理を説いて聞かせた) 室田吉太郎は、当時 天地組 第13番講の講長をしていた人であった。(同郡⦅兵庫県 美襄郡⦆) 三木町出身)
神沢滝蔵 初代会長の岡山布教(明治20年~明治23年頃)
(神沢)滝蔵は、
明治20年7月10日(に) おさづけの理を戴くと、すぐ 室田某と共に、岡山県備前市三石町方面の布教に出発した。
(そして) その年(明治20年) 10月10日、高橋宇平 (南岡分教会 初代会長) に話を取り次ぎ、
さらに、日ならずして 岸本津弥次 (後の岡山大教会理事)・小野田牧太 (呼松分教会 初代会長) 等、数戸の信徒加入者が出来た。しかし、信仰上の事情が起こり、近隣の反対が激しくなったので、
明治22年7月頃、(神沢滝蔵は) 将来の発展を考えて、岡山市難波町60番邸に住居を移し 布教を続けた。明治23年(1890) 11月11日、筒井菊が入信。
これが機縁となって 岡山市布教も着々と進み、
同じ年(明治23年)には、大江熊吉・石井治郎平 (南岡分教会2代会長) など、約80戸の信徒加入があった。
天地組 第13番乙分講の結成 ~ 教勢拡大(明治23年~明治24年)
(神沢滝蔵の布教により、着々と信徒が増加してきた。)
それにより、明治23年7月1日、
天地組 第13番乙分講の結成を許された。
次いで、明治24年になると、岡山市から 更に郡部へ向かって 教えを広げた。
天地組 第14番講へ昇格改称(明治25年)
明治25年(1892) 9月12日、
信徒戸数(が) 210戸になり、
天地組 第13番乙分講から「天地組 第14番講」と昇格改称した。
岡山支教会の開設(明治25年)
このようにして 教勢は伸びる一方で、信徒数も1,200余名(の多数)に達したので、
統轄の必要から、(神沢滝蔵は、天理教教会本部へ) 岡山市難波町60番邸で「岡山支教会所」設立を願い出(た。
その結果)、明治25年9月19日付で「岡山支教会」(の開設を)許された。
教会設立3ヶ年での豪華な移転新築ふしん(明治26年頃~明治28年)
(岡山)支教会所として許された 岡山市難波町60番邸は、
布教当初の縁の地ではあったが、何分 土地が狭く、また 建物も小さかった。
(そのため) 教勢の伸展に伴って参拝する信徒の数が増すと (大いに) 不便を生じる状態となった。
(そこで) 一同 協議の結果、(新たな) 土地を求めて 神殿を建築しようと意見がまとまった。
(その後) 土地購入の許しを神様に願い 許されたので、(岡山支教会) 一同 喜んで、土地買収に力を尽くした。「明治26年(1893) 11月21日、岡山支教会所これまでの所(岡山市難波町) から 同市(岡山市) 天瀬町へ 移転仕度に付 御願」という「おさしづ」を仰ぎ、許しを受けた。
明治27年3月1日 起工式、同年(明治27年) 6月15日 神殿上棟式。
翌年(明治28年) 3月13日 神殿建築落成、同年(明治28年) 4月14日鎮座祭。
翌(4月)15日、数千人の参拝者の中、開講祭が執り行われた。
このように(して、岡山支教会は)
教会設立より 約3ヵ年の短時日で、
境内地 712坪・神殿 76坪1合5勺・教祖殿 6坪・付属建物 総建坪 130坪7合、
延10棟の、当時としては 近隣に稀な (立派な) ふしんを完成した。
豪華ふしん後に残った巨額債務との闘い ~ 神沢滝蔵 初代会長の辞職(明治28年頃~明治33年)
(岡山支教会の) 教勢は、急速に伸展したとはいうものの、
信仰の年限も浅く (内実は) 本当の信仰を心に治めている者は少ない(と言わざるを得ない) 状態であった。
(見事な教会ふしんを実行した 岡山支教会だったが) その結果、多大の借財が残った。
(岡山支教会は) その後 (巨額の債務を何とかしようと努めたものの、
その歩みは) 遅々として、(一向に) 返済のめどが立たず、(神沢滝蔵) 初代会長を中心に 日夜 その返済に苦労の道中を通らねばならぬ事となった。
(そして) 遂に(は) 債権者・大林守肇によって 地方裁判所に提訴され(るに至り)、
(神沢滝蔵) 初代会長は、その責任を負って (会長職を) 辞職することとなった。(明治33年4月18日)一方、この3ヵ年の間には、22ヵ所の教会が設立された。
神沢滝蔵 初代会長の会長辞職後 ~ 出直し(明治33年頃~大正6年)
その後、(神沢滝蔵) 初代会長は、
家族と共に 上級・北分教会へ引き揚げ、北 分教会の一役員として、教え(の上)に ひたすらつとめ切った。(その後、懸案だった) 借財(整理)の見通しがどうにかついた 明治38年(1905) 7月9日、
再び 岡山(支教会)部内・足守支教会長として復任した。
(そして) 岡山大教会の教勢復興に 蔭から尽くし、
大正6年4月23日、
(神沢滝蔵 初代会長は) 78歳を以て 出直した。
茨木基敬2代会長時代
2代会長は、茨木基敬 (上級・北 分教会長) である。
茨木基敬 北分教会長、岡山支教会長兼務の経緯(明治33年~明治36年)
岡山支教会所が、神殿建築負債返済のめどが立たず (初代)会長の神沢滝蔵がその責任を負って辞職を願い出(て、辞職する運びとなったわけだ)が、
(しかし) 適当な後任者の選定が出来ず (関係者一同は、その事後処理に) 頭を悩ませた。
(ただ、事態は) 急を要する事であったため、
明治33年4月18日、上級教会長(の茨木基敬 北分教会長が、岡山支教会長を) 兼務(すること)によって、その収拾に力を注ぐことになった。
しかし、債権者への返済は急を告げ、事情は 益々 迫る一方であった。
(そのような切迫した状況下にあって、事態は、茨木基敬 北分教会長による) 上級と(当該教会と)の教会長兼務では、(とても)充分に事情を整理出来ない(様相を呈してきた。)
(そのため、茨木基敬 北分教会長は) 北 分教会役員・伊藤半七に、岡山支教会長後任として事情整理を命じ、(自らは) 明治36年3月6日、(岡山支教会長を) 退職した。この間、約3ヵ年の在職であった。
伊藤半七3代会長時代
3代会長は、伊藤半七である。
伊藤半七3代会長による債務との闘い(明治36年~明治38年)
(伊藤半七は)
明治36年(1903) 3月6日、
(茨木基敬) 北 分教会長の命令で (岡山支教会の) 事情整理・教勢復興のため、3代会長に就任した。
しかし、中々 意のままに整理がつかず、債権者の催促は 以前よりも厳しく(なり)、
(伊藤半七3代会長の奮闘むなしく)
遂に、明治37年7月21日午後1時、
(岡山支教会の) 教会土地建物・不動産一切、競売に付せられるに至った。(伊藤半七3代会長は、その責任を取って)
明治38年7月8日、(岡山支教会長を) 退職した。
この間、約2年4ヵ月の在職であった。
高田政治郎4代会長時代
このような事情を引き継いで4代会長に就任したのは、高田政治郎である。
高田政治郎4代会長の経歴
高田政治郎は、
文久3年(1863) 4月11日、兵庫県加西郡 西在田村下道山の地に生まれた。(高田)家は 代々 農業を生業としていたが、
(高田政治郎は) 生来 理知にたけて 読み書きにすぐれていたところから、村役場に勤め、
同村(兵庫県加西郡 西在田村) 竹内つると結婚し、長男・徳治が生まれた。
高田政治郎4代会長の入信(明治23年)
この子供 (高田徳治) が、生後3ヵ月目に胃腸を損ない 難渋していたところを、青野原分教会の信者から天理教の話を聞き (ご守護を戴いた。
このおたすけに感激した高田政治郎は)、
明治23年(1890) 4月15日、(天理教に) 入信した。
青野原支教会の理事・会計係としてつとめた高田政治郎(明治25年~明治29年頃)
(高田政治郎は) 明治25年6月7日、教導職を拝命し、役場を辞職して 道一条となった。
(そして) 明治27年11月1日、
北分教会(部内) 青野原支教会の理事・会計に任命されて (青野原支教会の御用を) つとめた。
単独布教へ出た高田政治郎(明治29年頃)
当時、青野原支教会は 神殿建築の最中であり、(高田政治郎は) その責任の立場に置かれた。
(青野原の御用に励んでいた高田政治郎であったが)
ある時(から)、信仰の浅い自分がこんな重要な立場をつとめているが (これで良いのだろうかとの思いを抱くようになった。
そして) 単独布教を経験してこそ、本当の天理教を語る事が出来るはずであると(の考えが日増しに強くなり、単独布教に出ることを)決意するに至った。
(単独布教に出ることを決意した高田政治郎は、まず) 祖先より受け継いだ 家屋敷・田畑を全部すっきりお供えし(た。
そして) 明治29年(1896) 2月8日、神殿建築の伏込みとして、神戸市加納町4丁目83(の) 八木与助方に滞在、同人(八木与助) の世話を得て 隣家・梅田太蔵の一室を借り、親神様をお祀り。布教を始めた。
神戸港布教事務取扱所を開設し、所長に就任した高田政治郎(明治29年~明治31年頃)
(高田政治郎は)
明治29年9月30日、天地組12番18支講の許しをうけ、
翌(明治)30年6月25日、青野原支教会・神戸港布教事務取扱所を出願し(許しを受けた。
そして、翌年) 明治31年2月3日、神戸港布教事務取扱所 担任 (所長) となった。
以後、(そこは) 部内教会6ヵ所を有する 神戸港支教会に伸展していった。
岡山支教会事情整理のため岡山支教会4代会長に就任した高田政治郎(明治40年)
(高田政治郎が) 神戸港支教会の担任(会長)として教勢伸展の最中、
前述の通り、岡山支教会は、神殿建築の借財で事情が治まらない状態であった。(高田政治郎は) 神戸港支教会の責任者であったが、
(茨木基敬) 北 分教会長より、(岡山支教会の) 事情整理に当たる事を命ぜられた。最初は「会長事務取扱い」という立場であったが、
明治40年(1907) 6月9日には、(天理教教会本部の)許しを得て「岡山支教会(4代会)長」に就任した。
岡山分教会へ昇格(明治42年)
(高田政治郎が4代会長に就任して以降、岡山支教会は)
前述の部内教会23ヵ所の他に 17ヵ所の布教事務取扱所が設置された。
(これにより、岡山支教会は) 既設を併せると 39ヵ所の部内教会を持つ教勢に伸展した。
(そして) 明治42年(1909) 1月25日、
岡山分教会に昇格した。
教会の移転建築ふしん ~ 付属建物ふしん(明治43年~明治45年)
(既述の如く) 岡山市天瀬に建築した教会は、競売に付せられ、他人の手に渡っ(てしまっ)た。
そのため、(岡山分教会は) 1日も早く神殿を建築し、親神をお鎮め申さなければ申し訳ない(という)事態に立ち至った(わけである)。
そこで、(一同が力を合わせ) 復興に努力。
その結果、岡山市大供102の敷地が見つかった。(岡山分教会一同は、高田政治郎4代会長を中心にして新たな教会ふしんに取り組み)
明治43年4月23日、(無事に) 神殿建築が完成した。
(そして) 4月29日、移転建築奉告祭を執行。
これに加えて、明治45年6月30日(には)
付属建物:総建坪 59坪7合5勺の建築を完成した。
茨木事件 ~ 北 大教会からの分離・本部直属へ(大正7年~大正14年)
大正7年(1918)に至り、いわゆる「茨木事件」が起きた。
(この後) 上級・北 大教会の指導力は にわかに無くなり、(北 大教会の部内だった各教会は、天理教教会)本部の指示により (北 大教会からの)分離を許される事となった。
(岡山分教会においては)
大正14年6月23日付(で) 北 大教会より分離し、本部直属となった。この(茨木事件の)折には、(岡山)部内に (茨木)事件に連座する者が多く(居て、岡山分教会の)教勢に (多大な)影響を与えた。
(しかし、そうした大節に遭遇しながらも)
明治42年(の)分教会昇格後(から) 大正14年までの (岡山分教会部内の新設教会) 設立数は、16ヵ所に及んでいる。
岡山市大供の土地を売却し岡山市東山へ教会移転(昭和6年~昭和7年)
(岡山分教会が) 教会を (岡山市)大供に移転後、年号も昭和に改まり、岡山市の都市計画が始まった。
(岡山分)教会(の) 移転地は、新設路線の貫通する噂があった。
(岡山分教会一同の中に、それに伴う) 巨額の受益税が徴収(されるのではないか)、その上、神殿建築後の負債利子の返済が滞り 再び疲弊困憊(状態)を招く(のではないか、という) 心配が募ってきた。(そんな時) 当時 岡山市東山に建てられた東山公館が、経営不振で困っているという話が聞こえてきた。
そこで、(岡山分教会一同は) 役員一同 審議の結果、(そこを買い取って移転しようということで相談がまとまった。)
昭和6年になって、(岡山市大供の) 教会の敷地 及び 建物全部を売却。
(その売却益をもって) 従来の負債を返済し、残余をもって、この(経営不振に陥っていた岡山市東山の) 建物を買い取った。
(そして) 一部を増改築して、昭和6年11月3日、(岡山分教会の) 移転を完了。
翌年(昭和7年) 1月22日、2代真柱の臨席を得て 鎮座祭。翌(1月)23日に、移転奉告祭を執行した。(無事に 岡山市大供から岡山市東山への移転を完了したわけだが)
この移転は、『移転理由 上申書』中に「…別紙 絵図面ノ建造物ヲ 購入シテ 仮移転 致シ置キ
而シテ 御教祖五十年祭 并 立教百年祭 御修了ノ暁ニハ
好適ノ地ヲ 物色ノ上 改メテ 敷地ヲ 購入シ 以ッテ 正式移転サシテ頂クベク
故ニ 此ノ際ハ 是二 申シ訳ナキ事乍ラ 反則ノ移転ニシテ
實二 恐懼ノ至リニ候へ共 一時的 移転ノ儀…」と 書かれてあるところからもわかるように、
(関係者一同にとって、この移転は) 他日を期しての「仮移転」(という認識のもの)であり、(新たに移転した) 土地は、岡山市の管理するところであった。当時の (岡山分教会の) 教勢を、昭和5年上半期・教師名簿に照らして見(てみ)ると、
教正 3名、講義 167名、訓導 65名 であった。
高田政治郎4代会長の退任 ~ 出直し(昭和8年~昭和10年)
(高田)政治郎(4代会長) は、
教祖50年祭・立教100年祭に向かって (岡山)部内の立て直し等(の上に) 懸命につとめた。
(高齢化により) 嗣子・徳治に会長(職)を譲り、
昭和8年、本部在籍者として登用された。
(本部在籍者登用後は) 天理教校講師を勤め、後進の指導に専念。昭和10年6月25日、
(高田政治郎4代会長は) 73歳を以て 出直した。
高田徳治5代会長時代
5代会長は、高田徳治である。
高田徳治5代会長の経歴
(高田)徳治は、
明治23年1月8日、
高田政治郎・つるの の長男として生まれた。(高田徳治の) 生後100日頃、自分の病気から 親が入信。
6歳の時、生まれ故郷を後にして、一家を挙げて神戸に布教にきたので、(高田徳治は) 少年の頃より、新聞配達・給仕等(の仕事をして家計を助け)、苦労多い中をよく勉学に励み、神戸商業を卒業した。
明治44年、神戸港支教会の役員に任命され、約2ヵ年布教の末、吉原ミキノ (尾道分教会所属) と結婚し教勢の伸展につとめた。
大正7年の茨木事件(の際)には 責任者の一人に問われたが、疑いは晴れ、
大正8年11月、北 大教会 役員に任用された。
高田徳治、所属変更の上で岡山分教会5代会長へ就任(昭和8年)
(北 大教会役員として北 大教会の御用を勤めつつ、また、神戸港支教会の上にも真実を伏せ込んでいた高田徳治であったが)
(父親である) 岡山支教会4代会長・高田政治郎(が) 老齢となり、(高田政治郎から) 再三 来岡を督促され(るようになっ)た。
(高田徳治は、思案の末、その要請を受け入れ 父親の後を引き継ぐことを決意。)
それで、神戸港分教会の方は 役員に任せ、(高田徳治 自らは) 岡山分教会に所属変更の上、
昭和8年4月28日、岡山分教会 (5代会)長に就任した。
「茨木事件・ほんみち事件」後の教会整理(昭和13年頃~昭和15年頃)
(高田徳治は、5代)会長就任とともに「茨木事件・ほんみち事件」に連座した部内教会・教師を整理した。
(教会・教師を整理した結果)
昭和13年から15年までに、教師(の) 懲戒免職によって「本部預かり」の教会になったものは、
豊浜 (奥田鶴吉)・岡栄 (谷口定一)・太田町 (岩谷フデ)・琴道 (小見山ユキノ)・中庄 (杉井春)、
以上であった。
その他の事情で無担任となり「本部預かり」になった教会は、
九熊・興除・西大地・倉敷・成羽・井原・美袋・水門・坪井・牛窓、
…等であった。(これにより、岡山分教会の) 教勢は、著しく衰えた。
詰所移転(昭和11年~昭和12年)
また (少し話は遡るが)、
教祖50年祭執行(昭和11年) によって、
昭和11年、(天理教教会)本部(の) 境内拡張が行われた。
(それに伴い) 天理市三島、本部正門前にあった(岡山分教会の) 信者詰所は、移転を命ぜられた。
昭和12年6月、
天理市田30番地に 本館・付属建物を建築して 詰所移転を完了した。
高田徳治5代会長の出直し(昭和17年)
こうして、(岡山分教会が) 部内教会の整理、教勢の立て直しに終始し、これから教勢伸展への軌道へ乗ろうとした頃、
(社会的には) 第2次大戦勃発(し世情が日に日に)混迷を極めていく最中(の)
昭和17年7月23日、
(高田徳治5代会長は) 53歳を以て 出直した。
高田キミノ6代会長時代
6代会長は、高田ミキノである。
高田ミキノ6代会長就任の経緯(昭和17年)
(高田徳治)5代会長(の) 出直によって、後任会長の選定が協議され(た。
その結果)、嗣子・正仁は 未だ年若く (また) 従軍中で(も)あったため、夫人・高田ミキノを (6代会長として)役員一同 推せん(することとなった。)
昭和17年10月28日、
(高田ミキノが)6代会長として(天理教教会本部より)許され、就任した。
茨木事件・ほんみち事件後に整理された教会の所属変更(昭和17年)
(少し話は遡るが)、
この年(昭和17年) 3月26日には、
坪井 (川之江)、水門 (笠岡)、大仙 (笠岡)、岡福 (芦津)、牛窓 (郡山)、南陽 (甲賀)、
以上の教会が、「本部預かり」解除と共に、それぞれ 所属変更した。
そのため、(岡山分教会の) 部内教会数は、42ヵ所に減少した。
戦中の苦労(昭和18年頃~昭和20年頃)
やがて、戦争は (日に日に) 厳しさを加え、
(天理教の)教会も、昭和13年の革新以来 国家の新体制に則することを余儀なくされ、(そのため) 祭典(に)も歪みが生じ(たと言わざるを得ない状況となった。
それは、当時の信者たちの) 信仰信念にも影響するところ大で(あり、それは、天理教の教会が) 益々 歪んだ方向に進んだ(と後に評価される史実として歴史に刻まれた)。(岡山分教会の) 参拝場は、健民修錬所の道場の宿舎として使用され、
また、教職舎の大部分は、これらを運営する機関として活用された。昭和20年6月29日の岡山空襲では、(岡山)市内の 6割が焼失した。
幸い、岡山分教会は、境内に18発の被弾があったものの (懸命に) 消火に努めたことにより焼失は免れ、軽微の罹災で済んだ。
しかし、この日(昭和20年6月29日)、大道・後楽・楽一 は、みな全焼し、多くの信者も罹災した。
戦後復興(昭和21年頃~昭和20年頃)
(昭和21年執行の) 教祖60年祭後、(天理教教会本部より)「復元」(が打ち出された。
そ)の打ち出しが (岡山分教会の)部内に及ぶと共に、
昭和23年いっぱいには、罹災教会も「バラック建」ながら、復興建築を完成した。
また、戦争で外地に派遣された人も次々と復員し、戦災者・疎開者も 再び 教会近辺に住みついて、全般に活況を帯びる様になっ(ていっ)た。この頃から 教理書も出回り、また『雑想』『青年岡山』(が発刊され)、読書会(が企画される等して) 機関誌やサークル等、若い信仰者の組織(や活動)が芽生え、微力ながら (若者たちによる)活動も始まった。
(これらの活動は) 将来の青年会・婦人会・少年会の緒を作った。
岡山大教会へ陞級(昭和27年)
これらの力は、昭和27年1月26日の「大教会陞級」として開花した。
(=大教会へ陞級)(陞級直前の岡山分教会は、本部からの「復元」打ち出しに呼応し、戦後復興に懸命に努めた。
その結果)
(1) 本部お預け教会 14ヵ所の教会復興、
(2) 教師 300名以上 増加、
(3) 客殿・付属建物の増改築を完成、
(以上の如く、形の上でも大いなる躍進を遂げた。)(そして) 同年(昭和27年) 10月10日、
2代真柱 臨席のもと、2千余名の参拝者を得て、にぎにぎしく 創立60周年 ならびに 大教会陞級奉告祭を執行したのであった。
(この時) 部内教会 56ヵ所、布教所 28ヵ所、教師 330名であった。
教祖70年祭活動 ~ 新設教会の開設(昭和28年頃~昭和33年頃)
こうして、(大教会に昇格した岡山は、
昭和31年執行の) 教祖70年祭に向かって、教勢の伸展に努め、
昭和33年には、旭中央・三石町、以上2ヵ所の新設教会の設置を見た。
(こうした動きは) 過去の事情による教会整理・転属に比べると (格別に) 明るい出来事であった。
高田ミキノ6代会長の辞任 ~ 出直し(昭和34年頃~昭和42年)
こうして二つの新設教会の設置を見た後、(高田ミキノ6代)会長(は) 老齢のため、担任変更(することとなった。)
昭和34年1月26日、
(息子の高田 晃に) 会長職をゆずった。その後、(高田ミキノ)6代会長は、本部お守所などにつとめ(てい)たが、突然、病に倒れた。
(高田ミキノ6代会長の身上を受けて、岡山大教会一同で) いろいろ協議の結果、大教会移転の議が盛上がった。
(協議の結果、移転することで相談がまとまり、岡山大教会は 移転建築に取り掛かった。)
(岡山)大教会(の) 移転建築完了後、
昭和42年11月1日、
(高田ミキノ6代会長は) 73歳を以て 出直した。
高田 晃7代会長時代
7代会長は、高田 晃である。
高田 晃7代会長の経歴
前述の如き事情で、(高田 晃は)
父・(高田)徳治が 岡山支教会5代会長(に) 就任(することとなった)ため、(神戸港分教会から岡山分教会へ) 所属変更を行い、
昭和8年、家族を挙げて岡山の地に (やって)来た。
(神戸から岡山へ移住し、慣れない土地で) 少年期は、教会子弟として苦労が多かった。
昭和23年、
(高田 晃は) 斎藤静可 (道法分教会所属) と結婚し、(高田ミキノ)6代会長を助けて 教勢の立て直しに努力した。
昭和27年、
(岡山大教会) 創立60周年の時の教会整理には、自らも 萬富分教会長に就任、部内の一教会長としてつとめた。
高田 晃、7代会長へ就任(昭和34年)
(高田ミキノ)6代会長(の) 老齢(化)のため 担任変更の議が起こった(が)
長男・正仁が戦死したため、
昭和34年1月26日、(次男の 高田 晃が)7代会長に就任した。
信者詰所の増築(昭和35年)
(高田 晃が7代会長に) 就任後 間もなく、教祖 80年祭の発表が行われた。
(岡山大教会でも) その受入れ準備のため、
昭和35年、信者詰所の増築を完成した。
岡山市東山から岡山市藤原へ教会移転(昭和36年〜昭和38年)
この頃、岡山市東山公園は、再び 大蔵省より岡山市の管理する所となり、都市計画として公園を整備する話があり、従って公園内にある私有の建物の立ち退き問題が起こった。
この様な状況から役員協議し、移転建築を心に定め、土地を物色。
そうしたところ、岡山市藤原32の現在地が見つかった。昭和36年7月26日、
移転建築の許しを得て、移転建築に取り掛かった。しかし、昭和38年9月に至り、教勢、部内全般の心の成人が至らず、建築計画を進める事ができず、模様替えを願い出(るに至った。
そして)、従来の神殿は、部内(の) 旭中央分教会にさげ、
仮神殿を建築の上、
岡山市藤原32番地へ仮移転(した)。同年(昭和38年) 10月31日 遷座祭(が執行された。)
高田 晃7代会長の出直し(昭和39年)
翌(昭和)39年 5月11日(の) 奉告祭を目標に 懸命につとめていた矢先、
昭和39年5月2日、
(高田 晃7代会長は) 突然 出直しとなった。
高田静可8代会長時代
高田静可8代会長就任の経緯(昭和39年)
(高田 晃7代会長突然の出直しという大節を見せられた岡山大教会の) 部内一同(は)、大いに反省・さんげし、
取りあえず、(天理教教会)本部に 特別の詮議をお願いし(た。
その結果)、高田静可を 後任会長に選定(することとなった。)昭和39年 5月8日、
急きょ、(天理教教会本部の) 許しを得(て)、
(高田静可が)8代会長に就任し(た。
8代会長就任 ならびに 移転建築奉告祭の執行(昭和39年)
そして、昭和39年) 5月10日、
2代真柱代理として中山善衛たすけ委員長 (3代真柱) の臨席を得て、鎮座祭。翌(5月)11日、
(8代)会長就任 ならびに 移転建築奉告祭を執行し、
(岡山大教会は) 新しく出発した。
高田静可8代会長就任後 〜 創立80周年記念祭前後(昭和39年頃〜昭和47年頃)
(高田 晃)7代会長(の) 出直し前後、
相次いで 部内教会の重要な役割をつとめる立場の者が出直し、あるいは重い病気となり、(岡山大教会は) 体勢立て直しに大変苦労した。しかし (高田静可)8代会長就任以降、
(岡山大教会では) 教祖80年祭 (昭和41年) 執行に伴い 信者詰所の建物移動・改修・増築(を行い、
また) 岡山大教会 創立80周年記念(に合わせて)、客殿・会長宅(の) 増築(を実行する等、着々と形のふしんを進めて、体勢を立て直していった。)更に、
東洋徳・悠久道、両 新設教会が誕生(し)、
月々の別席者、修養科生も 漸増(しており)
(岡山大教会の教勢は、着実な)伸展を見せている。
〔現住所〕〒703-8245 岡山県岡山市中区藤原32番地
〔電話〕086-272-0372(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,117〜120)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第125回目の今回は、
「岡山大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 岡山大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
三石町は、兵庫県境の船坂峠を越えたすぐの 在所である。
兵庫県美嚢郡に住む 鋸 目立て業の 神沢滝蔵は、眼病から仕事ができず困っていた時、親戚筋より話を聞き、明治二十年、四十九歳で入信。
三石町方面へ布教に出、岡山市難波町 (現中央町) に移った。二十三年、天地組 (北)分講を結成。
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,95
道は 鑢問屋や 鋸 問屋筋、漁師にも伝わり、信者は 二百戸余りに達した。
二十五年、岡山支教会を設置。
二十八年 神殿を建築し、勢いに乗って 七棟の普請をしたが 借財が残り、滝蔵は辞職した。
四十年、高田政治郎が 四代目に選任され、茨木事件などの大節を乗り越えて 盛り返した。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】125回目の当記事では『天理教事典』の中の「岡山大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
岡山大教会は、北 大教会から分かれた大教会ですね。北 大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

岡山大教会の親教会は「北 大教会」。
「北 大教会」の初代会長は、茨木基敬先生。
「茨木基敬」先生と言えば、「茨木事件」。
北 大教会 初代会長である茨木基敬先生は、
明治44年11月18日の深夜に天啓を受けたことを契機に、信者の中に彼を神として崇拝する者が現れるようになり、
この状況を看過できなくなった天理教教会本部は、大正7年1月16日付で北大教会長を免職とした――
これが、いわゆる「茨木事件」と呼ばれる史実でしたね。
信仰初級者の私は、
この「茨木事件」と、前回(第124回「宇佐大教会」)で触れた飯田岩次郎先生の「水屋敷事件」を混同してしまいがちで、
最初、今回の書写文にも前回からの続きの話題があるように、つい受け止めてしまいました (^^ゞ
「水屋敷事件」=飯田岩次郎――明治28年(1895年)
「茨木事件」=茨木基敬――大正7年(1918年)
こうして並べてみると、両事件の間には 実に 23年もの隔たりがあります。
登場人物も社会情勢もまるで異なるわけで、
それを一緒くたにとらえていた という時点で、私の 教会史理解がいかに浅いかが知れるというものです (^^ゞ
とはいえ、よくよく掘り下げたならば、23年の隔たりを超えた共通点のようなものも、きっとどこかに潜んでいるはずで、
そうした点を論じた研究も きっとどこかでなされているでしょうから、機会があれば探し出して、いつか勉強してみたいという気がします… (^^)

それはさておき、これまでの当シリーズの中で、
大正7年の「茨木事件」の後 北 大教会から分離独立した大教会について、既に いくつか勉強しました。
いずれの大教会も「茨木事件」の影響は 並々ならぬものがあって、大変 苦労されたということを学びました。
今回の学習で、北 大教会の部内だった「岡山大教会」も、他の 北 大教会から分離した教会同様に大いに混乱し苦労されたことを知ったわけですが、
その中でも、岡山大教会の場合は、
「茨木事件」が起きる前に、神殿建築の巨額債務に伴う混乱という大きな事情がありました。
それを、上級・北 大教会の指導よって何とか乗り越え、やっと一息ついた(ように見える)状態だっただけに、
「茨木事件」によってその指導者が去って行ってしまったことは、岡山大教会にとって 他の兄弟教会以上に より激しいダメージを与えるものとなったのではないか、と想像致します。
特に、茨木基敬先生は、
神沢滝蔵 初代会長が、神殿建築負債返済のめどが立たず 債務者から裁判を起こされ、その責任をとって辞職した後に
(明治33年から明治36年までのわずか3年間だけですが)
岡山の2代会長を兼務されたとのこと。
(兼務困難となり 約3年で 伊藤半七先生が後任となられたわけですが…)
すなわち、直接的に岡山支教会の運営に携わっていた時期がある ということ。
「茨木事件」が起きたのは 茨木基敬先生が 岡山支教会長を兼務していた 明治36年から15年後の大正7年ですから、だいぶ 後の話ではありますが、
かつて、短期間とはいえ 会長として 指導的立場にあった 茨木基敬先生に 天啓があり、その茨木基敬先生が 生き神様の如く振舞われたのですから、その様子に 間近で接した当時の人々は、それは大いに混乱されたであろう…
と、その当時の様子を 容易に想像できる気がします。
以上のような史実を あれこれ なぞっていくと、
この「茨木事件」が 当時の天理教に関わりのある人々に与えた影響が 如何に大きいものだったか、その衝撃度がどれほど激しいものだったか、改めて 教えられる気がします。

当記事では『天理教事典』の中の「岡山大教会」についての記述を書き写したわけですが、
毎回書いていることですが、特に今回は、本当に知らないことだらけでした。
岡山支教会は、
神沢滝蔵 初代会長が 巨額な借金が返済困難となってしまったことの責任をとって辞任した後、
上級・北 大教会の 茨木基敬先生による2代会長、北 大教会役員の 伊藤半七先生による3代会長を経て、
茨木基敬先生の指示で、青野原支教会部内の神戸港支教会長だった 高田政治郎先生が、岡山分教会の4代会長に就任された、とのこと。
当シリーズを継続する中で、どこの教会でも 多かれ少なかれ複雑な道を辿ってこられたことを学んできましたが、
岡山大教会においても、その例にもれず、創設初期から 実に 複雑な経緯を辿っておられるということを、今回 学ぶことが出来ました。
それにしても、こんな複雑な歴史があったとは…
本当に知りませんでした。

最後に、おさらい的に経過を再確認――(自己覚書として)
岡山大教会は、神沢滝蔵先生が 兵庫県美襄郡から岡山県備前市に布教に出たのが、その元一日。
神沢滝蔵先生は、岡山県備前市では近隣の反対が激しくなったので、岡山市難波町に移動して布教。
その結果、多くの信徒が誕生し、岡山市難波町で「岡山支教会」を設立。
教会設立後に 立派な神殿 その他 教会施設を借金して建築したが、その借金の返済が滞るようになった。
教会創立初期から多額の借金に苦しみ、その責任をとって 神沢滝蔵 初代会長が 辞任。
上級の茨木基敬会長、続いて 伊藤半七 役員が 後任会長を兼務し、その後処理に努めたが、最終的に 教会施設は差し押さえられ、競売に付されることに。
その後、兄弟教会である 青野原支教会部内の神戸港支教会から派遣された 高田政治郎先生が 会長職を引き継ぎ、懸命に教会再建に努めた。
ある程度 落ち着いたと思ったら、
今後は、上級の茨木基敬会長に神懸かりがあって、上級会長が 本部から解任されてしまった。
親を失った後は 本部直属となり、教会も整理し、体制を立て直し、戦時中の空襲に被災しながらも、懸命に復興に励んだ。
そして、戦後には 大教会にまで昇格した――
こうやって、改めて 大きな流れを辿ってみると、
いや~、本当に、紆余曲折の道を経て今の「岡山大教会」があるのだなぁ…と、しみじみ感じさせられますね。
実に 感慨深いです。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
たとえ断片的とはいえ、多少なりとも 教会の歴史を知った上で、今の「岡山大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「岡山大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。








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