Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号41番「大縣大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号42番「社 大教会」について勉強します。
- 社 大教会(やしろ だいきょうかい)
- 市枝定吉 初代会長の入信(明治17年)
- 山田真明講の結成(明治18年)
- 「大日本天輪教会」設立事件のふし(明治18年頃〜明治21年頃)
- 社 支教会の設置(明治24年頃〜明治25年)
- 神殿建築(明治25年)
- 社の道の広がり(明治26年頃〜明治28年頃)
- 付属建物のふしん〜市枝定吉 初代会長の辞任(明治35年頃〜明治37年)
- 会長職辞任後の市枝定吉の歩み(明治37年〜明治42年頃)
- 支教会から社分教会へ(明治42年)
- 市枝定吉の会長復職(明治43年頃〜明治37年)
- 市枝定雄の4代会長就任前後(大正11年頃〜大正15年頃)
- 教祖50年祭への伏せ込み(昭和11年頃)
- 社 大教会への昇格前後(昭和13年頃〜昭和15年)
- 昭和中期以降、社大教会の動き(昭和17年頃〜昭和38年頃)
- 市枝定一5代会長就任(昭和41年〜昭和46年頃)
- おわりに
社 大教会(やしろ だいきょうかい)

市枝定吉 初代会長の入信(明治17年)
(社 大教会の)初代会長となる市枝定吉は、
兵庫県加東郡 市場村山田78番屋敷に生まれた。ここで鋏鍛冶を本業とし、田地3反の農業を営んでいたが、
30歳の頃より胸を病み、
徐々に病状が進んで 思うように働けなくなった。加えて 明治17年正月、病勢昂まり、
ついに 床につききりの身になってしまった。これより先、
同じ山田村の藤本幸助が、
明治16年 2月、
三木真明講から信仰を伝えられて 入信(していた)。翌(明治)17年 2月(に)、
藤本(幸助)によって 同村(山田村)の 小林栄次郎が入信した。市枝定吉は、数年間の患いで
医者、薬、あるいは 神仏にも頼って治療を求めていたが、
病状は快癒のきざしがみえなかった。そんな時、
小林(栄次郎)から 入信をすすめられたのである。そして、三日三夜の「おたすけ」をしてもらう中に、
病状は拭うように治まった。早速、(明治)17年 2月15日、
小林(栄次郎)と共に 三木真明講の講元・藤村喜代松に話をきいた。これが (市枝定吉)初代会長の入信である。
山田真明講の結成(明治18年)
以来、市枝(定吉)は
「せめて息のある間は 親神を伝えたい」
との一念で 布教に専心した。そして、明治18年 9月、
小林(栄次郎)を講元として
講社20余戸で「山田真明講」を結成した。さらに、翌(明治)19年には、
嫁いだ妹のつながりで(兵庫県)美嚢郡方面に、
また
(兵庫県)加東郡社町、隣接の加西、多紀、多可、神崎の方面にも
布教の足を伸ばした。
「大日本天輪教会」設立事件のふし(明治18年頃〜明治21年頃)
ところが、
この頃起こった 大日本天輪教会設立事件によって、
小林栄次郎 講元は 失脚の止むなきに至り、
それに代わって、
他郷に 同講(山田真明講)として 初めて信仰を伝え、
また この事件に対して
あくまで所信を曲げなかった 市枝(定吉)が推薦され、
同講(山田真明講)の 講元となった。こうして 市枝定吉は、
明治21年 9月26日に「おさづけの理」を拝戴、
同年(明治21年) 10月19日に 教導職試補を命ぜられ、
布教活動に 一層の拍車がかけられた。当時の信徒名簿によると、
発端の(兵庫県)市場村 山田における講を「山田真明講 第1号」とし、
(兵庫県)美嚢郡 吉川村地方に「同(山田真明講) 第2号」、
当時 北方と呼んでいた(兵庫県加東郡) 社地方を「同(山田真明講) 第3号」としている。更に、
(兵庫県) 加西郡、神崎郡 及び 丹波地方に
「同(山田真明講) 第4号」「同(山田真明講) 第5号」が
次々と 結成された。
社 支教会の設置(明治24年頃〜明治25年)
明治24年頃、
播州地方にも 教会設置の機運が高まった。山田真明講においても その話が起こり、
明治25年、まず 設置場所について協議した。その結果、
当時の兵神分教会長・清水与之助の指示もあって、
(新しく結成する教会の設置場所を)
「社村」と決定した。こうして、明治25年 4月21日、
本部へ 支教会設置を出願。信徒900余戸をもって出願した設置願書には、
山田真明講 講元:市枝定吉、
取締役:永井石松、小林栄次郎、井上寅市、五田亀蔵
など 計238名が連署した。(明治25年) 4月24日「おさしづ」を頂き、
同日(4月24日)「教71号、書面願之趣聞届候事、明治25年4月24日、神道天理教会長 中山新治郎」
の許しによって
兵神分教会部内「社 支教会」が誕生した。同年(明治25年) 5月21日、
地方庁の認可も得た。
神殿建築(明治25年)
続いて 神殿建築が開始され、
(明治25年) 6月30日に「旧閏6月21日に地搗き、旧同月28日上棟の願」、
同年(明治25年) 8月11日「地搗き 並に 棟上の日を定める願」
によって許しを得、工事が進められた。同年(明治25年) 10月、
宅地297坪の地に 神殿教堂64坪5合、事務所10坪が竣工し、
同年(明治25年) 旧10月5日に鎮座祭、6日に開筵式、7日に秋季大祭と、
3日にわたる行事が行われた。
社の道の広がり(明治26年頃〜明治28年頃)
(社)支教会の設置によって、
所属各講社も「社支教会 規約」に添い、
それぞれ 出張所と改称された。その後も 教勢は伸展し、
明治26年 5月3日、
加西郡多加野村に 宇仁出張所、
多紀郡篠山町に 青山出張所 (後に 古今味と改称) が設置された。同年(明治26年) 5月19日、神崎郡越知谷村に 越知谷出張所が、
翌(明治)27年 1月20日、美嚢郡中吉川に 中吉川支教会が、
翌(明治)28年 1月22日、有馬郡三輪村に 三神支教会が、
同年(明治28年) 1月23日、多可郡松井庄村に 豊原出張所が、
同日(1月23日)、有馬郡藍村に 摂北出張所が、
同年(明治28年) 3月9日、印南郡平荘村に 原安布教所が、
同年(明治28年) 12月14日、多可郡比延庄村に 比延出張所が
それぞれ 設置された。明治28年 5月5日、
兵神分教会長の指示により、
中吉川支教会を 兵神分教会直轄として 社 支教会から分離。三神支教会、摂北出張所も 中吉川の部内として分離した。
かくして 部内関係が整えられ、
公認教会として 活動が進められるようになった。
付属建物のふしん〜市枝定吉 初代会長の辞任(明治35年頃〜明治37年)
教会設置後 約10年を経て、教勢はさらに伸展した。
そのため 従来の建物では何かと不便となり、
事務所建築の議が起こった。衆議の結果、
教祖殿、事務所、 炊事場、井戸場、受付、客室、便所、土蔵が
一挙に建築された。当初、事務所と炊事場のみを進める予定であったが、
工事中に 土蔵の献納があり、
それによって勇んだ人々は 客室の建築も着手し、
予想外の大きな普請となった。しかし、
勇んで進めた普請であったが、
この建築のため 7千余円の借金が残り、
(市枝定吉)初代会長は
その責を負って 辞任の止むなきに至った。後任には、
当時の兵神分教会長・富田伝次郎の指示により、
その子息・富田米太郎が就任した。明治37年 10月6日付で出願して
翌(10月)7日に 許されている。
会長職辞任後の市枝定吉の歩み(明治37年〜明治42年頃)
これによって、(市枝定吉)初代会長の家族は
兵神分教会に住み込んで 教務に携わるようになった。そして、明治39年 3月より、
兵神部内の夕張出張所(北海道)の事情整理のために派遣され、
前後3年間 現地に滞在して、
困難な事情の中を困窮にたえて 教会事情を治めて帰神した。
支教会から社分教会へ(明治42年)
明治41年に天理教は一派独立し、教規の変更に伴って、
翌(明治)42年 2月10日、
社支教会は 天理教兵神大教会「社 分教会」と改称された。地方庁認可は 同年(明治42年) 3月19日である。
市枝定吉の会長復職(明治43年頃〜明治37年)
明治43年 7月、
教会本部から 社分教会を訪れた増野正兵衛の話により、
役員の協議がなされ、
再び 市枝定吉を会長に迎えることになった。同年(明治43年) 9月22日、
再度、 (市枝定吉の会長) 就任が許された。それによって
沈滞した気運は 徐々に刷新され、
大正初期までに 7カ所の教会が設置されている。(社)支教会 創立後に 計25カ所が設置されたことになる。
市枝定雄の4代会長就任前後(大正11年頃〜大正15年頃)
大正11年 1月、
教祖40年祭への活動が発表され、全教挙げての活動が始まった。その最中、
市枝定吉 会長は (兵神)大教会に専務することとなり、
大正13年1月30日、
(社分教会)4代会長に 市枝定雄が就任した。(市枝定雄)新会長は、
既に 就任前から年祭活動の中心に立ち、
「教勢倍加」の運動を熱心に進めた。そして、
大正15年の教祖40年祭までに 52ヵ所の部内教会が新設され、
教勢は 3倍加した。
教祖50年祭への伏せ込み(昭和11年頃)
教祖50年祭(昭和11年)・立教100年祭(同12年) の活動として進められた本部の昭和普請には、
兵神大教会を通して 跳木(はねぎ) 用材 18本を献納した。これは 長さ48尺、末口1.8尺以上の赤松直材で、
伐採、搬出など いろいろ苦心はあったが、
神殿、御用場に使用されたのは
社の信仰者にとって 望外の喜びであった。
社 大教会への昇格前後(昭和13年頃〜昭和15年)
昭和13年 3月12日、
2代真柱が 社分教会に初めて来会、
教会長信者の喜びも一入であった。昭和14年、諭達第8号に示される教会制度改正によって、
社分教会は 兵神大教会から分離し、
(社)大教会に昇格した。当時の教勢は
部内教会82ヵ所、教師613名、信徒戸数8,857戸である。翌(昭和15年) 1月28日付で 教会本部の許しを得た。
同年(昭和15年) 12月17日、2代真柱により 鎮座祭が、
翌日(12月18日)には 昇格奉告祭が執行された。
昭和中期以降、社大教会の動き(昭和17年頃〜昭和38年頃)
昭和17年 4月10日、
本部から 松村吉太郎本部員を迎えて
教会創立50周年記念祭を執行。昭和20年 12月、
天理市内に 府内大教会信者詰所の一部を譲り受けて「社詰所」を設置、
同(昭和)24年に 完成している。昭和28年 10月1日、
2代真柱を迎えて お社を取替え、神殿の一部を改修した上、
翌(10月)2日 創立60周年記念祭を執行した。昭和34年、
市枝定雄(4代)会長の病気から 大教会移転建築の気運が起こり、
翌(昭和)35年 7月に 本部の許しを得た。敷地12,600坪の地に、
神殿(総檜造り、約250坪)を中央にし、
教職舎外 約20棟の工事が進められた。3年後(昭和38年)に完成し、
昭和38年 6月4日、
2代真柱を迎えて 鎮座祭が、
翌日(6月5日)には
移転建築落成奉告祭 及び 創立71周年記念祭が 執行された。
市枝定一5代会長就任(昭和41年〜昭和46年頃)
昭和41年 3月26日、
市枝定雄(4代)会長の後をうけ
子息・(市枝)定一が (社)大教会長に就任。同年(昭和41年) 5月4日に 2代真柱を迎えて 就任奉告祭を執行した。
昭和44年 1月27日、宇仁分教会が分離した。
同(昭和)46年 5月4日、
真柱を迎えて創立80周年記念祭が執行された。〔現住所〕〒673-1421 兵庫県 加東市 山国2004番地45
〔電話〕0795-42-0109(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,837〜839)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
42回目の今回は、
「社 大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】42回目の当記事では
『天理教事典』の中の「社 大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
社 大教会は、兵神大教会から分かれた大教会ですね。
兵神大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

社 大教会は、
小林栄次郎先生を講元として結成された「山田真明講」を母体とし、
全教的な教会設置運動の流れを受けて、
そこから発展・誕生した教会なのですね。
しかし、
その「山田真明講」設立時の講元であった小林栄次郎先生が、
「大日本天輪教会設立事件」によって失脚してしまわれた。
「大日本天輪教会設立事件」って何?
わからないので調べてみました。
すると、
『天理教事典』(1977年版)の中に
「大日本天輪教会」の解説があるのを見つけました。
以下に引用します。
【大日本天輪教会】
迫害対策の一環として、
教会公認の機運が高まった明治17年(1884)ごろ、
大日本天輪教会の名のもとに、
全国的組織を作り公許を願う計画がなされた。これは、
大阪における代表的講組織の信者が中心となって作られていた心学道話講究所を、
さらに発展して、全国的規模に広げようとしたものであった。この代表者は、竹内未誉至、森田清蔵であったが、
彼等の計画は、彼等を中心とした全国的組織であったため、
教祖の許されないところであった。明治18年(1885) 3月7日(旧 正月21日)、
教祖から 次のようなお言葉があった。「さあ/\ 今なるしんばしらは ほそいようなものやで、
なれど 肉の巻きよで、どんな ゑらい者になるや わからんで。」万事、真柱を中心に事を運ぶよう 諭されたのである。
(『稿本天理教教祖伝』277頁)その結果、初代真柱を中心に 公認運動が展開されることになった。
(『天理教事典』(1977年版)P,472〜473)
明治17年頃、
天理教に対する迫害から逃れるための教会公認運動から生まれた組織が「大日本天輪教会」。
社 大教会の母体である「山田真明講」の講元であった 小林栄次郎先生は、
その「大日本天輪教会」に関わっておられた。
しかし、
その「大日本天輪教会」は おやさまの思いに添うものではない、
と おやさま直々のお言葉で明確になった。
その運動との絡みで 小林栄次郎 講元は 退任され、
市枝定吉先生が 新たな講元となられた。
その 市枝定吉先生が講元の時に 全教的に 教会設置運動が盛んになり、
その流れを受けて 山田真明講が「社 支教会」となった…
そういう流れだったのですね。
当時の先生方が、
教えが伸び広がるに伴って激しくなる 社会からの迫害攻撃をかわすために如何に苦心なされたか…
また、そのための「方法論」の部分で
様々な人間思案が入り混じって、
現象面というか リアルな面で どれ程 混乱していたか…
というのが 伝わってきます。
今回、社 大教会 初期の歴史を勉強させて頂く中で、
私は、気がつくと、
その 市枝定吉 初代会長の歩みに 関心が集中していたのでありました。
市枝定吉先生の波乱万丈の生涯――
市枝定吉先生は、
山田真明講創設時の「長」が退任した後を受け「長」となられた。
その後、山田真明講は 時代の流れに乗って「教会」となり、
教勢進展により 組織は拡大。
それを受け、付属建物建て替えの普請を実施。
そうしたところ、人々の勇みが大きく、
その勇みは 普請の動きを 想定を越えて増幅させることとなり、
勇ましい言動というのは 往々にしてブレーキが効かなくなるもので
(この部分は私の勝手な推測です…)
気がつけば 普請が当初の予定を遥かに超えた規模に…
その結果、抱えてしまった多額の借金。
なんと 市枝定吉先生は、
明治37年に 辞任のやむなきに至ってしまわれた。
その後、市枝定吉先生は
ご家族と共に 上級・兵神分教会に住み込んで 教務に携わることに。
その中で、明治39年からは、
兵神部内の夕張出張所(北海道)の事情整理のために派遣され、前後3年間 現地に滞在。
そして、困難な事情の中を 教会事情の整理に奔走したりもされた。
そのような具合で、
市枝定吉先生は このまま一信者として 上級教会のご用をつとめていくかの如き状況だった。
ところが、ご本部の増野正兵衛先生から
再び「社 分教会」の教会長へ復職するお話が…
役員一同とも協議の結果、
辞任から6年後の 明治43年に、
なんと市枝定吉先生は、再び教会長へ復職!!
その後「社 分教会」は
兵神から分離独立し 大教会となり、
再び 市枝定吉先生を会長とし、大きな飛躍を遂げられた――
…以上、市枝定吉 初代会長の経歴を ザッと眺めてみましたが、
その表面をなぞるだけでも、
本当に 紆余曲折の道中であられたことがわかります。
そのような大変な中でも、この道ひとすじに歩まれた 市枝定吉先生。
その原動力は 何だったのでしょうか。
私には月並みな想像しか浮かび上がってきませんが、
それは やはり、寝たきりに近かった身上をたすけて頂いたことの喜び、
それに尽きるのではないか…
という気がします。
30歳頃から胸を病んで思うように働けなくなり 床につききりだった状態から
徐々に活動できるような体にご守護頂けた喜びが いかほど大きかったものだったのか…
そのことを示している、とも言えそうです。
今回の「社 大教会」の勉強を通して、
波乱万丈の道中であっても たすけられたご恩を忘れることなく この道を歩み続けた 市枝定吉先生の如く
――「元一日」を忘れないようにしていきたい――
改めて、
そんな気持ちが湧いてくるのでありました。

その他にも知らないことばかりでしたが、
今回もまた、
書き写しを通して いろいろと知ることができ、とても勉強になりました。
有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「社 大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。









































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