Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号83番「洲本大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号84番「錦江大教会」について勉強します。
- 錦江大教会(にしきえ だいきょうかい)
- 寺門きみ初代会長を育んだ寺門家
- 寺門家の入信
- 寺門宗太郎の出直し(明治29年)
- 寺門きみの入信(明治30年)
- 寺門きみの熱烈布教の始まり(明治30年過ぎ〜明治35年頃)
- きみ、夫・岸本辰雄の大反対を乗り越えての信仰生活(明治35年頃〜明治38年頃)
- きみ、夫・岸本と絶縁状態に(明治38年頃)
- 寺門きみ、本格布教生活の始まり(明治38年〜明治40年頃)
- 錦江布教所の開設、支教会へ改称(明治41年)
- 積極的布教活動の展開(明治41年頃〜明治43年頃)
- 錦江による関東大水害 救援活動 〜 錦江の道の広がり(明治43年頃)
- 寺門きみと元夫・岸本辰雄との和解(明治45年頃)
- 裏町から大通りへの移転、関東大震災被災 〜 復興、分教会への昇格(大正12年頃〜昭和3年頃)
- 失業者への社会福祉活動(大正末期〜昭和初期)
- 寺門きみ初代会長の出直し(昭和6年)
- 岸本よね2代会長の就任(昭和7年)
- 麹町大教会から分離 〜 錦江大教会へ昇格(昭和10年〜昭和16年)
- 寺門敏雄3代会長の就任、岸本よね2代会長は詰所主任へ(昭和18年)
- 終戦前後(昭和20年頃〜昭和23年頃)
- 寺門敏雄3代会長の出直し 〜 寺門ゆき4代会長の就任(昭和30年)
- 『錦江大教会史』出版 〜 錦江大教会 教祖70年祭(昭和30年〜昭和34年)
- 岸本よね2代会長の出直し(昭和34年)
- 神殿ふしん(昭和34年〜昭和37年)
- 教祖80年祭活動(昭和37年頃〜昭和41年)
- 昭和40年代の動き
- 寺門忠次5代会長の就任(昭和48年)
- おわりに
錦江大教会(にしきえ だいきょうかい)

寺門きみ初代会長を育んだ寺門家
錦江初代会長、寺門きみは、
文久3年 (1863) 9月6日、
寺門 佐兵衛と すゞ との長女として、
後の 東京日本橋 青物町 (元 白木屋の裏手) に 呱々の声をあげた。寺門家は、元・水戸の住人であり、
名字帯刀を許され、大黒屋と号して 水戸上市泉町で、代々 呉服商を営んでいた。父・(寺門) 佐兵衛の代に至って、江戸住まいになった。
寺門家の入信
寺門家は、きみの弟・宗太郎が戸主となって(から)、
(元々は) 薬種商を本業としていたが、
将来、印刷業・製本業が 必ず 隆盛になるとの見透しをつけた (寺門)宗太郎は、経験は何も無かったが、製本業に 転業を決意。
そして、神田錦町に工場を起こし、その後、駿河台下神保町に 移転営業を開始した。しかし、営業開始間もなく (寺門宗太郎が) 突然発熱。
しかも、高熱で 医師よりチブスと宣告された。一家(の) 心配やまぬ中、
(寺門家一家は、縁あって) 近隣に住む 降旗つね (麹町信者) より 天理教の話を聞く(こととなった。降旗つねから 天理教の話を聞き、深い感銘を受けた) 両親は、ただちに 入信を約束した。
(寺門佐兵衛・すゞ夫妻より入信の決意を聞いた) 降旗(つね)は、
即日 神様を風呂敷包にして持参し、寺門家に遷座した。
寺門宗太郎の出直し(明治29年)
しかし、その後も (寺門)宗太郎の病状は日に日に悪化。
明治29年 (1896) 2月8日、(ついに) 入院することとなり、
病院に移送(の) 途上、快癒の願いもむなしく (寺門宗太郎は) 出直した(のだった)。
行年26歳であった。その後、(寺門宗太郎の姉の) きみも なんとなく健康がすぐれず、病院通いの日が多くなった。
(そのような状況下にあって、きみは) 弟(寺門宗太郎) の病気の際、実家に遷された神様のことを思い出し、時々 参拝するようになった。
(時々 実家に遷座された神様の元へ参拝するようになった きみであったが)
初めの頃は、神前の水玉を見て 天理教を 稲荷に類した信仰のように感じ、
(きみは、実家・寺門の) 両親等と共に入信はしなかった。
寺門きみの入信(明治30年)
(そのような きみであったが、紆余曲折の末、両親の入信から) 約1年おくれて、明治30年(1897) に(天理教に) 入信することになった。
(入信に至る大まかな経緯は以下の通りである。)
きみは、天理教入信前から「淘宮術」を学び、免許まで受けていたほどであった。
また、元来、(寺門の)父母共々 信仰心厚く、今戸の聖殿に深い信仰を持っていた。きみは、自らが免許を受けていた「淘宮術」を通し (その術が洗練されるに伴っ)て、自分自身が 晩年に悲境におちる運命であることを悟った。
きみは、この術(淘宮術) によって、自分自身の将来の運命を悟ることは出来た。
しかし (残念ながら、淘宮術によっては) 運命の転換を望むことが 不可能であった。(なまじ、先を見通す目を手に入れ、その先に苦悩が待ち受けていることが見えてしまったきみにとって、それへ対処する手段を何一つ持たないまま 座してその日を待つことの悲しみは、並々ならぬものがあった。)
(将来への大きな不安でいっぱいの きみであったが)
(天理教の話を聞く中で) 天理教信仰によれば、運命の切り開きも神の力において出来る、ということを 教義の上から聞いた。(きみは、重ねて天理教の教理を聞く内に) 天理教の信仰によって一切を解決できる、ということを深く信ずるようになった。
(そして、きみは この道を歩む決意を固めたのだった。)
寺門きみの熱烈布教の始まり(明治30年過ぎ〜明治35年頃)
その後、きみは 布教專務に進む決心を固めた。
すると、それと共に 数年来の病気が、不思議にも 全快した(のだった)。(それにより、きみの) その(信仰)信念は いよいよ固く(なり)、
(より一層) 布教に専心するようになった。そして、明治35年(1902) 3月10日、(きみは) おさづけの理を拝戴した。
教義に感じると共に 病気のあざやかな平癒を受け、きみの信仰心がいよいよ深まって、神田界隈で 布教を始めた。
きみ、夫・岸本辰雄の大反対を乗り越えての信仰生活(明治35年頃〜明治38年頃)
しかし、(きみの) 主人・岸本(辰雄)は 天理教の理解なく、また このような人々との交際を大層嫌い、
きみに きびしく交際を取り止めるよう 申し付けた。(しかし) 一度 親神に誓った きみの心は 主人(岸本辰雄)の言葉にも動かされることはなかった。
(きみは) 反対の中をも押し切って、信仰の道を進むことになった。明治38年、きみは 思案の末、静養にことよせて 大森海岸に転地して 主人(岸本辰雄)と離れ、天理教の布教に奔走した。
(きみが) この大森に静養中に にをいがけをした守屋家が、現在、大森町大教会の一家である。
(きみは) 守屋すゞと共に布教に専念し、(それによる)入信者(の中)には、現在 大森町部内の教会長となっている人々もある。
きみ、夫・岸本と絶縁状態に(明治38年頃)
(そのように布教に励んでいた きみであったが) 静養にことよせ布教をしていることが (ついに) 主人(岸本辰雄)に知れ(るところとなった。)
(その結果) きみは 主人の怒りにふれ、絶縁となった。(夫から絶縁を告げられるに至ってしまった きみであったが)
このことによって、きみの布教熱は 一層 高まった。
寺門きみ、本格布教生活の始まり(明治38年〜明治40年頃)
明治38年、(きみは) 大森より 再び 東京神田錦町に帰り、
砂糖商・密岡家の 離れ 6畳間を借受けて、本格的布教にかかることになった。これから数年間が (寺門)きみの生涯のどん底生活である。
(きみが錦町に帰る前年の) 明治37年、(きみの実家の) 寺門家が、前戸主の死亡などによって寺門家に戸主となるべき人がない状態となった。
(その状態を受けて) (寺門)きみは、42歳にて寺門家の戸主となり 親のあとを継いだ(のだった)。明治40年(1907)、(寺門きみは) 神道本局の講習を受けて教導職試補となった。
錦江布教所の開設、支教会へ改称(明治41年)
(寺門きみの 熱烈布教により 日に日に信者は増え、
ついに) 同(明治)41年、教会設置を出願(するに至った)。(明治41年) 3月5日 (天理教教会本部の)許しを受け、7月24日(には) 地方庁の認可を受けた。
(同年) 明治41年、天理教は一派独立となり、
それに伴って、(その後) 錦江(布教所)は、3月11日付で 支教会に改称となった。
積極的布教活動の展開(明治41年頃〜明治43年頃)
(寺門)きみの前夫・関根吉蔵が、この年 56歳をもって出直した。
(その結果) その資産を、一子・豊松が受けることに 裁判を経て決定した。(それによって) (寺門)きみは 思わぬ大金を入手し(たので、それを元手に) 三崎町に家を購入。
(そして、そこを拠点として 積極的に布教活動を展開した。)布教師には 毎日1円50銭の弁当代を持たせて布教に出し、
また一方、後藤たけ、松川、篠原などの布教者に(は) 土産物を持参させ、鐘淵紡績、モスリンキャラコ工場などに 工場布教をするようになったのは、この頃からである。
錦江による関東大水害 救援活動 〜 錦江の道の広がり(明治43年頃)
明治43年(1910) の関東大水害の際には、
信徒である材木商・雨宮に命じて 2隻の角船を急造させ、連日 天理教の旗を立て、(東京)市の救援の手の伸びない所にまで救援に向かった。
このことは、前記・工場布教と共に、下町への布教の素地となった。また一方には、
木下吉之助、古筆了太などの信者が協力して、錦江救護所を開設し、患者の救護にあたった。患者(の救護治療)は、管野医師が一手に引き受けていた。この 木下吉之助などの入信と相まって、
市村座主・坂田、宮戸座主・山川、沢村兄弟、藤沢源之助…等 その他 劇界へ教えが伝わったのもこの時代である。
浅草吉原遊廓共越楼主・田村国次郎が入信して廃業したのも、またこの時代である。(そして) この頃(から)、東京近郊より静岡方面へと道が開けて行った。
寺門きみと元夫・岸本辰雄との和解(明治45年頃)
(寺門きみの布教生活も) どん底を過ぎ、教えは 次第に発展の一路を進んだ。
このような状態をみて、絶縁していた主人・岸本(辰雄)も、天理教を自然に理解するようになり、子供と母との文通を許すようになった。
(かつて、きみに絶縁を告げた 岸本辰雄であったが) 信仰の偉大さに今更ながら感ずるところあってか、明治大学にも宗教をとり入れたいと希望する程に(まで)なった。 (岸本辰雄は明治大学創立者であった)
(岸本辰雄は) 子供の将来を (寺門)きみに依頼して、明治45年4月4日 出直した。
裏町から大通りへの移転、関東大震災被災 〜 復興、分教会への昇格(大正12年頃〜昭和3年頃)
このようなことから、
(寺門きみは) 広池千九郎博士をはじめ、東京在住の弁護士の多くを月島の別宅に招き、天理教の教義を説明したりした。(そのようにして幅広い交流関係を活かして高山への伝道活動の上に活躍していた寺門きみであったが) 大正から昭和にかけ 病の身となり、日常 床に伏すことが多くなった。
(けれども) 天理教を思う心は ますます深く(なり)、天理教教会の所在が多く裏町にあることを嘆き、帝都大通りに面して教会の看板をかけて 道を通る者に「ここに天理教ありとにをいがけしたい」との思いを表出するようになった。
大正12年(1923) (ついに)その望みはかなえられ、錦町3丁目裏町より 現在の錦町1丁目 電車大通りに面する場所へ移転した(のだった)。
移転後(まもなく)、(大正12年9月1日の関東)大震災で (教会施設が)焼失してしまうという節に遭遇したが、(一同力を合わせて) 昭和3年(1928) に教会は復興。
次いで、支教会より分教会に昇格した。
失業者への社会福祉活動(大正末期〜昭和初期)
(大正末期〜昭和初期) 当時の世情は、失業者が非常に多く(町にあふれているような状態であった。)
(そのような不安定な社会情勢を受けて、錦江分教会は) 失業者のため、夕食ににぎり飯を振る舞った。(その活動は地域の評判となり) 夕刻には 教会裏に行列が続いた(ほどだった)。
(それは、寺門きみ) 初代会長(の)晩年を飾る おたすけ活動の一つであった。
寺門きみ初代会長の出直し(昭和6年)
昭和5年12月31日、
(寺門きみは) 世間は不景気というのに天理教はなんと有難いものか…と喜びつつ、
(いつも通り) 夜遅くまで布教師に仕込みを行ってから 眠りについた。(寺門きみの体の異変は) (その)翌朝 (元旦)、突然 現れた。
(突然の意識障害により倒れたのである。)(緊急診察を受け) 診断の結果、(寺門きみは) 脳溢血と診断された。
(危険な状態であった)が、充分の手当(と一同の真剣な祈り)によって、(寺門きみは) 元旦の つとめの賑いに気がつき (意識は回復した。)一時は、(これで)安泰かと(胸を撫でおろしたが) この発病が元となり (また)老衰もあって、
(昭和6年) 1月6日、大祭の式が終わり 御礼つとめを勤めた後、
(寺門きみは) 眠るが如く、(波乱万丈の) 一生を閉じた。
享年69歳、(教会長) 在職 27年であった。上級・麹町では、生前の功労によって 教会葬として、
(昭和6年) 1月13日、告別式が盛大に行われた。
岸本よね2代会長の就任(昭和7年)
(寺門)きみの出直により、
(昭和7年) 岸本よねが 2代会長に就任した。
岸本よねの経歴
岸本よねは、岸本辰雄と きみの長女として、
明治17年10月4日 誕生。神田淡路町 女子尋常高等小学校 卒業。
明治37年、21歳の時、岐阜県の栗田武兵衛 3男・貞三と縁組。
長女・ゆきを産み、間もなく離婚。
明治39年 4月16日、岸本家に復籍し、天理教専務を定め、母親・きみと共に布教に従事した。
大正2年10月30日、おさづけの理拝戴。(そして) 昭和7年(1932) 7月22日、2代会長に 就任したのである。
その後、昭和9年10月、(天理教)教会本部 詰員となっている。
麹町大教会から分離 〜 錦江大教会へ昇格(昭和10年〜昭和16年)
昭和10年5月23日、
錦江は 麴町大教会より分離、天理教 錦江分教会と改称。同年(昭和10年) 5月28日には、
信者詰所を開設した。更に、昭和16年3月25日、
大教会に昇格した。
寺門敏雄3代会長の就任、岸本よね2代会長は詰所主任へ(昭和18年)
昭和18年10月、
(岸本)よねは、会長(職)を寺門敏雄に譲り、
自ら(は) 信徒詰所主任となった。
寺門敏雄3代会長の経歴
3代会長・寺門敏雄は、
明治30年6月2日、押尾繁造・いと子の長男として、静岡県島田市で誕生。
同市(島田市) 小学校を卒業後、東京市麹町日本中学を卒業。大正4年より、静岡県島田市 及び 焼津方面の郷里に 単独布教を開始。
大正6年 入隊、同(大正)9年 従軍。
大正10年 帰還後、ただちに静岡県下に再度布教に出た。
大正13年、錦志宣教所を設置。更に、錦行・錦明を設置。
また、大正15年には、錦道・錦春を設置するなど、専ら 静岡県下に麴町の伝道線を伸ばした。(押尾)敏雄は、大正15年、(寺門きみ) 初代会長の養嗣子・ゆきと結婚。寺門家を相続(した)。
昭和6年には、錦志宣教所長を辞任して、専ら 錦江(分教会)の 教務事務を担当した。昭和18年、命ぜられ、南方諸地域を視察。
同年(昭和18年) 帰国、この年の10月28日に、(錦江大教会)3代会長に就任した。
終戦前後(昭和20年頃〜昭和23年頃)
昭和20年2月25日、戦災により (錦江)大教会 焼失。
このため、仮神殿を建築。
昭和22年4月4日、仮神殿 建築復興奉告祭を執行した。(寺門)敏雄(3代会長)は、
昭和23年10月1日、東京都 神道教会連合会 理事長に就任している。昭和27年4月24日、神殿増築の許しを受けて完工した。
寺門敏雄3代会長の出直し 〜 寺門ゆき4代会長の就任(昭和30年)
昭和30年(1955) 9月6日、
3代会長・寺門敏雄が、59歳で出直した。このため、
寺門ゆきが (昭和30年) 9月26日、4代会長に就任した。
『錦江大教会史』出版 〜 錦江大教会 教祖70年祭(昭和30年〜昭和34年)
昭和30年12月15日、
『錦江大教会史』を編纂して、出版配布した。昭和31年5月6日、
(錦江)大教会 教祖70年祭を執行した。
岸本よね2代会長の出直し(昭和34年)
昭和34年1月14日、
2代会長・岸本よねが、享年76歳にて 出直した。
神殿ふしん(昭和34年〜昭和37年)
昭和34年、神殿建築の議が具体化し、
同年(昭和34年) 10月26日、神殿建築の許しを受けて着工。昭和36年 3月6日、第1期工事竣工。
同年(昭和36年) 6月21日、第2期工事 神殿地鎮祭を執行し、
昭和37年 8月30日竣工した。
この神殿は、鉄筋コンクリート、鉄骨造陸屋根 地下1階地上6階建である。同年(昭和37年) 10月2日、神殿落成鎮座祭、
翌(10月)3日、神殿落成奉告祭を執行した。
教祖80年祭活動(昭和37年頃〜昭和41年)
教祖80年祭(=昭和41年執行) を控えて、
昭和37年12月7日、たすけ委員長・中山善衛 (3代真柱) の巡教を受け、部内信者一同、たすけ一条に邁進することを誓った。翌(昭和)38年 3月9日、第1回 部内後継者の集いを組織し、おぢばがえりを実施した。
同年(昭和38年) 5月には、第1回 自家用車団体 出発。(昭和41年1月26日〜2月18日、天理教教会本部にて教祖80年祭執行)
昭和41年 5月14日、錦江大教会 教祖80年祭を執行。
昭和40年代の動き
同年(昭和41年) 10月9日、よのもと会・錦江会結成総会を開催し、
昭和43年1月21日、少年会錦江団結成式を行った。昭和43年10月28日、増築願の許しを受けて、
翌年(昭和44年) 3月6日、増築工事にかかり、
昭和44年 10月6日、竣工した。昭和47年 6月4日には、(寺門きみ) 初代会長40年祭を執行した。
寺門忠次5代会長の就任(昭和48年)
昭和48年 9月26日、
5代会長に寺門忠次が就任。同年(昭和48年) 12月15日、
(5代)会長 就任奉告祭を執行した。〔現住所〕〒101-0054 東京都千代田区神田錦町1丁目11番地
〔電話〕03-3293-9366(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,651〜653)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
84回目の今回は、
「錦江大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
錦江大教会は、麹町大教会から分かれた大教会ですね。
麹町大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】84回目の当記事では『天理教事典』の中の「錦江大教会」についての記述を書き写麹町たわけですが、今回も、本当に知らないことばかりでした。
『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中に、東京方面の章があり、その中に「麹町の流れ」という節があり、その中に錦江大教会も含めた「麹町大教会」に関しての記述がありました。
錦江大教会以外の教会に関する内容が多く含まれていて少し長い文章になりますが、自己覚え書きとして そのまま書写します。
麹町の道は、
兵庫県城崎町から 明治二十五、六年ごろ、
妻の叔父にあたる 貴族院・久保田護を頼って上京した 岸本唯之助(天地組=北)が、麹町区三番町(靖国神社付近)に居を構えて始めた道である。淘宮術を行う 板倉喜代平が入信、その仲間に 道が広まった。
二十七年、本郷区東竹町に住む久保治三郎(麹町三代)一家が流感で病臥していた時、淘宮術仲間が 道の信仰を勧めに来た。三十年、水屋敷事件が起こり、岸本も板倉も水屋敷に走った。
その上、本郷 春木の大火で焼け出され、治三郎は 本家の蔵の中に 仮住まいした。そこへ 上級・北分教会の茨木基敬(麹町二代)が大阪から来て、麹町復興を要請した。
治三郎は 麹町支教会を移転し、その後は 衣類もなく 食事も事欠く中で 布教した。日本橋 青物町に住む 寺門家は、事業不振のころ入信。
きみは 蒲柳の質で、本郷 湯島にあった 治三郎の家へ 詣るようになった。
治三郎から「おたすけが一番神様にお喜びいただける」と 諭された。きみは 以前、日本橋 金吹町の 関根吉蔵に嫁いだが、その家に自殺者が出たことから、十八歳の 若妻・きみは 身重のまま 実家に引き取られ、長男・関根豊松(大森町二代・麹町系愛町初代)を産んだ。
岸本辰雄(明治大学 創設者)と二度目の結婚をしたが、夫は、悪臭つく貧民街に入っていく布教師・きみを 喜ばなかった。三十八年、静養にことよせて 大森海岸に転地した時、弟・知久徳次郎の 妻の実家である守屋家へ、麹町の 久保信子を案内して 道を伝え、守屋すゞが 熱心になった。
きみは、神田 錦町に戻ってから 本格的な布教を開始。
四十一年、錦江布教所を設置した。大森町に 麹町の 久保清次郎夫妻が派遣され、三十三年、雨乞いづとめを行って降雨をみた。
清次郎の後、大正十二年、布教に来ていた 関根豊松が 二代会長を担任したが、突然、愛知県下に布教に出たため、守屋すゞが 三代会長になった。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,110〜111)
最初、『天理教事典』「錦江大教会」解説文の書き写しではよくわからない部分がかなりありましたが、
『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中の、上記「麹町の流れ」の記述を併せ読むことで、少し流れをイメージすることが出来るようになりました。(^^)
それらの資料によると、
まず、寺門きみ 初代会長の実家の 寺田家が入信して、
その後、淘宮術等との絡みもあり様々思うところがあって、きみ初代会長ご自身の入信に至られた、という流れなのですね。
今回の勉強を通して、
どうやら、初期「麹町の道」のカギは「淘宮術」の中にもあったのだ、と知りました。
「錦江大教会 麹町大教会」でネット検索する中で、そのことを裏打ちする情報として 以下のような文章も見つけました。
麹町 初期の信仰者には 開運修行の一つである 淘宮術 の仲間が多かった。
天理教の話を聞くようになると、
(天理図書館 天理文献室・早田一郎「天理教伝道史の諸相(10)〜東京の天理教」より)
術によって自分の運勢を開くより、天の理を知ってこそ 人の心や世の中の真理が分かる と、こぞって天理教に入信したと いう。
そういえば、以前「麹町大教会」の勉強をした際にも、似たようなことが書いてありました。
明治25年(1892) 頃、
兵庫県 豊岡市結村 (むすぶむら、玄武洞の近く) から
岸本唯之助 (通称 可賀美) が東京に出て、
麹町区三番町11番地に居を構えて 布教を始めた。初めは信者が出来ず 大変困った。
それで 呉服物の行商をしながら 埼玉まで歩き、
(埼玉県) 蕨町の 板倉喜代平が 信仰に入った。この人は 織物製造を業とし 傍ら 淘宮術 をやっていたが、
(岸本)可賀美の「さとし」に悟るところあり、
淘宮術 を捨てて 天理教に入信した。忽ち、板倉喜代平 を通して、
(さまよいブログ > 天理教 各教会の歴史探索(第25回)【麹町大教会】より)
近在の織物業の仲間や 淘宮術 をよくする人達、親しい人々に
天理教の教えが広まった。
当時「淘宮術」を学び修めていた人々の中から天理教へ進む人があり、「淘宮術」コミュニティの中で天理教が広まり 入信者が続いた――
その方々が中心となって 麹町大教会の母体となる講社が結成され、それが後に 麹町大教会へ発展した――
つまり、初期の麹町大教会には「淘宮術」に造詣の深い方が多く居られた――
そういうことですね。
麹町大教会の元一日を考える時、「淘宮術」というものは、キーワードの一つとして外せなさそうです。
では、「淘宮術」とは一体どのようなものなのでしょうか。
ネット検索してみました。
【淘宮術】(とうきゅうじゅつ)
淘宮術(とうきゅうじゅつ)は、
天保5年(1834年)に横山丸三(まるみつ)が創始した開運のための修養法で、
「淘」はよなげる、洗い清めるの意、「宮」は心の宿るところ、すなわち 人体を表す。
人は生まれつきの癖を洗練することにより、淘げのできた心、すなわち本心が顕われ、生まれつきの運命を改善できるとし、気質の偏りを矯正して 幸福な人生を過ごすよう修養する。
(Wikipedia > 淘宮術 より)
「淘宮術」というのは、開運のための修養法の一つだったのだ、と知りました。
寺門きみ初代会長は、「淘宮術」を修めることによって、将来のことが見えるようになってきた――
けれども、淘宮術によっては運命の切り替えが出来ず、その道の限界を感じるようになられた――
そんな折、運命を切り替える道を示してくれる天理教の教えを知り、この教えこそ真にたすかることの出来る道だと確信して、この道に飛び込んでこられた――
そういうことだったのですね。
私は、麹町系の教会に対して、どことなく神秘的というかミステリアスな雰囲気を感じていたのですが、それは
〝麹町系の教会は「淘宮術」という、今でいうところの「スピリチュアル」的な世界の研鑽を重ねていた方々を中心としたまとまりから始まった”
という 元一日による部分も かなりあるのかなぁ… 等と 思ったりもしました。

今回、錦江大教会の勉強をする中で最初に驚いたのは、所在地が【皇居】のすぐご近所だという点でした。
グーグルマップやアップルマップで検索したら、本当に【皇居】のすぐ横‼︎
田舎者の素朴な反応として、単純に「すごい所にあるんだなぁ…」と驚きました。
本文の中に、
(寺門きみ初代会長は) 大正から昭和にかけ 病の身となり、日常 床に伏すことが多くなった。
(けれども) 天理教を思う心は ますます深く(なり)、
天理教教会の所在が多く裏町にあることを嘆き、帝都大通りに面して教会の看板をかけて 道を通る者に「ここに天理教あり と にをいがけしたい」との思いを表出するようになった。大正12年(1923) (ついに) その望みは かなえられ、
錦町3丁目 裏町より 現在の 錦町1丁目 電車大通りに面する場所へ 移転した。
とありました。
【皇居】のすぐ近所に教会が存在するという現象も、
まずは 寺門きみ初代会長の強い思いがあって、その思いが形になったものの一つ、
ということなのでしょうね。

そして その他にも、今回も また知らないことばかりでした。
有名な 愛町分教会初代会長の 関根豊松先生は、寺門きみ 錦江大教会 初代会長の ご子息であられた、ということ。
天理教内で知らない人はまず居ない と思われる 関根豊松先生ですから、天理教初級者の私でも 関根豊松先生のお名前は 知っておりました。
ただ、その関根豊松先生の ご母堂が 錦江大教会の初代会長だということは、(天理教にある程度詳しい方にとっては周知の事実なのでしょうが)お恥ずかしながら 知りませんでした。
知ったから どう…ということでもないのは わかっておりますが、
いつも書いております通り、今まで知らなかったことを知ると 誰かに話したくなるものでありまして…
殊更に、ここに 書かせて頂いた次第であります (^^ゞ

また、寺門きみ 初代会長の 二度目の結婚相手である 岸本辰雄先生は「明治大学」の創立者だということ。
これまた、全く 知りませんでした。
というか、岸本辰雄 という先生が どのような方なのか、私は 全く知りませんでした。
なので、これも ネット検索してみました。
岸本 辰雄(きしもと たつお)
岸本辰雄は、
1851年11月13日(嘉永4年10月19日)~1912年(明治45年)4月4日)は、日本の法学者。明治大学の創設者。【来歴】
因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に鳥取藩士・岸本平次郎の三男として生まれる。幼名、辰三郎。当初藩校尚徳館で蘭式兵法を修める。
戊辰戦争に従軍後、1869年(明治2年)、箕作麟祥の共学塾に入門。
翌年、貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学)に入学。
1872年(明治5年)、新設の司法省明法寮(後に司法省法学校)に第一期生として入学。
ジョルジュ・ブスケ、ギュスターヴ・エミール・ボアソナードらにフランス法を学び、1876年(明治9年)卒業。同年、宮城浩蔵・小倉久とともにフランスに留学。
民法典をビュフノワール、ローマ法をポール・ジイド(ノーベル賞作家アンドレ・ジイドの父)、民事訴訟法をカルソネの下で学び、パリ法科大学でフランス法律学士の学位を取得。
1880年(明治13年)に帰国後、判事任官、東京大学法学部講師、太政官御用掛等。判事の傍ら1881年(明治14年)1月17日、有楽町数寄屋橋の旧島原藩上屋敷(松平主殿頭家(とのものかみけ)旧邸、現在の千代田区有楽町数寄屋橋交差点そば)において、宮城浩蔵、矢代操らとともに明治法律学校を創設。
1888年(明治21年)に校長となる。岸本は 法学全般に通じていたが、宮城浩蔵が刑事法を担当したのに対し、矢代操と分担して 主に 民法と商法を担当。
1889年(明治22年)には 地元の鳥取県から 第1回衆議院議員総選挙に立候補するが、すぐに辞退している。この間に 法制局判事、法制局参事官、司法省参事官等を経て、1890年(明治23年)11月、大審院判事となる。
民法典論争では 断行論の立場をとり、1892年(明治25年)5月には 岸本ら8名の連名で「法典実施断行意見」を発表した。
司法官弄花事件に連坐して 大審院判事を辞任した後、1893年(明治26年)5月に 弁護士登録し、1897年(明治30年)には 鳩山和夫らと 日本弁護士協会を設立、さらに 東京弁護士会会長となる。
1905年(明治38年)法学博士となる。商法編纂委員、会社法編纂委員、破産法編纂委員、民商法施行調委員、法典調査会委員などを務める。明治法律学校が 専門学校令によって 明治大学と称した後も 引き続き校長を務めていたが、1912年(明治45年)4月4日、市電で大学へ向かう途中に 数寄屋橋付近で倒れ、近くの赤十字救護所に運ばれたが、救命処置の甲斐なく死去。
墓所は 谷中霊園乙4号9側。明治大学 駿河台キャンパスのリバティタワー23階に「岸本辰雄記念ホール」がある。
(Wikipedia > 岸本辰雄 より)
出身地 鳥取の藩校 尚徳館があった鳥取県立県民文化会館前には、2006年に胸像が建立された。
(°д°) 無茶苦茶すごい先生じゃないですか‼︎
錦江大教会 初代会長の 寺門きみ先生は、これほどの高名な先生の 奥様であられたのですね。
ビックリしました。
人もうらやむような 高い社会的地位のご主人と家庭を持たれて、傍から見ると、一見、何一つ不自由ない 恵まれた境遇にあられたように見える 寺門きみ先生――
しかし、寺門きみ先生は、外からは恵まれているように見える境遇の中にあっても、内実は、私たち凡人には窺い知れぬ深い苦悩を抱えて苦しまれていた――
そのような中、寺門きみ先生は、深い因縁によりこの教えに巡り会い、道を求める歩みを通して真理をつかまれ、それは揺るぎない信念にまで高められた――
そして、その信念は、ご主人の大反対の中でも消えることのない強い信仰として 寺門きみ先生の胸の奥で燃え続け、そしてその歩みは、やがて「錦江大教会」となって 多くの人の心を照らす灯となった――
今回の学習を通して、
以上のような、錦江大教会、及び初代会長寺門きみ先生の、信仰の元一日に関わる 尊い歴史を知ることが出来ました。
毎回のように「おわりに」の最後の方に書き添える文章の繰り返しになりますが、
以上のような 教会の歴史を知った上で 今の雄姿に触れると、
本当に、その姿に、より一層の重みが感じられるような気がします。
その他にも、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「錦江大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。




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