Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号131番「伊那大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号132番「小南部大教会」について勉強します。
- 小南部大教会(こなんぶ だいきょうかい)
- 室伏安兵衛の入信と奥州布教への旅立ち(明治25年~明治27年)
- 八戸町を拠点とした布教(明治28年)
- 山本安太郎の合流 ~ 小南部出張所の開設(明治28年~明治29年)
- 五戸出張所の開設 ~ 教線の拡大(明治31年頃)
- 本部の教会設置お許しと地方庁の却下(明治31年)
- 教勢の隆盛 ~ かまどかえしの様相(明治31年~明治32年)
- 上級・北豆出張所からの疑惑 ~ 室伏・山本への帰国命令(明治32年)
- 室伏夫妻の帰郷(明治32年)
- 沢村長吉2代会長の就任 ~ 部内出張所の相次ぐ設置(明治33年~明治34年頃)
- 教会移転(明治33年)
- 田中末吉3代会長の就任 ~ 待望の地方庁認可(明治35年~明治38年)
- 退講騒動 ~ 水口直轄への変更(明治37年)
- 苦難の時代 ~ 神殿の移転建築(明治37年頃~大正7年)
- 田中末吉3代会長の出直し(大正7年)
- 榊原新吉4代会長の就任 ~ 教祖40年祭活動(大正7年~大正15年頃)
- 田中ツキ5代会長の就任(昭和6年)
- 田中ツキ5代会長時代(昭和6年~昭和16年)
- 田中喜久治6代会長の就任(昭和16年)
- 設立60周年記念祭 ~ 神殿の移転建築(昭和33年~36年)
- 小南部大教会へ昇格 ~ 陞級奉告祭(昭和40年)
- 境内地拡張・保育園設立 ~ 詰所建築・福祉施設の設立(昭和42年~48年)
- おわりに
小南部大教会(こなんぶ だいきょうかい)

小南部大教会は、
斯道会―水口支教会―嶽東出張所―北豆出張所の布教者、
室伏安兵衛・かの 夫妻の伝道に始まる。
室伏安兵衛の入信と奥州布教への旅立ち(明治25年~明治27年)
室伏安兵衛は、静岡県田方郡函南村田代の人で、
(相次いで) 生まれる子供の夭折から (天理教に) 入信(した)。明治25年(1892) 9月、
3人目の娘の死が(亡くなった。
それが)夫妻の信仰をかため(ることとなった。明治27年、(室伏)安兵衛 37歳の時、
(奥州の地に) 別に知人縁者がいたわけでもないが、燃え上がる熱烈な信仰が、(室伏安兵衛を) 未知の奥州布教へと駆り立てた。この年(明治27年)、(室伏安兵衛・かの 夫妻は)
北国の秋風を骨身に味わいながら
伊達領北部から旧南部領、陸前の村から村へと 一雨一夜を山野で凌ぎ、墓に伏し、川原で衣を洗い 石原に干し(て) 乾くのを待っては また歩き続け(た。村人達に笑われ、投石され(る中も
室伏夫妻は 教祖ひながたを心の拠り所として耐え抜き)、
言葉解せぬ東北に、神名を伝えた。熱烈な求道とはいえ、どうして それほどの苦難に耐え得たか、(今にして思えば) 不思議な位である。
八戸町を拠点とした布教(明治28年)
(室伏夫妻は) 盛岡から 更に北上。
東海岸(の) 釜石辺りから 再び山間に入り、石川啄木の故郷・渋民から、沼宮内・二戸・九戸… と (室伏夫妻) 二人は道を伝え、(青森県) 八戸町 (旧 南部領の支藩) に出てきたのが、明けて (明治)28年 初夏の頃であった。
室伏夫妻は、ここ 八戸町を根拠に 広範囲にわたって布教し、珍しい守護が次々と現われ(た。)
半年間ほどに 約300戸の信者、500名に余る名簿があるのを見ても、いかほどの不思議なたすけがあったか 想像できよう。
山本安太郎の合流 ~ 小南部出張所の開設(明治28年~明治29年)
この頃、即ち(明治)28年10月、
同じ 北豆(出張所) の信者で、室伏安兵衛の義弟 (妻・かの の弟) 山本安太郎・タカが、室伏(安兵衛)を尋ねて (青森県) 八戸に布教にやって来た。この(義) 兄弟は、明治29年1月、
陸奥国三戸郡 八戸町大字堀端 第1番地に、
講元:室伏安兵衛、講脇:山本安太郎をもって、
河原町分教会から、斯道会「小南部出張所」を許された。
五戸出張所の開設 ~ 教線の拡大(明治31年頃)
その後、山本安太郎は、(青森県) 五戸村に家を借りて住み、
明治31年1月、
青森県三戸郡五戸村下沢向第10番戸内4番に、
講元:山本安太郎、講脇:大久保長松をもって、
斯道会 3,166号「五戸出張所」を許された。日を前後して 数多くの熱心家が現れ、
(青森県) 八戸町を拠点とした布教線は、五戸村・六戸村・七戸村・三本木村、
更に 西へ、十和田湖を越えて 秋田県鹿角郡に、
北は、下北半島・津軽半島・北海道へ、
南は、三戸・二戸・九戸から 三陸海岸へと、
旧南部領を伝播していった。この (明治)28・29・30年にわたる 2年余、
厳しい警察の迫害の中、たすけを乞う人は 門前行列を作ったという。
本部の教会設置お許しと地方庁の却下(明治31年)
かくして、明治31年3月、河原町(分教会)から教会設置の状況視察を受けて、
同年(明治31年) 4月6日、(天理教教会)本部に願い出て、
同(河原町)部内―小南部出張所、
同(小南部)部内―五戸出張所が、
各々、室伏安兵衛・山本安太郎を担任として、同時に許しを得た。
(天理教教会本部からのお許しを受けて) 早速、青森県庁に願い出た。
しかし、(こちらの方は、残念ながら) 却下になった。
教勢の隆盛 ~ かまどかえしの様相(明治31年~明治32年)
しかし、(青森)県庁の 好意的でない態度とは全く関係なく 教勢は素晴らしい勢いで伸び広まり、明治32年を迎えた。
(明治)29年の (内務省)秘密訓令の後、どこの教会も疲弊のどん底にあえいでいたが、
(そのような中でも 小南部出張所と五戸出張所は) 南部馬の背に千両箱を載せて、小南部から運んで来たという。その信仰は行きつくところを知らず、
400戸に余る「かまどかえし」(=財産蕩尽) (が行われた。
これ)は、およそ旧家の大地主たちの難病、奇病をたすけられた喜びの表現であり、何百町歩の土地も捧げきって たすかっていく姿は、天理教伝道史上に特筆される(ものである)。
上級・北豆出張所からの疑惑 ~ 室伏・山本への帰国命令(明治32年)
(順調に伸び広がっていると思われていた青森県南部地方の道であったが)
この(明治)32年には、いろいろな意味の難局が 口火を切った。
(それは何かと言うと、青森)県庁の「設置願」却下からきた 上級の取扱いである。
当時、山名系の 小湊・八戸・野辺地 は、明治29年1月、2月、8月に (県庁の) 認可を貰っていた。
にも関わらず、何故に 小南部 は却下となったか、ということに (上級教会の関係者が 不信感を抱いたので) ある。直接の上級・北豆出張所の 岩崎周次郎 会長は、室伏(安兵衛)・山本(安太郎) の布教活動に疑惑を感じ、
遂に この年(明治32年)、(室伏・山本) 両名に対し、帰国命令を出し(た。
そして) 自らも (青森県へ) 足を運び、その指揮にあたることになった。たすけを頂いた信者達は 総てを御供えして財をなくし(ており)、親戚との絶縁、村八分から共同生活に入り、
警官の目を欺くため 布教を離れて働き、更に 奥地や北海道へ移(って行く者もあ)った。
室伏夫妻の帰郷(明治32年)
明治32年10月、
室伏夫妻は (上級からの帰国命令を受けて) 断腸の思いで、
幼女一人 (この地で二人出直。その中、長男・正男は夭折していた。幼女一人とは、長女・みのる 6ヵ月のこと) を連れて、(静岡県) 伊豆へと帰っていった。
(室伏夫妻が) 勇躍 奥州布教に出て、5年目であった。(室伏夫妻を追って奥州布教にやってきた 山本安太郎は、室伏夫妻から遅れて 明治34年8月、伊豆に戻った)。
(小南部は、その礎を築いた室伏初代会長夫妻が伊豆へ帰国するという大きな節に遭遇したが)
しかし、この年(明治32年) にも、更に 二つの講が 斯道会の番号で許されている。
「斯道会 3,654号」:講元・小笠原興吉(青森県陸奥国 上北郡六戸村 大字犬落瀬)、
「斯道会 3,758号」:講元・沢田申松(青森県陸奥国 三戸郡島守村 大字島守)、
上記 2講が それである。
沢村長吉2代会長の就任 ~ 部内出張所の相次ぐ設置(明治33年~明治34年頃)
たすけの親 (室伏夫妻) をなくした (小南部の)信者等は、
翌(明治) 33年4月23日、
小南部出張所2代の担任として、沢村長吉を以って (天理教教会)本部に願い出(て)、許しを得た。
(沢村長吉は) この土地の人であった。奥州では、上方の人を毛嫌いする癖がある。
(この人選は) 会長(というもの)は その土地の人がなるべきだ という当時の官庁の考えを考慮しての事であろう(と思われる。)
しかし、この時も、青森県庁は却下した。(官庁からの公認が得られず苦しい日々が続いた)が、
(そうした) 相次ぐ節にもめげず (小南部一同は布教に励み)、
明治34年4月には、以下の 7ヵ所の (教会)設置をみた。三戸出張所 (佐々木亀吉)・三本木出張所 (前田福松)・宝奥出張所 (前田辰太郎)・東南出張所 (沢田申松)・北奥出張所 (小笠原興吉)・九戸出張所 (大崎伊太郎)・鹿角出張所 (坂本要助)
(以上 7ヵ所である)。
教会移転(明治33年)
同じ日 (明治33年4月23日)、
小南部出張所は、
(青森県) 八戸の堀端町から、約6キロ南に入った (青森県) 三戸郡 上長苗代村字張田の信者:大嶋嘉吉の土地に (教会) 移転の許しを得た。(そして、その後に移転した。)ここ(の土地)は 信者:大嶋嘉吉の稲倉で、警察の厳しい干渉に追われて移転したものである。
田中末吉3代会長の就任 ~ 待望の地方庁認可(明治35年~明治38年)
続いて、明治35年10月31日、
3代担任として、田中末吉を以って (天理教教会)本部に願い出(て)、許しを得(た。
田中末吉が、3代会長に就任した。(天理教教会本部からのお許しは頂きながら) 県庁への(申請に対しては) ことごとく却下され(続けてきたが)、
(田中末吉が3代会長に就任して3年後の) 明治38年9月になって、
(初申請から) 10年の歳月を経て、ようやく(待望の) 青森県庁の認可を得(ることが出来)たのであった。
退講騒動 ~ 水口直轄への変更(明治37年)
これより先、田中末吉3代会長は、
室伏(初代会長夫妻) 帰国後、先頭になって (小南部) 治めの任につとめてきた。
しかし、北豆(出張所) の岩崎周次郎の指導の下とはいえ (小南部出張所を) 治め難く、また、上級内にも 治まらぬ事情が起こった。
(田中末吉3代会長にとって、それは) 直ちに、路傍にさまよう(ような) 親なし小羊同様の 信者1万人余の指導の上に 暗い影が差してきた(ことを意味した。
この)ことから、遂に、明治37年旧2月2日、
田中末吉・沢村長吉の名で、小南部外 8ヵ所を退講したい旨、嶽東支教会に上申した。これについては、(天理教教会)本部を初め 関係上級は 再三会議(検討)。
賛否両論の中、明治37年7月16日、
北豆(出張所) に代わって、鈴木半次郎・嶽東支教会長より「退講」の証明が出された。かくして、この日(明治37年7月16日) をもって、
小南部は「嶽東―北豆」を離れて「水口」直轄の取扱いを受けることとなった。思えば、明治28年(に)蒔かれた一粒の種は、逞しい勢いで芽生え、そして ぢばへの信仰に大きく成長していった(。
それ)が、10年の曲折を経て、ここから大正7年まで、田中末吉3代会長の苦しい日々が続く(こととなった)。(ちなみに)
この (嶽東―北豆) 退講時における (小南部の) 教勢は、小南部外 8ヵ所で、青森・秋田・岩手・北海道にわたっていた。
苦難の時代 ~ 神殿の移転建築(明治37年頃~大正7年)
その時以来、小南部の道は、去り行く信者を如何に納得させるかという防衛路線であった。
たすけの親を恋しがり、また現実の生活苦から、人々は 家族を養う事に追われた。
そのような中、大正5年1月、
(小南部は) 今までの (青森県三戸郡の) 稲倉の神殿から、隣接の地を買い求め 75坪の建家を建築し 移転した。その地は、青森県三戸郡上長苗代村 大字根岸字張田54番5号で、
太平洋に流れ込む 馬渕川の支流・浅水川を眼下に、山間合いの静かな農村の中にあった。
(その地で) 養蚕機織・畜産・出稼ぎ… と大勢の世帯を養いつつ、(そこから) 45年の歳月を過ごす事となった。
田中末吉3代会長の出直し(大正7年)
田中末吉(3代会長) は、弱冠17歳にして入信(した)。
妻・ツキと共に 室伏安兵衛(初代会長) に仕え、東奔西走した人物で(あった。)
大正7年、46歳で出直すまで、
(田中末吉は、3代)会長として 15年間苦労の道中を歩んだ。
榊原新吉4代会長の就任 ~ 教祖40年祭活動(大正7年~大正15年頃)
(田中末吉の出直しを受けて)
大正7年、水口大教会より、
榊原新吉が 7月21日付で4代会長として派遣され(た。)
(榊原新吉は) 以来 13年間、その任(4代会長) についた。
教祖40年祭(=大正15年執行) の教勢倍加(運動)時に、(小南部) 部内教会は 48ヵ所となり、
次々と別科生の大量入学、(天理教教会)本部 始め 水口(大教会)の 移転建築に(は)、信者を率いて ひのきしん(の上)に 真実を伏せ込んだ。
田中ツキ5代会長の就任(昭和6年)
(小南部分教会は) それまでの眠りを少しずつ呼びさまし、着々と教勢を取戻して行く中、
昭和6年10月28日、
先の田中末吉(3代会長) の妻・ツキが 5代会長の許しを受けた。
田中ツキ5代会長時代(昭和6年~昭和16年)
(田中)ツキ(5代)会長もまた、室伏安兵衛(初代会長) に仕込まれた人であり、
たんのう一筋に通り切り、部内治め役の会長であった。(田中ツキ5代会長は) なおもうち続く困難の中を水口大教会へと運び、
87歳で出直すまで 信者を育て導いた。昭和16年(1941) 4月25日、
6代会長・田中喜久治に その任を渡した。
田中喜久治6代会長の就任(昭和16年)
(6代)会長・田中喜久治は、
35歳にして、母よりその任を譲られ(た。
そして、6代会長就任後は) 戦争下の教会事情(への対応に奔走した。)
部内が一つに治まる道を 不屈の信仰で大きく見守り、(そして) 育てた。
設立60周年記念祭 ~ 神殿の移転建築(昭和33年~36年)
昭和33年、小南部設立60周年記念祭を機として、教会移転建築を進め、
(昭和)36年4月、
東北本線・八戸駅西口前に、現在の神殿 300余坪を完成(した)。部内教会も69ヵ所を数え、牛歩の歩みながらも退くことを知らず、着実な布教が進められた。
小南部大教会へ昇格 ~ 陞級奉告祭(昭和40年)
時あたかも (教祖)80年祭を迎える前年、
即ち、昭和40年1月26日、
(小南部) 部内教会70ヵ所をもって、本部直属の取扱いとなった。水口直轄となって60年。
ここに、水口大教会より分離陞級して、小南部大教会となった。
同(昭和40年) 4月6日、2代真柱・現真柱を迎えて、陞級奉告祭を盛大に執行。
教祖80年祭への成人を誓い合った。この勇む姿は、おぢば への団参となって現れ、(昭和)41年1月から2月にわたり、3,800名が帰参した。
境内地拡張・保育園設立 ~ 詰所建築・福祉施設の設立(昭和42年~48年)
昭和42年2月、境内地の手狭さから隣地5反歩を買収拡張。
その中に、(昭和)43年4月、保育所、三条保育園を設置し、地域民に社会福祉を通してその門戸を開き、信仰の道を示した。(昭和)46年10月、どうしても おぢばに詰所を建築しようとの切なる想いが実現化し、許しを得て (工事に)着工し(た。
そして、昭和)47年6月、天理市豊井町に 敷地1,000余坪、鉄筋コンクリート4階、延べ800余坪を完成した。これを機とし、年4回の おぢばかえり団体を実行、臨時專用団体列車が運行されて来た。
更に、青森県知事の要請を受けて、
(昭和)48年8月には、大教会より 5キロ離れた山間に (青森県) 八戸市より数町歩の土地の寄付を受け、
重度身体障害者収容授産施設「青森ワークキャンパス」なる、障害者の働く施設を設立。
礼拝所に 親神を奉祀した。〔現住所〕〒039-1101 青森県八戸市尻内町鴨ヶ池 4番地
〔電話〕0178-27-2205(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,352〜354)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
第132回目の今回は、
「小南部大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
小南部の道は、嶽東系室伏安兵衛と 妻 かのによる。
静岡と岩手の間を往来する 馬喰から、奥州に神名が伝わっていないことを聞き、
静岡から 知人縁者もない八戸に来たのは 二十八年夏であった。堀端町の長屋を借り、寝食を忘れて おたすけにかかった。
排他的な土地柄であったが、重病人は後を絶たず、半年足らずで 二百六十戸の信者ができた。
その多くは 身内に結核やハンセン病などの難病を抱えた人々で、後に 四百戸とも言われる 竈返し(※) をした 旧家の大地主たちであった。三十二年、上級・嶽東の神殿普請打ち出し。
小南部から 南部駒の背に 千両箱を積んで運んだ。
そのすさまじい勢いは 驚異の的となった。
その直後、安兵衛夫妻に 上級から帰国命令が出された。
理由は 明確でない。小南部は 三十三年、大地主の 沢村長吉、その後、安兵衛に仕えた田中末吉を担任に決め 地方庁へ出願したが許可なく、却下に次ぐ却下は、財を捧げた人の不安と焦躁を 一層つのらせた。
竈返しした信者たちは 布教所や講社に身を寄せ、共同生活を始めた。
深い教理がわからず、不思議なありがたい神様とだけ信じ込み、今に 天から甘露が降ってくると、木の根を食い、白土をなめ、冷厳な北国の風土の中で飢えをしのいだ。
天理教の子供が歩いた畦には タンポポやヨモギがなくなったと言われた。末吉は 養蚕事業に乗り出した。
階下は厩、階上を蚕室にし、表向き 養蚕を本業のごとくみせかけた。
見張りをつけ、神殿に集まっては話を聞き、「警察が来た」 というと、サッと蚕室へ駆け込んだ。現実の生活の焦りから、上級・北豆出張所に不審を抱き、小南部は ついに退講届を出した。
たすけの親・安兵衛の力でも どうすることもできなかった。
結局、上級・水口分教会 預かりとなった。小南部が 地方庁認可を得たのは 三十八年。
忍苦の八年であった。(※) 竈返し・・・・・・いんねん切り替えの道として全財産なげうって道一条になること。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,120〜121)
『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) の 同じページの中に 以下のようなコラム記事も載っていました。
教会共同生活解散命令
天理教 教勢の著しい伸展期は 明治二十六、七、八年ごろ、
すなわち 教祖十年祭(明治二十九年) へ向けて 布教者たちが遠隔地布教に狂奔した時期であり、
その前後設置された教会では 大抵が 住み込み家族を抱えていた。いんねん切り替えと 運命開拓の道を求め、全財産を果たして 教会へ入り込んだ。
家族や子供は ボ口をまとい、飲まず食わずの日もあった。
そこへ、本部から 思いもかけぬ 共同生活解散指令が出た。明治三十二年、天理教の一派独立運動が始まったが、
内務省の宗教局は「不都合な点を見つけ次第、解散を命ずる」という姿勢を崩さなかった。そこで 本部では 対策を講じ、三十五年、達しを出した。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,120)
それが 解散命令である。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】132回目の当記事では『天理教事典』の中の「小南部大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
『天理教教会所在地録』によると、小南部大教会は、水口大教会から分かれた大教会となっています。
しかし――
今回の勉強を通して、小南部大教会は、実に複雑な経緯を経て本部直属になったということを知りました。
小南部大教会は、もともとは、嶽東大教会部内の 北豆分教会から分かれた教会。
嶽東大教会は、水口大教会から分かれた大教会。
水口大教会は、河原町大教会から分かれた大教会。
ということで、小南部大教会は「斯道会」の流れを汲んだ大教会ですね。

小南部大教会の親教会となる各大教会の内、本部直属教会については、これまで既に勉強して記事を投稿しました。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】132回目の当記事では『天理教事典』の中の「小南部大教会」についての記述を書き写して勉強したわけですが、今回もまた知らないことばかりでした。
そして今回も、数多くのことが印象に残りました。
今回の書写学習の中で、まず何より印象的だったのは、室伏安兵衛・かの夫妻による、奥州への布教行の 壮絶さでした。
室伏安兵衛初代会長の所属していた北豆出張所は山名の系列ではありませんから、室伏夫妻は、山名の東北大布教の一メンバーとして青森に行かれたのではありませんでした。
全くの夫婦二人きりで、知人縁者も一人としていない東北の地へ、静岡から乗り込んでいかれたとのこと。
一雨一夜を山野で凌ぎ、墓に伏し、川原で衣を洗って乾くのを待ってはまた歩く。
言葉の通じない土地で、村人に笑われ、投石までされながら、それでも神名を伝え続けた
――『天理教事典』にはそのように書いてありました。
室伏夫妻は、生まれてきた子供たちの相次ぐ夭折を通して天理教に入信されたとのことですが、
その信仰姿勢は「熱烈な求道とはいえ、どうして それほどの苦難に耐え得たか不思議な位である」と『天理教事典』にも書かれる程の強さであり、弱々しい信仰しか持っていない私にとっては、ただただ眩しく神々しく映るのでありました。
その苦労が報われるように、八戸に根を下ろしてからは 半年で300戸もの信者を得るという めざましい展開を見せられたとのこと。
『道〜天理教伝道史をあるく』という本の記述によれば、
その信者の多くは、身内に結核やハンセン病といった、当時としては治療の術もない難病を抱えていた方々だった、と。
医療では手の届かない苦しみを抱えていた人々にとって、室伏初代会長夫妻が説くこの道の教えがどれほど大きな光であったか――、
この地における その後の道の広がりは、そのことをハッキリ示している、と私は感じました。

次に心を捉えられたのは、
明治32年に、室伏初代会長夫妻と山本安太郎先生の上に訪れた、急転直下の展開です。
明治31年から32年にかけて、地方庁へ公認を申請しながらも却下されることが続いた後、
室伏初代会長夫妻と山本安太郎先生は、青森・南部地方で多くの人々に「かまどかえし」(=財産蕩尽) をさせる程に熱烈布教に励んでいたにもかかわらず、上級教会から突然の帰国命令を受けたとのこと。
なぜなのか?
書写文にも『道〜天理教伝道史をあるく』の記述にも、はっきりとした理由は記されておらず、私にはその背景や細かい事情がわかりません。
これほどの成果を挙げていた二人が、なぜ、これほど唐突に呼び戻されなければならなかったのか――正直なところ、書写文を読み進めながら、私の中には、ある種のやりきれなさが残りました。
もしも、これが認可がなかなか下りないことが まるで布教者自身への疑念であるかのように扱われてしまったことによるものだとするならば、
それは、実際に現地で身を粉にして働いていた 室伏ご夫妻・山本ご夫妻にとって、あまりにも理不尽な仕打ちであったように、私には感じられてなりません。
もちろん、これは手元の資料だけに基づく、あくまで想像の域を出ない感想に過ぎず、
上級教会の側にも、私の窺い知れない事情や苦衷があったのだろう とは思います。
しかし、ただでさえ地方庁の認可が下りず困惑していたであろう現地の信者達にとって、
道を切り開いた当のご本人達が不在となってしまったことは、
さぞかし心細く、悲しい出来事であったのではないか、
そんな思いが、どうしても 拭えませんでした。
そして、この一件は、その後の小南部の歩みを見ていくと、どうやら一過性の出来事では終わらなかったようです。
書写文によれば、明治37年、小南部は、上級・北豆出張所 (及び その上級・嶽東支教会) のもとを離れ、水口の直轄となっています。
その背景には、田中末吉3代会長が、北豆の岩崎周次郎の指導のもとでも「治め難く」、上級内にも「治まらぬ事情」があった、と『天理教事典』に記されていました。
そして最終的に、小南部側から退講の届けが出され、それが、嶽東―北豆の上級にあたる水口によって認められる形で決着した、とのこと。
ただ、静岡県 (嶽東―北豆の上級)と青森県 (小南部)という、当時としては相当な遠距離にあった両者の間には、日々のやり取りひとつをとっても、決して容易ではない距離があったということ――
もしかしたら、地方庁からの度重なる却下という 現地にとってはのっぴきならない苦境に追い込まれている状況を 遠く離れた上級が正確に把握し 現地に寄り添った判断を下すということが、そのような地理的な隔たりのために、想像以上に難しかったのかもしれない。
室伏・山本両先生への帰国命令というものも、あるいは、こうした遠隔地ゆえの意思疎通の難しさ――相互の不信感とまでは言わずとも、少なくともすれ違いのようなもの――が、根底にあったのかもしれません。
思えば、以前(第129回)「静岡大教会」を勉強した際にも、
教会という組織が、上級―部内という制度の中で、末端の信者の方々の与り知らぬところで、さまざまな事情に翻弄されていく側面があることに触れました。

静岡大教会の場合は、「山名―名京」の分裂という上層部の事情によって、末端の教会・信者が「あなたはこちら」と振り分けられていく、という形での翻弄でしたが、
小南部の場合は、系統は異なるものの (静岡は山名系統、小南部は斯道会系統ですが)、
遠く離れた上級と部内の間の意思疎通の難しさが、結果として、教会の存続そのものを揺るがしかねない大きな節に繋がった、という形で現れたように 私には見えます。
「斯道会」系列にしても「山名」系列にしても、組織が大規模になればなる程、きっと人間臭い場面が多くなるということなのでありましょう。
教会が、生身の人間の集まりである以上、こうした組織上の制度や距離に翻弄される場面は、時代を越えて系統を問わず、どうしても避けられないものなのかもしれない… 等と思ったりもしました (^^)

さらに、心を締めつけられたのは、
内務省 秘密訓令発令後、いつまで経っても県庁から認可を得れらず、周囲からの迫害攻撃に晒され続けた小南部出張所の人々を待ち受けていた、信者達の現実生活の厳しさでした。
『道〜天理教伝道史をあるく』の中に書かれてあった
――全財産を捧げてかまどかえしをした人々は、講社や布教所に身を寄せ合って共同生活を始めたものの、深い教理を十分に理解しきれないまま「今に天から甘露が降ってくる」とだけ信じ込み、木の根をかじり、白土を舐めて、冷厳な北国の冬を凌いだ――
という記述には、言葉を失いました。
天理教の子供が歩いた畦にはタンポポやヨモギすら残らなかった――
というくだりに至っては、当時の困窮が どれほど極限的なものであったかということを、
現代人には想像もつかない程の激しさで 突きつけてくるくるように 感じさせられました。
また、
生活のあせりから、養蚕を隠れ蓑にして神殿での寄り合いを続け、見張りを立てて「警察が来た」の声とともに蚕室へ駆け込んだ――
という『道〜天理教伝道史をあるく』の本の中の一節には、
追い詰められながらも知恵を絞って信仰の火を絶やすまいとした当時の人々の、
したたかさと切実さの両方を感じたのでありました。
当時の時代背景を具体的に表現した描写に触れることで、
とてつもない小南部苦難の歴史が、
全く別世界のことではなく 奥行きのある現実感を持ったものとして身近に迫ってくるかように感じられてきます。
味気ない白黒写真に色がついてカラーになる…みたいな感じで。

「おわりに」の冒頭に引用掲載しましたが、
『道〜天理教伝道史をあるく』の中の「教会共同生活解散命令」というコラムも、非常に印象に残りました。
そこには、
明治26〜28年頃の急激な教勢拡大期に設置された教会の多くが、住み込み家族を抱えていたこと、
そして明治32年からの一派独立運動をめぐって、内務省宗教局が厳しい姿勢を崩さなかったことを受け、教団側が明治35年に「共同生活解散」の達しを出さざるを得なかった経緯が、記されていました。
これを読んで、小南部が味わった苦難は、
決して一教会だけの特殊な事情ではなく、当時の天理教全体が置かれていた「国家との緊張関係」という大きな構造の中の、一つの個別な現象だったのだということに気づかされました。
個々の教会史を追うだけでは見えてこない、教団全体を覆っていた時代の空気のようなものを、このコラムを通して垣間見ることが出来た気がします。

それにしても、明治31年の初出願から数えても明治38年の認可まで、幾度となく却下を重ねながら、投げ出すことなく歩み続けた小南部の道のりには、本当に頭が下がります。
決して短くはない年月を、却下されてはまた出願、却下されてはまた出願…を繰り返し続けた、当時の小南部大教会の皆様。
前回(第131回)勉強した「伊那大教会」が地方庁の認可を得るまでの経過も壮絶なものがありましたが、

今回勉強した「小南部大教会」が認可を得るまでの道の中にも、それに負けず劣らず壮絶な歴史が潜んでいました。
私は書写しながら、その忍耐強さその信念の強さに、心の底から深く感動いたしました。
前回「伊那大教会」の「おわりに」で書いたことの繰り返しになりますが、
今、私達が何不自由なく教会で手を合わせることが出来るのも、こうした先人達の、想像を絶する苦節の上に成り立っているのだということ――
決して忘れてはならない、
改めてそのような思いに包まれました。
当シリーズ記事の締めくくりにいつも出てくるフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「小南部大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「小南部大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
ネット検索する中で、天理大学附属天理図書館天理教文献室の 早田一郎先生による「岩手・青森布教」について書かれたファイルを見つけ、その中にも青森伝道に関する記述がありました。
参考資料として最後に置いておきます。
【青森】
青森の話に移る。
最初に書いた通り、青森県は 教会本部から遠方であるにも拘わらず、東北で最も教会が多い。
大教会も、津軽と小南部があり、これも 東北では一番である。
さらに、よふぼく数が 東北でダントツに多い。
総じて 青森の天理教は元気がある と言える。
しかし なぜそうなったのだろう、大変 興味深い。
明治28年8月、嶽東系 北豆出張所の布教師・室伏安兵衛・かの夫婦は 岩手県沼宮内を経て八戸に着き、僅かの間に 300戸ほどの信者を得た。
かの の弟・山本安太郎夫婦も共に布教し、八戸周辺の町や村に、さらに岩手県・秋田県にも 伝えられた。
安兵衛たちに助けられた信者たちの純朴な信仰は、上級教会ふしんのお供えに財産を蕩尽する人が続出したという。
明治31年、小南部出張所(現大教会)が設立されるが、布教開始から5年間で現在の小南部大教会の基礎が築かれたという。
青森県の旧南部藩領である 八戸を中心に、県東部 および 岩手県北部である 九戸や 二戸は、軒並み 小南部系統の教会である。青森県にある 小南部系教会は、全部で52ヵ所であるが、
中でも 山本夫妻が丹精したといわれる 五戸分教会が、県内に32ヵ所もの教会を有している。***************
青森県東部の大半が 小南部系であるのに対し、
中・西部は、津軽・城山・山名系統の教会が多い。津軽大教会の発端から述べよう。
三重県 津支教会(現大教会)の 久保繁蔵ら5人の布教師は 青森が布教有望地だと聞き、明治27年 弘前の土を踏んだ。
5人は、津軽方言に苦労しながら、産後の患いで伏せっていた婦人を助けた。
感激した婦人は、自らも人を助けようと 弘前病院の患者に声をかけ、結核の人を布教師と共に助けた。
さらに 助けられた人が、葛西亦蔵(後の津軽大教会長)に天理教を伝えることになる。
大袋(現田舎館)の旧家に育った葛西は、いくつもの病いを持つ身だったが、久保繁蔵が10日間おさづけを取り次ぐと 鮮やかに治癒した。
旧家の長男が 神様に助けられたと評判になり、救いを求める人たちが 葛西の家に群がった。
「生涯、人を助けよう」と心定めをした葛西は、病人のために夢中で祈った。
まだ おさづけ人ではなかったが、拝めば助かるという親神様の働きに自分が驚いた。
病人たちと共に いんねん果たしの求道生活を送り、みんなの信頼を得ていった。
明治29年、葛西亦蔵を会長に、津軽出張所(現大教会)が設立され、弘前市内や周辺の黒石・水元などに広まっていく。
現在、津軽系教会は、青森県に 45ヵ所あり、そのほとんどが、県中部・西部である。
青森県には、城山系教会が37、山名系教会が19、合わせて56ヵ所ある。
これは、静岡県から来た2人の布教師の伝道による。山名系 東北伝道の打ち出しで、城山支教会(現大教会)の名倉千代蔵と加藤孫吉は、紹介を受けた 寺田金太郎の住む 岩手県盛岡に赴いた。
盛岡は 仏教が強く苦戦するが、2人の不思議なおたすけが続き、明治28年には 盛岡出張所が設立された。
寺田は 2人のおたすけを目の当たりにし、妻の実家、青森県小湊も ぜひ布教してほしいと懇願した。
相談の結果、加藤は盛岡に残り、名倉が小湊に行くことにした。
そこで長く難病に苦しんでいた太田丹五郎を助けた。
親神の不思議で鮮やかな働きに感激した太田は 猛烈なおたすけを開始する。
太田は、その後 何度となく病をぶり返したが、そのつど 病を肥となし、励みとした。
太田は、小湊から 当時 青森一の都会であった弘前に出、五所川原へも 足を伸ばした。
太田の奮闘あって 明治28年12月、弘前出張所(現分教会、山名部内)ができ、五所川原・浪岡などにも伸びて行く。現在、弘前分教会には 22ヵ所の教会があり、うち19ヵ所が 青森県の津軽地方にある。
五所川原・浪岡などは、城山所属の教会になっている。
明治20年代、天理教が 日本中に広まる過程で 不思議なおたすけが相次いだ。
医者では治らない難病が、おさづけで治った。青森県でも、室伏かの が 瀕死のハンセン病患者を助けたり、葛西亦蔵や太田丹五郎のおたすけは、まさに奇蹟であった。
この時代、日本中至る所で このような事象が 報告されている。
この現象を どのように考えたらいいのだろう。
布教師の真剣なおたすけに 神様が後押しして下さった と考えるべきではなかろうか。(早田一郎「天理教伝道史の諸相(25)~岩手と青森の天理教」より)





コメント