Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
奇しき縁にて小さな天理教分教会長に就任しながらも、
基本的な教理すら十分身についていない私、さまよう男。
そうした反省に基づき、
“多少なりとも基本教理を身につけたい” との思いから、
令和5年11月から「十全の御守護」学習シリーズを開始。
早いもので、今回で7回目になります。
このシリーズは、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本に書かれた「十全のご守護」解説を書写することで
「十全の御守護」の教えをいささかなりとも腹におさめたい、
という意図のもとに取り組んでいる
【自己学習】の足跡であります。
「十全の御守護」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。
この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。
シリーズ7回目の今回は、
「たいしよく天のみこと」
御守護の解説部分を 書写します。
上田嘉太郎先生「十全のご守護」解説 No,7
「たいしよく天のみこと」
たいしよく天のみこと
出産の時、親と子の胎縁を切り、
出直しの時、息を引き取る世話 。世界では 切ること一切 の守護の理。
出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引き取る世話
たいしよく天のみこと は
前述の「身の内守護の六台」に含まれません。従って 人間身の内での、平常の御守護とは関りが薄い
ということになりましょうか。「出産の時、親と子の胎縁を切る」、
胎児は お腹の中では、母親とへその緒で繋がっていて、
養分も酸素も へその緒を通して 母親から供給されています。ところが、この胎縁が切れると、
それから先は 自分で呼吸することになります。赤ちゃんが オギャーと産声を上げる、そして 自力で呼吸を始める。
これが 息を引き取るまで ずっと続くわけです。その 最初に自力で呼吸する時と、最後に息を引き取る時、
即ち、
初めと終わり、誕生と死(出直し)の二回だけのお働き
ということになります。その間ずっと 人間は呼吸をしていますが、
これは かしこねのみこと の「息吹き分け」の御守護を頂いて
生きているのであります。その意味で、
たいしよく天のみこと と かしこねのみこと は、
お互いに 相補う役割を果たしている
ということができます。かぐらづとめの配置を見ますと、
たいしよく天のみこと は 艮(北東)、
かしこねのみこと は 坤(南西)
と 向かい合っておられます。かぐらづとめの役割の 向かい合っているそれぞれは
対をなしている、相補う役割をはたしている
ということが、
この場合にも はっきりと窺えます。
再生のための節目
一般に、
誕生はめでたいけれども、死は何か暗い、忌まわしいものだ と考えがちですが、
お道では「出直し」「生まれ替わり」と 教えられています。死は、
それで終わり、それっきり というようなものではなくて、
生まれ替わり、
つまり 再生のための節目、出発点である
ということです。ちょっと考えてみると 分かることですが、
死が無ければ 誕生も あり得ません。死ぬ者が無くて 生まれる者はどんどん生まれてきたら、
たちまち 地球は 人であふれてしまいます。そう考えてみますと、
誕生と死は 一つのものである、切り離すことのできないものである
ことが 分かります。大きな生命の流れの中でのバトンタッチ とも言うべきものを、
お道では「出直し」「生まれ替わり」
と お教え下さるのであります。連綿と続く 生命の営み、命のサイクルの節目を言い表す「出直し」「生まれ替わり」。
その言葉自体に、
死というものが終わりでなく 再生のための出発点であり、
誕生が 単なる生命の初まりではなく、
前生よりの命を引き継いでいるものであることが
含意されています。説き分けには、
「出直しの時、息を引き取る世話」
とありますが、息を引き取ったばかりの身体は まだ温もりがあって、
見たところ 眠っているのと 何一つ変わりないような気さえします。しかし、息を引き取ったことによって
もう 身体は 分解を始めています。その 身体を一つの統一体としてまとめていた働きが 失われることによって、
身体を構成していた物質は何一つ失われていないのに 直ちに 分解していく。
そして、やがて 腐って溶けて、
形は 無くなってしまうのであります。しかし、
身体を作っていた物質は
どこへも消えていないわけです。バラバラになったけれども、
物質保存と申しますか、物質の総量は 変わらないのですから、
私は、これは本当に 借りものを返した という感じだと思います。そのように、
命が切れた、息を引き取った瞬間から 身体は 分解していくのですが、
これも 一つの 無くてはならない働きです。もし、これが分解せずに、死体が そのままゴロゴロ転がっている
ということになったら 大変です。腐ってしまうのも また 有り難い働きです。
そのことによって、
人間に限らず 動物も植物も 大地に帰って肥やしとなり、
また 新しい命を育み、形作るのであります。即ち、生命のサイクル、循環です。
肥やしになるには
肥やしで思い出しましたが、
以前、海外部の翻訳課を退職していく者に
こんな話をしたことがあります。「何年間か おぢばで伏せ込まして頂いた そのことは、
これは 今すぐ教会に帰って 役に立つ、
という具合には ゆかないだろう。しかし、もう どんなことをさせてもらったのか 思い出せなくなった頃に、
初めて 肥やしとなって効いてくる。俺はあれをした、これもした と言ってる間は、
まだ 形が溶けてないわけだから
肥やしにならないんだよ」と言って 送り出したことがあります。
形ある物が分解していく ということも、
大切な 神様のお働きの一つであります。
切ることの大切さ
続いて「切ること一切」とあります。
先に、
死ぬ というと忌まわしい、暗い感じがする と申しましたが、
「切る」という言葉も
何となく 不吉な響きを持っています。しかし、みかぐらうたの 二下り目に、
六ツ むほんの ねえをきらふあるいは、
八ツ やまひの ねをきらふ即ち、争いや病の根絶、と教えて頂きますように、
「切る」ことも、やはり 無くてはならない 大切な働きです。また、「いんねんを切る」とも申します。
そのように、
運命が切り替わっていく、あるいは 事態が転換していく
という節目には、
この「切る」ということが 欠かせません。しかし、これは
手術のような場合を考えれば お分かりのように、
切る というと 非常に 不安になるものです。
また、痛みを伴うものでも あります。それでも、
ここ という時には、
切る ということが 無くてはなりません。例えば、
決断という言葉の「断」は、
「切る」という意味です。今までと方針を転換する というような時には
どうでも 切り替える、仕切る
という 断固とした気持ちが 必要です。おさしづにも、
「仕切り根性、仕切り力、仕切り知恵、仕切りの道」
と仰せになっています。ここ一番の 踏ん張り所、
物事の 節目節目には
欠かせない心構えであります。
やたらにあってはならない
切ることの大切さを強調しましたが、
また一面では、
「切る」ということは やたらにあってはならないこと
でもあります。それを表しているのが、
かぐらづとめでの たいしよく天のみこと の手振りだ と思います。他の つとめ人衆の方は
第一節の「てんりわうのみこと」の「みこと」のところで、
それぞれの 守護の理を表す 手振りを 二十一回 振られるのですが、
たいしよく天のみこと のお役だけは、
二十一回のうち 最後の三回だけ 切る手振りをされます。ですから、
十八回目が終わったところで 合図木が入ります。こうした点にも、
「切る」ということは、
ここ という時には 無くてはならないけれども、
しょっちゅうあってはならない働きであり、心遣いであることを
お教え頂いているように 思います。新しいことを始めようとする時、
今までしてきたことを止めようとする時、
あるいは
生き方を切り換える、転換しよう
というような時にこそ、
この「切る」という心の働き、また 御守護が無くてはならない
ということであります。実際、考えてみれば、
今までと同じような 心遣い、通り方をしていて、
長い患いや悩みを おたすけ頂きたい
と願っても 無理だと思うのです。長い患いや 悩みであればあるほど、
今までと コロッと違う心になる、生き方をする
という決心が無ければ、
到底 運命の転換はできない と思います。それは、
癖性分を改めよう とか、
惰性や腐れ縁を断ち切る というような、
長い間の芳しくない事柄、
あるいは 悪しきいんねん、
そうしたものを切り換えたい というような時にも 言えることです。今までと違う 大きな決断、覚悟、
(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,84~90)
そして 仕切っての実行が 肝心です。
「たいしよく天のみこと」上田先生解説の自己覚書き
「たいしよく天のみこと」
- 出産の時、親と子の胎縁を切り、出直しの時、息を引き取る世話。
- 世界では 切ること一切 の守護の理。
- 【たいしよく天のみこと】
たいしよく天のみこと は「身の内守護の六台」に含まれない。
人間身の内での、平常の御守護とは関りが薄いということ。
たいしよく天のみこと は、
出産の時、親と子の胎縁を切り、胎児が 最初に自力で呼吸する時と、最後に息を引き取る時、
即ち、初めと終わり、誕生と死(出直し)の二回だけのお働き。
その間ずっと人間は呼吸をしている
➡かしこねのみこと の「息吹き分け」の御守護を頂いて生きているということ。
※ たいしよく天のみこと と かしこねのみこと は、お互いに 相補う役割を果たしている。
〔かぐらづとめの配置〕
【たいしよく天のみこと】 …艮(北東)
【かしこねのみこと】 …坤(南西)
(たいしよく天のみこと と かしこねのみこと は向かい合っている)
かぐらづとめの役割の 向かい合っているそれぞれは、
対をなしている、相補う役割をはたしている、
ということが、この場合にも はっきりと窺える。
- 【再生のための節目】
お道では、
死は「出直し」「生まれ替わり」と教えられる。
=死は、それで終わり、それっきり というようなものではなくて、
生まれ替わり、
つまり 再生のための節目、出発点である ということ。
死が無ければ 誕生もない。
誕生と死は 一つのものであり、切り離すことのできないもの。
説き分けに、「出直しの時、息を引き取る世話」とあるが、
息を引き取ったことによって 身体は分解を始め、
やがて 腐って溶けて形は 無くなってしまう。
これが分解せず、死体がそのまま転がっている ということになったら 大変であり、
腐ってしまうのも 有難い働き。
そのことによって、
人間に限らず 動物も植物も 大地に帰って肥やしとなり、
また 新しい命を育み、形作る。
➡生命のサイクル、循環
- 【肥やしになるには】
「何年間か おぢばで伏せ込まして頂いた そのことは、これは 今すぐ教会に帰って 役に立つ、という具合には ゆかないだろう。
しかし、もう どんなことをさせてもらったのか 思い出せなくなった頃に、初めて 肥やしとなって効いてくる。
俺はあれをした、これもした と言ってる間は、まだ 形が溶けてないわけだから 肥やしにならないんだよ」(上田嘉太郎先生 講話より)
➡形ある物が分解していく ということも、大切な 神様のお働きの一つ。
- 【切ることの大切さ】
たいしよく天のみこと の守護の理とされる「切る」ことも、無くてはならない 大切な働き。
「いんねんを切る」という言葉にもあるように、
運命が切り替わっていく、あるいは 事態が転換していく という節目には、
この「切る」ということが不可欠。
しかし、切る というと 非常に不安になるものであり、また、痛みを伴うもの。
それでも、ここ という時には、切る ということが 無くてはならない。
決断という言葉の「断」は、「切る」という意味。
今までと方針を転換する というような時には どうでも切り替える、仕切る という断固とした気持ちが 必要。
「仕切り根性、仕切り力、仕切り知恵、仕切りの道」(おさしづ)
…ここ一番の踏ん張り所、物事の 節目節目には 欠かせない心構え
- 【やたらにあってはならない】
切ることの大切さを忘れてはならないが、
また一面では、「切る」ということは やたらにあってはならないことだということを、
かぐらづとめでの たいしよく天のみこと の手振りは 示している。
他のつとめ人衆の方は、
第一節の「てんりわうのみこと」の「みこと」のところで、
それぞれの守護の理を表す手振りを 二十一回振られるが、
たいしよく天のみこと のお役だけは、
二十一回のうち 最後の三回だけ 「切る」手振りをする。
(十八回目が終わったところで 合図木が入る)
➡「切る」ということは、
ここ という時には 無くてはならないけれども、
しょっちゅうあってはならない働きであり、心遣いであることを お教え頂いている。
……新しいことを始めようとする時、今までしてきたことを止めようとする時、
あるいは 生き方を切り換える、転換しよう というような時にこそ、
この「切る」という心の働き、また 御守護が無くてはならない
ということでもある。
➡今までと同じような心遣い、通り方をしていて、
長い患いや悩みをおたすけ頂きたい と願っても 無理である。
長い患いや悩みであればあるほど、今までとコロッと違う心になる、生き方をする という決心が無ければ、到底 運命の転換はできない 。
➡それは、癖性分を改めよう とか、惰性や腐れ縁を断ち切る というような、
長い間の芳しくない事柄、あるいは 悪しきいんねん、
そうしたものを切り換えたい というような時にも 言えること。
今までと違う 大きな決断、覚悟、
そして 仕切っての実行が 肝心。
おわりに
「十全の御守護」学習シリーズ7回目の今回は、
たいしよく天のみこと 御守護の解説部分を 書写しました。
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』の本文を丸写しした後、
「自己覚書き」としてそれを自分なりにまとめましたが、
読み返すと、ただ同じ文章を繰り返してるだけですね…
あまり意味がない… (-_-;)(汗)
まぁ、それはともかく…
今回の たいしよく天のみこと の「切る」ことの御守護の理についての
上田先生の解説を 書き写しながら思ったこと。
それは、
この「切る」という働き――
停滞し、先が見通せない今のお道に必要なものではないのか、
という事でした。
「新しいことを始めようとする時、
今までしてきたことを止めようとする時、
あるいは 生き方を切り換える、転換しよう というような時にこそ、
この「切る」という心の働き、
また 御守護が無くてはならない。」「癖性分を改めよう とか、
(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,90)
惰性や腐れ縁を断ち切る というような、
長い間の芳しくない事柄、あるいは 悪しきいんねん、
そうしたものを切り換えたい というような時には、
今までと違う 大きな決断、覚悟、
そして 仕切っての実行が肝心。」
多くの面で 行き詰まりが感じられる 今のお道が再生するためには、
上記引用文の如く 上田先生が本書の中で記されている
「たいしよく天のみこと」のお働き、
それを頂くことが 必要なのではないかしらん…
僭越ながら、そんなことを 思ったりしたのでした。
落第ようぼくのくせに 偉そうなことを書いてしまいました… (^^ゞ
文字通り
「お前が言うな」
ですね(笑)
スミマセン… <m(__)m>
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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