Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
令和5年11月4日から始めた「十全の御守護」学習シリーズも、
今回で8回目。
今回は、「をふとのべのみこと」の上田先生解説文を書写します。
このシリーズは、
上田嘉太郎先生著『基本教理を身につけよう』という本に書かれた「十全のご守護」解説を書写することで
「十全の御守護」の教えをいささかなりとも腹におさめたい、
という意図のもとに取り組んでいる
【自己学習】の足跡であります。
「十全の御守護」学習シリーズの教材は、
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本です。
この本の奥付を見ると、
立教163年(2000年)天理教浪華分教会発行、非売品、
となっております。
入手経路は知りませんが、上級教会の本棚にもありましたし、
支部か何かを通して、多くの教会に配布(購入?)されたもののようです。
残りは「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」の二柱。
上田嘉太郎先生の『基本教理を身につけよう』という本では、
「いざなぎのみこと」「いざなみのみこと」
二柱まとめて一つの章になっていますので、
「十全の御守護」学習シリーズも、
次回でコンプリート、完了です。
今回と次回の残り2回、
上田先生の貴重な解説文が少しでも腹に納まるよう、
しっかり書き写したいと思います !(^^)!
前回は「たいしよく天のみこと」でした。
シリーズ8回目の今回は、
「をふとのべのみこと」
御守護について解説する部分の書写になります。
上田嘉太郎先生「十全のご守護」解説 No,8
「をふとのべのみこと」
をふとのべのみこと
出産の時、親の胎縁から 子を引き出す世話。
世界では、立毛万物 引き出し一切の 守護の理。
出産の時、親の胎縁から子を引き出す世話
「出産の時、親の胎内から 子を引き出す」、
これは お産であります。以前、NHKの大河ドラマで 徳川吉宗 の一代記を 放映していたことがありますが、
将軍や大名の正室や側室が お産で命を落とすことの多いのに驚きました。
それほど、昔のお産は危険だった ということでしょう。百年前の 日本女性の平均寿命は 確か三十八歳、
男性より低かった と聞いたことがありますが、
これも 産婦の死亡率の高さの故だ ということでした。実に、お産は 女の大役(大厄)、
苦痛を伴うとともに 命がけでもあった
ということです。そうした背景を踏まえ、
また、誰もが 母親の胎内から生まれ出るものである ということを思いますと、
よろづたすけの道あけとして、をびや許しをお出し下ったことの意義が
一層 よく分からせて頂けるように思います。分娩、お産に際しては、
胎児が十分に成長した、もう出産をすべきだ という時になると、
まず 胎盤が子宮から剥がれていく。そして、母体も胎児も 出産にふさわしい態勢をとって、
お互いの同調した 絶妙な動きの中に 生まれ出てくるのであります。例えば、
赤ん坊は 頭頂部がピコピコ動いていますが、
これは 出産時に頭が細くなる、
即ち、頭骨の接ぎ目が ズレて重なることで 産道を通り易くなること
と関係があるのです。その接ぎ目の集まる所が まだ ふさがっていないために、
誕生後しばらくは、
外からも 搏動の様子が分かるのです。
そう聞くと、
親が「そこを押さえてはいけない」と厳しく言っていた理由が
納得できます。人間の場合、
他の動物に比べると 著しく難産の度合いが高いのは、
頭部が大きい ということに原因があるそうです。人間が 他の動物と全く違う営みをするようになったのは、
ひとえに 頭脳の働きによるところですが、
逆に、その頭が大きいことによって 難産にもなるし、
また 早めに、つまり 頭が大きくなり過ぎないうちに 産まれ出ることが必要になります。従って、人間の場合には、
乳幼児期、親の全面的な保護を
相当 長期にわたって 受けなければなりません。他の動物の場合には 十分育ってから 生まれてきますから、
生まれてしばらくすると、もう 立ち上がって歩いたりできます。
また、そうでなければ 襲われたりして 危険です。話は 余談にわたりましたが、
お産が危険なものであり、苦痛を伴うものであることは、
ある意味では 人類の宿命だとも 言えるのです。
立毛万物引き出し
「立毛」とは 粒毛とも書きます。
これは 農産物、特に米麦をはじめとする
穀類を指す言葉です。表作に米を作って、裏作に麦を作ることを 二毛作と言いますが、
毛という語には、
植物や その生育、稔り という意味があります。そのように、
穀類をはじめとする 農作物、
さらには、食べ物一般を 意味します。「こふき本」によりますと、
食物という表現が出てまいりますが、
農作物に限らず、魚類とか畜類の成育についても、
この「立毛万物引き出し」という表現で仰せになっている
と考えられます。さらに、
「万物引き出し」には、
農作物や魚類、畜類の成育、成熟のみならず、
物事一般の伸長、発展といったことも含意されている
と言ってよいと思います。これは もっと言えば、
人を育てる
というようなことにも つながってくるのであります。「こふき本」には、
「引き出す者を 玄人と言う」
と、をふとのべのみこと の御守護の理のところで 記されています。玄人というのは、
その道に熟達した人、プロというような意味ですが、
をふとのべのみこと の御守護の理合いは、
人の成長や教育にまで及ぶ ということでしょう。この 立毛万物の引き出し、
また、魚類や畜類が成長するのは、
ただ 形が大きくなるだけではありません。魚で言えば、
卵からかえって 稚魚になり、それが だんだん大きくなって 成魚となる。
そして、また卵を生んで、……というプロセスです。単に形が大きくなる、太るというのではなく、
一つの成長、成熟の過程です。その点から申しますと、
「時」が 大切な要素になってきます。具体的な例として、
米や麦の生育を思い浮かべると 分かりやすいと思いますが、
蒔いた籾種が ただふくらんで大きくなる というのではありません。芽を出し、それが だんだんと伸びてくる。
葉が出てくる、穂が出る、花が咲く、そして稔る というプロセス、
これが 引き出しの過程です。従って、人間の側から申しますと、
水をやるにしても、肥やしを施すにしても、
それぞれの段階に応じて、
その旬、タイミングを見極めなくてはなりません。
人を育てる場合
これは 人を育てる場合についても 言えることです。
さきほど、
「引き出す者を玄人と言う」との「こふき本」の記述を引用しましたが、
指導者、お道の上でも
教会長、あるいは 布教所長をはじめとする
指導者的な立場の人々の役割、心得
についても お教え頂いているように思います。即ち、
人を導く、育てるという時にも、
それぞれの人に応じ、その成長の段階を見極めて、
その時々に相応しい仕込みなり、丹精をしていくことが大切だ
ということです。逆に、
こうした旬、あるいはタイミングを無視するとどうなるか?例えば、
無理矢理に強要するとか、
あるいは 焦って、
それこそ 早く伸ばそうと稲の穂を引っ張った という寓話がありますが、
過度に干渉したりすると、
かえって ダメにしてしまうことになります。反対に
ほったらかし、放任も
また とんでもないことになりかねません。ところで、
人間の成熟
というのは 一体 どういうことでしょう。人間の成熟、
言い換えると、
人として目指すべきところ、人を育てる目標
と言ってもいいか と思います。以前 たまたまラジオで、
ある地方都市の 市長さんの講演を 聞きました。その方が、
「子供をどのような大人に育てるか」という話の中で、
「困っている人を助けることのできる大人に育てたい」
と 話しておられました。あるいは、
「人を喜ばせる喜びを知る」とも、
また、別な人の言葉を引いて、
「人を最も幸せにする人が 最も幸せになる」
とも 語っていました。私たちは つい 目先のことに追われて、
目標を見つめるどころか、考えることすら おろそかにしがちですが、
子供をどのように育てるのか、何を目指すべきか
を考えることは、
ひとり 子供だけの問題では ありません。結局のところ、
人生の目的、意義の問題であり、
理念、信条の問題であります。
教育の目標
こうしたことに関して、
強く 心に残っている話があります。桑原武夫さん、
この方は 日本学術会議の議長もなさった 高名な学者ですが、
この方が『原爆の子』という文集を読まれた時の感想に
非常に 胸を打たれたことがあります。それは、
「原爆に遭って、もう助からない という大火傷をした子供が、
母親の作ってくれたオニギリを 自分の傍らにいる人に差し出す」
という話についてのものです。今 思い出しても 胸の詰まる思いがするのですが、
その中で 桑原さんは
「こうした人間を育てることこそ 教育の目的ではないか」
と書いておられました。瀕死の傷を負いながら、
「自分は もう助からないから、このオニギリを 食べて下さい」
と 他人を思いやれる、情けをかけることの出来る けなげさ、気高さ……。桑原氏は それを読んで 涙が止まらなかったそうです。
このように、
世間一般でも 心ある人は、
「困っている人を助けられる人間に」と言い、
あるいは、
今わの際にも 自分の食べ物を差し出すことのできるような 人間を育てることこそ 教育の目的だ、
と 言われるのです。我々 お道の者であれば なおさら、
「人だすけのできる人間」に育て上げるということを、
子供を育てる目標に据えさせて貰わねばならない
と思います。おかきさげに、
「人を救ける心は 真の誠一つの理で、救ける理が救かる」
とありますが、
まさに
人をたすける心と行いこそが
何よりも 親神様の思召に適うものであります。また、親神様のお望み下さる世のあり様、
陽気ぐらしのために 欠かせないものとして
「たすけ合い」を仰せになっています。おふでさきに、
このさきハ せかいぢううハ 一れつに
よろづたがいに たすけするなら (十二 93)このみちハ どふいう事に をもうかな
よろづたがいに たすけばかりを (十三 37)などと ありますように、
世界中の人間が、何事につけても 互いにたすけ合う姿こそ、
親神様のお望み下さる 世の姿であります。即ち、
「人だすけのできる人間に」という目標は、
世界一れつの 陽気ぐらし という
人類全体の 大目標に続くものなのです。こうしたことを踏まえて、
改めて
私たち人間の 成熟 とは何か、教育の目的 とは何か、
と 考えてみますと、
教育の目的は、
決して 一流の学校へ入り、一流の会社に就職して、金を儲けたり、出世したりすることではなくて、
人だすけのできる人に育てることだ
と 言ってよいと思います。人だすけのできる人間であることこそが 人間の成熟であり、
(上田嘉太郎『基本教理を身につけよう』P,91~98)
全ての人間にとって 最も大切な 心得、生き方 ではないでしょうか。
「をふとのべのみこと」上田先生解説の自己覚書き
「をふとのべのみこと」
- 出産の時、親の胎縁から 子を引き出す世話。
- 世界では 立毛万物 引き出し一切 の守護の理。
- 【出産の時、親の胎縁から子を引き出す世話】
★出産の時、親の胎内から 子を引き出す」= お産
★お産は 女の大役(大厄)+ 苦痛を伴うととも 命がけでもあった
➡よろづたすけの道あけとして、をびや許しをお出し下ったことの意義が
一層 よく分からせて頂ける。
- 【人を育てる場合】
★「立毛」= 粒毛
農産物、特に米麦をはじめとする 穀類を指す言葉。
また、穀類をはじめとする 農作物、さらには、食べ物一般も 意味する。
★「こふき本」には、食物という表現が出てくる。
農作物に限らず、魚類とか畜類の成育についても、
この「立毛万物引き出し」という表現で仰せになっている。
★「万物引き出し」には、農作物や魚類、畜類の成育、成熟のみならず、
物事一般の伸長、発展といったことも含意されている。
人を育てる というようなことにも つながってくる。
★「引き出す者を 玄人と言う」(こふき本)
と、をふとのべのみこと の御守護の理のところで 記されている。
玄人というのは、その道に熟達した人、プロというような意味。
をふとのべのみこと の御守護の理合いは、
人の成長や教育にまで及ぶ ということ。
★立毛万物の引き出し、また、魚類や畜類が成長するのは、ただ 形が大きくなるだけではない。
単に形が大きくなる、太るというのではなく、
一つの成長、成熟の過程をも含む。
★その点から考えると、「時」が 大切な要素になってくる。
★人間の側から見ると、
水をやるにしても、肥やしを施すにしても、
それぞれの段階に応じて、
その旬、タイミングを見極めなくてはならない。
- 【教育の目標】
★世間一般でも、心ある人は、
「困っている人を助けられる人間に」と言い、
あるいは、
今わの際にも 自分の食べ物を差し出すことのできるような人間を育てることこそ 教育の目的だ、と主張する人もいる。
我々 お道の者は、なおさら、
「人だすけのできる人間」に育て上げるということを
子供を育てる目標に据えさせて貰わねばならない。
★おかきさげに、
「人を救ける心は 真の誠一つの理で、救ける理が救かる」
とある通り、
人をたすける心と行いこそが
何よりも 親神様の思召に適うものである。
★世界中の人間が、
何事につけても 互いにたすけ合う姿こそ、
親神様のお望み下さる 世の姿。
「人だすけのできる人間に」という目標は、
世界一れつの 陽気ぐらし という
人類全体の大目標に続くものでもある。
★私たち人間の成熟とは何か、教育の目的とは何か、と考えてみると、
➡教育の目的は、
決して 一流の学校へ入り、一流の会社に就職して、金を儲けたり、出世したりすることではなくて、
人だすけのできる人に育てることだ と言える。
人だすけのできる人間になることこそが
人間の成熟 であり、
全ての人間にとって 最も大切な心得、生き方である。
おわりに
「十全の御守護」学習シリーズ8回目の今回は、
をふとのべのみこと 御守護の解説部分を 書写しました。
上田先生の解説を読んで、
をふとのべのみこと のお働きは「万物引き出し」の御守護であり、
それはまさに、
『教育』という、宗教の根幹にもつながる分野をダイレクトに扱うお働きである、
ということを
改めて教えられました。
今回の をふとのべのみこと 御守護の書写を終えて思ったのは、
前回学んだ、たいしよく天のみこと のお働き=「切る」ことも大切だが、
切った後に、をふとのべのみこと のお働き=「引き出す」ことによって、
初めて、
より成熟、成長した姿を現わすことが出来る、
ということ。
すなわち、
神様の御守護というものは、
ある一面だけ限定的に感じたのでは不十分(不完全)で、
対象的な二つの御守護をセットで考え、受けとめることが大切である、
ということでした。
(二つ一つが天の理)
前回の たいしよく天のみこと 御守護、書写の中で、
誕生~死までの、生存の証である呼吸(息)の働きを司る かしこねのみこと と、
呼吸の最初と最後の「切る」働きを司る たいしよく天のみこと が、
かぐらづとめでは 対面に配置されているということ、
そのことに深い神意が感じられる、
という記述があったことが 印象に残っています。
このたびの一連の「十全の御守護」学習を通して、
本当に、様々な「御守護」が
【組み合わさる】
ことで人間は守り導かれているのだ、
ということを、
改めて学ぶことが出来ました。
有難いことです。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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