天理教 各教会の歴史探索(第87回)【防府大教会】『天理教事典』より

「防府大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号86番「大森町大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号87番「防府大教会」について勉強します。

  1. 防府大教会(ほうふ だいきょうかい)
    1. 土佐卯之助 撫養初代会長が山口県布教を熱望するに至る経緯(明治23年頃〜明治24年頃)
    2. 岩朝脇次郎による山口県布教取り掛かり(明治25年頃)
    3. 撫養の本格的山口県布教の始動(明治26年)
    4. 古川太十郎 初代会長について
    5. 古川太十郎の山口県布教の始まり(明治27年)
    6. 名東から山口県布教に派遣する布教師4名の選任(明治27年)
    7. 2名の無断帰国 〜 柏原友吉 魂の説諭、山口布教再び(明治27年)
    8. 4名の青年布教師による山口布教の発展(明治27年頃)
    9. 防府支教会の設置(明治28年)
    10. 防府の道の広がり(明治28年頃〜明治35年頃)
    11. 防府分教会へ改称 〜 客室建築(明治42年〜大正11年)
    12. 名東分教会が撫養大教会から分離昇格、防府分教会は撫養大教会直轄へ(大正14年)
    13. 古川太十郎初代会長の出直し、古川新一2代会長の就任(昭和2年)
    14. 古川新一2代会長の出直し、古川ユキ3代会長の就任(昭和4年)
    15. 古川ユキ3代会長の出直し、古川光明4代会長の就任(昭和5年)
    16. 古川光明4代会長の出直し、松本弥吉5代会長の就任(昭和12年)
    17. 歴代会長の相次ぐ出直しを受けた防府の歩み、成人の道(昭和初期〜昭和中期)
    18. 広がる海外の道(昭和5年頃〜昭和11年頃)
    19. 防府大教会へ昇格(昭和16年)
    20. 松本弥吉5代会長の出直し、岩田勇 会長代務者の就任(昭和18年)
    21. 教祖殿の建築落成鎮座奉告祭(昭和19年)
    22. 土佐 元6代会長の就任(昭和19年)
    23. 土佐 元6代会長の満州天理村開拓団長任命、岩田勇会長代務者就任(昭和20年〜昭和21年)
    24. 信者詰所の建築開所 〜 土佐 元6代会長の帰国(昭和24年〜昭和25年)
    25. 神殿の移転建築(昭和35年〜昭和38年)
    26. 土佐 元6代会長の辞任、岩田勇7代会長の就任(昭和44年)
    27. 岩田勇7代会長の辞任、古川明夫8代会長の就任(昭和47年〜昭和48年)
  2. おわりに
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防府大教会(ほうふ だいきょうかい)

防府大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビュー より

防府大教会は、
撫養大教会 初代会長・土佐卯之助の 止み難き山口県布教の念願と、名東大教会の草分け・柏原友吉の 土佐会長に対する報恩の現れによって 誕生した教会である。

土佐卯之助 撫養初代会長が山口県布教を熱望するに至る経緯(明治23年頃〜明治24年頃)

明治23〜4年頃、撫養初代会長・土佐卯之助は、毎月 (天理教)教会本部に帰参して 各直属教会長達から県外布教の実情を見聞し、撫養も (更なる) 県外発展を(遂げることを目指した布教活動というものを) 心がけていた。 

ある時、
(天理教教会)本部詰の増野正兵衛が、山口県の萩出身であるところから、故郷の山口県への布教を願い出た。
(しかしその時は、山口県への布教は) いんねんのある者が行くから…とのことで、お許しが出なかった。

これを聞いた土佐卯之助は、
(自身が) 山口県佐波郡 中関町字向島 (現・防府市) 生まれであり(山口県に深いいんねんある者である事もあり) ぜひ、郷里・山口県に教えを伝えよう (伝えたい)、との思いを強く抱いた。

(以上が、土佐卯之助 撫養初代会長が山口県布教を熱望するに至った経緯である。)

岩朝脇次郎による山口県布教取り掛かり(明治25年頃)

(山口県での布教活動展開を志すようになった) 土佐卯之助 撫養初代会長は、
(まず) 布教の端緒を得ることに努めた。

(布教の端緒を掴むべくいろいろ当たる中で) 
徳島県撫養町 (現・鳴門市) 在住の義太夫師匠・三沢勝之助の弟子に当たる香川県鶴羽出身・鶴棹万吉が、
山口県佐波郡右田村 勝坂 (現・防府市) に移住し、義太夫師匠として生活していることを知った。
(その者は) 土佐(まさ)夫人の知人でもあったので、紹介状を依頼して、これを布教の足場にしようと考えた。 

当時、撫養の教線は、山陽道を越えて 既に 九州に伸びていた。

土佐卯之助 (撫養 初代会長) は、
(まず) 中国地方(山口県)の教線を伸ばす最適人材として 撫養の理事・岩朝脇次郎を選び、
明治25年(1892) 9月19日、(天理教)教会本部から 岩朝脇次郎・防州派出の許しを得た。

(そして、防州に派出された岩朝脇次郎は) 九州(地方) の 撫養の伝道状況を視察する途次、
久木貞蔵を同道して山口県勝坂・鶴棹宅に立寄り、(鶴棹万吉の義太夫師匠である) 三沢(勝之助) の依頼状を (鶴棹万吉に)手渡し、布教の足場になるよう懇請した。

鶴棹(万吉)は 名人肌の人で、(その時) 天理教は初めてであったが、(義太夫)師匠 (三沢勝之助)の手紙を信頼して、(岩朝脇次郎と久木貞蔵の) 2名を 厚くもてなした。

(二人は鶴棹宅に) 1泊して、
岩朝(脇次郎)は 地方の民情や宗教などを尋ね、(それと同時に)天理教の教理を説いた。
(そして) 金米糖の御供とお息紙を (鶴棹万吉に)渡し、病人や怪我人にやってくれるよう頼んだ。(そして、撫養に帰った。)

撫養の本格的山口県布教の始動(明治26年)

(その翌年の) 明治26年、
岩朝(脇次郎)は、(今度は) 吉成森蔵を連れて、(まずは 撫養の修理巡教として) 再び 九州に渡り 布教を応援。
1ヵ月後 (九州巡教を終え、撫養への) 帰路、再び (鶴棹宅のある山口県の)勝坂に(立ち寄った。
すると、山口県勝坂では、鶴棹万吉に渡していた御供やお息紙で救かった人達が数多く居ることがわかった。
そこで、岩朝脇次郎は山口県勝坂に) 滞在して、御供やお息紙でたすかった人達に (天理教の)教えを説いた。
(山口県勝坂では) 大いに布教気運の盛り上がりが感じられるような状況であった。

(九州巡教から撫養へ戻ってきた岩朝脇次郎から山口県勝坂地方における布教気運盛り上がりの報告を受けた) 土佐卯之助(撫養初代会長) は、
この山口県布教の状況は、神意の発露(に相違ない)と悟った。
(そこで) 多年の念願である山口県布教の決意を固め、派遣する人材の物色を始めた。

古川太十郎 初代会長について

(話は少し遡るが) それより前の明治25年、
撫養第1号 名東支教会が設置された。

(名東支教会では) 毎夜 4〜5名の信者が参拝し、(その中から) 柏原友吉の導きにより、有為の青年布教者を輩出し(てい)た。
その中のひとりが、古川太十郎である。

古川太十郎は、明治4年6月6日、徳島県名東郡 加茂名村 大字西名東村の 森田家に生まれた。
後の 防府初代会長である。

(古川太十郎は)
(名東支教会の) 柏原友吉の諭しにより、生家である森田家のいんねんを深く自覚。
(それで) 自分の将来の野望を打ち捨てて、生涯 布教専務の心を定めていた。

古川太十郎の山口県布教の始まり(明治27年)

土佐卯之助は、この非凡な古川(太十郎) の人柄を見出し、将来を嘱望した。

(土佐卯之助から見出された 古川)太十郎は、
明治26年、名東(支教会)から 青年として撫養(分教会)へ出仕することとなった。

翌(明治)27年1月、古川(太十郎) は、浜田藤五郎に伴われて淡路島へ布教に渡り、既に信仰している人を足場に 新しく30戸余りの信者を結成し、着々と布教実績をあげた。

(そして) 同年(明治27年) 3月10日、
岩朝脇次郎が 再度 九州巡教に赴くに当たって 古川太十郎を同伴。
帰途 (山口県) 勝坂に立寄り、古川(太十郎)を残して(岩朝脇次郎は 一人撫養へ帰り、そこから、古川太十郎は)(山口県勝坂に留まって) 布教(を)開始することになった。

(その当時) 24歳の青年・古川(太十郎)は、異郷の地に独り残り、宿願の単独布教に勇み立った。
(古川太十郎が山口県勝坂へ赴く以前に行われていた) 岩朝脇次郎の熱心な布教活動や、鶴棹(万吉)から貰った御供等によって、(山口県勝坂地方において) 不思議な珍しいおたすけが (次々と) 現れ(てい)た。

(古川太十郎は) 家々を回り、短期間に36戸の信者名簿を作って、同年(明治27年) 5月6日、一度 撫養へ帰った。

名東から山口県布教に派遣する布教師4名の選任(明治27年)

土佐卯之助は、山口県(への) 布教(師)派遣について、古川太十郎を先ず選んだ(わけだ)が、その他の適任者がなかなか見つからなかった。

撫養(の)副長・麻植房次郎は、土佐卯之助 (撫養会長)の心を汲んで、
(名東支教会の) 柏原友吉に対して 土佐卯之助の山口県布教の熱意を打ち明け、布教師派遣について懇望した。

土佐卯之助 (撫養会長)の恩義に報いたいと常日頃から念願していた柏原友吉は、(麻植房次郎からの要望に) 喜んで同意し、(さっそく 山口県へ派遣する布教師の選定に取り掛かった。
そして) 遂に (土佐卯之助が) 待望する山口布教に、名東から 古川太十郎・岩田忠次・篠原伴二郎・黒地重三郎、以上 4名の青年が選ばれた。

布教費は、古川(太十郎) のみ自費で、他の(3名の)者には 名東役員達の拠出金が与えられた。

2名の無断帰国 〜 柏原友吉 魂の説諭、山口布教再び(明治27年)

同年(明治27年) 5月19日、4名の青年が 勇躍 山口県単独布教に出立した。

海路 岩国に上陸した4名は、鶴棹宅を頼って、(山口県) 勝坂に足を止めた。
古川(太十郎) は24歳、外の者も25、26歳の青年で、岩田(忠次)・黒地(重三郎) 両名は、教職もおさづけの理も まだ拝戴していなかった。

鶴棹(万吉)の隣人、河村伊右衛門 及び 藤井磯次郎は、天理教に好意を持ち、(名東から派遣されてきた布教師の) 布教の応援を惜しまなかった。

しかし、土地の人情風俗は 阿波とは全く異り、未知の土地での布教は、如何に布教熱意があっても、他宗の反対などもあって、信仰的に未熟である青年にとっては非常に辛く、困難なものであった。

そのため、岩田(忠次)・黒地(重三郎) の2名は、遂に 布教の労苦に耐えかねて 徳島に無断帰国した(のだった)。

柏原友吉は (岩田・黒地両名が布教地から無断帰国したとの知らせを受け、神殿に駆けつけた。そして、無断帰国した)この両名を、帰宅させず神前に座らせた。
(そして) 1昼夜、共に食事もとらず、魂込めて 異郷の地に骨を埋める覚悟を仕込んだ。
(柏原友吉は、深い親心をもって、布教師にかけられた土佐卯之助撫養会長の大きな期待と尽きせぬ天恩について懇々と諭し) もし布教の実があがらねば周防灘に飛びこんで神様にお詫びせよ、とまで(の熱い言葉をもって) 激励した。

(一度は心を倒した) 若い2人の教え子(であったが、柏原友吉からの魂のこもった熱意あふれる説諭を受けて、両名)は (心機一転) 2度目の門出を決意した。

4名の青年布教師による山口布教の発展(明治27年頃)

(明治27年) 5月から10月にかけて、(挫折を乗り越え新たなスタートを切った2名を含む) 4名の青年布教師の、熱心で真剣な布教活動は、周囲から驚異をもって注目されるようになった。

(鶴棹万吉隣人の) 藤井磯次郎宅の 表8畳の間を借りての自炊生活や 彼らの態度に、家主の藤井(磯次郎)は 深く感ずるところがあり、4名を派遣した名東(支教会)を 一度 訪ねたいと思った。

そこで、(藤井磯次郎は) 柳元孫太郎と連れ立って、同年(明治27年) 10月、徳島を経て(天理教)教会本部に参拝した。
(藤井磯次郎は) 実際に (徳島の) 名東(支教会)・撫養(分教会)、さらには (奈良県天理市の) おぢばの空気に触れ、天理教が真実の教であることを納得。帰国後は、その宣伝に努めた。

そのことは、(山口県勝坂の) 講社の者に対する信頼心を厚くし、(そうこうするうちに) 20キロの遠方からでも、勝坂の神様と慕い寄り、(講社に) おたすけを受けに来る者が出て(くるようになって)きた。

明治28年1月には、18名が上和(=おぢばがえり)し 帰路 再び(徳島の)名東(支教会) に回り、1ヵ月滞在して 柏原友吉の教えを受け、おてふりを学んで帰った。

これら先達は、4(名の青年)布教師を援けて 盛んに布教に励んだので、4名(の青年布教師)は (その後押しを受けながら) 各地に手分けして布教に回った。
(その結果) 各地各所に 10数ヵ所の講社が結ばれ、多忙な布教活動が展開されるに至った(のだった)。

防府支教会の設置(明治28年)

明治28年になると、信者間に教会設置の議が起こり始めた。

教勢は 段々(と)活気を呈し、同年(明治28年) 1月中旬 及び 下旬の2回にわたり、
古川(太十郎) ・岩田(忠次)の両名が、名東(支教会)・撫養(分教会) に帰り、教会設置を陳情した。

同年(明治28年) 3月、
岩朝脇次郎は、名東(支教会の) 森田喜一郎を同道して 山口県布教を視察、指導。
(そして、ついに) 念願の教会設置の運びとなった。

こうして、明治28年5月23日、
山口県佐波郡佐波村字東野崎1395 に「防府支教会」が開設された。

初代会長には、古川太十郎が就任した。
土佐卯之助ゆかりの地に、(待望の) 教会が設置されたのである。

鎮座祭は 明治28年11月3日に、奉告祭は 明治28年11月4日に執行された。

(支教会) 設置時の教勢は、教導職試補 16名、改式者 40戸、信徒 600戸であった。

防府の道の広がり(明治28年頃〜明治35年頃)

「防府支教会」設置後、引続き、部属教会(の)設置や 他県布教が進められた。

明治28年12月、都濃出張所 (所長・岩田忠次)、
明治29年1月、徳地出張所 (所長・篠原伴二郎)、
同年(明治29年) 4月、佐波出張所 (所長・黒地重三郎)・吉敷出張所 (所長・藤井磯次郎)・関西出張所 (所長・吉田里次郎)、
明治31年7月、都山出張所 (所長・藤本梅之進)・厚東出張所 (所長・鶴棹万吉)、 
以上が設置された。

さらに、明治31年、古谷若蔵夫妻が 台湾布教のため渡台。
明治36年、台北に 台府布教所の設置をみた。

明治31年、藤田ふくが 長崎へ布教、
更に 長崎から 川崎隆三が 五島榎津に教えを伝えた。

明治34年、長崎に 長海出張所 (所長・河村伊右衛門)、
翌(明治)35年、五島青方に 中通出張所 (所長・藤田誠人) が設置され、
同年(明治35年)、福岡県 及び 佐世保方面に、山田茂太郎、村井亀吉…他が 布教に進出した。

防府分教会へ改称 〜 客室建築(明治42年〜大正11年)

明治42年2月9日、
防府(支教会)は 分教会に 改称となった。

大正11年(1922) 12月、客室(を) 建築(した)。

名東分教会が撫養大教会から分離昇格、防府分教会は撫養大教会直轄へ(大正14年)

大正14年、名東分教会は 撫養大教会から分離、中教会に昇格した。
防府分教会は、撫養大教会に 残留することとなった。

当時の部属教会は、44ヵ所であった。

古川太十郎初代会長の出直し、古川新一2代会長の就任(昭和2年)

昭和2年(1927) 6月25日、
初代会長・古川太十郎が出直した。

(それに伴い) 昭和2年 7月25日、
後任として、古川新一 (初代会長 長男) が、2代会長に就任した。

古川新一2代会長の出直し、古川ユキ3代会長の就任(昭和4年)

ところが、(古川)新一(2代会長)は、
(就任)2年後の 昭和4年 5月27日に 出直した。

このため、昭和4年 7月21日、
3代会長として、古川ユキ (初代会長夫人) が就任した。

古川ユキ3代会長の出直し、古川光明4代会長の就任(昭和5年)

ところが、(古川ユキ)3代会長も また、
就任後間もない(就任翌年の) 昭和5年 2月11日に出直した。

そこで、同年(昭和5年) 5月21日、
初代会長の次男である 古川光明が 4代会長となった。

古川光明4代会長の出直し、松本弥吉5代会長の就任(昭和12年)

ところが、(就任7年後の) 昭和12年 3月7日、
4代会長・古川光明もまた、出直すに至った。

同年(昭和12年) 6月13日、
5代会長に 松本弥吉 (防府分教会 役員) が就任することになった。

歴代会長の相次ぐ出直しを受けた防府の歩み、成人の道(昭和初期〜昭和中期)

このように、たび重なる会長の出直に遭遇した 防府(分教会)は、
撫養(大教会)・名東(大教会)から 繰返し指導を受けることになった。

部内教会一同 深く反省し、なお一層 上級、更に おぢばに対する御恩報じの精神を固め、たすけ一条に励み、成人の道を進めるよう努めた。

広がる海外の道(昭和5年頃〜昭和11年頃)

その中から 教勢は徐々に伸び、特に 海外布教が実った。

昭和5年 7月、新義州・撫鮮宣教所 (所長・大川茂三郎)、
昭和9年 7月、台湾・台中市教会 (会長・永井ヱダ)、
昭和11年 1月、ハワイ・ホノルル港教会 (会長・岩田昌幸)、
昭和11年 8月、ブラジル・コリリヤ教会 (会長・野崎スミ)、
以上が設置された。

防府大教会へ昇格(昭和16年)

昭和16年3月26日、
防府(分教会)は、撫養大教会より分離、大教会に昇格した。

この時、部属教会 73ヵ所であった。

松本弥吉5代会長の出直し、岩田勇 会長代務者の就任(昭和18年)

昭和18年 4月26日、
5代会長・松本弥吉が出直した。

(昭和18年) 9月1日に
教会長代務者として 岩田勇が就任した。

教祖殿の建築落成鎮座奉告祭(昭和19年)

昭和19年 3月29日、
教祖殿 建築落成鎮座 奉告祭を執行(した)。

土佐 元6代会長の就任(昭和19年)

同年(昭和19年) 5月28日、
6代会長に 土佐 元 (本部青年、熊本・鹿児島・沖縄教区長) が就任した。

土佐 元6代会長の満州天理村開拓団長任命、岩田勇会長代務者就任(昭和20年〜昭和21年)

昭和20年3月4日、(土佐 元)6代会長は、
満州の 天理村開拓団 総団長に任命され 任地にあたったため、
昭和21年10月25日、再度、岩田勇が 大教会長代務者に就任した。

信者詰所の建築開所 〜 土佐 元6代会長の帰国(昭和24年〜昭和25年)

昭和24年 4月には、天理市三島町360番地に 信者詰所 建築開所した。
この時、部属教会 104ヵ所であった。

昭和25年 2月15日、大教会長の土佐元(6代会長) が帰国し、
(昭和25年) 3月14日、岩田勇(は) 大教会長代務者の任を解かれた。

神殿の移転建築(昭和35年〜昭和38年)

昭和35年 6月26日、
神殿移転建築願が許され、(山口県) 防府市桑山1丁目2番31号に移転する(こととなった)。

境内地 10,978平方米に、
神殿 1階629平方米・2階 629平方米、
客室:1階 374平方米・2階 261平方米、
食堂 及び 講堂:1階 612平方米・2階 317平方米、
などの建築を成した。

(そして) 昭和38年 6月7日 鎮座祭、翌 (6月)8日 奉告祭を執行した。

土佐 元6代会長の辞任、岩田勇7代会長の就任(昭和44年)

昭和44年 3月30日、
6代会長・土佐元が辞任。

(昭和44年) 4月23日付をもって、7代会長に岩田勇が就任した。

この年(昭和44年) 8月5日、
信者詰所が、天理市布留町1番地 第1母屋及び第2母屋に移転した。

岩田勇7代会長の辞任、古川明夫8代会長の就任(昭和47年〜昭和48年)

昭和47年 10月1日、
7代会長・岩田勇が辞任。

翌(昭和)48年 1月26日、
古川明夫 (初代会長 孫) が 8代会長に就任した。

〔現住所〕〒747-0808  山口県防府市桑山1丁目2−31
〔電話〕0835-22-1379

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,757〜759)

おわりに

防府大教会AppleMapより①
Apple Map より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

87回目の今回は、
「防府大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

防府大教会AppleMapより②
Apple Map より

防府大教会は 撫養大教会から分かれた大教会ですね。
撫養大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

『天理教教会所在地録』の本部系統表によると、防府大教会は撫養大教会から直接分かれたようになっていますが、歴史的には、撫養から分かれた名東大教会から分かれた大教会。
そのことは、以前、周東大教会について勉強した時に学びました。

以前、周東大教会について勉強していたので、今回の「防府大教会」初期歴史は 頭に入りやすかったです (^^)

防府大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

過去記事、当シリーズ第64回で周東大教会について勉強した際に知ったこと。
それは、
撫養大教会からの山口県への道は、土佐卯之助・撫養初代会長がその生地に何としてでも教えを広めたいとの強い思いから付けられたものだ、
という事でした。

土佐卯之助・撫養初代会長の生まれ故郷である山口県に道を付けたいとの熱い思いを受けて、撫養部内・名東の柏原友吉先生が青年布教師の派遣を請け合われた。

で、山口県の東部である高森村に派遣された三浦文平・管川峯次郎 両先生が中心となって結成された教会が、後に「周東大教会」となり、
山口県中西部に派遣された古川太十郎 先生他4名の先生が中心となって結成された教会が、後に「防府大教会」となった。

当シリーズ第64回「周東大教会」の勉強した際に、そういう流れであることを学びました。

そのあたりの経緯については、
『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中の「山口周防へ」という項目で詳しく記述されていました。

第64回「周東大教会」の際にも書写しましたが、今回もまた、自己覚え書きとして書写します。

土佐卯之助(撫養初代)は、生まれ故郷 山口へ道を広めたいという宿願があった。

ある日、妻まさの知り合いの 三沢勝之助の弟子で、香川生まれの 鶴棹万吉が 山口で三味線の師匠をしていると聞いた。
万吉に 布教協力を要請、承諾を得ると 卯之助は、中国地方開拓の適材として 役員・岩朝脇次郎を選定した。

二十六年、脇次郎は 福岡出張の途中に立ち寄ることとし、山口県玖珂郡 高森村(現周東町)の旅人宿に泊まった。
卯之助がおぢばで会った巡礼が見つからず、逗留中、民情や宗教状態を調べる一方、宿の主人・福谷梅吉に道の教理を伝えた。

その足で 三田尻から佐波川を上り、佐波郡勝坂村(現防府市)の 鶴棹万吉を訪ねた。
道の話を仕込んだ上、金平糖の御供を五十包と お息紙五枚とを 渡した。

脇次郎は その後、度々山口県へ運び、心を尽くした。
卯之助は旬が来たとみたのか、いよいよ山口県へ道を伸ばす決意を固め、
名東の柏原友吉の指導による六人の青年を選んだ。

三浦文平・管川峰太郎を 高森方面へ、
古川太十郎・岩田忠次・黒地重三郎・篠原伴次郎を 勝坂へ 派遣することになった。

二十七年、古川ら四人は 鶴棹家に旅飾を解いた。
しかし、異郷の苦労に耐えかねた岩田・黒地は 夢破れ、傷心の心を抱いて帰郷した。
名東支教会に帰ると、友吉は 二人を神前に座らせ、一昼夜飯も食べさせず、道のため異郷の地に骨を埋める覚悟を仕込んだ。

再出発にあたり、友吉は 夜の明けるまで二人の布教の成功を祈った。
座っていた広間の畳は 水に浸したように色づいていた。
友吉の涙の跡であったという。

二人の青年は 勝坂へ戻るや、死を覚悟で布教した。
他の二人も 布教に拍車をかけ、四人は互いに鎬を削った。
おさづけを頂いていたのは 古川一人だったので、
病人が与えられると 四人が交互に話を取り次ぎ、最後に 古川がおさづけを取り次いだ。
防府支教会の元一日は、こうして 山口県の一角に産声をあげた。

一方、周東の道は、
岩朝脇次郎の布教が足場となり、三浦と菅川が布教して 二十八年、周東支教会 設置。
大正七年、部内・周陽支教会の担任・弘長幾太郎が 四代会長に任命された。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,95〜96)

過去記事、当シリーズ第64回「周東大教会」の勉強した際に、防府大教会と周東大教会の関係について自分なりに整理しました。
それを見ると、防府大教会と周東大教会の関係がわかりやすくなるので、以下に再掲します。

明治25年頃には 既に 九州方面に撫養の部内教会があって、
適宜、撫養(分教会)の役員である 岩朝脇次郎先生が そちらへ巡教へ行かれていた。

岩朝脇次郎先生は、
山口県に何とかして教えを広めたい との土佐卯之助先生の思いを受けて、
その途中の 山口県に寄った際に布教に励み、
今の周東大教会の元となる 高森村(後の周東町)と、
今の防府大教会の元となる 勝坂村(後の防府市)に 講社が出来た。

そして、時満ちて、土佐卯之助先生は山口県への本格的な布教活動を志され、
当時 まだ撫養分教会の部内だった名東支教会の 柏原友吉先生と相談。

その結果、
先駆けの岩朝脇次郎先生によって足掛かりの出来ていた地域、
すなわち、
①山口県東部の高森村(後の周東町)と
②山口県中西部の勝坂村(後の防府市)、
以上の2箇所に、
明治27年、名東支教会・柏原友吉先生の指導のもと 布教師を派遣することとなった。

そして、
①の山口県東部には 三浦文平・管川峯次郎両先生、
②の山口県中西部である勝坂村(後の防府市)には、古川太十郎・岩田忠次・黒地重三郎・篠原伴次郎の4先生、
以上の先生方が派遣された。

その結果、
①山口県東部の高森村における 三浦文平・管川峯次郎先生による布教が結実したものが、後の「周東大教会」で、
②山口県中西部の勝坂村における 4先生による布教が結実したものが、後の「防府大教会」、
そういうことだったのですね。

そう考えると、周東大教会と防府大教会は、兄弟教会と言っていいような気がします。

さまよいブログ天理教 各教会の歴史探索(第64回)【周東大教会】より)

ただ、今回「防府大教会」についての勉強を始めるにあたって、
『天理教教会所在地録』の本部系統表を見た時、
防府大教会の兄弟教会とも言える周東大教会は 名東大教会から分かれたことになっているのに、
防府大教会は 撫養大教会から直接分かれたようになっている、それはどうしてなのか、最初、不思議に感じました。

しかし その点については、今回の書き写しを進める中で、その背景を自分なりに解釈することが出来ました。

大正14年に 上級・名東分教会が、撫養大教会から分離して中教会に昇格することになった。
その際、周東は 名東の中に留まって共に分離し、防府分教会は 撫養に残留することになった。
それは、
部内教会が大きくなって上級教会から分離独立する際、まるまる分離するのではなく いくつか残していくようにする という慣習が 当時の天理教会組織文化の中にあったから…

実際の教会史にあたったわけではないので想像になりますが、
そのような慣習があるような話を 何となくふんわりとした感じで聞いたことがありますので (^^;)
【撫養ー名東ー防府】の間でも そのようなやり取りがあったのではないか、と個人的に 勝手に推察しました。

そして、そのような背景があって、
本部の系統表においては、周東大教会は名東大教会から分かれたことに、また、防府大教会は撫養から分かれたことになっているのだろう…
と、一人納得した次第であります (^^)

防府大教会AppleMapより③
Apple Map より

今回の「防府大教会」書写学習を通して、特に印象に残ったのは、
やはり、土佐卯之助 撫養会長の思いを受けて 名東の 柏原友吉先生が 山口県勝坂地方に派遣した 4名の青年布教師の内 2名が、心倒して無断帰国した、という下りでした。

何においても、大抵、歴史に残るのは、成功した美しい部分ばかりになりがち。
今回の「防府大教会」の初期歴史についても、古川太十郎 初代会長を中心とした先人たちの熱烈な布教活動のみに目が行きがちで、確かにそれがあって、今の 防府大教会の隆盛があることは間違いありません。
しかし、そのような中でも、何ごともその周辺を見渡してしまいがちな私の目は、多大な期待をかけられつつも耐えきれず 布教地から無断で帰国してしまった、ある意味、一度 挫折してしまったお二人の先生に対して向くのでありました。

所蔵教会の会長さんに指名されて 見ず知らずの土地に布教に派遣されて、意欲はあっても実績が上がらず、慣れない環境の中、周囲の人々からの冷たい視線反対攻撃を受けて…
そりゃ辞めたくなるのも当然だろう と思うのです。
少なくとも、私なら、間違いなく辞めています。

耐えかねて徳島へ帰国した 岩田忠次・黒地重三郎の両先生を、名東の 柏原友吉先生は、神殿に導き 神前に座らせ、一昼夜 共に食事も摂らず、仕込まれた。

『道〜天理教伝道史をあるく』には、次のように書いてありました。

異郷の苦労に耐えかねた 岩田・黒地は 夢破れ、傷心の心を抱いて帰郷した。
名東支教会に帰ると、友吉は 二人を神前に座らせ、一昼夜 飯も食べさせず、道のため 異郷の地に骨を埋める覚悟を仕込んだ。

再出発にあたり、友吉は 夜の明けるまで 二人の布教の成功を祈った。
座っていた広間の畳は 水に浸したように色づいていた。
友吉の涙の跡であったという。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,96)

鬼気迫る柏原友吉先生の誠真実の熱意が、時空を超えて 現代まで伝わってくるような気がします。

そして 『道〜天理教伝道史をあるく』には、続けて 次のように書いてありました。

二人の青年は 勝坂へ戻るや、死を覚悟で布教した。
他の二人も 布教に拍車をかけ、四人は 互いに鎬を削った。
おさづけを頂いていたのは 古川一人だったので、
病人が与えられると 四人が交互に話を取り次ぎ、最後に 古川がおさづけを取り次いだ。

防府支教会の元一日は、こうして 山口県の一角に産声をあげた。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,96)

異郷の苦労に耐えかねて帰国した 岩田忠次・黒地重三郎の両先生。
その挫折感は 如何ほどのものだったことでしょう。

しかし、柏原友吉先生は、傷ついた両先生の心を癒し、再起の力を与えるほどの誠真実の仕込みをされた。

勝坂へ戻った両先生は 死を覚悟して布教した、と『道〜天理教伝道史をあるく』に書かれてありました。
すなわち、自分は もう一度死んだ人間だと思って、布教に歩かれたのでありましょう。

それほどの覚悟で取り組む者を、神様が放っておくはずはありません。
そうした歴史を知ると、その後、防府の道が大きく飛躍し 後に大教会にまで発展した、というのも当然のような気がします。

毎回 終わりの方に書くことの繰り返しになりますが、このような歴史を知って 今の防府大教会の威容に触れると、本当に その姿に 何とも言えぬ奥行きが出てきますよね。

防府大教会AppleMapより④
Apple Map より

その他に、今回の書写学習において、
防府大教会においては、昭和2年に 古川太十郎 初代会長が出直してから、短期間の内に、就任した会長さんの出直しが相次ぐ という歴史を抱えておられる、
ということを 初めて知りました。

昭和2年に 古川太十郎 初代会長が出直してから 昭和12年に 古川光昭4代会長が出直すまで、わずか10年の間に 4人の会長さんが出直しておられる という事実。
これは、防府関係者の皆様にとって、実に 重い歴史だと感じます。

信仰落第生で部外者の私には、それをどのように思案すべきか、皆目 検討がつきません。
が、防府に関係する皆様方は、きっと その辛い節を通して、より真剣に神様と向き合い、より信仰を深められたのに違いありません。

外部の人間にその内情は分かりませんが、その後、防府支教会が、多くの人々の心を救い、大きく発展して大教会にまで成長している、という厳然たる事実が そのことを証明していると考えていいのではないか、と思いました。

同じフレーズの繰り返しになりますけれども、
かかる歴史的経緯を踏まえて 大きく発展を遂げた 今の「防府大教会」の姿を眺める時、その存在に、より深い重みと意義を 感じずにはいられません。

今回もまた、本当に知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、非常に感動すると共に、とても勉強になりました。

有難いことでした。

防府大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビュー より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「防府大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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