Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号26番「日光大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号27番「飾東大教会」について勉強します。
飾東大教会(しきとう だいきょうかい)
紺谷久平 初代会長の入信(明治9年頃~明治16年)
飾東大教会の初代会長 紺谷久平は、
播磨国 飾磨町 東堀(現在姫路市飾磨区東堀) に於て
紺屋(染物業)を営んでいたが、
明治9年(1876) 32歳の秋の暮れから
風眼を病むようになった。色々と治療に手を尽したが 効なく、
明治13、14年の頃には、
両眼共 ほとんど物の識別が出来なくなった。紺谷久平は、
眼病に霊験著しいといわれた稲荷堂に参籠するなどしたが、
遂には 失明同様になり、
到底直らぬ と諦める他ないようになった。この頃、
阿波国 名東郡 高崎村の
藍玉問屋 利」(カネリ) の番頭 正木国蔵という人が、
藍玉を卸しに回って来た。この人(正木国蔵) は、
妻の足の自由のきかないのを助けられ、
阿波国 撫養町の 土佐卯之助を講元とする真心組の 3番講社となっていた。正木国蔵は、
紺谷久平の妻 たけに
「大和には 結構な神様がある。真心こめて信心したら どんな病でもきっと救かるから信心してはどうか」
とすすめて、旅館へ帰った。この話を聞いても、紺谷久平はさして深く心にとめることもなく、
そのままに過ごした。しかし、どうした事か、
頭も眼も痛み続けて、
そのうち 堪えられぬ状態になった。藁にもすがる思いで、
妻から 再びすすめられるままに、
正木国蔵の宿へ使いを出して、来訪を請うた。そして、正木国蔵から
「かしもの・ かりもの」を始めとする天理教の教理話を聞いた。初めて聞く教理の話に、
紺谷久平は 深く感ずるところがあった。そこで、紺谷久平は、
その日、
裏庭の物干場に むしろを敷かせて
お燈明と水を供え、
大和の方と思われる方角に坐して、
独り 一心に祈願した。「前生の因縁を自覚させて頂きましたので、その納消のために商売を止め 救け一条の道に一生を捧げさせて頂きます。
もし 御用に使って頂けますなら 三日の間に眼をたすけて下され。
もし 因縁深くして とても救けて頂けぬものなら、三日の願が終ると共に 我が命を迎えとって下さいますよう…」と、紺谷久平は 命がけの祈願をこめたのである。
かくして
三日の日が過ぎようとする日、
紺谷久平は、
妻に この祈願の由を打明けて、死後の一切を 遺言した。それを聞いた妻 たけは、
「それほどの願いを、何故 私に相談してくれなかった…」
と、嘆き悲しんだ。そして
迎えた満願の三日目の夜、
紺谷久平は、
夢の中で 幾十とも知れぬ蛇を見た。その中のひときわ大きい白蛇が、
突然とびかかって来た。
驚きのあまり、
紺谷久平は、思わず「アッ」と声を上げて目が覚めた。目覚めた紺谷久平の眼に、
夜明けの光に照らされた障子の桟が 鮮やかに映し出された。時に 明治16年(1883) 12月27日。
この暁の光こそ、
飾東の道の夜明けであった。
飾磨真明講の結成(明治17年~明治19年)
かくて、明治17年が明け、
紺谷久平の布教の道中が始まった。この(明治17年) 旧正月18日、
紺谷久平は 初めて「おぢば帰り」に出発した。飾磨の港から大阪までは海路、ここから歩いて十三峠を越え、三島村に着いて、
村田幸右衛門宅に1泊させて貰い、
(旧 正月)20日朝 (村田)幸右衛門に連れられて 教祖の前に出た。教祖から
「遠方よう帰って来たなあ。よう参って来た」
とお言葉を頂いて、
紺谷久平は 感激で胸が一ぱいになった。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』
140. おおきに
紺谷久平は、失明をお救け頂いて、
そのお礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂き、
明治十七年二月十六日(陰暦正月二十日)朝、
村田幸右衞門に連れられて、妻のたけと共に、
初めて、教祖にお目通りさせて頂いた。
その時、たけが、お供を紙ひねりにして、教祖に差し上げると、教祖は、
「播州のおたけさんかえ。」
と、仰せになり、そのお供を頂くようになされて、
「おおきに。」
と、礼を言うて下された。
後年、たけが人に語ったのに、
「その時、あんなに喜んで下されるのなら、もっと沢山包ませて頂いて置けばよかったのに、と思った。」
という。
明治18年8月の頃、
夢の中で、教祖が、
紺谷久平の両頬を両手で堅くおさえ、口に強く息をふき込まれた。
何か「おぢば」に御用があるのかも知れぬと思い、久平は 早速 旅立った。おぢば帰りした紺谷久平が 教祖の前にいざなわれると、
教祖は、手ずから御幣を下されて
「これを祀って 講元をするのやで」
とのお言葉を下された。そして、あわせて、
お側の三宝から、じきもつと包紙 (12枚に切った半紙) を下されたのである。その後、
商売の都合で播州方面へ来られなくなった 正木国蔵のすすめもあって、
「おぢば」の往復によく訪ねていた清水与之助の 兵庫真明講に加入し、
明治19年頃には
兵庫真明講 第8番「飾磨真明講」と称えて、熱心に布教した。
飾東支教会の設立(明治20年~明治24年)
こえて 明治20年(1887) 旧正月13日、
教祖に、信者一同が心をこめて作った赤衣と座布団を献上したところ、
教祖は 大層お喜び下され、
その場でお召換えの上、お召しになっていた赤衣をお下げ下された。
(現在 飾東大教会の教祖のお目標として お祀りしてある)
『稿本天理教教祖伝逸話篇』
200. 大切にするのやで
明治二十年一月十一日、紺谷久平は、
信者一同が真心をこめて調製した、赤い衣服一枚と、赤の大きな座布団二枚を、
同行の者と共に背負うて、家を出発し、おぢばに帰らせて頂き、
村田幸右衞門宅で宿泊の上、山本利三郎の付添いで、
同一月十三日、教祖にお目通りした。
教祖は、御休息所の上段の間で寝んで居られ、
長女おまさが、お側に居た。
山本利三郎が、衣服を出して、
「これは、播州飾磨の紺谷久平という講元が、教祖にお召し頂きたいと申して、持って帰りました。」
と申し上げると、教祖は御承知下され、
そこで、その赤い衣服を上段の間にお納め下された。
つづいて、座布団二枚を出して、山本が、
「これも日々敷いて頂きたい、と申して、持って参りました。」
と申し上げると、
教祖は、それも、お喜び下されて、
双方とも 御機嫌宜しくお納め頂いた。
それから仕切りの襖を閉めて、
一寸の間、そちらへ寄っておれ、とのことで、
山本は下の八畳の間に下りる。
紺谷も、共に畏まっていると、
おまさが襖を開けて山本を呼んだので、山本が教祖のお側へ寄らせて頂くと、
赤衣を一着お出しになって、
「これをやっておくれ。」
と、仰せられ、つづいて、
「これは、粗末にするのやないで。大切にするのやで。大事にするのやで。」
と、仰せになった。
山本は、
「きっと、その事を申し聞かします。」
とお答えして、八畳の間に下り、
紺谷に、教祖から、そう申された、と 詳しく話して聞かせた。
こうして、紺谷久平は、赤衣を頂戴したのである。
翌(明治)21年(1888) 旧7月12日には
「おさづけの理」を戴いて、
益々 紺谷久平の信仰は 白熱の度を加えた。明治22年、兵庫真明講が兵神分教会となって後も、
飾磨真明講は その部属として東奔西走し、
姫路一帯に 多数の講社が生まれた。同(明治) 23年頃には、
姫路市と近傍7郡に亘って 7~800戸の信者を見るに至ったので
新たに教会設置を願い出ることとなった。当時の多数の信者の便利な地として、
現在 教会のある地(姫路市威徳寺町) に於いて 教会設置を出願し、
そして、明治23年(1890) 5月2日、
「飾東支教会」として許された。つづいて 神殿建築に着手し、
明治24年 正月19、20日に 開筵式を執行した。
飾東の道の広がり(明治25年頃~明治36年)
しかし、この後 一時 教勢は沈滞し、
粥もすすれないような日が 暫く続いた。その中にも、明治25年には
部内教会 第1号である 神山支教会(現在 神大分教会) が設置され、続いて(明治)29年には、
網干、市川、飾磨 の各出張所、
中姫路、高砂、辻川の各布教所、
計 6ヵ所の教会が設置された。そのように、追々教線は伸びたものの、
その頃は、財政的に 一層 苦しい時期であった。明治36年 11月には 教祖殿が建築された。
飾東支教会から分教会へ(明治37年~明治42年)
翌37年(1904) 8月、
紺谷久平の養子・金次郎が、
日露戦争に従軍中 戦死した。当時60歳の紺谷久平の身に、
23歳の嫁 ぬいと、2歳の孫・金彦が残された。頼りとしていた金次郎を喪い、一時は暗然としたが、
飾東支教会一同、心を取直して 更に信仰を深め、
明治42年(1909) 2月6日「飾東分教会」と改称。明治の終わり頃には、教会数 22ヵ所となっていた。
飾東分教会から中教会、そして大教会へ(大正9年~昭和8年)
大正9年には、従来の付属建物を増改築して
2階建 教職舎 1棟と 平家建 炊事場 1棟を 完成した。大正11年秋頃から、兵神大教会より分離する話が始まった。
幾多の曲折の末、
大正14年(1925) 9月9日に 本部直属教会として許され、
「飾東中教会」と改称した。同年(大正14年) 10月8日、
紺谷久平は 老齢のため辞職し、
孫の金彦が2代会長に就任した。同じこの年(大正14年) 、
奈良県山辺郡 二階堂村 指柳(現 天理市指柳町) の地に於いて
飾東信者詰所の建築にかかり、
12月24日に 兵神詰所から移転した。
当時の建物は、130坪の宿泊所と52坪の炊事場とであった。
(この詰所建物はその後、増改築、移築を重ねたが、そのほとんどが急造のバラックであったため、昭和27年に、現在の 2号館が建築された。
更に、昭和48年4月には、第28母屋として 1号館の完成をみている。)昭和8年、中教会から「飾東大教会」に昇格した。
神殿建築、そして紺谷金彦2代会長から紺谷久則3代会長へ(昭和後半時代)
しかし、大教会昇格後も、神殿等は創立当時のままで、
僅かに昭和9年に会長宅を建築し その他 神殿内部の改装を行う程度しか 建物の発展がないまま過ぎていたので、
昭和32年頃から 神殿建築の話が始まった。そして、一同の誠真実が結実し、
昭和35年末に、現在の神殿 及び 客間が完成した。なお この年(昭和35年)には 創立70周年記念祭を執行し、
記念として『大教会史』を編纂し刊行した。昭和37年 6月26日
紺谷久則が3代会長に就任。昭和43年(1968) 10月24日には、網干大教会が陞級分離した。
現在、会長を先頭にして
おたすけに積極的な活動がくりひろげられている。
社会福祉事業について
(飾東大教会は)
終戦後の混乱した世相の中にあって、信仰を社会事業の上に生かすべく、
昭和21年10月、姫路市の社会事業に 寄付を申し出た。姫路市立養老院、母子寮、 簡易宿泊所及び内職斡旋所が設立され、
飾東大教会が その運営を委託された。しかし、その建物は 旧陸軍の火薬庫を改造したもので、
老朽 甚だしかった。姫路市はその改築に困ったので、
社会福祉法人 白鷺園が設立されて、
昭和42年より これの改築に着手した。現在(『天理教事典』1977年版出版当時=昭和52年) では、
新装成った施設に於て、
養護老人ホーム、母子寮 及び 保育所が 経営されている。現在(『天理教事典』1977年版出版当時=昭和52年) の収容人員は
養護老人ホーム50名、母子寮15世帯、保育所定員90名である。〔現住所〕 〒670-0816 兵庫県姫路市威徳寺町43番地
〔電話〕079-281-4545(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,391〜392)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
27回目の今回は、
「飾東大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】27回目の当記事では
『天理教事典』の中の「飾東大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
飾東大教会は、兵神大教会から分かれた大教会ですね。
兵神大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「飾東大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)
【飾東大教会の歴史】
- 明治9年 秋の暮れ、
播磨国 飾磨町 東堀(現在姫路市飾磨区東堀) に於て 紺屋(染物業)を営んでいた 32歳の紺谷久平が、風眼を病むようになった。 - 明治13、14年の頃には、
紺谷久平の両眼共 ほとんど物の識別が出来なくなり、失明同様になった。 - その頃、たまたま、阿波国名東郡在住で藍玉問屋【 利」】(カネリ) の番頭をつとめ 広く全国各地に藍玉を卸して回っていた、阿波真心講(後の撫養大教会) 3番講社の 正木国蔵が播磨方面に来ており、
妻の紺谷たけが、その正木国蔵から 初めて教理を聞いた。
夫にも教理を聞くことを勧めたが、
紺谷久平は 深く心にとめることもなくそのままに過ごした。 - すると、紺谷久平の、頭や眼が痛み続け、そのうち堪えられぬ程となった。
藁にもすがる思いで正木国蔵の来訪を請い、初めて教理を聞いた。 - 正木国蔵から「かしもの・ かりもの」を始めとする天理教の教理話を聞いた紺谷久平は、その教えに深く感ずるところがあり、この道を歩むことを決意した。
そして、早速その日、裏庭の物干場に むしろを敷き、お燈明と水を供え、大和の方と思われる方角に向かい、命がけの祈願を行った。
自らの前生因縁を自覚したことを告白し、その因縁納消のために生涯を捧げる決意を表明。そして、
御用に使って頂けるのなら三日の間にその徴(しるし)を見せて頂きたい、
因縁深くしてそれが叶わぬから命を引き取って頂きたい、
と一心に願った。 - 明治16年12月27日、命がけの祈願 満願三日が明けた朝、
大きな白蛇に襲われる夢に驚き目が覚めた紺谷久平の眼に、夜明けの光に照らされた障子の桟が鮮やかに映し出された。
紺谷久平の揺ぎなき信仰がスタートした。 - 明治17年 旧暦正月18日、紺谷久平、おぢばへ向けて出発。
旧暦正月20日朝 村田幸右衛門に連れられて教祖の前に出て、教祖から「遠方よう帰って来たなあ。よう参って来た」とお言葉を頂いた。 - 明治18年8月頃、紺谷久平は、教祖から両頬を両手で堅くおさえられ口に強く息をふき込まれる夢を見た。
何か「おぢば」に御用があるかも知れぬと思い、急ぎおぢば帰りしたところ、教祖より御幣を下げて頂き「これを祀って講元をするのやで」とのお言葉を頂いた。 - その後、商売の都合で播州方面へ来られなくなった正木国蔵のすすめもあって、
紺谷久平は「おぢば」の往復によく訪ねていた清水与之助の「兵庫真明講」に加入することとした。
明治19年頃には 兵庫真明講 第8番「飾磨真明講」と称えて、熱心に布教した。 - 明治20年 旧正月13日、
教祖に、信者一同が心をこめて作った赤衣と座布団を献上。
教祖は 大層お喜び下され、その場でお召換えの上、お召しになっていた赤衣をお下げ下された。
(現在 飾東大教会の教祖のお目標として お祀りしてある) - 明治21年 旧7月12日、
紺谷久平「おさづけの理」拝戴。 - 明治22年、兵庫真明講が兵神分教会となった。
紺谷久平の「飾磨真明講」はその部内として東奔西走し、姫路一帯に 多数の講社が生まれた。 - 明治23年 5月2日、
姫路近辺の信者数増加に伴い、現在教会のある地(姫路市威徳寺町) に於いて教会設置を出願し、「飾東支教会」として許された。 - 明治24年正月19、20日、
「飾東支教会」 開筵式執行。 - 明治36年11月、
教祖殿建築。 - 明治37年8月、
紺谷久平の養子・金次郎が、日露戦争に従軍中 戦死。 - 明治42年2月6日
「飾東分教会」と改称。 - 大正9年、
従来の付属建物を増改築して 2階建 教職舎 1棟と 平家建 炊事場 1棟を建築。 - 大正14年9月9日、
大正11年秋頃から検討されていた兵神大教会より分離する話が紆余曲折の末、まとまった。
本部直属教会となり「飾東中教会」と改称した。 - 大正14年 10月8日、
紺谷久平初代会長が老齢のため辞職。
孫の紺谷金彦が2代会長に就任。 - 大正14年、
奈良県山辺郡 二階堂村 指柳(現天理市指柳町) の地に於いて 飾東信者詰所の建築開始。
12月24日、兵神詰所から移転。 - 昭和8年、
中教会から「飾東大教会」に昇格。 - 昭和21年10月、
終戦後の混乱した世相の中にあって、信仰を社会事業の上に生かすべく、姫路市の社会事業に寄付を申し出た。 - 昭和23年3月31日、
姫路市より白鷺園養老院・母子寮・簡易宿泊所・内職斡旋所の設立が認可され、飾東大教会がその運営を委託された。 - 昭和24年1月4日、
白鷺園開園。 - 昭和25年7月1日、
白鷺園保育所開設・保育開始。 - 昭和27年5月17日、
社会福祉法人白鷺園 設立認可。 - 昭和35年末、
昭和32年頃から動き出していた神殿建築が一同の誠真実にて実を結び、現在の神殿 及び 客間が完成。 - 昭和38年5月、
社会福祉法人白鷺園創設者・紺谷金彦、社会福祉事業に対する功労により紺綬褒章受賞。 - 昭和37年 6月26日、
紺谷久則3代会長に就任。
…そんな感じでしょうか。
社会福祉事業の歴史に関しては、
社会福祉法人 白鷺園HPを参照にしました。
飾東大教会は兵神大教会から分かれた大教会ですが、
初代の紺谷久平先生に「初めて」お道の教えを伝えたのは、
阿波国名東郡の【正木国蔵】先生だったのですね。
今回の勉強を通して、初めて知りました。
正木国蔵先生の名前は、
天理教大教会の歴史を勉強するシリーズを開始して、
既に何回か目にしました。
第14回「北大教会」の中では
豊岡方面の伝道者として記述されていました。
後の 豊岡大教会の信仰は、
もともと天地組からではなく、
四国の徳島から伝わった信仰である。その経歴をたずねると、
明治16年の秋、但馬地方は藍が出来ず、
紺屋仲間は 藍玉を徳島から取り寄せるべく、
温泉村湯村紺屋 木岡儀八郎が 代表して
徳島の問屋 利」こと 近藤利平方に手紙を出した。この時、
近藤方の手代として但馬へ行ったのが、
徳島在高崎の人、正木国蔵であった。正木(国蔵) は
この年 妻の産後の患いから、
徳島県麻植郡森山村山路の
野村京太(大阪真明組、後の芦津大教会からの信仰)
から話を聞いて 入信していた。正木国蔵は、
早速 兵庫県三方郡温泉村湯村の近江屋方に泊り、交渉を開始したが、
そのかたわら 神様の話を伝えた。宿の森田家の車曳きの 高垣源造、
床屋の 本田菊三郎、夏川くま、木岡儀三郎などが信仰した。
そして 照来村丹土の紺屋 田淵広七も 入信した。ある時 正木(国蔵) の言うには
「私は四国の徳島のものであり、
私の信者となると、ここから海を渡って徳島へ行き、それから又 海を渡って大和へ参拝せねばならぬ。
それは大変だから、大和への道順である大阪へ出て、
よき講元を探し、それの講社にしてもらいなさい」と。それで、田淵広七は
明治18年の末
大阪へ出て 講元をさがすこと3日目に、
やっと探し当てたのが、
樋ノ上橋西詰の 茨木基敬であった。しかし、時は既に 年末に近く、
(『天理教事典』1977年版 P,228)
但馬路は 雨雪の時期になっていたので、
茨木(基敬)は
来春には、当天地組より人を遣わしましょう と約束をし、
田淵(広七) は 但馬へ帰った。
参考までに…と思って、
当シリーズ未学習の「豊岡大教会」解説文を先走って見てみたところ、
上記とは ちょっと違う説明でした。
(木岡)儀八郎は
(明治17年)春3月頃より とかく健康が勝れず、
しばしば胃痛を訴え食欲は減退し、ぶらぶらする日が多くなり、
丁度 正木(国蔵)が (但馬国へ)訪ねて来た時は
「後1週間の寿命」と医師に宣告されてより3日目の夕刻であった。正木(国蔵)は
集金の話はそこそこにして病気の話と変わり、転じて神様の話となった。聞けば聞く程不思議な話であり、
不思議な守護を下さる神様であった。(木岡)儀八郎は
感銘し 3日間の祈願を頼んだ。その結果、
胃痛は止まり、内臓よりの悪臭もなくなり、
薄紙をはぐように快方に向かった。ここで(木岡)儀八郎は
あまりの感激に
翻然として 従来の職業と地位を放擲して
「たすけ一条」に専心すべく意を決し、入信を誓った。その後、(木岡)儀八郎は
近隣の人々及び同業者を集めて、正木国蔵の話を熱心に聴き、
正木(国蔵)の話に飽きることを知らなかった。正木(国蔵)の出発の近いことを知り、
(木岡)儀八郎は「今暫く滞在を」と懇請したが、
すでに出発を心に定めて来ているというので
変更も出来なかった。そこで、正木(国蔵)は
「四国の徳島は遠い。大阪の天満に行けば茨木さんという人がいる。その人を訪ねていくように」
との言葉を残し 立ち去った。…明治18年3月、(木岡)儀八郎は、
旅装に身を固め、単身 大阪を目指して出発した。
明治18年の頃といえば、汽車はなく、
50里余(約200キロ)の道を踏破して、茨木(基敬)の門をたたいた。茨木に初めて面会した(木岡)儀八郎は、
(茨木基敬に)入社を願い、教理の数々を聞き、
将来の指導を願って そこで1泊の後
「おぢば」へ参拝して 帰国の途についた。おぢばでの滞在は短かったが、
(『天理教事典』1977年版 P,608)
参拝したことにより、一大光明が与えられ、
心から喜びを持つようになった。
「北大教会」解説文の中では、
正木国蔵先生は、田淵広七先生に話をしたように書かれていますが、
「豊岡大教会」解説文の中では、
木岡儀八郎先生に話をした と書かれてあります… (-_-;)
…まぁ、いずれにしましても、
正木国蔵先生が
“自分ではなく 大阪の先生を頼りなさい”
と話をしたことは間違いなさそうですね。
また、第24回「名東大教会」の中では、その初代会長として記述されていました。
柏原(友吉)隣家の 寺内講元は、
同県(徳島)内 名東郡 高崎村 講元 正木国蔵の導きで入信。正木(国蔵)は 明治18年 妻の病気から入信、
明治21年10月「さづけの理」を戴いていた。そして、同村(高崎村)内 藍商某家の手代となり
播州や三丹地方へ 藍行商の傍ら 天理教の布教も行ない、
飾東初代会長 及び その他各地へ「にをいがけ」をした。一家の都合上 布教を専門にするには至らなかったが、
13戸の信者を結成し、
その枝先が 徳島市郊外 寺内講元の入信につながった。柏原友吉は 早朝魚市場を営み、
毎夜50名以上の病人が集まり 重病人も必ず救かる奇蹟に、
付近各村、板野郡貞方、大寺、名東郡高崎、西名東、田宮、芝原、井戸、八万、津田、勝浦郡飯谷、八多、吉井、大原、論田、麻植郡鴨島、牛島
その他へと波及し、
明治25年 徳島市幟町にて
撫養部内として、名東支教会設置出願する迄に 600戸の信徒を結成した。こうした中で 柏原友吉は
名東の会長になる事を辞退し、
高崎講元の 正木国蔵を名東支教会長として 出願許しを得、
柏原友吉は 理事として勤めた。名東支教会は、初代会長に正木国蔵をもって、
(『天理教事典』1977年版 P,881)
明治25年 6月22日付で (名東支教会の)会長就任と設置の許しを得た。
私は、この【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を開始してから
初めて「正木国蔵」先生を知ったのですが、
この正木国蔵先生は、
ご商売の関係もあって、まさしく、
この道を日本全国へ広める 伝道者の役割を果たされた先生なのですね。
正木国蔵先生に対して私が興味深いなぁと思ったのは、
伝道の結果を受けての組織化に関して、全く執着がない点でした。
名東大教会においては その初代会長に就任しておられるわけですけれども、
それも、
実質的な創設者である 柏原友吉先生が固辞したため、就任された。
その名東支教会長も、
就任して約8年後には、
相応しい該当者と思われる 柏原源次郎先生の環境が整った と判断されて、
すみやかに その会長職を譲り渡された。
また、正木国蔵先生は、
豊岡大教会、飾東大教会ともに
その礎となられた先生方へ 初めて この道を伝えられたわけですが、
その先生方が実際に歩むにあたっては、
「理」がうんぬん ということよりも、
地理的な面に配慮して、利便性というか 実利を優先して 行動された。
豊岡大教会の田淵広七先生に対しては、
「私は四国の徳島のものであり、私の信者となると、ここから海を渡って徳島へ行き、それから又 海を渡って大和へ参拝せねばならぬ。
それは大変だから、大和への道順である大阪へ出て、よき講元を探し、それの講社にしてもらいなさい」
と促された。(…『天理教事典』1977年版 P,608 「北大教会」解説文参照)
そして、その結果、
豊岡大教会は 北大教会の部内となられた。
また、飾東大教会の紺谷久平先生に対しても、
紺谷久平先生に初めて教理を伝えた者ではあるものの、
正木国蔵先生ご自身が商売の都合で播州方面へ来られなくなったと言って、
紺谷久平先生に、
身近な講元を捜してそれの講社にしてもらうことを勧められた。
その結果、紺谷久平先生は、
身近な清水与之助先生の兵庫真明講に加入されることとなった。
そしてその後、
飾東大教会は 兵神大教会の部内となられた。
もしも、正木国蔵先生が
「理」というか 縦の系列にこだわられる先生だったら、
豊岡大教会も、飾東大教会も、撫養大教会の部内…
ということになっていた可能性も あるわけです。
(それはそれで一つの道であり、そこに何の善悪も無いことは言うまでもないことですが…)
しかし、正木国蔵先生は、
手引きの親が○○だから 遠い近いは二の次、導きの親に付いていくのが正しい道だ…
という理念優先タイプではなかった。
“私が手引きしましたけど、私は遠方ですから、もっと身近で便利な人の所で信仰して下さい…”
という徹底的な実利優先タイプ。
いかにも、日々 実利を確保することが求められるご商人、今風の言葉で言うとビジネスマン気質の先生… という感じがします。
私は好きです、こういう考え方。
「理」というものを絶対視して正統性を最優先するよりも、日々の利便性を大切にした方が、圧迫感がないし、何より心が軽いじゃないですか…
――でも、きっとそういう考え方は、信仰的には未熟で、俗に言う「分かってない」というやつなのでしょうね。
ただ、正木国蔵先生のそのような行動の背景には、
これまで【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】で勉強してきて分かった点、
=道の初期には、現代のような系統へのこだわりはさほどなく、自分の都合で気軽に所属を選択できるという環境であった、という点、
そこには配慮する必要があるかもしれませんが。
現代のような、
「理」を重んじ、順序に重要な価値があることが共有される環境下においても
正木国蔵先生が同じような行動を取られるかどうか…
それは分かりません。
しかし、個人的には、
正木国蔵先生の考え方のような ユルイ組織の方がいいなぁ…
というのが本音です (^^ゞ
飾東大教会の勉強をしながら、
そこから随分離れた内容の話が広がってしまいました。
今回の勉強では、
紺谷久平初代会長の命がけの三日の願掛けによって、失明を御守護頂いた話、
後継者として当てにしていた養子さん(紺谷金次郎)を日露戦争で亡くされて失意の底に沈まれながら、そこから復活された話…等々、
全く知らなかったことを、たくさん知ることが出来て、本当に勉強になりました。
また、終戦後から、
混乱した世相の中で信仰を社会事業の上に生かすべく
養護老人ホームや母子生活支援施設、保育所等を経営され、
地域社会に大きく貢献しておられる点についても、
今回の勉強を通して初めて知りました。
飾東大教会の中の、
道と世界の融合 その実践者のトップランナー
という輝かしい顔を見ることが出来て、非常に感動致しました。
――その他のことも含め、今回も知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「飾東大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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