「おふでさき」【第十二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,12

「『おふでさき』【第十二号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年2月から継続中の“「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ。

今回で12回目。
今回勉強する「第十二号」は、「おふでさき」中、最多のおうた数(182首)です。

とにかく長いので、早速始めます。

前回は「おふでさき」【第十一号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第十二号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,12

open book on a brown wooden table

今回は、「おふでさき」【第十二号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第十二号】口語訳 書き写し

【第十二号】

(明治八年 陰暦) 十二月二十七日より (=陽暦 明治九年 一月二十三日) 

「今日からは 世界を月日が見定めて、胸の掃除に かかることにする。
この掃除には、うちもせかいも隔てなく、めいめい(=各自)の心を みな現わす。」
(1~2) 

(明治九年 陰暦) 三月十四日より 

「今までは、神のざんねん(に思うことは)、山のように (人間の)胸にほこりが積もっているが、情けない(=嘆かわしい)ことに、日柄も まだ ちょっと来ていない(=早い)ため、どんなことも 言うに言われなかった。

このたびは 月日が(ほこりの積もっている)真実を見兼ねるので、どのような事も みな 現わ(して掃除)する。
(すなわち) 今日の日は、どれ程 わが身(勝手に)威張ってままに(=自由に)していても、月日は(体内より)退く(=守護できなくなる)。」
(3~6) 

(陰暦) 四月四日より 

「この話は、何のことかと言えば、にほんも からも てんじくも (人間の心を澄ましていく)という事である。
(そのために、)これからは 世界中を一れつに (みな) 月日が掃除をするので、これを 承知していよ。
これまでも 月日がだんだんに 精一杯ことわりを言ってあるけれど、口先で言っただけでは 確かに承知する(=聞き分ける)者はない(ので、止むを得ず、ほこりを掃除して 心を澄まさねばならない)。」
(7~10) 

(陰暦四月)五日 

「今までも 月日は、だんだんと 精一杯心を尽くしているけれど、世界には、知っている者は 誰も居ない。
(そのために ほこりを積んでいるので、)どうも このたび(旬が来ては)、月日は 致し方ない。

それ故、世界中をどこまでも、(前もって) ことわっておくが、月日は (掃除のために体内から)しりぞく(=守護ができなくなる)のである。」
(11~13) 

(陰暦四月)十二日 

「今日の日は、何の話をするか と言えば、よふぎ(=用木)の 初めの事ばかり言う。
よふぎでも、その人は誰それである と言わないが、もとは一本でも 枝は八本(というように、それからそれと 沢山になる)。

この木を早く接ぎたい(=神一条の心定めをさせたい) という急込みによって、月日の胸がつかえきっている(程である)。
この木も、一枝をしっかり接いだなら、あとなる(枝)は みな 早く定まる。」
(14~17) 

「何もかも、月日の言うことは しかと聞け。
(そして、)心に定めを付けたなら、それからは 身の内の悩みは 全くなくなるので、だんだんに心は 勇むばかりである。

それを知らずに、皆の心は 誰でも、世界並のような事ばかり言う。
このところを (=教祖の言動については)、世界並とは 思うな。
月日の心よりする事ばかりである。」
(18~21) 

(陰暦四月)十四日 

「今日(きょうの日) になっては、月日の心のざんねんは、(もう)容易なことではない と思え。
人間は 浅はかなものであるから (見えた事ばかり言い、眼に見えない)月日のすることを知っている者が 居ない。

(だが 思案してみよ、) 月日は何ごとについても (これまで)だんだんと 前もって 言ってある。
これは 承知しているだろう。

今までも、月日のざんねんについては、何でも 大抵 口説いて(きたので、その話によって 眼に見えているはずで)あるのに、世界では、誰も (これ (=月日の心尽くし) を) 知っている者が 居ない。

月日の心のざんねんを よく見よ (=知れ)。
このたびは、ことわった上に また口説き、その上に さらに ことわっているのだ。」
(22~27) 

「どれほど口説き、ことわりを言っても、誰も 聞き分けする者は ない。
それ故に、だんだん 日柄が経つけれど、いつになったら “これだ” と(言って、心に得心して) 分かる という目当てがない。

(それ故、) 今日の日には、もう節(=旬)が来たから、月日が出掛け(て 胸の掃除にかか)る。
(これを) みな 承知せよ。」
(28~30) 

「この先の 道すがら(=道程)を 言って聞かそう。
どんな事を言うか (その内容は) 分からないであろう。

日々に (月日が) 何を言っても、そのまま見えてくる (=眼に見えるように実現してくる) のが “これは不思議だ” (というような事である)。
(月日が) どんな事を言うか、(人間には)分からないであろうが、(言った通りになるので) それでどうかして (先に知らしたい)と、ことわりばかり(言ってきた)。

(さあ今は、) ことわりも ちょっとの事というのではない。
どんな(に大変な)ことが見えてくるか (分からないぞ)。」
(31~34) 

「どのような事が見えるか 知れないぞ。
(月日は、) まことに気の毒である とは思っているが (どうしようもないのだ)。
いつ何どきに 見えて(=実現して)くるのか 分からぬ。

月日の心は (ざんねんの思いで)積みきっている (=これ以上支えきれない)。
(いつ、かやしが現われるのかと) これ程 月日の心は心配しているのを、そばの者は 何も知らずに居る。

そばの者は(、わが身思案で自分の) 仕事ばかり考えている。
(かやしが)見えてきたなら、文句が 変わるぞ。

どんな事でも 先へ (=前もって) 知らしておくから、後で 後悔のないようにせよ。
(先へ知らすのも、月日は) この世を創めた神であるので、どんな事も見えている(からである)。」
(35~40) 

「このたびは どんなことも (時旬が)積みきって (=切迫して) いるので、もう 抜き差しならない。
(すなわち、) 今までは どんな事を言っても、まだ じっくりとして (=差し控えて) いたけれども、今日の日は、横目をつかう間ほどの (ちょっとの)油断も するな。
いつ 何どき どんな事があるか (知れない)。」
(41~43) 

「今までに 筆につけ(て書き留め)たことわり(=予告)が、“さあ見えてきた” (ということになる。そして、人々の)心は 勇む。
これさえ 見えてきたならば、一れつは、どんな者でも(、やがて だんだんに) 陽気づくめ(になるの)だ。

この (陽気づくめの)心(になるのだ ということ)を、どうか早く 一れつは 承知してもらいたい。
これは 月日の頼みである。」(44~46) 

「今日からは珍しいことを言いかける。
何を言うのかちょっとには知れないだろう(が、よく聞け)。

この話については、何を言っても 背くな。
(これについての) 神の思惑は 大変なものがあるのだ(から)。

(すなわち、) これから後の話は、山のような 神のざんねんを 晴らす段取りである。」
(47~49) 

「この先は どれ程難しい病でも、いきと てをどり(等のさづけ) によって 皆 たすける。
どんなに難しくなる病でも、“これは治らぬ” とは言わない。

(ただ、)今日までは、日柄も 刻限も 来ていなかったため、違っていた(=見えなかった)ところもあったけれど、(これから)だんだんに説いておくことは、どんな事も 違うということはない。」
(50~53) 

「これまでの道すがらというのは、本当に 難渋な道であったけれど、この先の道は 何でも気が勇む。
“どんな珍しい道があるか” (と楽しんでいよ)。

とんとん飛び出る(ような予期しない)ことを見ても、( “これは 月日が前もって ことわって(=予告して)おられたことだ” と考えて) 心に案ずるな。
そのあとは、万事 月日が引き受けて、いついつまでも 陽気づくめに(していく)。」
(54~57) 

「今までは、どのような話をしても、いつの事だろう と思って(聞いていた)。
“やれ、怖いことだ、聞くより早く もう見えた” (というようになる)。

どんな事でも 油断はできないぞ。
この先(の道)は、日々 心が勇むようにしていく。

どんな事でも、言えばそのまま (直ぐに見えてくる)。
(しかし、ざんねんが現われてきて) どんなに難しい(事情である) と見えても、よふきづとめによって 皆 たすける。」
(58~61) 

「これからは(、月日の方は) どんな仕事をするか(、と思うであろう)。
心次第に どんなことでも(する)。
(すなわち、)月日は だんだん心のざんねんを、どんな事でも みな 晴らすのである。

どんな事を言うのも、みな月日(の心から)であり、どんな仕事を(するのも 月日の心からである故、何を)するか 知れないぞ。」
(62~64) 

「(教祖には) いかなる事も見えるの(で、これ)は皆、月日(の心であるからなのだ)。
人間心があると思うな。

今日からは、どのようなことも急込んで、どんな働きをするか知れない(が、みな 月日の働きと思え)。
今なるの 月日(=教祖)の思うことは、口は人間(の口)で、心は月日(の心)である。

しかと聞いておけ。
(教祖の)口は みな(=何事につけても) 月日が借りていて、(教祖の)心は みな (月日が)貸しているのである。
この事ばかりは、うらみ (=疑いの心)があるならば、どんな事についても 月日が 皆 かやしをする(、そして 必ず 疑いを晴らす)。」
(65~69) 

「どのようなことを言うのも みな 月日(の心のままであり)、人間心は 少しも混ぜない。
(教祖より言われることが) どれ程 難しいように思っても、(これは 皆) 月日が引き受けるので、案ずることはない。

この先の道を 楽しめよ。
一れつ(世界中)は、神のざんねんを晴らしたなら (どんな珍しい道になるとも分からぬ)。」
(70~72) 

「日々に、胸の掃除にかかったなら、どんな者でも (にほんの者に)かなう者はいない。
この掃除はどういう事であるか と思うだろうが、月日が体内に入込んで(働いて、掃除)するのである。

この話は、どこ(の人)の話か と思うだろうが、高い所(や遠い所)で、(心を) みな 現わ(して掃除)するのである。」
(73~75) 

「何もかも 月日の言うことは よく思案せよ。
何を言っても 違いはない (=言う通りに見えてくる)。

月日は、世界中 一れつの人間の心を澄ましたい上から、どんな事をするか (わからぬぞ)。
どんな事をしても、みな、たすけたい との一条(の心)からである。

(それ故、) この先を しっかり見ていよ。
(月日は 話通り働くので、) 一れつは (=うちもせかいも) みな 胸の掃除がひとりでに出来(ていくのであ)る。
この掃除が (うちにおいて)すっきりとしたならば、そのまま直ぐに 守り拵えに 取り掛かる。」
(76~80) 

「この道 (=胸の掃除の道) を月日の心は 日々 急込んでいるけれど、誰も知らない。
この道に早く付いた(=着手した)ことなら、どんな者も みな (だんだんに) 勇むのである。

この話を、誰がしていると思うな。
月日の心から言っているのである。
(この道を急込んでいるのは) この世の真実 (=真実の事) を世界中へ、どんなにしても知らしたいからである。」
(81~84) 

「今日までは、“一日なりと” (と言って)日を延ばし、どんな事(を見て)も 控えていた。
このたびは もう 日が詰まってしまったので、どうしても 控えることが出来ないのである。

(これからは) 何どきにどのような事を聞いても、これは 月日のざんねん・りっぷく(の現われなのだ、と思え)。
月日には、どのような者でも みな わが子なので、可愛いばかりで見(守っ)てはいるけれども(、もう じっとしてはいられないのだ)。」
(85~88) 

「今までは 世界中は一れつに、めいめい(=各自が) 思案をしてはいるけれど、情けない(ことには)、どのように思案しても、“人をたすける心” がないので (たすけが出来ない)。

“これからは 一れつは 心をしっかり入替えてくれ” これが 月日の頼みである。
この 心を (入替えるとは) どういうことかと言えば、世界をたすける一条 (=一筋) の心に (すっかり入替えるのである)。
(89~92) 

「この先は、世界中は一れつに、よろづ(=万事)(について) “互いにたすけ” をするならば、月日も その心を受け取って、どんなたすけも すると思え。」
(93~94) 

「このたすけは、“どんなことであろう” と思うだろう(が)、ほふそ (=疱瘡) をしないように 確か 請け合う。
また(、この)たすけは、立毛(=農作物)が 一れつにどこまでも、いつも 豊作(になる手段)を教えたい。

この道 (=手段) を早く (一れつに) 仕込もうと思うけれども、一れつ(=皆) の心にわかりがない(=胸が分かっていない)ので(、それが出来ない)。
世界中に、どこにも隔てはないのであるから、一れつは(、このことをよく)思案してくれ。
(95~98) 

「(“互いにたすけ” によって) 真実に心に定めが 皆 ついて、神の言うことに背かない (ということになる。その)ようになれば、それからは、月日の心が しっかりと受け取り次第、(うちにおけるつとめの) たすけを急込むのである。」
(99~100) 

「このたすけは、ちょっとのこと(=軽い話)と 思うな。
これは にほんの 一の(=特に大切な) こふき(となるもの)である。

これさえ 早く しっかり(実現して)見せたなら、どんなに高い所の者であっても、こればかりは人間業でないから、月日の自由(自在の働きに対して) “背くことは出来ない” (と考えるであろう)。
そうなったなら、どんなに高い所においても 真似はできないであろう。(これを よく)思案してみよ。」
(101~104) 

「(この思惑のために、) 月日が (つとめによって)、“病まず 死なず 弱らないように” との 証拠を早く出そう と思うけれども、一れつ (=皆の者) は疑って、誰でも (月日のすることを) 世界並のことと思っているので(、それが出来ない)。」
(105~106) 

「この所(=教祖)には 人間心は 全くない。
月日の思うことばかりである。
そのことを、(これは 今まで) 誰も知っている者のない事柄であるため、分かっていない というのが 神のざんねんである。

この心を、どうか 真実一れつの心を、澄ますもよう (=方法) がないだろうか。
心さえ(澄んで、) 早く (月日の言うことが) 分かったということになれば、そのまま直ぐに 証拠を出すのに。」
(107~110) 

「今までは どのような嘘も聞いていたが、もう これからは 嘘は聞かない。
これからは、嘘を言ったら、その (嘘を言った)者が嘘になる (=真実の守護がなくなる) ということも、これを よく 承知していよ。

月日は、(誠真実の者がほしいので、) 嘘と追従は 大嫌いだ。
この先になったら、(そのような心の者からは) 月日の (守護が) しりぞくのだ。
(このように言ったら そうなってしまうので、) それ故に (口に言わず、黙って) 一日なりと 日を延ばして、大抵のことは 見許していたのである。」
(111~114) 

「このたびの “早く証拠を出したい” と言っているのを、何と思っているか。
証拠も、どういうことか と思うであろうが、身の内 (=体) について 確かに 試しをする(ということである)。
この 試し(について)は、本当に 月日のざんねんは 容易なことではない と思え。」
(115~117)

 「身の内に、どこにも不足のない者(であったの)に、月日が (思惑の上から、足を)いがめて 苦労を掛けたなあ。
年限は 三十九年も以前(=天保九年)で、(それ以来) 心配、苦労、悩みを掛けてきた。
そのために、月日の言うことを 何事も疑っているが、無理もない(点もある)」。
(118~120)

※ここで話題になっているのは、教祖の長男である秀司先生のことである。(中略)

秀司先生は、教祖伝の記述にも明らかな如く、天保九年からほぼ一年間足痛に悩まされた。
それが契機となって、天保九年十月二十六日、教祖をやしろとして親神はこの世の表へ現われてこられたのである。

この病には試しが掛けてある(三号二二)と言われ、それ以来、足掛け三十九年の間、親神はこの身上(病気)を完全に治すことをされなかった。
それで、おふでさきにも、一号二四~二八(明治二年)、十一号五五(明治八年)に出ているように、時々足痛に悩まされている。

(芹澤茂『おふでさき通訳』P,481~482) 

「このたびは、この胸の内を すきやかに(掃除して、疑いを) 晴らす段取り (をするの)が第一(に必要である)。
この心を 月日の方へしっかりと付けないことには、どんな話も(進んでいかない)。」
(121~122) 

「どんなことをしたのも みな 月日(である)。
このようなことは、誰も知らない に違いない。

今日の日は、横目をつかう間もない程 早く証拠を出して見せる。
これを見たならば、どんな者でも (月日の言うことを)得心せよ。

何の話も みな この通り(=道理)(で、証拠をもって話を分からせるのが 月日の働きである)。
今までの この (つとめによる証拠を早く出せない) ざんねんというものは、口で言うような (生易しい)ことでは ないのだ。」
(123~126) 

「今までは 山のような ざんねん(の道)を通り抜け(てきたが)、このたび これ(=ざんねん)を晴らし(て、つとめの証拠を見せることができ)たならば、そのあと(の布教伝道で)は、(さづけによって) どんな病も、(つとめによって) いかなことであろうが、皆 たすける。」
(127~128) 

「この世と人間の元を 世界中へ知らしておいたことなら、それからは どんなたすけも するので、(例えば、) 一言(言った)まででも、皆 たすける(、それ程のたすけをする)。」
(129~130) 

「これまでは、だんだんと口説き ことわりを言ってあるけれど、芯が 分かっていない。
この芯とは、どういう事かと言うと、胸の思案が 第一(に大事なこと)である。

何についても 胸(=考えていること)と 口(=言っていること)とが違っては、神の心に適わない(=合わない)。
本当の心が 神の心に適わなければ、どれほど心を尽くした と言っても (受け取れない)。

こればかりは、いかに 誰と相談したって、(胸に思案して真実の心にならなければ) とても (神の心に)適わないので、月日(の守護が) しりぞく(ほかはない)。」
(131~135) 

「何ごとにつけても、神の言うことを しっかりと聞け。
(神の言うことは) 何を言っても 違う(=真実でない) ということはない。

本当に 珍しいたすけを教えたいので、そこで どのような事も言って (聞かして)いるのである。
(月日は) この世を創めてから (まだ)無いことを、どんなことでも 教えたいから (くどく ことわりを言うのである)。

(よく聞け、) この世の本元である真実を しっかり承知しなければいけない。
この元(というの)を、しっかり知っている者は、どこの者でも さらに (全く)ないのだ。」
(136~140) 

「このたびは 本(元の)真実を言って聞かすので、何を言っても しかと承知せよ。

この屋敷において人間を創めたとき道具となったのは、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、月よみのみこと、くにさづちのみこと、くもよみのみこと、かしこねのみこと (の名を授けられた者が) 第一の道具である。

それから、をふとのべのみこと(の名を授けられた者)は 立毛(を守護する働きを現わした) 第一の道具である。
次に、たいしょく天のみこと(の名を授けられた者)は、世界の鋏(=ハサミ) の (ように切る守護を現わした 第一の)道具である。」
(141~145) 

「これまでは、(守護の働きを現わす)道具を 一切 みな寄せて、どのような道も 通り抜け(てき)た。
この先は、寄せた道具を見分けして、仕込むもよう(=段取り)を 急ぐだけである。」
(146~147) 

「この者は “どこに居るか” と思うな。
(直ぐそばに、) 歳は十一で 二人いる(でないか)。

この人(=者)は 人間 創め掛けた ( いざなぎのみこと の)道具と、立毛(=農作物) 一切の守護(の をふとのべのみこと ) の道具である。
(148~149) 

「今日の日は、どのようなことも言うが、何を言っても 承知してくれ。
今までも、神(=月日)の思惑(で話したいこと)が 幾つかあるけれど、その日が来ないもので、控えていた。

だんだんと 日が切迫してしまっているので、どんなことも 言っておく(から、よく覚えておけ)。
これまでは、どこの人でも みな 同じように、(月日が)何を言っても 疑って(いて、しっかり聞いていない)。

このたび(の話)は、本(元の)真実(の話)であるから、これに背いたなら (=しっかり聞かないなら) 直ぐに (その) かやしがあるぞ。」
(150~154) 

「世界には 雨を欲しい と思ったとしても、この元なるものは (何であるかを) 知らないであろう。
この元を しっかり言い掛けるから、どんなことでも 承知するなら (雨の守護を現わす)。」
(155~156) 

(陰暦) 六月二十八日五ツ刻より話 

「今日の日は、この世を創めてから 無い話(をする)。
何を言っても、これを聞いてくれ。

“この世は神の世界” と言ってはいるが、どんな事でも「しん」は知らない。
この「しん」を誠真実にしてみせる。

これを見たならば、みな 得心をせよ。
どのような事をするのも、みな 月日(の心から)である。
何を言うのも みな 月日(の心から)である。」
(157~160) 

「このたびは、この世を創めてから 無い事を、どんなことでも みな 現わす。
(すなわち、) 月日は、体内にこもっていて、どんな仕事をするか 知れないぞ。

どんな夢を見るのも 月日(の働き)である。
真事(まこと=思い掛けぬこと)を見るのも 月日(の働き)である。」
(161~163) 

「この世の 水の元である事を、まだこれまでは言ったことはない。
このたびは、本(元の)真実である水の事について、どんな話をするか知れない(が、よく聞き分けよ)。
この元を、確かに言い掛けるから、世界並な言い方では言われない。」
(164~166) 

「今日からは、どのような事も言い掛ける。
何を言ってもしかと聞け。

(ない話を仕込むのは、この先) 日々に 高山は だんだんと どんなことを 頼み尋ね(てく)るか 分からぬ(からである)。
(そのとき 説き聞かすための 元になる話をしているので、) これさえ見えてきたなら、どのような事(が起きてきて)も、危ない事は 決してないのだ。」
(167~169) 

「今日の日は、何の話をするか 分からぬが、どんな事も 承知してくれ。
めいめいの心と 身の内(=体)(について) どのような事も しっかりと現わす。
これを見たら、どんな者でも真実に 胸の掃除が ひとりでに出来る(と言っておく)。」
(170~172) 

「このたびは、どんな事でもすっきりと、現われ出して 皆 して見せる。
体内に、何があるか、どのような者でも 知っている者はあるまい。

この話は(何かと言うと)、月日の(働く)仕事であって、これを よく見(てい)よ。
(月日は人間の)心次第に、何をするか (わからないぞ)。」
(173~175) 

「今日の日は、何も知らないで、誰でも 世界並で (うっかり暮らして)いるが、明日の日には、どういう道を通るようになるか(というと)、しんの心が 現われてくる(のである)。

この心が 現われて出てきたならば、誰でも( 月日の言うことに) 背くことはできない。
これを見たなら、どんな者でも 真実の心から、頭を傾けて、みんな 思案をする(ようになる)。

さあ 思案(すべき日が来たぞ)。
この (月日の言うことに背かぬという) 心さえ しっかり定めがついた事であるなら(、どんなたすけも しよう)。」
(176~180) 

「この話は、まったく 月日の心だけから(話すの)で、人間心がある (=混じっている) と思うな。
このことを、真実である と思って頼めば、一れつに (=どこの者でも)、どんな事でも (守護を現わそう)。」
(181~182) 

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,435~505

※芹澤茂先生の『おふでさき通訳』によると、
『おふでさき正冊』では、なぜか
181~182 のおうたが 159 のおうたの次に置かれているそうです。
『おふでさき外冊』でも、それと同じ順番で 置かれているとのこと。

それで、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』では、
『正冊』『外冊』に従って、
181~182 のおうた通訳文は、
159
のおうた通訳文の次に 紹介されています。

しかし、現在私たちが手にしている『おふでさき』は、番号順におうたが並んでいますので、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』編集には従わず、ここでは番号順に
通訳文を置いておきました。

さまよい人
さまよい人

第十二号は、全部で「182首」!!

第二号は「47首」ですから、その約4倍!
とにかく長い(笑)

でも、 “それだけ長い” というところにも、きっと深いご神意があるのでしょうね。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第十二号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第十二号】の概要

「No,12」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第十二号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第十二号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第十二号について】

この号は内扉に執筆年月の記載がなく、最初のお歌の前に「十二月廿七日より」と記されています。
これは明治八年陰暦十二月二十七日のことで、陽暦でいえば、すでに明治九年に入っています。
したがって、第十二号は明治九年ごろに書かれたということになります。

史実を見ますと、この年には官憲の取り締まりが一段と厳しくなり、秀司様は、堺県へ蒸風呂兼宿屋業の鑑札(許可証)を受けに行かれます。
大ぜいの人々がおやしきに参拝にやって来ても、言い逃れできる方便として考えたものでしたが、教祖はこれを厳しく止められています。

また、陽暦八月十七日(陰暦六月二十八日)には、先方の願いによって、小坂村(現・奈良県田原本町小阪)で雨乞いづとめがつとめられています。

一方、国内では、三月に廃刀令が出され、特権を奪われた士族の中から、「神風連の乱」などの反乱が起きています。
また、「秋月の乱」「萩の乱」など、西南戦争の前触れとなった事件、地租改正反対の大農民一揆なども起こり、国内の状況はたいへん不安定でありました。

このころ、西洋医学の促進が図られ、医術開業試験法が定められてもいます。

こうした事柄が、おふでさきの中に反映されているという感があります。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,379~380)
さまよい人
さまよい人

『おふでさき』第十二号は、後の西南戦争へとつながっていく「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」などの物騒な騒動が頻発した、明治維新に伴う大混乱真っ只中の世相の中で書かれたものだったのですね。


そんな緊迫した時代に書かれたんだ…と思いながら【第十二号】拝読すると、確かに、おうたのあちこちから当時の緊迫感がじんわりと伝わってくるような感じがするから、不思議です。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

おふでさき第十二号は百八十二首と、他の号の倍近くある長い号です。
大きなテーマは世界一れつの胸の掃除。
胸の掃除をしてどういう心に入れ替えるか。
それは人をたすける心です。
その掃除をする手がかりは、身上に顕してのお知らせです。
掃除をして、人をたすける心に入れ替えるということであります。

【第十二号の概要】

まず、世界一れつの胸の掃除を仰せ出され、それに当たっては銘々の心を皆顕すと、号全体にわたる主題を提示される。

これを親神の残念を晴らすとして、その原因である積もるほこりを払い、話だけでは聞き分けのない人心を入れ替えるべく、親神自らが積極的に働くことを宣言される。

そして、この残念を晴らし、陽気づくめへと導く具体的な段取りとして、心づかいを身上や事情に表すとともに、いき、てをどりのさづけ、さらには、つとめと、心次第にたすかる道を教えられる。

また、こうした心尽くしは、全て、一れつ子供をたすけたい親心からであると、その所以を明かし、銘々の我が身思案を「人をたすける心」へと入れ替えてもらいたいと、心の入れ替えの急所を諭される。
その上で、よろず互いにたすけする思召通りの世の状になったならば、どんなたすけも顕すと約束される。

さらに、病まず、死なず、弱らずのめづらしたすけを早く実証したいとして、その前提とも言うべき元の理の話が再度まとまって登場するが、第十二号では元の道具衆のいんねんある魂の者を寄せて、世の立て替えに着手する話になる。

こうした上で、“しんを知らん”“しんの心を顕す” などと、重ねて「しん」と仰せになって、なおも本真実に迫り、真に心の定まる求道を促される。

この間には、“口は人間、心月日や” と教祖の神のやしろたるのお立場を闡明(せんめい)されるなど、繰り返し、教祖には人間心のいささかもないと述べられる。

外冊には、明治九年七十九歳老女、と記したものがありますが、第十二号の初めの二首は陰暦の明治八年十二月のお歌と思われます。

明治八年陰暦十二月二十七日は、陽暦の明治九年一月二十三日です。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,397~398)
さまよい人
さまよい人

「この号の大きなテーマは、世界一れつの胸の掃除。
胸の掃除をしてどういう心に入れ替えるか。
それは『人をたすける心』です。…
胸の掃除をして『人をたすける心』に入れ替える、ということであります。」

(上記文からの引用)

胸の掃除をして「人をたすける心」に入れ替える…
という上田先生の解説が心に染みてきます。

世界中の人々が「人をたすける心」になったら陽気づくめの世界になるんだよ――
神様は、「おふでさき」の中で徹頭徹尾そのことを説き続けておられるような気がします。

関連動画の紹介

room with a computer with light coming in through the window

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第十二号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

現代訳で聞く、おふでさき12  01~43👇https://www.youtube.com/watch?v=BHEd05GDLDc

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき12  01~43)より

現代訳で聞く、おふでさき12  44~87 👇https://www.youtube.com/watch?v=9d5ENzOIFd8

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき12  44~87)より

現代訳で聞く、おふでさき12  88~130👇https://www.youtube.com/watch?v=-vdYXRIxQGo

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき12  88~130)より

現代訳で聞く、おふでさき12  131~182 👇https://www.youtube.com/watch?v=tZ7ThplB6AE

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき12  131~182 )より

改めて「おふでさき」【第十二号】を散文で読む(括弧書きも外して)

man reading education portrait beard

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第十二号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第十二号】口語訳(芹澤茂先生)

【第十二号】

明治八年 陰暦 十二月二十七日より (=陽暦 明治九年一月二十三日) 

今日からは 世界を月日が見定めて、胸の掃除に かかることにする。
この掃除には、うちも せかいも 隔てなく、めいめい(=各自) の心を みな 現わす。 

明治九年 陰暦 三月十四日より 

今までは、神の残念に思うこと、それは、山のように 人間の胸に ほこりが積もっているが、情けない(=嘆かわしい)ことに、日柄も まだ ちょっと来ていない(=早い)ため どんなことも 言うに言われなかった。

このたびは、月日が ほこりの積もっている真実を見兼ねるので、どのような事も みな 現わして掃除する。
すなわち、今日の日は、どれ程 わが身勝手に威張って ままに(=自由に)していても、月日は 体内より 退く(=守護できなくなる)のである。

陰暦 四月四日より 

この話は、何のことかと言えば、にほんも からも てんじくも 人間の心を澄ましていく、という事である。
そのために、これからは 世界中を一れつに、みな 月日が掃除をするので、これを 承知していよ。

これまでも 月日が 段々に 精一杯ことわりを言ってあるけれど、口先で言っただけでは 確かに 承知する(=聞き分ける)者はないので、止むを得ず、ほこりを掃除して 心を澄まさねばならない。

陰暦 四月五日 

今までも 月日は、段々と 精一杯 心を尽くしているけれど、世界には、知っている者は誰も居ない。
そのために ほこりを積んでいるので、どうも このたび 旬が来ては、月日は 致し方ない。

それ故、世界中をどこまでも、前もって ことわっておくが、月日は、掃除のために 体内から しりぞく(=守護ができなくなる)のである。

陰暦 四月十二日 

今日の日は、何の話をするか と言えば、よふぎ(=用木)の 初めの事ばかり言う。
よふぎでも、その人は誰それである と言わないが、もとは一本でも 枝は八本 というように、それからそれと 沢山になる。

この木を 早く接ぎたい(=神一条の心定めをさせたい) という急込みによって、月日の胸が つかえきっている程である。
この木も、一枝をしっかり接いだなら、あとなる枝は みな 早く定まる。

何もかも、月日の言うことは しかと聞け。
そして 心に定めを付けたなら、それからは 身の内の悩みは 全くなくなるので、だんだんに 心は 勇むばかりである。

それを知らずに、皆の心は 誰でも、世界並のような事ばかり言う。
このところを(=教祖の言動については)、世界並とは 思うな。
月日の心より する事ばかりである。

陰暦 四月十四日 

今日(=きょうの日)になっては、月日の心の残念は、もう 容易なことではない と思え。
人間は 浅はかなものであるから、見えた事ばかり言い、眼に見えない月日のすることを知っている者が 居ない。

だが 思案してみよ、月日は 何ごとについても、これまで 段々と前もって言ってある。
これは 承知しているだろう。

今までも、月日の残念については、何でも 大抵 口説いてきたので、その話によって 眼に見えているはずであるのに、世界では、誰も これ(=月日の心尽くし)を知っている者が居ない。

月日の心の残念を よく見よ(=知れ)。
このたびは、ことわった上にまた口説き、その上に、さらにことわっているのだ。 

どれほど口説き、ことわりを言っても、誰も 聞き分けする者はない。
それ故に、だんだん 日柄が経つけれど、いつになったら “これだ” と言って、心に得心して分かる という目当てがない。

それ故、今日の日には、もう 節(=旬)が来たから、月日が出掛けて 胸の掃除にかかる。
これを みな 承知せよ。 

この先の道すがら(=道程)を 言って聞かそう。
どんな事を言うか、その内容は 分からないであろう。

日々に 月日が何を言っても、そのまま見えてくる(=眼に見えるように実現してくる) のが “これは不思議だ” というような事である。
月日が どんな事を言うか、人間には 分からないであろうが、言った通りになるので、それで どうかして 先に知らしたいと、ことわりばかり 言ってきた。

(さあ 今は、ことわりも ちょっとの事というのではない。
どんなに大変なことが見えてくるか 分からないぞ。

どのような事が見えるか 知れないぞ。
月日は、まことに気の毒である とは思っているが、どうしようもないのだ。

いつ何どきに見えて(=実現して)くるのか 分からぬ。
月日の心は 残念の思いで積みきっている (=これ以上支えきれない)。

いつ、「かやし」が現われるのかと、これ程 月日の心は心配しているのを、そばの者は何も知らずに居る。
そばの者は、わが身思案で 自分の仕事ばかり考えている。

「かやし」が見えてきたなら、文句が変わるぞ。
どんな事でも 先へ(=前もって) 知らしておくから、後で 後悔のないようにせよ。
先へ知らすのも、月日は この世を創めた神であるので、どんな事も 見えているからである。

このたびは、どんなことも 時旬が積みきって(=切迫して)いるので、もう 抜き差しならない。
すなわち、今までは どんな事を言っても、まだ じっくりとして(=差し控えて) いたけれども、今日の日は、横目をつかう間ほどの ちょっとの油断もするな。
いつ何どき どんな事があるか 知れない。

今までに 筆につけて書き留めたことわり(=予告)が、“さあ見えてきた” ということになる。
そして、人々の心は勇む。

これさえ 見えてきたならば、一れつは、どんな者でも、やがて 段々に 陽気づくめになるのだ。
この、陽気づくめの心になるのだ ということを、どうか早く 一れつは 承知してもらいたい。
これは 月日の頼みである。

今日からは 珍しいことを言いかける。
何を言うのか、ちょっとには 知れないだろうが、よく聞け。

この話については、何を言っても 背くな。
これについての 神の思惑は 大変なものがあるのだから。
すなわち、これから後の話は、山のような 神の残念を晴らす段取りである。
 

この先は どれ程難しい病でも、いきと てをどり 等のさづけによって 皆 たすける。
どんなに難しくなる病でも、“これは治らぬ”  とは言わない。

ただ 今日までは、日柄も刻限も来ていなかったため、違っていた(=見えなかった) ところもあったけれど、これから 段々に 説いておくことは、どんな事も 違うということはない。

これまでの道すがらというのは、本当に 難渋な道であったけれど、この先の道は 何でも気が勇む。
“どんな珍しい道があるか” と 楽しんでいよ。

とんとん 飛び出るような 予期しないことを見ても、“これは月日が前もってことわって(=予告して) おられたことだ” と考えて 心に案ずるな。
そのあとは、万事 月日が引き受けて、いついつまでも 陽気づくめにしていく。 

今までは、どのような話をしても、いつの事だろう と思って 聞いていた。
“やれ、怖いことだ、聞くより早く もう見えた” というようになる。

どんな事でも 油断はできないぞ。
この先の道は、日々 心が勇むようにしていく。

どんな事でも、言えばそのまま 直ぐに見えてくる。
しかし、残念が現われてきて どんなに難しい事情であると見えても、陽気づとめによって 皆 たすける。

これからは、月日の方は どんな仕事をするか と思うであろう。
心次第に どんなことでもする。

すなわち、月日は だんだん 心の残念を、どんな事でも みな 晴らすのである。
どんな事を言うのも、みな 月日の心からであり、どんな仕事をするのも 月日の心からである故、何をするか 知れないぞ。

教祖には いかなる事も見えるので、これは、みな 月日の心であるからなのだ。
人間心がある と思うな。

今日からは、どのようなことも急込んで、どんな働きをするか 知れないが、みな 月日の働きと思え。

今なるの 月日(=教祖)の思うことは、口は人間の口で、心は月日の心である。

しかと聞いておけ。
教祖の口は、みな(=何事につけても) 月日が借りていて、教祖の心は、みな月日が貸しているのである。

この事ばかりは、うらみ(=疑いの心) があるならば、どんな事についても 月日が 皆 かやしをする。
そして 必ず 疑いを晴らす。

どのようなことを言うのも みな 月日の心のままであり、人間心は 少しも混ぜない。
教祖より言われることが どれ程 難しいように思っても、これは 皆 月日が引き受けるので、案ずることはない。

この先の道を 楽しめよ。
一れつ世界中は、神の残念を晴らしたなら、どんな珍しい道になるとも分からぬ。

日々に、胸の掃除にかかったなら、どんな者でも にほんの者に かなう者はいない。
この掃除は どういう事であるか と思うだろうが、月日が 体内に入込んで働いて、掃除するのである。

この話は、どこの人の話か と思うだろうが、高い所や遠い所で、心を みな 現わして掃除するのである。

何もかも 月日の言うことはよく思案せよ。
何を言っても違いはない(=言う通りに見えてくる)。

月日は、世界中一れつの人間の心を澄ましたい上から、どんな事をするかわからぬぞ。
どんな事をしても、みな、たすけたい との一条の心からである。

それ故、 この先を しっかり見ていよ。
月日は 話通り働くので、一れつは (=うちもせかいも) みな 胸の掃除が ひとりでに出来ていくのである。
この掃除が うちにおいて すっきりとしたならば、そのまま 直ぐに 守り拵えに取り掛かる。

この道(=胸の掃除の道) を月日の心は 日々 急込んでいるけれど、誰も知らない。
この道に 早く付いた(=着手した)ことなら、どんな者も、みな 段々に勇むのである。

この話を、誰がしている と思うな。
月日の心から 言っているのである。

この道を急込んでいるのは、この世の真実(=真実の事)を 世界中へ、どんなにしても 知らしたいからである。

今日までは、“一日なりと”  と言って日を延ばし、どんな事を見ても 控えていた。
このたびは、もう 日が詰まってしまったので、どうしても 控えることが出来ないのである。

これからは、何どきに どのような事を聞いても、これは 月日の残念・立腹の現われなのだ、と思え。
月日には、どのような者でも 皆 わが子なので、可愛いばかりで 見守ってはいるけれども、もう じっとしては いられないのだ。 

今までは、世界中は一れつに、めいめい(=各自が) 思案をしてはいるけれど、情けないことには、どのように思案しても、“人をたすける心” がないので たすけが出来ない。

“これからは 一れつは 心をしっかり入替えてくれ”  これが 月日の頼みである。
この 心を入替えるとはどういうことか と言えば、世界をたすける一条(=一筋) の心に すっかり 入替えるのである。

この先は、世界中は一れつに、よろづ(=万事) について “互いにたすけ” をするならば、月日も その心を受け取って、どんなたすけも すると思え。

このたすけは、“どんなことであろう” と思うだろうが、ほふそ(=疱瘡) をしないように確か 請け合う。

また、このたすけは、立毛(=農作物) が一れつに どこまでも、いつも 豊作になる手段を 教えたい。

この道(=手段) を早く 一れつに仕込もう と思うけれども、一れつ(=皆) の心に わかりがない(=胸が分かっていない) ので、それが 出来ない。
世界中に、どこにも隔てはない のであるから、一れつは、このことを よく 思案してくれ。

“互いにたすけ” によって、真実に 心に定めが 皆 ついて、神の言うことに背かない ということになる。
そのようになれば、それからは、月日の心が しっかりと 受け取り次第、うちにおける つとめのたすけを 急込むのである。

このたすけは、ちょっとのこと(=軽い話) と思うな。
これは にほんの 一の(=特に大切な)「こふき」と なるものである。

これさえ 早く しっかり実現して見せたなら、どんなに 高い所の者であっても、こればかりは 人間業でないから、月日の 自由自在の働きに対して “背くことは出来ない” と考えるであろう。

そうなったなら、どんなに 高い所においても 真似は できないであろう。
これを よく 思案してみよ。

この思惑のために、月日が つとめによって、“病まず死なず弱らないように” との証拠を 早く出そう と思うけれども、一れつ(=皆の者) は疑って、誰でも 月日のすることを 世界並のことと思っているので、それが 出来ない。

この所(=教祖) には 人間心は全くない。
月日の思うことばかりである。

そのことを、これは 今まで 誰も知っている者のない 事柄であるため、分かっていない というのが 神の残念である。

この心を、どうか 真実一れつの心を、澄ますもよう(=方法) が ないだろうか。
心さえ澄んで、早く 月日の言うことが分かった という事になれば、そのまま直ぐに 証拠を出すのに。

今までは どのような嘘も 聞いていたが、もう これからは 嘘は聞かない。
これからは、嘘を言ったら、その嘘を言った者が 嘘になる(=真実の守護がなくなる) ということも、これを よく承知していよ。
月日は、誠真実の者がほしいので、 嘘と追従は 大嫌いだ。

この先になったら、そのような心の者からは、月日の守護が しりぞくのだ。
このように言ったら 本当にそうなってしまうので、それ故に、口に言わず、黙って 一日なりと日を延ばして、大抵のことは 見許していたのである。

このたびの “早く証拠を出したい” と言っているのを、何と思っているか。
証拠も、どういうことか と思うであろうが、身の内(=体)について 確かに 試しをする という事である。
この 試しについては、本当に 月日の残念は 容易なことではない と思え。 

身の内に、どこにも 不足のない者であったのに、月日が思惑の上から、足をいがめて 苦労を掛けたなあ。
年限は 三十九年も 以前(=天保九年)で、それ以来、心配、苦労、悩みを掛けてきた。
そのために、月日の言うことを 何事も疑っているが、無理もない点もある。

このたびは、この 胸の内をすきやかに掃除して、疑いを晴らす段取りをするのが、第一に 必要である。
この心を 月日の方へ しっかりと付けないことには、どんな話も 進んでいかない。

どんな事をしたのも みな 月日である。
このような事は、誰も知らない に違いない。

今日の日は、横目をつかう間もない程、早く 証拠を出して見せる。
これを見たならば、どんな者でも 月日の言うことを 得心せよ。

何の話も 皆 この通り(=道理)で、証拠をもって話を分からせるのが 月日の働きである。
今までの この つとめによる証拠を早く出せない残念 というものは、口で言うような 生易しい事では ないのだ。 

今までは、山のような 残念の道を通り抜けてきたが、このたび、これ(=残念) を晴らして、つとめの証拠 を見せることができたならば、そのあとの布教伝道では、さづけによって どんな病も、つとめによって いかな事であろうが、皆 たすける。

この世と人間の元を 世界中へ知らしておいたことなら、それからは どんなたすけもするので、例えば、一言 言ったまででも、皆 たすける、それ程の たすけをする。

これまでは、段々と 口説き・ことわりを言ってあるけれど、芯が 分かっていない。
この芯とは、どういう事か と言うと、胸の思案が 第一に 大事なことである。

何についても 胸(=考えていること)と 口(=言っていること)とが違っては、神の心に適わない(=合わない)。
本当の心が 神の心に適わなければ、どれほど心を尽くした と言っても 受け取れない。

こればかりは、いかに 誰と 相談したって、胸に思案して 真実の心にならなければ、とても 神の心に適わないので、月日の守護が しりぞくほかはない。

何ごとにつけても、神の言うことを しっかりと聞け。
神の言うことは 何を言っても 違う(=真実でない)ということはない。

本当に 珍しいたすけを教えたいので、そこで、どのような事も 言って聞かしているのである。
月日は、この世を創めてから まだ無いことを、どんなことでも教えたいから くどく ことわりを 言うのである。

よく聞け、この世の本元である真実を しっかり 承知しなければいけない。
この元というのを、しっかり知っている者は、どこの者でも さらに 全くないのだ。

このたびは、本元の真実を言って聞かすので、何を言っても しかと承知せよ。

この屋敷において、人間を創めたとき 道具となったのは、いざなぎのみこと、いざなみのみこと、月よみのみこと、くにさづちのみこと、くもよみのみこと、かしこねのみこと の名を授けられた者が、第一の道具である。

それから、をふとのべのみこと の名を授けられた者は、立毛を守護する働きを現わした 第一の道具である。
次に、たいしょく天のみこと の名を授けられた者は、世界の鋏(=ハサミ) のように切る守護を現わした 第一の道具である。

これまでは、守護の働きを現わす道具を 一切 みな寄せて、どのような道も 通り抜けてきた。
この先は、寄せた道具を見分けして、仕込むもよう(=段取り)を急ぐだけである。

この者は “どこに居るか” と思うな。
直ぐそばに、歳は十一で、二人いるでないか。

この人(=者)は、人間創め掛けた いざなぎのみこと の道具と、立毛(=農作物) 一切の守護の をふとのべのみこと の道具である。

今日の日は、どのようなことも言うが、何を言っても 承知してくれ。
今までも、神(=月日) の思惑で話したいことが 幾つかあるけれど、その日が来ないもので、控えていた。
段々と 日が切迫してしまっているので、どんなことも 言っておくから、よく 覚えておけ。

これまでは、どこの人でも みな 同じように、月日が何を言っても 疑っていて、しっかり聞いていない。
このたびの話は、本元の 真実の話であるから、これに背いたなら(=しっかり聞かないなら)、直ぐに、その「かやし」があるぞ。

世界には、雨を欲しい と思ったとしても、この元なるものは何であるか を知らないであろう。
この元をしっかり言い掛けるから、どんなことでも 承知するなら、雨の守護を現わす。

(陰暦) 六月二十八日五ツ刻より話 

今日の日は、この世を創めてから 無い話をする。
何を言っても、これを 聞いてくれ。

“この世は神の世界” と言ってはいるが、どんな事でも「しん」は知らない。
この「しん」を 誠真実に してみせる。

これを見たならば、みな 得心をせよ。
どのような事をするのも、みな 月日の心からである。
何を言うのも、みな 月日の心からである。 

このたびは、この世を創めてから 無い事を、どんなことでも みな 現わす。
すなわち、月日は 体内にこもっていて、どんな仕事をするか 知れないぞ。

どんな夢を見るのも 月日の働きである。
真事(まこと=思い掛けぬこと)を見るのも 月日の働きである。

この世の 水の元である事を、まだ これまでは 言ったことはない。
このたびは、本元の真実である 水の事 について、どんな話をするか 知れないが、よく聞き分けよ。
この元を、確かに言い掛けるから、世界並な言い方では 言われない。 

今日からは、どのような事も 言い掛ける。
何を言っても しかと聞け。

無い話を仕込むのは、この先 日々に、高山は 段々と どんなことを頼み尋ねてくるか分からぬからである。
そのとき 説き聞かすための 元になる話をしているので、これさえ 見えてきたなら、どのような事が起きてきても、危ない事は 決してないのだ。

今日の日は、何の話をするか 分からぬが、どんな事も 承知してくれ。

めいめいの心と 身の内(=体)について、どのような事も しっかりと現わす。
これを見たら、どんな者でも 真実に、胸の掃除が ひとりでに出来る と言っておく。

このたびは、どんな事でもすっきりと、現われ出して 皆 して見せる。
体内に何があるか、どのような者でも 知っている者は あるまい。

この話は何か と言うと、月日の働く仕事であって、これを よく 見ていよ。
月日は、人間の心次第に、何をするか 分からないぞ。

今日の日は、何も知らないで、誰でも 世界並で うっかり暮らしているが、明日の日には、どういう道を通るようになるか というと、しんの心が 現われてくるのである。

この心が現われて出てきたならば、誰でも 月日の言うことに 背くことはできない。
これを見たなら、どんな者でも 真実の心から、頭を傾けて、みんな 思案をするようになる。

さあ、思案すべき日が 来たぞ。
この、月日の言うことに背かぬ、という心さえ しっかり定めがついたことであるなら、どんなたすけもしよう。

この話は、まったく 月日の心だけから話すので、人間心がある(=混じっている) と思うな。
このことを、真実である と思って頼めば、一れつに(=どこの者でも)、どんな事でも 守護を現わそう。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十二号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第十二号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで――
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十二号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

【第十二号】は「おふでさき」中、最多のおうたを抱えているということで、
今回はとても長くなってしまいました。

前半・後半に分けようかとも思いましたが、
でも、同じ「号」なので、やっぱり一まとめにしておいた方が良いと思いまして、
長くなるのを承知の上で、分けずに一つの記事とさせて頂きました。

記述した本人ですら読み返すのが一苦労(汗)
でも、まぁ、それが勉強ですから…(笑)

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8
天理教「おふでさき」第八号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第九号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9
天理教「おふでさき」第九号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,10
天理教「おふでさき」第十号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,11
天理教「おふでさき」第十一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました

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