「おふでさき」【第十五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,15

おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

長丁場の “「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ も、今回で15回目。

今回も含めて、残り3号となりました。
いよいよ 終盤戦に突入です。

前置きは抜きにして、早速始めたいと思います。

前回は「おふでさき」【第十四号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第十五号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,15

bible and pen in hand

今回は、「おふでさき」【第十五号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第十五号】口語訳 書き写し

【第十五号】
(明治十三年一月ヨリ)

 「今日までは、何のことでも じっくりと(して) 言わずにいたことであるが、もう今日は、何でもかでも 言うのであるから、親の残念を 思ってくれ。

今日までは 何を言っても 人間の心 (で言う) ように思っていたが、さあ もう今は、何を言っても 人間の心があるとは 決して思うな。
(これからは) どのようなことを言うか 知れないが、何を言っても 承知して (従って)くれ。」
(1~5) 

「このたびは、どんな ためし をするか (分からないが)、これで しっかり 心を定めよ。
この話は、誰のこととは 言わない。
皆 めいめい (=各自) の 心定めである。

どれほど (身上 (=体) に) 切ないことがあっても、親が 踏ん張(ってたすけ)るので、(このことを) 承知していよ。

これからは (心を定めて)、親の言うことを しっかりと承知してくれ。
(身上は) 案ずることはない。」
(6~9) 

「明日からは、親が働きをするから、どんな者でも 背くことはできない。
(親の働きというものは、) 今までも 四十三年以前から、親が現われて 初め掛け(て、今日まで 働いてき)た。

今日までは、大抵 残念(なこと) も 幾たびも、じっと (がまん) していたことであるが、さあ 今日は、月日 (=親) の腹が はじけてしまった。
控えていたが、(もう 控えてはおれない)。」
(10~13) 

「今までは、村 (=村方) であるからと思って、じっくりと (=黙って) まだ治まって (=働かないで) いたけれども、このたびは (どのような所の者も)、どのような心でいる者も、見定めをつけて 直ぐに働く (=掃除をする)。

(しかし) これほど残念が積もっているが、心次第によっては みな たすける。
どれほど 残念が積もっていても、(親は) 踏ん張り切って 働きをする。」
(14~17) 

「今日の日は、何を言うか 知れない(が、よく聞け)。
親の残念(に思うこと) を みな 現わすぞ。

(すなわち) 今までは 人の心の真実を知った者はいなかったが、さあ 今日は、どんな者でも 真実の胸の内を、確かに 現わす。
これさえ みな 現わしたことならば、胸の掃除が ひとりでに 出来る。」
(18~21) 

「今日からは どんな話を仕掛けても、何を言っても 承知をしてくれ。

だんだんと (これから) 何を言うか、これは 分からない。
どんなことでも 思惑をする(上からの 話である)。」
(22~23) 

「今までは 四十三年以前 (=天保九年)から、足を悩め(て、そのままにしてき)た。
これが 心配(であった)。

このたびは、何でもかでも、これを 元通りにして返す。
この話(について)、何を 月日 (=親) が 言ったとしても、どんなことでも 背かないようにせよ。

これからの 親の頼みは こればかりである。
ほかのことは 何も言わない。」
(24~27) 

「このことを(頼むとは)、何を頼むのか と思うであろうが、つとめ一条 のことだけである。
このつとめは “これがこの世の初まり” (と言っているであろう)、これさえ叶ったことなら。」
(28~29) 

「さあ 今日は 親の言うことは、何ごとも、そばの(者は) 心に背かぬようにせよ。

そばなる者が心違いをすれば、やむを得ない (=「かやし」をせねばならない)。
そこで くどく言っておく。

(心違いについては) 今日の日は (まだ)、どういうこと(が現われてくるか、どんなこと)でも、世界には 知っている者はいないけれど、親の眼には はっきりと 見えているのだ。
どんなことやら、誰も知るまい(が)。」
(30~33) 

「(親の話は) この世を創めてから(を見ても)、今までは 誰でも 知らぬことばかりである。

(世界中へ) そのことを教えたいから、それで だんだんに (順序を追って) どのようなことも するのである。
(それは) 何もかも どのようなことも言っておいて、それから 親が 働きをする(ためなのだ)。
その働きも、どんなことか 知るまいが、世界中は 親のからだ(=体)である(から、世界中で 自由自在に働く)。

(その思惑の上から) 今までの親の残念を知らしたさに、そこで このたびは (どんなためしも) 皆 して見せる。
(うちでも世界でも) どのようなことをするやら 知れないから、みな 一れつは 承知していよ。」
(34~39) 

「このたびの 残念口説きの この話を、みな 一れつは 何と思っているか。
この元は、四十三年以前(=天保九年) から、大変な(=重大な) ためし が掛けてあるのだ。

これさえ しっかり承知し(て、つとめができ)たなら、(その他) どんなことも 叶わないことはない。
世界中 みな 一れつ(人間を) たすけるために、そこで (この)ためしは 大変なことなのだ。」
(40~43) 

「今日までは、どのような道も 通り抜けて、(その間) じっとしていたけれども、もう 今日は、何でもかでも、真実を してかかる(=真実が現われるように働きかける) ので、承知していよ。

(そうなれば) 今までと 道が ころっ と変わるのである。
みな一列は心を定めよ。

この道は うちも世界も 隔てなく、世界中の 胸の掃除(をする道になるの)である。
(その時、この ためし が 大変重要になる。)」
(44~47) 

「この世を創めてから 今日までは、本真実(=本元の真実) を言ったことはない。
今日の日は 本真実を言い掛けるから、どうか しっかり 承知してくれ。

この話は (何かと言うと)、四十三年以前(=天保九年) から 大変な ためし が掛けてあるということ、これ一条(=一筋) である。
このためしは何のこと と思うか、つとめ一条(=つとめによる珍しいたすけ) を急く(ための)段取りである。」
(48~51) 

「この つとめ(について)、どういうことに 思っているのか。
鳴物を入れて(つとめること)、人衆(を揃えること) のもよう(=準備) (を早くせよ)。

この つとめは、どんな者でも (十分に)思案せよ。
これを止めたならば、わが身も止まるぞ。」
(52~53) 

「(この つとめをする ということは) この世を創め掛けたも 同じことである。
(元初まりにおいて、親は) ない人間を創め掛けたのである。

(このたびも) これ(=つとめ)さえ 初め掛け(てつとめの試しをし、証拠ができ)たことなら、(これからの道において) いかなるたすけも、みな (親は) 請け合う。

(それ故、)このこと(=つとめをすること)は、しっかりと 承知をしなければならぬ。
これを止めたならば、直ぐにしりぞく(=守護がなくなる。)」
(54~56) 

「今までは、“高山や” といって、けんけんと(=威張って) ままに(=自由に) していたことであるが、これからは どれ程 高い山でも、谷底をままにすることは 決して 出来ないぞ。
(なぜなら) この先は 谷底には だんだんと 多くの用木(=よふぼく) が見えている。

(そして この) よふぼくには、だんだんと、この世を創めた親が みな 入込む(、そうして働くのだから)。
この世を創めた親が 入込めば、どんなことをするか 知れない。

どのような (珍しい不思議な) ことをした としても、案ずることはない。
何でも 万事 親が請け合う。」
(57~62) 

「この (今 話題の よふぼく についての) 事柄を、心をしっかりと定めて、早く 取り掛かれよ。」
(63) 

「今日までは、(この道は) どんな道やら 誰でも 知っている者はなかったが、もう 今日は (道が変わって 胸の掃除の道になるから)、芯の心(=本心) を だんだんと みな 現わすので、(これを) 承知していよ。」
(64~65) 

「親の眼に 適った者は、日々に だんだん 心が 勇むばかりである。
親の眼に 残念の者は いつ何どき、夢をみるように 散るかも知れない。

この話は どこのこととも言わない。
世界中(の人間) は みな わが子である。
一れつの子供が 可愛い(という心)ばかりで、どこにも 隔ては 更にない。

だが、しっかり聞け。
心違いをすれば 是非がない(=やむを得ない) ので、そこで だんだん 手入れをするのである。
この事については、高山でも谷底でも、油断しないよう 心を定めよ。」
(66~71) 

「さあ 頼むぞ。
何を頼むと思うか。
早く 鳴物を寄せて 稽古をせよ。

これまでは どんなことでも じっくりと、まだ 納まって(=働かないで) いたけれども、もう 今日(の道)は、何でもかでも、早く つとめをせねばならぬ (という)事(=事態) である。」
(72~74) 

「今までは、どんなことでも だんだんと(=順序を追って)、いろいろ 頼み掛けてあるけれど、どんなことを頼んでも、誰も聞き分けてくれない(とは、何という) 親の残念(か)。

このたびの 残念(と言って) 口説いているこの話を、どうか しっかり聞き分けてくれ。」
(75~77)

 「今日の日は 親が何ごとを言っても、どんなことでも 背かないよう(にせよ=(よく 聞き分けよ))。
今までは、どんな話をしても、何を言っても、匂いばかり(であった)。

今日の日の話 というのは、もう 節(=時節) であるから、(言えば) そのまま 直ぐに見える(=現われる) のだ。
この話は、四十三年以前(=天保九年) からの(親の) 胸の残念を 今 晴らす (ということな)のである。

それを知らず、うちなる者は 何もかも、世界並の(ことの)ように 思っている。」
(78~82) 

「この道は、四十三年以前(=天保九年) から、まことに 難渋な(=通りにくい) 道を 通ってきた。
その(残念な)ことを、今まで誰も知らなくても、このたび これを みな 晴らすことにする。

この晴らしは、どうして晴らすか と言えば、つとめ一条で みな 現わすのである。
このつとめ(について)、親が何ごとを言っても、どんなことにも 背く(ようなことはする)な。

これだけは くれぐれも頼んでおくが、(これは) あとで 後悔しないように というためである。」
(83~87) 

「このたびの つとめ一条を止めるなら、名代なりと、直ぐに しりぞく。
この話を そばの者は 何と思っているか。

もう一息 (=ちょっとの間) も待ってはいられない。

早く 鳴物なりと 出し掛けよ。
つとめだけを 急込んでいるのだから。」
(88~90)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,586~615
さまよい人
さまよい人

「第十五号」では、やたらと「残念」というお言葉が目立つ気がします。

このたび、勉強して知ったのですが、

「第十五号」では、【秀司様】を台としての諭しが展開されているのですね。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第十五号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第十五号】の概要

「No,15」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第十五号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第十五号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第十五号について】

第十五号は明治十三年一月から記されています。

この明治十三年には「集会条例」が制定されています。

集会条例は、直接的には日本国内に高まりつつあった自由民権運動に対処するために、政治集会や政治結社の取り締まりを目的として制定されたものでしたが、政治的な集まりだけでなく、国家に害があると認められたり、公衆の治安を妨害するものと警察官が認めた時には、その集団を解散させることができると規定した条例でした。

これには、大教宣布運動の展開によって、教部省が宗教の取り締まり、つまり、祈禱・禁厭(きんえん)をもって医薬を妨げる者や、無資格の民間宗教家の活動を厳しく取り締まるという布達を出したことが関係しており、この布達と結びついて、教祖の道は、ますます取り締まりが強化されるようになりました。

一方、おやしきでは、そうした官憲の取り締まりを逃れるために、金剛山地福寺に願い出て、九月二十二日(陰暦八月十八日)、その配下の転輪王講社を結成し、開筵式が行われています。

もちろん、教祖のお許しがあってのことではなく、むしろ、「そんな事すれば、親神は退く」と厳しく止められたのですが、その中を秀司様は、ご自分の命をかけて断行されたのでした。

そうした中、八日後の三十日(陰暦八月二十六日)には、初めて三曲(女鳴物)を含む九つの鳴物をそろえて、よふきづとめが行われています。

外部からの圧迫も、内部の不徹底さをも一掃して、かんろだいづとめによって広い世界の人々の心を澄まそうという親神の急き込みの現れであったといえるでしょう。

この時、教祖から教えられたつとめが、一応、形の上では完成したということになります。

この第十五号は、主として秀司様を台として諭されたものと言われています。

秀司様は翌明治十四年四月に出直されますが、そのことを考え合わせますと、親神のお言葉のやむにやまれぬもどかしさ、切なさが、ひしひしと身に感じられます。

それとともに、秀司様の足の痛みを「試し」として見せられる親神の働きの真実性が、一層はっきりと示されます。

一れつ人間をたすけるために、秀司様を台として戒められる切なさを感じる号でもあります。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,487~488)
さまよい人
さまよい人

第十五号は、秀司様に関することを土台として話が展開する「号」なのですね。

日に日に強化される官憲の取り締まり。
それをかわすため、おやさまの反対を押し切って金剛山地福寺の配下となる転輪王講社の結成を強行した秀司様。
そのことの神意の現れか否かは定かではないものの、その翌年、六十一歳で出直された秀司様。

「一れつ人間をたすけるために、秀司様を台として戒められる切なさを感じる号でもあります」
という矢持辰三先生のお言葉は、
これまで何気なく素通りしてきた「第十五号」に、何とも言えぬ深みをもたらしてくれます。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第十五号の概要】

今日までは控えていた、じっとしていたと、これまでは神意を十分に説き聞かし、神意を遺憾なく顕すことができなかった残念の思いを繰り返し述べ、次いで、今や時が至ったからには、親神の言うことを承知し背かぬよう強く求められる。

また、親神の働きをすぐさまにも顕し、残念を晴らすとされる一方、これを手掛かりとしての胸の掃除、心の入れ替えを促される。

さらに、秀司様の足の障りに触れて、本題であるつとめの急き込みへと話を進め、「これがこの世の初まり」と、つとめの意義に言及しつつ、「えらい試し」と述べて、つとめこそ立教以来の世界一れつたすけたいとの親神の思いが凝ったものであることを明かされる。

その上で、よふぼくを仕込み、その成人を促しつつ、鳴物を入れ、人衆を揃えてのつとめの段取り、つとめの実行をひたすら急き込まれる。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,517)
さまよい人
さまよい人

「神意を遺憾なく顕すことができなかった残念の思いを繰り返し述べておられる」と上田嘉太郎先生が書いておられる通り、
「おふでさき」を読み進めるほど、「つとめ」を急き込まれる神様の切羽詰まった思いがヒシヒシと伝わってくる気がします。


号が進むつれ 神様の「残念」な思いが増大しているように感じられるのも、
それほどに「つとめ」の完成に込められた思いが強いことの現われなのでしょうね。

関連動画の紹介

tablet application youtube entertainment

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第十五号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

現代訳で聞く、おふでさき15  1~47👇 https://www.youtube.com/watch?v=YMjVk5O3fcU

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき15  1~47)より

現代訳で聞く、おふでさき15  48~90👇 https://www.youtube.com/watch?v=ffz5CKW7cgY

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき15  48~90)より

改めて「おふでさき」【第十五号】を散文で読む(括弧書きも外して)

man reading a book by the wall

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第十五号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第十五号】口語訳(芹澤茂先生)

(明治十三年一月より)

 今日までは、何のことでも じっくりとして 言わずにいたことであるが、もう今日は、何でもかでも 言うのであるから、親の残念を 思ってくれ。

今日までは 何を言っても 人間の心を言っても、承知して 従ってくれ。

このたびは、どんな ためし をするか 分からないが、これで しっかり 心を定めよ。
この話は、誰のこと とは 言わない。
皆 めいめい(=各自)の 心定めである。

どれほど 身上(=体) に 切ないことがあっても、親が 踏ん張ってたすけるので、このことを 承知していよ。

これからは 心を定めて、親の言うことを しっかりと 承知してくれ。
身上は 案ずることはない。

明日からは、親が働きをするから、どんな者でも 背くことはできない。
親の働きというものは、今までも 四十三年以前から、親が現われて 初め掛けて、今日まで 働いてきた。

今日までは、大抵 残念なことも 幾たびも、じっと 我慢 していたことであるが、さあ 今日は、月日(=親) の腹が はじけてしまった。
控えていたが、もう 控えてはおれない。 

今までは、村(=村方) であるから と思って、じっくりと(=黙って) まだ 治まって(=働かないで) いたけれども、このたびは どのような所の者も、どのような心でいる者も、見定めをつけて 直ぐに働く(=掃除をする)。

しかし、これほど残念が積もっているが、心次第によっては 皆 たすける。
どれほど 残念が積もっていても、親は 踏ん張り切って 働きをする。

今日の日は、何を言うか 知れないが、よく聞け。
親の残念に思うことを 皆 現わすぞ。

すなわち、今までは 人の心の真実を知った者はいなかったが、さあ 今日は、どんな者でも 真実の胸の内を、確かに 現わす。
これさえ 皆 現わしたことならば、胸の掃除が ひとりでに 出来る。

今日からは どんな話を仕掛けても、何を言っても 承知をしてくれ。

段々と これから 何を言うか、これは 分からない。
どんなことでも 思惑をする上からの 話である。

今までは 四十三年以前(=天保九年) から、足を悩めて、そのままにしてきた。
これが 心配であった。

このたびは、何でもかでも、これを 元通りにして返す。
この話について、何を 月日(=親)が 言ったとしても、どんなことで
も 背かないようにせよ。

これからの 親の頼みは こればかりである。
他のことは 何も言わない。

このことを頼む とは、何を頼むのか と思うであろうが、つとめ一条 のことだけである。
この つとめ は  “これが この世の初まり” と言っているであろう、これさえ叶ったことなら。

さあ 今日は、親の言うことは、何ごとも、そばの者は 心に背かぬようにせよ。

そばなる者が 心違いをすれば、やむを得ない (=「かやし」を せねばならない)。
そこで、くどく 言っておく。

心違いについては 今日の日は まだ、どういうことが現われてくるか、どんなことでも、世界には 知っている者はいないけれど、親の眼には はっきりと 見えているのだ。
どんなことやら、誰も 知るまいが。 

親の話は、この世を創めてからを見ても、今までは 誰でも 知らぬことばかりである。
世界中へ そのことを教えたいから、それで 段々に 順序を追って どのようなことも するのである。

それは、 何もかも どのようなことも言っておいて、それから 親が 働きをするためなのだ。

その働きも、どんなことか 知るまいが、世界中は 親のからだ(=体) であるから、世界中で  自由自在に働く。
その 思惑の上から、今までの 親の 残念を知らしたさに、そこで このたびは、どんなためしも 皆 して見せる。
うちでも世界でも、どのようなことをするやら 知れないから、皆 一れつは 承知していよ。

このたびの 残念口説きの この話を、みな 一れつは 何と思っているか。
この元は、四十三年以前(=天保九年) から、大変な(=重大な) ためし が掛けてあるのだ。

これさえ しっかり承知して、つとめができたなら、その他 どんなことも 叶わないことはない。
世界中 みな 一れつ人間を たすけるために、そこで このためしは 大変なことなのだ。

今日までは、どのような道も 通り抜けて、その間 じっとしていたけれども、もう 今日は、何でもかでも、真実を してかかる(=真実が現われるように働きかける) ので、承知していよ。

そうなれば、今までと 道が ころっ と変わるのである。
みな 一列は 心を定めよ。

この道は うちも世界も 隔てなく、世界中の 胸の掃除をする道になるのである。
その時、この ためし が 大変重要になる。

この世を創めてから 今日までは、本真実(=本元の真実) を言ったことはない。
今日の日は 本真実を 言い掛けるから、どうか しっかり 承知してくれ。

この話は 何かと言うと、四十三年以前(=天保九年) から 大変な ためし が掛けてあるということ、これ一条(=一筋) である。
この ためし は何のこと と思うか、つとめ一条(=つとめによる珍しいたすけ) を急くための 段取りである。

この つとめについて、どういうことに 思っているのか。
鳴物を入れて つとめること、人衆を揃えること のもよう(=準備) を早くせよ。

この つとめは、どんな者でも 十分に 思案せよ。
これを止めたならば、わが身も 止まるぞ。

この つとめをする ということは、この世を創め掛けたも 同じことである。
元初まりにおいて、親は ない人間を 創め掛けたのである。

このたびも これ(=つとめ)さえ 初め掛けてつとめ の試しをし、証拠ができたことなら、これからの道において いかなる たすけ も、皆、親は 請け合う。

それ故、このこと(=つとめをすること) は、しっかりと 承知をしなければならぬ。
これを止めたならば、直ぐにしりぞく(=守護がなくなる。)

今までは、“高山や” といって、けんけんと(=威張って) ままに(=自由に) していたことであるが、これからは どれ程 高い山でも、谷底を まま にすることは 決して 出来ないぞ。
なぜなら、この先は 谷底には 段々と 多くの用木(=よふぼく) が見えている。

そして、この よふぼくには、段々と、この世を創めた親が 皆 入込む、そうして働くのだから。
この世を創めた親が 入込めば、どんなことをするか 知れない。

どのような 珍しい不思議な ことをした としても、案ずることはない。
何でも 万事 親が請け合う。

この 今 話題の よふぼく についての 事柄を、心をしっかりと定めて、早く 取り掛かれよ。

今日までは、この道は どんな道やら 誰でも 知っている者はなかったが、もう 今日は 道が変わって 胸の掃除の道になるから、芯の心(=本心) を 段々と 皆 現わすので、これを 承知していよ。

親の眼に 適った者は、日々に 段々 心が 勇むばかりである。
親の眼に 残念の者は、いつ何どき、夢をみるように 散るかも知れない。

この話は どこの事とも言わない。
世界中の人間 は 皆 わが子である。
一れつの子供が 可愛い という心ばかりで、どこにも 隔ては 更にない。

だが、しっかり聞け。
心違いをすれば 是非がない(=やむを得ない) ので、そこで だんだん 手入れをするのである。
この事については、高山でも谷底でも、油断しないよう 心を定めよ。

さあ 頼むぞ。
何を頼むと思うか。
早く 鳴物を寄せて 稽古をせよ。

これまでは どんなことでも じっくりと、まだ 納まって(=働かないで) いたけれども、もう 今日の道は、何でもかでも、早く つとめをせねばならぬ という事 (=事態) である。

今までは、どんなことでも 段々と(=順序を追って)、いろいろ 頼み掛けてあるけれど、どんなことを頼んでも、誰も聞き分けてくれないとは、何という 親の残念か。

このたびの 残念(と言って) 口説いているこの話を、どうか しっかり聞き分けてくれ。

今日の日は 親が何ごとを言っても、どんなことでも 背かないようにせよ=(よく 聞き分けよ)。
今までは、どんな話をしても、何を言っても、匂いばかりであった。

今日の日の話 というのは、もう 節(=時節) であるから、言えば そのまま 直ぐに見える(=現われる) のだ。
この話は、四十三年以前(=天保九年) からの 親の 胸の残念を 今 晴らす ということなのである。

それを知らず、うちなる者は 何もかも、世界並のことのように 思っている。

この道は、四十三年以前(=天保九年) から、まことに 難渋な(=通りにくい) 道を 通ってきた。
その 残念なことを、今まで 誰も知らなくても、このたび これを みな 晴らすことにする。

この晴らしは どうして晴らすか と言えば、つとめ一条で みな 現わすのである。
このつとめについて、親が何ごとを言っても、どんなことにも 背くようなことはするな。

これだけは くれぐれも頼んでおくが、これは、あとで 後悔しないように というためである。

このたびの つとめ一条を止めるなら、名代なりと、直ぐに しりぞく。
この話を そばの者は 何と思っているか。

もう一息 (=ちょっとの間) も 待ってはいられない。

早く 鳴物なりと 出し掛けよ。
つとめだけを 急込んでいるのだから。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十五号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第十五号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで――
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十五号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8
天理教「おふでさき」第八号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第九号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9
天理教「おふでさき」第九号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,10
天理教「おふでさき」第十号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,11
天理教「おふでさき」第十一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,12
天理教「おふでさき」第十二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,13
天理教「おふでさき」第十三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,14
天理教「おふでさき」第十四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました

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