Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
教祖百四十年祭に向けた「三年千日」年祭活動期間の旬。
教祖百四十年祭を一つの目標として、
今よりは少しでも「神様」「おやさま」を感じられるようになりたいとの思いから、
“天理教原典の一つ『おふでさき』を改めて勉強をしよう”
と思い立ちました。
私なりの年祭活動として。
その具体的活動として、
本年2月に入って、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という本の中の「おふでさき」の口語訳文を【通して】記載する、
ということを始めました。
この “「おふでさき」を散文で読む” シリーズは、
今まで見えていなかった「おふでさき」の景色が少しでも多く見えるようになりたい、
との思いから、
短歌調で書かれた「おふでさき」を、あえて【散文】で、読み物風に「通して」読んでみよう、
という企画であります。
【散文】で読むにあたっては、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という著作を教材とすることにしました。
そして、芹澤茂先生の『おふでさき通訳』口語訳文を書写するにあたっては、
「おふでさき」原文を記載しそれと対比させる形で口語訳文を記載するというやり方では、
「おふでさき」を読み物風の散文として味わいたい、
という目的を今一つ達成しづらい感じがするので、
「おふでさき」原文は一切記載せず、ひたすら芹澤茂先生の口語訳文のみを書写、書き連ねる、
というやり方を取っています。
前回は「おふでさき」【第四号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第五号】の口語訳を書写します。
では、いってみましょう。
芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
今回は、「おふでさき」【第五号】の口語訳を書き写します。
「おふでさき」【第五号】口語訳 書き写し
第五号
(七十七才老女 明治七年五月)「今までは 牛馬(に堕ちる)ということは、時々 聞いていても、あと先(過去と将来)が (はっきり具体的に) 知られることはあるまい。
このたびは 先なること(来生)を この世(今生)から知らせるから、身の障り(病気)によって これを見て(よく思案せよ)。」
(1~2)「この世は どんなにわが身のことを思っても、(その通り方が) 神の立腹(となるようなもの)では、これは 思い通りにはならない。
めいめい(個人)に わが身思案は要らない。
神が それぞれ(その者を)見分ける。一屋敷(の中に)同じようにくらしていて、(“神も仏もない” と思って わが身勝手な通り方をしても)“ 神も仏もある” のだということを考えよ。
(神は 立腹のかやしをするので) これ (かやし)をみて、どんな者でも 得心せよ。
(神は) 善と悪とが 分かるように(必ず)する。」
(3~6)「この話を みな一れつは 思案せよ。(一人として) 同じ心ではあるまい。親子でも夫婦でも、兄弟姉妹の仲でも、みな 一人ひとり心は違う。」
(7~8)「世界中 (うちもせかいも) どこの者と(いう区別は) 言わない。
(誰でも) 心のほこりが 身に障りとなる。(それ故、)身の内(体)の 悩むところ(病気)を思案して (ほこりの心違いをさんげし、)神にもたれる心(になるよう) 思案せよ。
(そうしたら自由自在のたすけをするので、)どんなに (病が)難しい(重い)と言っても、神の自由自在のたすけを 早く見せてやりたい。今までは、神の自由自在という真実を知っている者は 全く居ないので(、誰も 本当に思案をしていなかった)。
これからは どんなに難しい病でも、心次第で 直らぬということはない。
真実の心を 神が受けとれば、どんな自由(自在のたすけ)も してみせる。」
(9~14)「これほどの 神の真実の心からする この話を、そばの者は 早く悟れ。
これさえ 悟りが付けば (神は 自由自在のたすけをして見せるので)、何についても これと同じ道理である。」
(15~16)「きょうまでは、何事にも (あまり) 急かすことはなかったが、もう (きょうは) 往還の道を急込む。
この (往還の)道は、世界並のことと思ってはならない。
これは 末代(永遠)にわたる こふき の初まりである。」
(17~18)「この (今話題の)人衆は、どこに居るとは言わないが、身の内の障り(病気)(を手引きとして)みな 寄って来るであろう。
この障りについては、(神の)てびき・いけん・りっぷく(であるけれど)も、みな めいめい(各自)(心違いを)思案してみよ。この話を 何と思って聞いているか。
(神は 人間が)可愛いあまりに口説いているのだ。どんなに いけんや立腹と言っても、これをたすけない と言っているのでは 決してない。
人間の わが子を意見することを 考えてみよ。
腹の立つのも 可愛い故からであろう。よく思案して、心定めて 随いて来い。
末には 頼もしい道があるぞ。」
(19~24)「今までは 心違いがあっても、(まだその)日(旬)が来ていないので 見許して(そのままにして)いた。
このたびは 何でもかでも 胸の内(心)を掃除するから(、この点をよく) みな 承知していよ。胸の内を掃除をする というのも、神の思惑が 深くある (いろいろ教えたい)からなのだ。
(すなわち、いくら教えても、この胸の)掃除をすっきりと仕上げてしまわないと、むねが 真実にわかった ということにならないからである。(掃除して、)この(ように) 心が芯からわかった ということになれば、この世 初まり(と同じ守護を現わすつとめ)の 手を付ける。」
(25~29)「近道も(通らず)、欲も高慢もないようにして、ただ一筋の 本道に出よ。
この道についたなら、いつ迄も これが にほんのこふきである。
にほんにも こふきが出来たことなら、必ず からを(にほんの)ままにする。」
(30~32)
※「にほんのこふき」とは、
「たすけのための根本教理」であって、これは教祖が「取次」(取次人)に直接仕込まれたものである。
この意味から「こふき」は「口記」ではないかとも言われる。
根本教理を書いたものは昔から「古記」と書くのが普通であるから、こふきは古記でもよいとの説もある。
(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,189)
「この世を 創めてからの真実を、まだ 今までは 言ったことはない。
この話は (話するのが)難しいけれど、言わずにいれば 誰も知らない(ので、何とか 知らさねばならない)。(それ故、)だんだんと どんなことでも (にほんの者に教えて、それから) 言って聞かせる(ようにする)。
この話を 心を静めて しっかり聞いておけ。」
(33~35)「今までは どんな法(法術)と言っても、これからは 法 は効かない。
これまでは 枝先では 法 なぞと教えてあるけれども、先(将来)を 見ていよ。にほんには (法 のようなものは まだ)何も知らなくても、これから先の道(には、法 よりすぐれたものがあること)を 楽しんでいよ。
(一体、)法 といっても 誰が( 法 によってたすけを)するか など考えなくてもよい。
この世 創めた神が するのである。(それ故 このたび こふき によるたすけでは) どんなに難しいことといっても、神が (たすけを取次ぐ者の)真実を 受けとったなら (出来ていく)。」
(36~40)「今までは から やにほん と言ってきたけれど、これから先(将来)は にほん ばかりである。
枝先は (葉が繁って) 大きく見えるけれど、手を出すと 折れる (案外弱い)。これから先を見ていよ。
元なるものは 小さいようであるが、根であるから しっかりしている。
どんなことでも 元を知ることが 大事だ。」
(41~43)「術 とか 法 とかいうものが えらいものだと思うな。
心の誠、これが真実であり 真の術である。
(それを、)人間は 浅はかであるから、物珍しい事を 法 なぞと言(って、その真似をしようと思)うのだ。」
(44~45)「今までは 神が現われ出(て 自由自在の働きをし)ても、まだ 真実(真実のこと)を 知った者はいない。
(それ故) この先は どんなことも 真実を教えておいたなら、それから 神の働きは、なにもかも自由自在をしてみせる。
真実の 神の働きをしかけたら、世界一れつは 心がすみき(って 真実のことも分か)る。」
(46~49)「(神の)働きは どういうものか と考えるであろうが、(神は 人間の)心を受けとり次第に かやし(お返し) をするのである。
このかやしは 普通に考えられるようなものではなく、道のりが 千里も隔たっていても (かやす)。このこと(かやし)は、何を言っても思っても、(その心を)受けとり次第 直ぐにかやしする。
このかやしは どんなものか と思うな。
善悪ともに 皆 かやすのである。善い事を言っても(思っても) 悪い事を(言っても)思っても、そのまま 直ぐに かやすのである。
このこと(かやし)が、(人々の心に 本当に)見えてきたならば、一れつは どんな者でも みな (心が) 澄み渡る。」
(50~55)「きょうの日は 何も見えてはいないが、八月をみよ、みな 見え(てく)る。
見えると言っても 何のことか知れまいが、高い山から 往還の道が 付いてくる。この道を付けようとして、仕拵え(準備) をしているのを、そばの者は、何も知らない(で心配している)。
この所へ呼びに来たり、出向いて来たりするのも、皆 神の思惑がある(故に させていることである)。それを 何も知らずに、そばな者は 世界並(の取締りや干渉のよう)に 思っている。
何が起きても、世界並に 思う(て心配する)な。
珍しい道が 出来てくるのだから。」
(56~61)「だんだんと この世を創めてから (長い)時間が経ったが、一人として 真実を知っている者はいない。
(この真実を知らせようと) どれほど 神の心は急いても、みなの者の心は まだ うっかりとしている。早く思案して 急込め。
なぜ 根(元、根本教理)を掘る 段取りに とりかからないのか。この世の 真実の根の掘り方を知っている者がないので (いくら急いても どうにもならぬ)。
この根を 本当に掘ったなら、誠に 頼もしい道になるのに。この道を 掘りきって通り抜けたなら、上も下も(高山も谷底も) みんな 心がいさんでくるのに。」
(62~67)「これからは、何としても 世界一れつを、いさむようにする 段取りばかりする。」
(68)「だんだんと 何ごとでも にほんには 知らないことがないように(したい)。
(それは) 何もかも 世界中へ教えたい(からである)。(その)神の思惑が深いのに、それを知らず 世界中は (うちもせかいも) どこでもみな、(神の言うことを) なぜか 危ないように思っている。
どんなことでも 神の言うことであるから、ちょっとも 危ないことはない。」
(69~72)「何もかも 色々のことを だんだんと(順序を追って)話をしているのに、わかっている者がいない。
これからは、どうか 本当に 胸の内を早く澄ます段取りをしてくれ(、心を澄まさないと 話がわからないから)。(澄ますということであるが、)世界中(から寄って来るのが) 多くの人であるから、これを みな澄ます というのは難しい。
どんなに難しいと言っても、(めいめいが) わが心の真実を見よ (そうすれば 澄ますことができる)。」
(73~76)「この心(というもの)は、すみ・わかりしたならば、そのまま (神が働きがはっきりと)見えるものである。」
(77)「日々に 神が働いている真実(の姿)を知っている者は 全く ないであろう。
何でも 神の自由(自在の働き)というのは、珍しいことを して見せる(から、よく見ていよ)。どんな珍しいことと言っても、(みな) 神のすること なすことである(から、上を恐れず、神にもたれよ)。」
(78~80)「今までは どんなことも (はっきりとは)知らなかったであろう(が)、今は ちょっと 細い道筋が見えかけている。
この道を だんだん慕って行くなら、確かに 先の方に 本道が見える。(細道から本道へとたどる)これまでに通ってきた道筋については、からも にほんも (何のことか) わからないので (心配したであろう)。
(しかし、)この先は (わかってくる。すなわち) どんなに から(がえらいもの)や と言っても、にほんが負ける ということはない(ので、神の話を伝えて 真実をわからせることは出来る)。」
(81~84)「この世の 元初まりの根を掘らそう。
力がある限り 掘りきってみよ。
この根を 掘りきりさえしたなら、(いかに から は偉いと言っても、にほんの者に) かなう者はない(のだ)。(これから言うことを) しっかり聞いておけ。
(根を掘って 神の教えることを何でも知っていれば、布教伝道において) 口で言っても (心に)思っても、どこで言っても(何を)思っても (神は いつでも これを受けとる)。“(心を受けとる通りに) 直ぐに(善悪の)かやしをする” と言っているのは このことである。
(からの者からは) 神がしりぞく(ので、これを てびきとして心が澄んで、神の話を聞くようになるのである)。
これを 承知していよ。」
(85~88)
「おふでさき」【第五号】は88首で、
第三号、四号よりは、ちょっと短いですね。
以上、芹澤茂著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の書き写しでした。
「おふでさき」【第五号】の概要
次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第五号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第五号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より
【第五号について】
第五号に入ると、布教伝道をする場合の話のたねになるというか、こういう話を伝えると教えがよくわかるだろうという意味の内容が、まず説かれています。
いわば、布教伝道をする者が語る話の基準となるものが説かれていると拝します。
そして、それについて人間の善悪とは何かという問題、人間の心どおりに親神が働かれる自由の守護について、そして、いよいよ教祖が自ら高山布教に出られるという話が語られていきます。
(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P161)
第五号から、布教に関するお話がどんどん増えていくのですね。
「外向き」の話が拡大していく、という流れを押さえておきたいと思います。
上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より
【第五号の概要】
「親神は銘々の心通りに守護する」とご守護のありようを述べ、
具体的な例として、心のほこりから来る身上の障り、さらに、往還道をつけるための身上を通しての人衆の引き寄せ、仕込みにふれ、
全て 親神によるつとめの完成の段取りであると教えれられる。これが 世の立て替えの根本の道、末代のこふきであると仰せになり、
そのためにも元初まり以来の真実を教え、自由自在の働きを顕して、世界一れつの心を澄み切らせると宣べられる。この働きとは、「心受け取り次第返しを」するということである。
そのためにも、頼もしい道へと続く元初まりの根を掘り切る積極的な求道を求められ、第六号 元の理の話へと続いていく。
(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,168)
上田嘉太郎先生による「第五号」概要を、私なりに簡略化すると、
[銘々の心通りの守護]→[つとめ人衆の引き寄せ]→[つとめの完成]→[世界立て替え]=[末代のこふき]
・・・その神の働きを顕在化しやすくするために[世界一列の心澄み切らせる]→そのために[元初まりの真実を教える]→[元を知ろうとしてほしい]
…みたいなかんじでしょうか。
簡略化できてないか(笑)
上田先生の著作の中で、
第五号では「こふき」について述べておられる、という旨の解説がされていました。
そこで、「こふき」について調べてみました。
「おふでさき」内で、それまでにも何度か「こふき」というお言葉は出てきていましたが、「第五号」からは、「にほん」というお言葉と絡めて「こふき」について語って下さっています。
少し先の「第十号」と「十一号」で、特に深く語って下さっているようです。
上記 口語訳文の途中で「にほんのこふき」についての芹澤茂先生の解説をはさんでおきましたが、
少し先の「第十号」芹澤茂先生解説文の中にも「こふき」についての解説が記されていましたので、
参考のため、それもここに書き写しておきます。
※「こふき」とは何であるかをおふでさきの用例からみると、
「にほんのこふき」(五号三一)と言われ「しんがくこふき」(三号六九)と対照して用いられていることなど、お道の根本教理を指している。
これはおふでさきの如く書かれたものでなく、教祖が口述や刻限のお話などをもって教えらえたもので、いわば“直接的仕込みによる教理”である。
内容は、つとめやさづけなどに関すること、「こふき話」、ひながた(教祖の道すがら)などが主たるものと考えられる。
(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,403)
ちょっと寄り道。
「こふき」という言葉で検索する中で、
コムヨシさんの「おふでさき解読の手がかりは「こふき」だった!」
というブログ記事がヒットしました。
とても勉強になりました。
コムヨシさんと言えば、
私のブログ開設の大きな後押しとなった
「天理教の教会長コムヨシがブログを書き続ける理由」
という記事を世に送り出している「天理教ブロガー」の“パイオニア”です。
コムヨシさんの『天理教2.0になるためのコムヨシブログ』は、
若き天理教教会長にとって、とてもためになるブログです。
敬意を込めて、下にリンクを貼らせて頂きます👇
『天理教2.0になるためのコムヨシブログ』 https://www.com-yoshi.space
関連動画の紹介
これまでの当シリーズで毎回紹介している
「おふでさき」を現代文で理解するという目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
「語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第五号に関係する動画のリンク。
前回に続いて、今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)
①現代訳で聞く、おふでさき05 1~40👇 https://www.youtube.com/watch?v=kk86Knd2BXI
②現代訳で聞く、おふでさき05 41~88👇 https://www.youtube.com/watch?v=SMVl8nGvsYc
改めて「おふでさき」【第五号】を散文で読む(括弧書きも外して)
これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。
「おふでさき」【第五号】散文(芹澤茂先生訳)
「おふでさき」【第五号】口語訳(芹澤茂先生)
(教祖七十七才 明治七年五月)
今までは、牛馬に堕ちるということは、時々聞いていても、“あと先”=過去と将来 が、はっきり具体的に知られることはあるまい。
このたびは、“先なること”=来生 を “この世”=今生 から知らせるから、“”身の障り”=病気 によって、これを見てよく思案せよ。
この世は、どんなにわが身のことを思っても、その通り方が、神の立腹となるようなものでは、これは思い通りにはならない。
“めいめい”=個人 にわが身思案は要らない。
神が、それぞれ、その者を見分ける。
一屋敷の中に同じように暮らしていて、“神も仏もない” と思ってわが身勝手な通り方をしても、“神も仏もある” のだということを考えよ。
神は 立腹のかやしをするので、“これ”=かやし を見て、どんな者でも得心せよ。
神は、善と悪とが分かるように、必ず する。
この話を、みな 一れつは思案せよ。
一人として 同じ心ではあるまい。
親子でも夫婦でも、兄弟姉妹の仲でも、みな、一人ひとり 心は違う。
“世界中”=内も世界 も、どこの者という区別は言わない。
誰でも、心のほこりが 身に障りとなる。
それ故、“身の内”=体 の悩む“ところ”=病気 を思案して、ほこりの心違いをさんげし、神にもたれる心になるよう思案せよ。
そうしたら、自由自在のたすけをするので、どんなに病が “難しい”=重い と言っても、神の自由自在のたすけを早く見せてやりたい。
今までは、神の自由自在という真実を知っている者は全く居ないので、誰も 本当に思案をしていなかった。
これからは、どんなに難しい病でも、心次第で直らぬということはない。
真実の心を神が受け取れば、どんな自由自在のたすけもしてみせる。
これほどの神の真実の心からする この話を、そばの者は 早く悟れ。
これさえ 悟りが付けば、神は 自由自在のたすけをして見せるので、何についても、これと同じ道理である。
今日までは、何事にも、あまり 急かすことはなかったが、もう今日は、往還の道を急込む。
この 往還の道は、世界並のことと 思ってはならない。
これは “末代”=永遠 にわたる こふき の初まりである。
この、今 話題の人衆は、どこに居る とは言わないが、身の内の “障り”=病気 を手引きとして、みな 寄って来るであろう。
この障りについては、神の手引き・意見・立腹であるけれども、みな、“めいめい”=各自、心違いを思案してみよ。
この話を 何と思って聞いているか。
神は、人間が可愛いあまりに 口説いているのだ。
どんなに意見や立腹と言っても、これをたすけない と言っているのでは決してない。
人間の、わが子を意見することを考えてみよ。
腹の立つのも 可愛い故からであろう。
よく思案して、心定めて随いて来い。
末には 頼もしい道があるぞ。
今までは 心違いがあっても、まだ、その日=旬 が来ていないので、見許して、そのままにしていた。
このたびは、何でもかでも、“胸の内”=心 を掃除するから、この点をよく、みな 承知していよ。
胸の内を掃除をする というのも、神の思惑が 深くある=いろいろ教えたいからなのだ。
すなわち、いくら教えても、この胸の掃除をすっきりと仕上げてしまわないと、胸が真実にわかった ということにならないからである。
掃除して、このように、心が芯からわかった ということになれば、この世初まりと同じ守護を現わすつとめの手を付ける。
近道も通らず、欲も高慢も ないようにして、ただ一筋の 本道に出よ。
この道についたなら、いつ迄も、これが にほんの こふき である。
にほんにも こふき が出来たことなら、必ず、からを にほん のままにする。
この世を創めてからの真実を、まだ 今までは言ったことはない。
この話は、話するのが難しいけれど、言わずにいれば 誰も知らないので、何とか 知らさねばならない。
それ故、段々と、どんなことでも にほん の者に教えて、それから言って聞かせるようにする。
この話を、心を静めて しっかり聞いておけ。
今までは、どんな “法”=法術 と言っても、これからは 法は効かない。
これまでは、枝先では、法 なぞと教えてあるけれども、“先”=将来 を見ていよ。
にほんには、法 のようなものは まだ何も知らなくても、これから先の道には、法 よりすぐれたものがあることを楽しんでいよ。
一体、法 といっても、誰が、法 によってたすけをするか など考えなくてもよい。
この世 創めた神が するのである。
それ故、このたび、こふき によるたすけでは、どんなに難しいことといっても、神が、たすけを取次ぐ者の真実を受け取ったなら、出来ていく。
今までは からやにほん と言ってきたけれど、これから先(将来)は にほんばかりである。
枝先は、葉が繁って 大きく見えるけれど、手を出すと折れる=案外弱い。
これから先を見ていよ。
元なるものは 小さいようであるが、根であるから しっかりしている。
どんなことでも 元を知ることが大事だ。
術 とか 法 とかいうものが えらいものだと思うな。
心の誠、これが真実であり 真の術である。
それを 人間は浅はかであるから、物珍しい事を 法 なぞと言って、その真似をしようと思うのだ。
今までは、神が現われ出て 自由自在の働きをしても、まだ “真実”=真実のこと を知った者はいない。
それ故、この先は、どんなことも 真実を教えておいたなら、それから神の働きは、何もかも 自由自在をしてみせる。
真実の神の働きをしかけたら、世界一れつは 心が澄み切って、真実のことも分かる。
神の働きはどういうものか と考えるであろうが、神は、人間の心を受け取り次第に “かやし”=お返し をするのである。
この “かやし”=お返し は普通に考えられるようなものではなく、道のりが 千里も隔たっていても、かやす。
このこと=かやし は、何を言っても思っても、その心を受け取り次第、直ぐに “かやし”=お返し する。
この かやし は どんなものかと思うな。
善悪ともに、皆、かやすのである。
善い事を言っても思っても、悪い事を言っても思っても、そのまま直ぐに かやすのである。
このこと=かやし が、人々の心に 本当に見えてきたならば、一れつは、どんな者でも、みな 心が澄み渡る。
今日の日は、何も見えてはいないが、八月をみよ、みな 見えてくる。
見えると言っても、何のことか知れまいが、高い山から 往還の道が付いてくる。
この道を付けようとして、“仕拵え”=準備 をしているのを、そばの者は、何も知らないで 心配している。
この所へ呼びに来たり、出向いて来たりするのも、皆、神の思惑がある故に させていることである。
それを何も知らずに、傍の者は、世界並の 取締りや干渉 のように思っている。
何が起きても、世界並に思うて 心配するな。
珍しい道が 出来てくるのだから。
段々と、この世を創めてから 長い時間が経ったが、一人として 真実を知っている者はいない。
この真実を知らせようと、どれほど神の心は急いても、皆の者の心は、まだ、うっかりとしている。
早く思案して 急込め。
なぜ、根元、根本教理を掘る 段取りに取り掛からないのか。
この世の真実の根の掘り方を知っている者がないので、いくら急いても どうにもならぬ。
この根を 本当に掘ったなら、誠に 頼もしい道になるのに。
この道を掘りきって 通り抜けたなら、“上も下も”=高山も谷底 も、みんな 心が勇んでくるのに。
これからは、何としても、世界一れつを 勇むようにする段取りばかりする。
段々と、何ごとでも、にほんには 知らないことがないようにしたい。
それは、何もかも 世界中へ教えたいからである。
その 神の思惑が深いのに、それを知らず、世界中は 内も世界も、どこでも皆、神の言うことを、なぜか 危ないように思っている。
どんなことでも 神の言うことであるから、ちょっとも 危ないことはない。
何もかも、色々のことを、段々と 順序を追って話をしているのに、わかっている者がいない。
これからは、どうか本当に、胸の内を 早く澄ます段取りをしてくれ、心を澄まさないと 話がわからないから。
澄ます ということであるが、世界中から寄って来るのが 多くの人であるから、これを みな澄ますというのは難しい。
どんなに難しいと言っても、めいめいが、わが心の真実を見よ、そうすれば 澄ますことができる。
この心というものは、澄み・分かりたならば、そのまま、神の働きが はっきりと見えるものである。
日々に、神が働いている 真実の姿を知っている者は、全くないであろう。
何でも 神の自由自在の働きというのは、珍しいことを して見せるから、よく見ていよ。
どんな珍しいことと言っても、みな神のすること・なすことであるから、上を恐れず、神にもたれよ。
今までは、どんなことも はっきりとは知らなかったであろうが、今は、ちょっと細い道筋が 見えかけている。
この道を だんだん慕っていくなら、確かに、先の方に 本道が見える。
細道から 本道へとたどる、これまでに通ってきた道筋については、から も にほん も、何のことか分からないので、心配したであろう。
しかし、この先は分かってくる。
すなわち、どんなに から が偉いものやと言っても、にほん が負けるということはないので、神の話を伝えて、真実を分からせることは出来る。
この世の 元初まりの根を掘らそう。
力がある限り、掘りきってみよ。
この根を 掘りきりさえしたなら、いかに から は偉いと言っても、にほん の者にかなう者は ないのだ。
これから言うことを しっかり聞いておけ。
根を掘って、神の教えることを 何でも知っていれば、布教伝道において、口で言っても心に思っても、どこで言っても、何を思っても、神は いつでもこれを受け取る。
“心を受け取る通りに、直ぐに善悪の かやし をする” と言っているのは、このことである。
から の者からは神が退くので、これを手引きとして、心が澄んで、神の話を聞くようになるのである。
これを 承知していよ。
以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第五号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第五号】の散文でした。
「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。
散文化した後、
天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。
教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。
機会を見つけて読み返し、
少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。
しばらくは、このシリーズを続けます。
ということで、今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第五号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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