Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号90番「阿羽大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号91番「伊野大教会」について勉強します。
- 伊野大教会(いの だいきょうかい)
- 伊野大教会の始まり(明治22年)
- 初代会長・片岡常太郎の入信(明治22年)
- 片岡常太郎の布教見習い(明治22年)
- 片岡常太郎の初おぢばがえり 〜 川内講の結成(明治22年)
- 伊野出張所の開設(明治25年)
- 蓮照寺建物の移築改造による神殿設立と付属建物ふしん(明治25年)
- 愛媛方面への布教展開(明治25年頃〜)
- 伊野支教会への昇格(明治27年)
- 幻の教会移転計画 〜 教勢の伸展(明治28年〜明治32年頃)
- 13軒長屋の建築、激しい経済的困窮の時代(明治33年頃〜明治40年頃)
- 伊野分教会への昇格(明治42年)
- 困難を乗り越えて教会の移転・増築(明治44年)
- 更なる教勢の伸展 〜 教祖殿ふしん(大正10年〜大正11年)
- 伊野のアメリカ布教(昭和初期)
- 片岡三郎2代会長の就任(昭和7年)
- 片岡常太郎 初代会長の出直し(昭和10年)
- 伊野大教会への昇格(昭和16年)
- 新たな神殿ふしん 〜 3大祭典(昭和24年)
- 片岡三郎2代会長の辞任、片岡常里3代会長の就任 〜 奉告祭(昭和31年〜昭和37年)
- 昭和中期の動き
- おわりに
伊野大教会(いの だいきょうかい)

伊野大教会の始まり(明治22年)
伊野大教会は、
明治22年(1889)、
高知県高岡郡 川内村 字波川に住んでいた 片岡常太郎の入信に始まる。
初代会長・片岡常太郎の入信(明治22年)
片岡家は、代々 農業をする傍ら 製紙業を営んでいた。
当時、(片岡)常太郎の母・たねは、
産後の血の道から足が立たなくなり、永らく床に就いていた。生来 親孝行の (片岡)常太郎は、何とかして母の病気を平癒させたい と常に心にかけていたところ、
或る日、高知市から 時折 巡ってくる油の行商人より
「今、高知へ不思議な神様が来ちょるが、いっぺん 頼んでみたらどうぜよ」
と 勧められた。(そこで) 早速、翌日(に) 高知へ尋ねて行ったところ、その神様の話をしている布教師は宇佐方面に出かけたというので、7里の道を追いかけた。
しかし (その時は残念ながら) 会うことができなかった。ところが、数日後、(片岡常太郎は)
その布教師・土居嘉七・湯川政太郎 (大阪南真明組) の両名が、伊野方面に来て布教している(という)ことを伝え聞いた。
そこで (早速) 出かけて(行って) 教えを聞いた。(そうした)ところ、深く(心に) 感ずるところがあり、
(片岡常太郎は、天理教への)入信を誓った。
明治22年2月8日のことである。
片岡常太郎の布教見習い(明治22年)
(片岡)常太郎は、(土居嘉七・湯川政太郎) 両名の荷物持ちを申し出、
主として (高知県)高岡郡内の町村(への布教活動)に同道。
家に帰ったのは、(出発してから) 21日目であった。その間、(片岡常太郎は、土居嘉七・湯川政太郎 両名による) 数々の不思議なおたすけを目の当たりにし、いよいよ信仰の念を深めた。
片岡常太郎の初おぢばがえり 〜 川内講の結成(明治22年)
(そして、明治22年) 翌 3月中旬、(片岡常太郎は) おぢばに参拝した。
(片岡常太郎は、おぢばより) 帰郷してからは、近郷近在の人々に親神の教えを説き聞かせ、
また、武藤礼助(大阪真明組) の応援を得て、わずかの間に、親戚や知人等 多数を信仰に導いた。
(そして、片岡)常太郎は、川内講の講元となった。
伊野出張所の開設(明治25年)
その頃、高知県内では あちこちで天理教の布教が進められ、(次々と) 熱心な信仰者が生まれていた。
(片岡)常太郎の近郷では、
(高知県)土佐郡十六村 領家の 森沢亀太郎、
(高知県土佐郡) 槇の 井上猪太郎、
(高知県)吾川郡伊野村の 土居常三郎、
…等が 講を結成して、信仰を伝えていた。(そして) 明治24年(1891)頃から、
土居常三郎宅に「川内・領家・槇・伊野」の講社の者達が 日を定めて会合し、教理の研究をし、相互の信仰を深める様になった。そうしている中に、
島村菊太郎(高知大教会・初代会長) の提案によって、
4講社 (川内講・領家講・槇講・伊野講) を合併して、(高知県吾川郡) 伊野村に 集談所を設置しよう という気運が高まった。明治25年4月、各講社の講元、講脇、周施が集まって協議。
(その結果、伊野講の) 土居常三郎宅を 改造して集談所とし、
担当者(=代表者) を (川内講の) 片岡常太郎とする、という案がまとまった。(そして)
同年(明治25年) 5月17日のおさしづによって許しを得て (集談所が) 設立された。
続いて、同年(明治25年) 11月4日には、
高知分教会部内の「伊野出張所」として、おぢばの許しを得た。出願当時の設立員には、前記の 4講元 (川内=片岡常太郎・領家=森沢亀太郎・槇=井上猪太郎・伊野=土居常三郎) をはじめとする19名、賛成員には 8名の名が知られている。
蓮照寺建物の移築改造による神殿設立と付属建物ふしん(明治25年)
(伊野出張所 開設後)
日を経るに従い 集まる者が次第に増え、
(伊野)出張所の建物では 収容しきれなくなってきた。(そこで) 一同協議の上、
(高知県高岡郡) 川内村 波川の「蓮照寺」という寺の建物を譲り受け、これを移築改造して神殿となし、(既にある 伊野)出張所の建物を教祖殿とし、その他に 小さな事務所と炊事場を併設する (という)ことに決した。明治25年4月20日に「蓮照寺」との契約が成され、
(その後、無事に 建物の) 移築が実行され
(寺の建物は、伊野出張所において見事に天理教の神殿に改造され)た。
愛媛方面への布教展開(明治25年頃〜)
(神殿ほか教会施設が立派に拡張したこともあり)
いよいよ 布教伝道の上に 一同心を合わせて邁進しようということになった。(伊野出張所 開設の) 設置員に名をつらねた者達は、先祖代々 住みなれた家屋敷を売り払い、続々と (高知県吾川郡) 伊野村に 移住してきた。
その中で、(領家講だった) 森沢亀太郎は 最年長者で 足が不自由でもあったところから 教会の留守居の責任者となり、(その)他の者は それぞれ布教に出ることになった。
(ただ) 当時、既に (高知)県下は 他の教会によって盛んに布教が進められていたこともあり、伊野(出張所) は、愛媛県下(を中心) に布教を進めることとした。
片岡常太郎を先頭にする一行が旅仕度を整え、妻子や教友に見送られて (愛媛県下に向けて) 出発したのは、明治26年 4月下旬のことである。
一行は、(愛媛県) 松山を中心として、川上村・北條・浮穴村・郡中・興居島の各地で 布教を進めた。
また、高知県内でも、佐川・鎌井田・半山・黒岩・三瀬方面に 布教を進めた。
伊野支教会への昇格(明治27年)
こうした布教により (伊野の) 教勢は 破竹の勢いで伸展し、
明治27年(1894) 3月14日、
(伊野出張所は) 支教会となった。
幻の教会移転計画 〜 教勢の伸展(明治28年〜明治32年頃)
月毎に参拝人が増加するので、礼拝場の拡張の必要性に迫られたが、
当時の敷地では増築の余裕がなかった。
そこで、少し離れた所の 田地1反歩余りを購入(し移転)する相談がまとまった。明治28年10月29日、(天理教教会)本部から地所購入の許しを得、
また、翌11月29日に移転建築の許しも得た。しかし、実現の運びにはならなかった。
記録が残されていないため、その原因は詳らかでない。
経済的な事情が許さなかった(のではないか) と推察されている。一方、教勢は年と共に伸展し、
明治28年には、風早・佐川出張所、
(明治)29年には、高明・森松出張所、
(明治)32年には、和泉川・余土・潮見出張所、
以上の出張所が 設立されている。
13軒長屋の建築、激しい経済的困窮の時代(明治33年頃〜明治40年頃)
明治33年(1900) 2月、(高知県吾川郡) 伊野村に移住してきた人々は、
心を一つにして布教伝道を進めることを願うところから、13軒長屋の建築に着手した。
私財を残らず献納して移住してきた家ばかりで、資金はなく、古い木材や瓦を譲り受け、同じ間取りの長屋が完成した。ここ(13軒長屋)には、主人を布教に送り出した家族が住んだ(わけだ)が、糊口をしのぐために 非常な苦労が続いた。
布教地が遠隔の地であったこともあり、日々の献饌にも事欠く有様だった。高知大教会初代会長・島村(菊太郎)の勧めで、
片岡家が家業としていた紙漉きをして 教会本部の「御息紙」を漉くようになったのは、この頃のことである。明治40年頃までが、(伊野が) 最も困窮した時期である。
伊野分教会への昇格(明治42年)
その中にも白熱した布教が進められ、
明治42年(1909) 3月1日、伊野支教会は 分教会に改称された。
部内教会は14ヵ所となっている。
困難を乗り越えて教会の移転・増築(明治44年)
この頃、再び (教会) 移転建築の議が起こり、
町の中央部で 元小学校の移転跡の土地が空地になっていたので、これを買収した。
しかし、(その時には) 負債事情のため、移転する運びに至らなかった。(その後)
明治44年には 部内教会 2ヵ所の新設もあり、教勢も立ち直って、
(明治44年) 5月5日、(無事に、教会の) 移転・増築がなされた。
更なる教勢の伸展 〜 教祖殿ふしん(大正10年〜大正11年)
大正10年(1921)、教祖40年祭活動が発表され、伊野部内でも熱心な布教が展開された。
(それにより) 福岡・大分に 教会が新設された。教勢の伸展に伴い、教祖殿の新築の議(が) 起こり、
大正11年11月16日 起工。
(無事に新築の教祖殿が完成し)
翌(大正)12年1月16日、落成奉告祭を執行した。
伊野のアメリカ布教(昭和初期)
昭和4年、
日之下宣教所の熱心な信徒であった 橋詰満恵は、
既に渡米していた主人に呼ばれて (アメリカの) シャトル市に居住していた。
(橋詰満恵は、天理教の)信仰を 彼地の人々にも伝えたいと願って、伊野(分教会) に 布教師派遣を希望した。(橋詰満恵からの要請を受けて、まず) 原田恒一(が、
そして) 翌年(昭和5年)には、土居松衛が渡米して、布教に尽力した。(両名の懸命の布教により) 昭和8年2月3日、ノウスシャトル教会の設立に至っている。
片岡三郎2代会長の就任(昭和7年)
昭和7年(1932) 5月8日、
2代会長に 片岡三郎が就任した。
片岡三郎2代会長の経歴
(片岡)三郎は、
明治22年10月20日、(片岡常太郎) 初代会長の 2男に生まれた。(そして) 5歳の時、両親と共に (高知県吾川郡) 伊野村に転住した。
小学校を終えると、直ちに 本部御用紙製造の仕事を手伝った。その後、一時 大阪に出ていたが、帰郷して教会に住み込み、諸先輩から薫陶を受けた。
(伊野分教会) 会長に就任した頃に (天理教)教会本部の昭和普請が始まり、(片岡三郎2代会長は) 用材の献木に奔走した。
片岡常太郎 初代会長の出直し(昭和10年)
昭和10年 3月8日、
初代会長・片岡常太郎が、69歳で出直した。
伊野大教会への昇格(昭和16年)
昭和16年(1941) 3月27日、
教規改定により、伊野分教会は 高知大教会から分離し、大教会に昇格した。当時の部内教会は、54ヵ所である。
新たな神殿ふしん 〜 3大祭典(昭和24年)
(着々と教勢拡大を続ける伊野布教所であったが)
神殿は、出張所時代のものであり また 昭和21年の南海地震で傾いたため鉄棒で補強修理をしたものであった。
(神殿の老朽化が目立つようになったことを受けて)、
昭和24年、(伊野出張所において) 新神殿建築の議が起こった。(新神殿を建築することで意見がまとまり)
同年(昭和24年) 3月28日、(一旦) 木造神殿建築の許しを得た。
(しかし、その後に) 耐震・耐火・耐風の 堅牢な鉄骨鉄筋コンクリートにした方が良いのではないか、という案が起こった。(検討の結果、鉄骨鉄筋コンクリートの神殿を建築することとなった。
しかし) 敗戦後の物資不足という時節柄、その材料の調達に苦心をした。(苦心を重ねながらも) 名古屋の 谷岡教務支庁長の助力を得、
同年(昭和24年) 7月29日、建築変更の許しを得て、
同年(昭和24年) 9月に、鍬入れ式の執行にこぎつけた。その後、満 3年を要して、昭和27年11月末に (鉄骨鉄筋コンクリートの新しい神殿が、無事) 完成。
(昭和27年) 翌月(12月) 7日、
2代真柱はじめ多くの来賓を迎えて、
神殿落成奉告祭・教会創立60周年記念祭・大教会昇格奉告祭、
以上の 3大祭典を 盛大裡に挙行した。
片岡三郎2代会長の辞任、片岡常里3代会長の就任 〜 奉告祭(昭和31年〜昭和37年)
昭和31年7月28日、2代会長・片岡三郎の辞職により、
片岡常里が (天理教教会)本部の許しを得て、3代会長に就任。就任奉告祭は、昭和37年11月15日に執行された。
昭和中期の動き
昭和41年10月21日に、教祖80年祭を執行。
部属教会は、70ヵ所であった。昭和45年10月27日、
(天理教教会)本部に 付属建物増改築願を提出し、許可次第に着工。
鉄骨鉄筋コンクリート造瓦葺神殿・信者修行所・教職舎・信者室及炊事場などを、昭和46年3月19日に竣工した。昭和46年4月26日に臨時祭典願を提出し、
昭和47年3月8日、創立80周年記念祭を執行した。
〔現住所〕〒781-2110 高知県吾川郡いの町 3645
〔電話〕088-892-0155(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,62〜63)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
91回目の今回は、
「伊野大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 伊野大教会に関する記述が ほんの少しだけありましたので、自己覚え書きとして書写します。
(高知県) 高岡郡 川内村 波川 (現・伊野町) の 片岡常太郎 (伊野初代) の母・たねが 産後の血の道から足が立たなくなっていたのを、二十二年、都築竹治と共に来ていた 南真明組の土居嘉七にたすけられた。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P, 86)

伊野大教会は、高知大教会から分かれた大教会ですね。
高知大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】91回目の当記事では『天理教事典』の中の「伊野大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。
今回の勉強で、まず「伊野大教会」始まりの部分がよくわかりました。
大阪真明組の人々の布教によって、高知県の中部に「川内講・領家講・槇講・伊野講」という、天理教の 4つの講社が出来た。
4つの講社は、場所が近いこともあって、日を定めて会合を開き、教理の研究をしたりして交流を深めるようになった。
それを見た高知大教会の島村菊太郎初代会長は、講社を統合して 一つの集談所を設置することを勧め、それにより 新たな教会が誕生した。
そして、それが後に「伊野大教会」へと大きく成長した。
そういう流れだったのですね。

面白いなと思ったのは、
伊野出張所が設立された当初、参拝者が増えて狭くなったので 新たに神殿を建てようという話になった時、近場にある「蓮照寺」というお寺の建物を譲り受けて それを移築改造して神殿とした、という史実です。
これまで、天理教大教会の 初期歴史をいろいろ勉強してきました。
その中で、
天理教の【神殿ふしん】というと、皆が「何とかして立派なものを…」と頑張って 無理をしてでも実力以上の形を実行し その後に 莫大な借金が残って苦労する、そういうケースが多い…
という印象が、私の中にありました。
そうした印象が強かっただけに、
「近場の蓮照寺というお寺の建物を譲り受けて、それを移築改造して 神殿とした」
という、初期・伊野出張所の この取り組みは、
非常に身の丈に合わせた実践というか、しっかり地に足のついた 現実的な取り組みだと 私には感じられました。
唐突ですが、
理想と現実の兼ね合いというものについて語る時に、
太平洋戦争末期【日本軍】が、物理的な現実や科学的根拠よりも 精神力や根性といった心の力を過度に重視する精神主義が幅を利かせたことにより 戦禍が拡大した、
という話が 教訓的に語られることがあると思います。
私は、これまで天理教大教会の初期歴史の勉強を重ねてきて、
そうした 日本軍的な「現実よりも心の方をより重視する(その方が尊い) というメンタリティ」というものが、初期の天理教社会の中にも 色濃く存在していたのではないか、と感じるのです。
しかし、初期・伊野出張所の皆様は、
そのような当時の空気感の中でも、背伸びすることなく しっかり地に足をつけて
「無理な借金をして神殿を建てるのではなく、近場のお寺の建物を譲り受けて移築改造して新たな神殿とする」
という 現実的な意思決定をされていた。
これは、現代の価値観の中では 当然の意思決定のように思えますが、
神様のことは 現実は度外視してでも より盛大にすることが尊い… という当時の価値観の中では、決して簡単なことではなかったのではないだろうか、そんな気がするのです。(考え過ぎかもしれませんが… (^^;))
このような、身の丈に合わせた 伊野出張所の皆様の意思決定は、
個人的な性格によるものかもしれませんが、
私の目には 非常に好ましいものとして 映りました。
「志は大きく持て、現実は後から付いてくる」というタイプの人からは「夢のない奴」と言われるのかもしれませんけれども… (^^ゞ

ただ、『天理教事典』「伊野大教会」解説文全体を読むと、
そのような 決して無理をしなかったという歴史がありつつも、だからといって 伊野出張所の皆様が経済的困窮と無縁だったわけではなかった ということもわかります。
伊野出張所 開設後には、多くの方々が 私財を残らず献納して丸裸で移住してこられ、
他の大教会同様、激しい経済的困窮の時代を長く経験された、とのこと。
『天理教事典』「伊野大教会」解説文には、
私財を全て献納して大教会に住み込んだ多くの家族が、家族の大黒柱が遠国布教に赴き 不在中の留守を守る上で非常に苦労した話が 書かれていました。
自分たちの住まいを確保するために、自分たちで「13軒長屋」という住居を建設したり、
糊口をしのぐために島村菊太郎 高知大教会長の勧めで、紙漉きをして 教会本部の「御息紙」を漉くことを始めたり…
そこには、物質的には何一つと言っていいほど不自由のない生活を送っている現代の私たちからは想像もつかない、壮絶な経済的貧困の世界が広がっていたのだろう と思われます。
伊野大教会の皆様は、
そのような極限的な貧しさの中でも、
教祖の教えを心の拠り所に、心倒すことなく、信仰の道を歩み抜かれました。
きっと、
極限的な貧乏生活を通して教祖の「ひながた」を我が事として実感し、
そのような実体験が、頭の中の観念的な信仰を 体験に裏打ちされた実在的な信仰に高め、
伊野大教会の皆様は、より深い感謝の心を持って歩まれたのであろう、と 想像致します。
伊野大教会 初期歴史の書き写しを通して そのようなところまで想像を膨らませていくと、
とても感慨深いものがあります。
当シリーズ記事の締めくくりに いつも出してくるフレーズの繰り返しになってしまいますけれども、
以上のような教会の歴史を知った上で、今の「伊野大教会」の雄姿に触れると、その姿に、より一層の深み・重みが感じられてくるようです。
その他のことも、どれもこれも 知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「伊野大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。




コメント