天理教 各教会の歴史探索(第92回)【磐城平大教会】『天理教事典』より

「磐城平大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号91番「伊野大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号92番「磐城平大教会」について勉強します。

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磐城平大教会(いわきだいら だいきょうかい)

磐城平大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビュー より

磐城平大教会 設立の機縁(明治18年)

明治18年(1885)
山名大教会初代会長・諸井国三郎が、
おぢばに於いて 教祖から
「諸井さん。東の方は あんたに任す」
とのお言葉をいただいたのが「磐城平」設立の機縁である。

山名の東北布教 始動(明治26年)

こうして、明治26年9月、
山名の (諸井国三郎) 初代会長の意志は、断乎として 東北布教敢行と定まり、
全(山名) 部内教会に対して 命令を下した。

この 山名 (諸井国三郎) 初代会長の命により、
引佐 (現・引佐分教会) より 土井慶蔵、
掛川 (現・掛川分教会) より 中山嘉十、
周智 (現・周智分教会) より 関 喜太郎が、
福島県石城郡平町へ布教に赴いた。

それぞれ 2〜3ヵ月布教し、やがて 遠州へ帰った。

関 喜太郎は、
同町(福島県石城郡 平町) 4丁目茐地方へ止宿して 布教を開始し、
(明治26年) 10月までに 約10戸の講社を結成した。
しかし、都合により (明治26年)12月に 帰国した。

翌(明治)27年 1月、
周智支教会長・岡野勘蔵は、
中根市重を帯同して、(福島県石城郡) 平町 2丁目 稲葉方に身をよせて、布教を開始した。

平町布教事務所の開設(明治27年)

岡野勘蔵の 同地 (福島県石城郡平町) 布教中、
周智支教会の 田辺喜三郎・平出伊吉の両名が 同地に来て協力。布教につくした。

両名 (田辺喜三郎・平出伊吉) は、
それぞれ後に 同 (福島県石城郡 平町) 布教地に 教会を設置している。

同年(明治27年) 3月には、
信徒が増加したため、40坪の増築をして「平町布教事務所」を設けるに至った。

磐城平の教勢拡大(明治27年頃〜明治30年代)

以来、教勢が振い、
(福島県石城郡) 平町を中心に 2〜30里に及んで 教線は拡張された。

同地 (福島県石城郡 平町) で入信した熱心な信者も、また盛んに布教伝道に努力し、(教勢は) 隣県・茨城県下の諸町村にまで伸びている。

明治30年代までに設置された「磐城平」関係の諸教会は、10ヵ所に及んだ。

関 喜太郎(の布教)により 神様の不思議な御守護をみることによって 信仰に入った人々は、
三井すて・谷口仁太郎・平沢勇吉・茐地英太郎・堀越てる・藤沢林太郎・林磯五郎・吉田留吉・平沢しげ・斉藤治惣太・阿部久兵衛・小野常吉・間宮慶太郎 …
らである。

平沢勇吉 初代会長の入信 〜 おさづけの理拝戴

平沢勇吉は (福島県石城郡) 赤井村 諸荷の農家であった。

(福島県石城郡地域において、山名の流れを汲んだ布教による不思議なご守護は 次々と現れた。)
(福島県石城郡) 平町地方の人は、関 喜太郎のおたすけによる不思議な御守護に驚き、数十人の人が一度に信者になった。
(そして) このことが (福島県石城郡 平町の隣町である) 赤井村に(も)伝わった。

当時、 (福島県石城郡 平町の隣町である赤井村に住む) 平沢勇吉の妻・しげは、痔を病んでいた。

(平沢夫妻は、近隣で相次いで不思議な御守護が現れているとの噂を耳にして、隣町の)平町に 関 喜太郎を訪ね、(そして) おさづけを願った。
(その)結果、不思議な御守護があり、(平沢夫妻はそのご守護に深く感激して、天理教に)入信した。

又、同村 (福島県石城郡 赤井村) の平沢初吉は、ダッソウ(脱疽?) で 足を3回切り、4回切ったら駄目になるという時に、関 喜太郎のおさづけで 御守護を頂いた。

そこで、(その)御礼に… と、
平沢勇吉は、
(平沢)初吉を背負って (福島県田村郡)小野町から 須賀川 (約90km) へと歩き、白河より汽車に乗って、おぢばがえりした。
(そして) おさづけの理を戴いた。

磐城平支教会の設立(明治27年)

明治27年(1894) 9月5日、
教会(を)設置(すること) になり、
天理教「磐城平支教会」の認可を受けた。

その会長には、
役員中 最年長者の 平沢勇吉が (一同から)推されて就任した。

平沢勇吉 初代会長の苦労

平沢勇吉は、(磐城平支)教会に入るに当たり、父祖伝来の田地を廉価で売り払い、布教活動に挺身した。

現在地に (磐城平支)教会が移転建築されたのは、明治30年であった。

平沢勇吉は (元来) 信仰心の非常に強い人で、
(天理教へ)入信(する)前は、年に 3〜4回(の割合で)、既に「月山」に40回もお参りしていたほどであった。

(平沢勇吉は) こうした信仰熱心さから、推されて (磐城平の)会長とはなったが、
地方から 平町 (安藤対馬守の城下町) に出たために、種々 事情があった。
しかし (平沢勇吉)初代会長は、(そのような中も) 常に 神様を目標とした信仰で通した。

平沢勇吉 初代会長の辞任、平沢信通2代会長の就任(大正14年)

大正14年(1925) 7月23日、
(平沢勇吉 初代会長は)
老齢のため、会長を 養子の 平沢信通に譲った。
(=平沢信通2代会長 就任)

(平沢勇吉 初代会長は) 
昭和4年(1929) 7月7日(に) 86歳で出直した。

磐城平分教会へ改称(明治42年)

(磐城平)支教会は、
天理教独立に際し、
明治42年(1909) 4月20日付で、分教会と改称した。

熱烈な布教活動の展開(大正11年頃〜大正15年頃)

大正11年、
教勢倍加の ぢばの声に応え、
(大正15年に執行される) 教祖40年祭を目標に、熱烈な布教活動が開始された。

それ以前の 磐城平 部内教会数は 12ヵ所
(田村・小名浜・久之浜・楢葉・高萩・石城・小高・内郷・湯本・双葉・久慈町・浪江)
であったが、

大正11年より (大正)14年までに出願した教会は、
茨城県に 4ヵ所 (常陸・松岡城・東大名・水戸上市)、
福島県に 10ヵ所 (四倉・上遠野・磐城常葉・内宮・双山・永戸・磐崎・東霧島・会津若松・東広野)、
東京府に 6ヵ所 (帝城・帝松・帝幡・東磐・武蔵・東慈)、
計 20ヵ所であった。

(これにより、磐城平支教会は) 部内教会数が 合計 32ヵ所となり、
(大正15年の) 教祖40年祭を 勇んだ心で迎えた。

その後、
荏原町・豊浦町・浜鶴・東仙葉・古港・武蔵平、
以上が設立され、部内(教会数) 38ヵ所を数えるに至った。

上級・周智分教会、山名大教会からの分離陞級問題(昭和15年)

昭和15年(1940) 3月頃、
(天理教教会)本部より、
山名大教会から周智分教会を分離陞級させるよう 内示があった。

山名大教会長・諸井慶五郎は、
当時 北京伝道庁長であったが、
(昭和15年) 4月に帰国し、
周智分教会長・岡野夏蔵を詰所に呼びよせ、分離昇格のことを話した。

ところが、
岡野(夏蔵・周智分教会)会長は
「御言葉はありがたいことですが、山名を今日の財政不如意に追い込んだのには、この 岡野(夏蔵)にも 大きな責任があります。
なので、周智と岡野は、山名から離さぬようにお願いします。
そのためには、磐城平を周智から離して下さっても結構です」
と 答えた。

山名初代会長の東北布教を偲び、「磐城平」を 周智(分教会)ー山名(大教会) から分離昇級させることは、(その時点では) 規則の定める 50ヵ所に12ヵ所不足であったが、
(中山正善) 2代真柱の計らいにより、「磐城平」を 周智ー山名から分離して 陞級することに 一決した。

しかしながら、当時の磐城平分教会長・平沢信通は、静養中であったため、決定的な返事をしていない。

磐城平大教会へ昇格(昭和16年)

その後、昭和15年秋、
教会役員・間宮藤治郎の病気、また(磐城平)分教会に伝染病患者が 7〜8名も出て 教会が出入禁止になる、という事態が生じた。

(磐城平分教会部内の) 役員・教会長達は、谷口宅に集まり 大教会陞級問題について協議(した)。
(その結果、大教会陞級せよとの親の声を受けることに決し) 周智・山名へ受諾の旨を伝えた。

かくて、昭和16年(1941) 3月30日、
磐城平は 大教会昇格の許しを得た。

平沢信通2代会長の出直し、平沢福太郎3代会長の就任(昭和16年〜昭和17年)

昭和16年10月29日、
(平沢信通)2代会長が出直した。

(そして) 
昭和17年1月27日、
平沢福太郎が 3代会長に就任した。

太平洋戦争に伴う苦難の道中(昭和17年頃〜昭和20年頃)

(太平洋戦争の) 戦局が苛烈となると共に、炭坑労働者が不足となり、
そのために (天理教)教内に「いざ ひのきしん隊」が結成された。

(磐城平大教会)部内の会長も 戦地に召集されたり、あるいは、ひのきしん隊員として 炭坑に出動していった(りした)。

昭和20年(1945) 3月10日未明、
(福島県いわき市方面で) 大空襲があり、焼夷弾投下のため (磐城平)大教会は 焼失(してしまった)。
(そのため、福島県) 平市田町74番地、藤田女学校に 一時 神様を移した。

(また、その他の磐城平大教会)部内でも、戦災・疎開により被害を受けた教会が 5ヵ所あった。

戦後復興の道(昭和21年頃〜昭和41年頃)

こうした中で、戦後「復元」の提唱と共に、
昭和21年(1946) 7月27日 仮神殿の建築の許しを得た。

以後、第1期・第2期・第3期と工事を進め、
昭和26年7月21日、神殿の上棟式。
昭和27年11月8日、待望の神殿落成鎮座奉告祭を執行した。

(磐城平大教会)部内教会も 復興に向かい、
(その)一方では、喜多方町・浜鶴元・鶴水・常福、
以上 4ヵ所の (新たな) 教会(の) 設立もあり、部内数は 42ヵ所となった。

昭和41年(1966) 6月26日、
平沢直人が 4代会長に就任した。

(平沢直人4代会長就任時の)
(磐城平大教会)部内教会の県別分布を見ると、
福島県に 23、
茨城県に 8、
東京都に 6、
神奈川県に 2、
埼玉県に 1、
栃木県に 1、
宮城県に 1、
である。
(『天理教事典』1977年版出版当時) 


〔現住所〕〒970-8026  福島県いわき市平古鍛治町12番地1
〔電話〕0246-25-2431

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,66〜67)

おわりに

磐城平大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

92回目の今回は、
「磐城平大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

磐城平大教会AppleMapより②
Google Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 磐城平大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

【みちのくへ出陣太鼓】

明治二十六年夏のころ、稲田の広がる 静岡県広岡村下貫名 (現・袋井市) の一角にある 山名分教会では、異常な興奮と人いきれが 会場を包んでいた。
会長・諸井国三郎の東北布教 (奥州布教ともいった) 打ち出しの声に、我れも我れもと集まった者たちが、固唾を飲んで開会の時を待った。

正面左手の壁に、大きすぎるほど大きく画いた東北地方の地図が貼られ、布教候補地が書き込まれていた。

いよいよ開会。
なぜ東北布教なのか、趣旨説明があった。
その内容は伝えられていないが、
それまで 各教会が 個々に行ってきた布教伝道と趣を異にし、山名 全部内一丸となって取り組む、計画的大々的布教であること、
教祖が世界たすけを仰せ下された思召に添いきり、本教未踏の東北の地へ向け、不屈の精神と決断をもって布教を敢行すること………
このようなことが 熱っぽく語られたに違いない。

こうして、一同が待ちに待った 布教者決定の、その時を迎える。

司会者は、大声で「〇〇県△△町」と 布教地を呼び上げた。
参会者の中から「はい!」「はい!」と手が上がり、「私が行かせてもらいます!」と立ち上がる。
司会者が一人を選び、「〇〇県△△町へ誰々が行くことに決定!」と、ひときわ大きな声で発表する。

瞬間、大太鼓が ドドドドドーンと鳴って、一同の歓声と拍手が 場内に響き渡る。
地図に名前が記入される。
まるで 昔の武将の 国取り合戦のような熱気であったと………。

東北布教は、明治二十六年秋から 三十四、五年ごろまで続いた。
布教者は 延べ七十人、地域は 福島をはじめ東北六県と北海道に及び、設置教会は 八十余ヵ所。

会長の、布教にかける気迫と 一糸乱れぬ統率力、
一方、一身を没入し 荒道開拓に心身を捧げた あらきとうりょうたちの見事さ。

伝道史上において、東北布教は 一大快挙と言わざるを得ない。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,8 )

【東北(南部)】

福島県には 山名系教会が 断然多い。
これは 山名の 全部内あげての東北布教 (奥州布教) に起因するところが大きい。
……中略……

磐城平の道も (山名の) 東北布教が 結実した一つである。

山名部内の 周智分教会は 福島県下をめざした。
静岡県引佐の 土井慶蔵は 仙台より浜街道を南下し、
福島県浜通りの 旧城下町 平町に布教地を見つけ、
周智の 関 喜太郎も 同じ 平町の港屋旅館を宿として 奔走した。

平町の北西にある 赤井村 諸荷の 農業・平沢勇吉は、
二十七年、親戚・平沢初吉が 脱疽で足を三度切り、四度目足を切断すれば命がないという時、喜太郎のおたすけを請うた。
勇吉の妻・繁が 痔病をおさづけで鮮やかに御守護を頂いて、先に入信した。

二十七年、岡野勘蔵 (周智初代) も 平町に来た。
一日に 百五十人ほどの人におさづけを取り次ぐこともあったという。

勇吉は 腰弁当で 毎日のように 神様のありがたさを説いて回った。
年長者の勇吉を担当者として 平町 字番匠町に 岩城平 (のち改称) 支教会を設置した。

その後、教規改正により、分離昇格の話が出て、
昭和十六年、山名ー周智 部属から離れ、東北二番目の 本部直属教会になった。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,117)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】92回目の当記事では『天理教事典』の中の「磐城平大教会」についての記述を書き写しました。

磐城平大教会は、山名大教会から分かれた大教会ですね。
山名大教会については、以前 勉強して記事を投稿してきました。

磐城平大教会Googleストリートビュー④
Googleストリートビューより

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】92回目の当記事では『天理教事典』の中の「磐城平大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことだらけでした。

当記事「おわりに」の最初の方で書写しましたが、
『道〜天理教伝道史をあるく』という本の巻頭コーナーの中に、
【みちのくへ出陣太鼓】という見出しで、山名大教会による 東北布教打ち出しの場面が、写真入り・ドラマチックな文体で描かれています。

私は、これを読んで初めて知ったのですが、
山名大教会における東北布教は、それまで各教会が個々に行ってきた布教伝道と違って、
諸井国三郎・山名初代会長が、教祖から「諸井さん。東の方はあんたに任す」とのお言葉を頂いたことを受けて、
山名の全部内が 一丸となって取り組んだ「計画的な布教」だったのですね。

これまでの 当シリーズの中で、
教祖から 直々、、に「南半国道弘めに出す」とのお言葉を頂いて 大和南部方面に【敷島大教会】が、
また、教祖から 直々、、に「大阪へ大木の根をおろして下されるのや」とのお言葉を頂いて 大阪方面に【芦津大教会】が、
それぞれ 基盤を築かれた ということを 勉強してきました。

今回の勉強によって、
山名大教会の場合も それと同様に、
諸井国三郎 初代会長が 教祖から 直々、、に「諸井さん。東の方はあんたに任す」とのお言葉を頂いて、それで、本拠地である静岡とはまた別の 東北地方に道を付けられたのだ と知りました。

この後に 山名大教会は 東北の道を大きく発展させるわけですが、
その原動力の一つとなったのは「教祖の思いを受けた布教伝道であった」という点が大きいのではないだろうか、と 思ったりもしました。

私は、『道〜天理教伝道史をあるく』という本の中の【みちのくへ出陣太鼓】という一編を読んで、まるで 社長が出席する会社の経営方針会議で 営業部隊が次々と営業先を発表していくドラマの1シーンを見ているような感覚になりました。

『道〜天理教伝道史をあるく』【みちのくへ出陣太鼓】には、
「山名大教会・諸井国三郎初代会長により打ち出された東北布教 (奥州布教) は、天理教伝道史上における『一大快挙』と言わざるを得ない。」
と 書かれてありましたが、
確かに、その当時の計画的組織的な布教活動というのは、本当に 画期的なことだったのだろうなぁ、という気がします。

今、惰性的にお道と向き合っている者にとって、
当時のお道の熱い空気というものをおぼろげながらも想像させてくれる このような「史実」は、
お道に対する意識を 立ち止まって見つめ直す かけがえのない機会となります。

個人的には、これが 当シリーズを継続していくことによってもたらされる恩恵でありまして… (^^)
これがあるから、細々とでも 100回近く当シリーズを継続出来たのかなぁ… という気がします (^^ゞ

磐城平大教会AppleMapより①
Google Mapより

さて、今回の書写学習も 知らないことだらけだったわけですが、
今回の『天理教事典』「磐城平大教会」解説文を読んで 少しだけ引っ掛かりを感じた いくつかの部分の中の一つに、
平沢勇吉 初代会長が 磐城平支教会の会長に就任する際の経緯 というものがあります。

何故 引っ掛かったかと言うと、
以前、津軽大教会の勉強をした際に出てきた史実と 類似の背景のように見えたからです。

津軽大教会の勉強をした際に出てきた史実とは何か。

それは、
当シリーズ第89回「津軽大教会」の中で出てきた、
農村出身の葛西亦蔵先生が 城下町である弘前市内の津軽出張所へ入るにあたって、城下町である弘前市の市民感情として 農村出の人を所長として戴くことを快く思わない人もいた、
という史実のことです。

葛西亦蔵先生は そのような地域感情を乗り越え和解し 津軽支教会長として大きな功績を残されたわけですけれども、
以前の勉強でそのような史実があったことを覚えていたため、今回 書写した文章の中にあった
「(平沢勇吉は) こうした信仰熱心さから、推されて (磐城平の)会長とはなったが、地方から 平町 (安藤対馬守の城下町) に出たために、種々 事情があった。しかし (平沢勇吉)初代会長は、(そのような中も) 常に 神様を目標とした信仰で通した。」
という記述に、(サラリと書き流してある短い文章ですが) ちょっと引っ掛かりを覚えたのでした。

ということで、今回もまた、津軽大教会の時同様、Chat GPT に質問してみました。


【Chat GPTへの質問】

明治27年頃の 福島県 石城郡地方では、
城下町である「平町」の人々の中に「赤井村」の人々に対する 差別意識がありましたか?



【Chat GPTの答え】

「明治27年頃(1894年)の 福島県 石城郡地方で、平町の人々が赤井村の人々を差別していたか」という点については、
直接それを示す 一次史料は 現時点では確認されていません。

しかし、当時の地域構造と社会意識を踏まえると、
差別というよりは
「城下町と周辺農村との間にみられる社会的な格差意識・身分的距離感」
が存在していた可能性はあります。

以下、背景を少し詳しく説明します。

① 当時の「平町」と「赤井村」の社会的位置

  • 平町は、
    旧磐城平藩(安藤氏)の城下町で、明治期に入っても商人・旧士族・官吏などが集まる地域的中心でした。
    駅や役所、学校などの近代施設も集中しており、「町=都会的」「格式ある」という意識がありました。

  • 赤井村は、
    平町の東方・南方に隣接する農村地帯で、農業や山林労働に従事する人々が多く、都市的生活とはやや距離がありました。

こうした違いから、
生活様式・言葉遣い・服装などに差があり、城下町の住民が 周辺農村を 一段低く見る意識は、全国的にも よく見られた現象です。


② 「差別」という言葉の慎重な扱い

当時の地方社会では、「部落差別」「身分差別」のような明確な差別構造が残る地域もありましたが、
赤井村に関しては、近世以来の被差別部落(いわゆる旧穢多村・非人村)としての記録は確認されていません。
したがって、ここで言う「差別意識」は、現代の人権的な意味での差別というよりも、
「城下町の住民による、農村に対する社会的な見下し(階層的意識)」
の範疇と考えるのが妥当です。


③ 明治27年前後の具体的状況

  • 1894年当時、平町では
    官公庁の設置や鉄道開通(明治22年磐越東線の前身となる開業)などにより、町の発展が進んでいました。

  • 一方で、赤井村は農業中心で、
    町への出稼ぎや物資搬入などで経済的に結びついていました。


    このような都市と近郊農村の関係から、
    「平の人は気取っている」「赤井の人は田舎っぽい」
    といった 相互の意識があった可能性は高いです。


④ 民俗・伝承の面から

いわき市域には、
戦前の口承伝統や地域のあだ名(たとえば「平者」「赤井っ子」など)に地域差を示すものがありました。
これらは必ずしも差別ではなく、
「出身地の特徴づけ」や「地域間の軽い揶揄」に近いものです。
明治27年当時も、その萌芽は存在していたと考えられます。


【まとめ】

  • 明治27年当時、
    「平町」と「赤井村」は 社会的・経済的に 異なる性格を持っていました。

  • 明確な「差別」ではなく、
    城下町の中心民と 周辺農村民との間の 階層的・文化的な “距離感” が 存在していた可能性があります。
    • その意識は 全国の旧城下町にも共通するもので、近代化の進行とともに 徐々に 薄れていきました。

一瞬で これだけの答えが返ってきました (°д°)
改めて、Chat GPT の凄さを感じます。

それはさておき、Chat GPT の答えを読むと、
津軽出張所における 南津軽郡大袋村の 葛西亦蔵先生が、城下町の弘前市へ入る際のご苦労と、
磐城平支教会における 福島県石城郡 赤井村の 平沢勇吉先生が、城下町の福島県石城郡 平町へ入る際のご苦労が、
同じ構造を持った事象のようにも 見えます。

平沢勇吉先生は、押されて磐城平支教会の会長することになったけれども、
もしかしたら、
地方出身ということで 教会の所在地である城下町の人々からは 快く思われなかったのかもしれません。

しかし、
津軽の 葛西亦蔵先生が その信仰実践によって 地域の特性を乗り越え 大きな功績を残された如く、
磐城平支教会の 平沢勇吉先生もまた、その信仰実践によって 地域の事情を乗り越えられた、という史実。
この史実は重い と感じます。

そして、このことは、
平沢勇吉先生の信仰パワーは、当時のその地域の人々の文化・慣習を凌駕する程の力を持っていたということの現れであるとも言える、と 思いました。

…ただ、
これは『天理教事典』の記述のみに基づいた思案ですので、
もしかしたら とんでもない思い込み (誤解) の可能性も大いにあります。

もしそうだったならば、大変申し訳ないことで、
万が一、これを読んで不快になられた方があったとしたならば、深くお詫びを申し上げる次第です。

当記事の主旨は、ただただ、平沢勇吉先生が会長に就任するにあたってのご苦労の一端を多少なりとも感じさせて頂くことにあります。
それ以外の意図は一切ありませんので、どうか 大らかに受けとめて頂きますよう お願い申し上げます m(_ _)m

磐城平大教会Googleストリートビュー⑤
Googleストリートビュー より

長くなってしまったので、このあたりで切り上げたいと思いますが、
その他に気になったこととして、
磐城平大教会が「山名大教会ー周智分教会」から分離するに至った歴史――
そのあたりも気になった、ということを挙げておきたいと思います。

『天理教事典』の中には、
元々は、天理教教会本部が、上級・周智分教会を山名から分離陞級させようとしたが、周智分教会の 岡野夏蔵先生がそれを辞退して、
その代わり(?) に 周智部内の「磐城平」を推して、それで「磐城平」が「山名ー周智」ラインから独立して本部直属になった…
みたいなことが書かれてありました。

そもそも、
なぜ、わざわざ 本部の方から 周智分教会を山名から分離陞級させようと働きかけたのか、
周智分教会の岡野夏蔵会長が山名に残ることを願い出るにあたって、なぜ、自らの部内の 磐城平を切り離すことを提案したのか…
気になるところではあります。

疑問だらけではありますが、
しかし、そういう混み入った事情の背景みたいなものは『天理教事典』のような書物には書かれていませんから、私には知る術がありませんし、
また、労力を費やして掘り下げるべき史実でもないような気もします。

よって、ここでは、
『天理教事典』「磐城平大教会」解説文を書き写す中で気になったことの一つとして取り上げるにとどめたいと思います (^^)

磐城平大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビューより

その他のことも、どれもこれも 知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、とても勉強になりました。
有難いことでした。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「磐城平大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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