天理教 各教会の歴史探索(第100回)【上之郷大教会】『天理教事典』より

「上之郷大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号99番「西 大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

記念すべき「第100回」\(^^)/ の今回は、
教会番号100番「上之郷大教会」について勉強します。

  1. 上之郷大教会(かみのごう だいきょうかい)
    1. 初代会長・山本藤四郎 
    2. 山本藤四郎 初代会長の入信 ~ 固まる信仰心(明治11年~明治13年)
    3. 心実組の結成(明治15年)
    4. 山本藤四郎と鴻田忠三郎の出会い 〜 山本藤四郎 道一条の決意(明治15年)
    5. 山本藤四郎の白熱的な布教(明治15年頃〜明治16年頃)
    6. 上之郷講社の結成(明治19年)
    7. 上之郷の道の広がり ~ 心実講 第2号講の結成(明治20年頃~明治24年)
    8. 上之郷出張所の開設(明治26年)
    9. 初めての神殿ふしん(明治27年)
    10. 山本藤四郎 上之郷初代会長の 城法支教会長就任(明治29年)
    11. 山本藤四郎長男・福松、布教の第一線に(明治35年頃)
    12. 上之郷支教会へ昇格、山本福松2代会長の就任(明治36年)
    13. 山本藤四郎伏込みの上に伸び広がる 上之郷の道(明治36年頃〜明治40年頃)
    14. 日露戦争後の不況、経済的困窮の道中(明治40年頃〜大正3年頃)
    15. 上之郷分教会へ昇格(大正5年)
    16. ますます広がる上之郷の道(大正10年頃〜大正15年頃)
    17. 山本藤四郎の城法中教会長退任、上之郷分教会 城法中教会からの分離(昭和3年)
    18. 詰所新築工事 〜 教祖50年祭 立教100年祭 年祭活動(昭和7年〜昭和12年頃)
    19. 上之郷大教会へ昇格(昭和16年)
    20. 移転の動き 〜 山本福松2代会長の出直し(昭和16年)
    21. 山本義道3代会長の就任(昭和16年)
      1. 山本義道3代会長の教歴
    22. 山本義道3代会長による復元の道(昭和17年頃〜昭和21年頃)
    23. 教祖70年祭活動(昭和28年頃〜昭和31年)
    24. 山本福松2代会長からの宿願である教会移転建築の完遂(昭和32年〜昭和37年)
    25. 山本義道3代会長の出直し・山本義和4代会長就任 〜 創立80周年記念祭(昭和41年〜昭和48年)
  2. おわりに
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上之郷大教会(かみのごう だいきょうかい)

上之郷大教会ストリートビューより①
Googleストリートビュー より

初代会長・山本藤四郎 

初代会長・山本藤四郎は、
嘉永3年(1850) 9月4日、
奈良県磯城郡 上之郷村大字笠 7番屋敷(に)、
山本藤五郎の長男として生まれた。

慶応元年(1865) 3月21日、
(山本藤四郎は) 初めて お屋敷に参り、教祖より甘酒を頂いた。

山本藤四郎 初代会長の入信 ~ 固まる信仰心(明治11年~明治13年)

明治11年(1878)、
父・藤五郎が、眼を患い、物の判別もつかぬまでになった。

(山本)藤五郎は、常日頃、藤四郎の信仰を心よく思っていなかった。
(しかし、山本藤四郎は) その父を背に、3里の山坂を越えて、庄屋敷の教祖の許へ 救けを求めて参った(のだった)。

滞在 1ヵ月、
日夜 懸命の真実を尽くした甲斐あって、
(父・藤五郎の) 重症の眼病も 障子の桟が見えるまでになった。
これを契機として (山本)藤四郎の信仰は 固まった。

明治13年(1880)頃には、妻・シユ が激しい腹痛で、次男が驚風で瀕死の状態になる、という事態になったこともあった。 

秋のある日、(山本)藤四郎の ひたすらな祈りを目に留められた教祖は、
「笠の山本さん、何時も よう変わらずお参りなさるな、身の処 案じる事は要らんで」
と、優しい言葉をかけられた。
(山本藤四郎が) 喜び勇んで帰宅すると 病人は良くなっていて、元気で出迎えてくれた。

心実組の結成(明治15年)

明治15年(1882) には、
前川喜三郎が講元となり「心実組」講社が結成された。

山本藤四郎と鴻田忠三郎の出会い 〜 山本藤四郎 道一条の決意(明治15年)

(その)当時、(奈良県) 檜垣村の鴻田忠三郎が、
持ち山の手入れに笠村に来て、たまたま山本家を宿として滞在した。

初対面の時、(山本藤四郎は) 鴻田(忠三郎) に「私も 親神様を信仰しております」と話した。
鴻田(忠三郎) と(山本)藤四郎は、親神の子供として、互いに 神恩の広大 且つ 深淵なることを語り合い、忽ち 肝胆 相照らす仲となった。

鴻田(忠三郎) が お屋敷へ帰って (山本)藤四郎の信仰の様子を言上したところ、教祖より
「これより東、笠村の水なき里に 四方より詣り人をつける、直ぐ運べ」
とのお言葉があった。

鴻田(忠三郎) は、辻忠作と同道で 再び 山本家を訪れ「万人たすけのために布教するよう」と勧めた。
(山本)藤四郎は、教祖の深き思召を素直に享けて、布教の上に生涯を捧げる決心をした。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』62.これより東

明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」と聞いた。

どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。

教祖にお目にかかったところ、
「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて 救けて下さるで。」
と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余 滞在して 日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に 薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。

明治十三年夏には、妻・しゆの腹痛を、その後、次男・耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。

又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、
「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで。」
と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。

こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。
山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。
「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ。」と。

そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。
かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。

山本藤四郎の白熱的な布教(明治15年頃〜明治16年頃)

それ以来、(山本)藤四郎の白熱的な信仰は 火と燃えた。

(奈良県) 笠村は 山間の地ではあったが、
(山本藤四郎は) 今日は東、明日は西… と 
急峻な山坂を越えて 10キロ20キロの遠くまで 脇目もふらず 布教に突き進んだ。

かくして、上之郷講社 結成の素地は 固められていった。

明治16年(1883) 2月10日(には)、
(山本)藤四郎の長男・福松 (後年の2代会長) が 誕生した。

上之郷講社の結成(明治19年)

明治19年(1886) 10月には 上之郷講社が結成され、
(山本)藤四郎が その講元となった。

上之郷の道の広がり ~ 心実講 第2号講の結成(明治20年頃~明治24年)

待望の (上之郷)講社結成もなり、講長以下 役員も定まり、
布教活動も (山本)藤四郎の 夜を日に継いでの真剣な努力と 各役員の熱烈な努力によって、
漸次 山辺、磯城両郡の山間部に 信者が出来てきた。

明治20年(1887)、山本藤四郎(は) おさづけの理を拝戴(した)。

明治24年(1891) 4月2日、
(山本藤四郎は) 心実講 第2号講を結成し、講長に就任した。

「心実講」は 地域的に区分され、(その中の) 第2号講は 笠在に置かれた。
(そして、山本)藤四郎は その講長に推された。
お目標 (めどう) は、 (山本藤四郎の)自宅の 別座敷に奉祀した。

上之郷出張所の開設(明治26年)

(山本)藤四郎の「我が身どうなっても…」の真剣な布教によって、
昔ながらの習慣や宗教に頼っていた片田舎の人々も (次々と) 不思議なたすけを頂き、天理教に専念する者も 次第に増加してきた。

(心実講) 2号講(の) 結成以来 約2年 (経過して)
(教勢の伸展と共に) 教導職を受けた役員や 熱心な信者によって 教会設置の気運が盛り上がってきた。

初め、遠慮深い (山本)藤四郎は、
(教会設置気運の盛り上がりを感じつつも) 時機尚早と辞退していたが 、日に日に伸びる教勢を目の当たりに見て、ついに意を決し、教会設置を願い出(るに至っ)た。

明治26年(1893) 4月21日、
天理教 城法支教会 上之郷出張所として許され、(山本)藤四郎は その担任となった。
同年(明治26年) 6月13日、地方庁より 許可された。

初めての神殿ふしん(明治27年)

(上之郷) 出張所が許可されると、
(それに続いて) 教会の新築が論議され、神殿建築の運びとなった。

敷地は、山本家の後ろの山林を 2反歩程 切り開く事になり、
(工事は) 翌(明治)27年 2月16日から始められて、3月11日には 地均らし工事が完了した。
(明治27年) 9月16日、手斧始め式、12月16日、上棟式を盛大に執行した。

何分にも 山間の寒村で、諸事不便の中に工事を進めることは並大抵(なこと)ではなかったが、
(山本)藤四郎を初め、役員信者に至るまで 力の限りを尽くして、(無事) 工事は完了した。

神殿は 40坪5合 (133.65㎡)、
外に 付属家7棟 40坪7合 (134.31㎡)、
計 81坪2合 (267.96㎡)
敷地面積 540坪 (1,782㎡) であった。

明治28年(1895) 4月14日、
市川(栄吉) 城法支教会長 祭主のもとに、
奏楽警蹕の音も厳かに 鎮座の儀が滞りなく執行された。

翌(4月)15日は 教信者の待ち望んだ 奉告祭で、
山本藤四郎 初代会長 祭主のもと 荘厳の裡に (神殿落成奉告祭が) 執行された。
この日は、
上之郷村の各部落、三輪・初瀬・丹波市・都介野村・東里村・福住村の人々が 参拝した。

山本藤四郎 上之郷初代会長の 城法支教会長就任(明治29年)

明治29年(1896) 、
(前年より辞意を表明していた) 城法支教会(の) 市川(栄吉)会長(が、ついに) 辞任(するに至った)。
(市川栄吉会長の辞任を受けて 様々な協議が行われ、
その結果、山本)藤四郎が (城法支教会の)後任会長に 就任した。

(新たに城法支教会長に就任した 山本藤四郎であったが)
上之郷出張所長との兼務で教務多忙のため、(上之郷) 役員(の) 西谷彦三郎が (上之郷)出張所の理事長として、その任を代行した。

また、(山本家の) 内にあっては、長男・福松の育成に 精魂を傾け 善導した。

山本藤四郎長男・福松、布教の第一線に(明治35年頃)

(山本藤四郎の長男・福松は)
明治35年(1902) 、おさづけの理を拝戴。
よふぼくとして 布教の第一線に立つことになった。

上之郷支教会へ昇格、山本福松2代会長の就任(明治36年)

明治36年(1903) 2月26日、
上之郷出張所は 支教会に昇格し、
山本福松が2代会長に就任した。

山本藤四郎伏込みの上に伸び広がる 上之郷の道(明治36年頃〜明治40年頃)

初代会長・(山本)藤四郎が 明治19年(1886) 上之郷講社の講元となって以来、
(明治36年に) 支教会に昇格するまでの 17年に亘る歩みは、
只一筋に教祖のひながたを通り、人だすけの上に 己れを顧みる暇なき期間であった。

(山本)藤四郎は、道を歩む者として、
むさき心を持たぬよう、また (自らを) 生涯 貧なる者と心得、常に 心汚れぬよう 自戒した。
また、御用のためには「借金は 多い程結構や、借金は 命の汁や」とも言った。

長男・福松は、その親の信仰を承け継いで会長に就任した(わけである)。
時に (山本福松) 21歳、漸く 上之郷の地盤も揺ぎなきものとなりつつあった。

(山本)福松は、役員の協力を得て伝道線を広めていった。
当時、既に 4ヵ所の布教所があったが、白石を支教会に昇格させ、新たに 2ヵ所の布教所設置を出願した。
上之郷の青年層を糾合して青年会を組織したのも この頃である。

明治40年(1907) 11月20日、
2代会長・福松の長男として 義道 (後年の3代会長) が誕生した。

日露戦争後の不況、経済的困窮の道中(明治40年頃〜大正3年頃)

間もなく 日露戦争後の不況が訪れた。

(山本)福松は「借金は命の汁や」と格言した初代(山本藤四郎) の意思を貫徹して、
「心実講」以来 かつて経験した事のない困窮の中、厳として 理立てを遂行した。

また、妻・シテも、内助の功を よく全うした。
入嫁当時の持参の品も次々と施して、箪笥の中に 満足なものは 1枚もなかった。
天性の寡欲と慈愛に接した信者等は、急坂を攀じて帰参した疲れも その労わりの声を耳にするだけで消えた。

大正3年、
(上之郷の) 部内教会数は、支教会 1ヵ所、宣教所 7ヵ所となった。

上之郷分教会へ昇格(大正5年)

大正5年(1916) 10月11日、
上之郷支教会は 分教会に昇格した。

ますます広がる上之郷の道(大正10年頃〜大正15年頃)

教祖40年祭を目指して教勢の倍加を図ろうと、(山本)福松会長自ら 率先してよくその範を示したので、新たに教会設置を出願するもの 9ヵ所に及んだ。

(そのようにして、上之郷の) 伝道線は(着々と拡大し) 東京方面にも伸びていった。

山本藤四郎の城法中教会長退任、上之郷分教会 城法中教会からの分離(昭和3年)

昭和3年(1928) 初代会長・(山本)藤四郎は、既に 78歳の老齢となった。
城法中教会では、(山本藤四郎の) 後任(会長)の問題を協議し、円満に解任(した)。

これを機会に、上之郷分教会は 城法中教会より分離することになり、
同年(昭和3年) 7月25日、(天理教教会)本部直轄となった。
時に (上之郷) 部内教会数は、支教会 2ヵ所、宣教所 17ヵ所であった。

(上之郷)初代会長・山本藤四郎は、
(上之郷が本部直轄となって 5日後) 
同年(昭和3年) 7月30日 出直した。

詰所新築工事 〜 教祖50年祭 立教100年祭 年祭活動(昭和7年〜昭和12年頃)

昭和7年(1932) には、上之郷詰所の新築工事が完成した。

教祖50年祭(昭和11年)、立教100年祭(昭和12年) の両年祭は、天理教にとって未曽有の大祭典であった。

(山本)福松は、この千載一遇の旬に遅れないよう、一にも年祭…二にも年祭…と自ら率先して実行したので、部内も勇みに勇んで教線も大いに伸び、新たに 宣教所10ヵ所の新設をみた。

上之郷大教会へ昇格(昭和16年)

昭和16年(1941) 4月24日、
上之郷分教会は 大教会に陞級(した)。

移転の動き 〜 山本福松2代会長の出直し(昭和16年)

2代会長・(山本)福松は、就任以来38年間 困苦艱難の中、ただ一筋に人だすけのため東奔西走した。

その長年の苦労の道が実を結んで、
(上之郷の) 部内教会数も 30ヵ所、布教所 20ヵ所となった。

この頃、(山本)福松は、
教会所在地が山間部で交通の便が悪く、信徒の参拝に困難(が)多いことを憂い、
大阪方面に伸び行く明日を想い、(上之郷の将来を展望し) 移転出願準備のため、
(大和)西大寺に 移転地の買収をした。

(そのようにして、人だすけのために東奔西走し続けた山本福松2代会長であったが)
こうした長年の心労が 病気となって (山本福松2代会長の体の上に) 現れてきた。

信者一同は、この節にこそ (山本福松)2代会長の恩に報いようと、
本部員・梶本宗太郎の来会を得て、大教会移転の心を定めた。

この喜びの覚める暇もなき (昭和16年) 8月5日、
2代会長・山本福松は、(多くの)人々に惜しまれつつ 今生の幕を閉じた。

山本義道3代会長の就任(昭和16年)

昭和16年(1941) 8月26日、
3代会長として、山本義道が就任(した)。

翌年(昭和17年) 10月20日、
(3代会長) 就任奉告祭を執行した。

山本義道3代会長の教歴

(山本)義道は、
天理教本部青年を命ぜられて以来、
群馬・東京・大阪と 各地 教務支庁を歴任。

教務を修業し、
また 戦時中は、
天理教 時局委員会 係員、天理教 興亜局理事、天理教 華北伝道庁…
等に勤務した。

山本義道3代会長による復元の道(昭和17年頃〜昭和21年頃)

(山本)福松(2代会長) の出直で 悲嘆に沈んだ信者たちであったが、
(山本義道という) 若さ溢れる指導者を得て 上之郷は刷新され、新鮮味豊かに教勢は伸びた。
(山本義道3代会長) 就任1年足らずの間に 新設教会 6ヵ所が出来た。

昭和21年の教祖60年祭には、復元が提唱され、立教の元一日に立ちかえり、教義の内容も親神の思召も、政府に制約されることなく教示できるようになった。

教祖70年祭活動(昭和28年頃〜昭和31年)

(山本)義道(3代会長) は、本部要職を歴任し、内にあっては 戦災教会の復興に また 復元教理の徹底に、さらに 時代を背負う青年層の育成に 力を入れた。

(天理教教会)本部は、昭和31年の70年祭を目指して、3信条を提唱し、八町四方を取り囲む 親里やかたの構想が明らかにされた。
心のふしんを形のふしんに托して、東の棟から (ふしんが) 始めかけられた。

(山本)義道(3代会長) は、神一条の信念を堅持し、一手一つの和をもって、部内の端々に至るまで ひのきしんを徹底させた。

昭和31年(1956) 教祖70年祭には、1月5日を期して 月例のひのきしんも (山本)義道によって確立され、教祖70年祭は 無事 終了した。

山本福松2代会長からの宿願である教会移転建築の完遂(昭和32年〜昭和37年)

(教祖70年祭を無事つとめ終えた頃には)
上之郷大教会へ参拝する信者も増え、教会は手狭になっていた。
(事ここに至っては) 教会内容の充実を期するためにも、移転建築の外ないことが 誰の目にも明らかとなっ(てき)た。

3代会長 (山本)義道は、一つには 親の思いであり、また一つには 澎湃として起きている信者の要望に答え、これを完遂しようと 心を固く定めた。
(そして) 
昭和32年(1957) 10月26日、移転建築の願いが許された。

(山本)義道(3代会長) は、本部准員として 営繕部の長として勤務していたが、内にあっては 陣頭に立ち 神殿落成に心血を注いだ。
建築途次、伊勢湾台風のため 工事が (一時) 頓挫した(りもしたが)が、(上之郷一同) よく一手一つの和をもって 勇んで (ふしんを) 進めた。

先に (山本)福松(2代)会長によって購入された 西大寺の移転地は、
大阪・京都に向かう交通の要衝で、小高い山の景勝の地にあった。
神殿建築は、(その地に) 信者のひのきしんによって完成した。

昭和37年(1962) 5月20日、
2代真柱臨席のもとに 厳粛に 鎮座の儀が執り行われ、翌 3日には奉告祭が執行された。

2代真柱は、2千余人の教信者を前に、
「山の上の教会が大和平原に下りてきたが、やはり昔の面影をとどめたような山の中の感がしてゆかしく想う。古き信者は 山の中に多かったのではないか。今日では 大阪の都心と相半ばしてその中間を選んだということになるでありましょう。
建築途上の災害にもめげず、よく一手一つの和によってやり了せた喜びを忘れぬ様、力を一つに合わし心を合わして進む喜びをたすけ一条の喜びに切換えて、教祖80年祭を目指してしっかりお励み頂きたい」
と 訓話した。

山本義道3代会長の出直し・山本義和4代会長就任 〜 創立80周年記念祭(昭和41年〜昭和48年)

(神殿移転落成の) 奉告祭も (無事) 済み、(上之郷一同) 清新の気も新たに 人々は一丸となって、教祖80年祭を目指して勇躍した。

しかし、(山本義道3代) 会長は、年祭活動の激務のためか 健康を害し、
昭和41年の教祖80年祭は無事終えたが、
(その後) 同年(昭和41年) 11月6日、(惜しまれつつ) 出直した。

昭和41年(1966) 12月26日、
(山本義道3代会長の出直しを受けて) 
4代会長として 山本義和が就任した。

昭和48年(1973) 11月11日、
上之郷大教会 創立80周年記念祭には、
真柱を迎え、信者3千余名が参集。
盛大に祭典が執行された。



〔現住所〕〒631-0834  奈良市西大寺新池町4番1号
〔電話〕 0742-45-4575

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,207〜210)

おわりに

上之郷大教会Google画像検索より①
Google画像検索より

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

記念すべき第100回目の今回は、
「上之郷大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

上之郷大教会AppleMapより①
Apple Mapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも 上之郷大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。

巻向川に沿って 車谷から東山中へ抜ける道がある。

上ノ郷の 笠の人・山本藤四郎は 明治十一年、父親の眼の患いから、父親を背負い 十二キロの山坂を越えて庄屋敷へ詣った。

一ヵ月滞在するうち 御守護を頂き、十八年に 笠村講社を結んだ。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,67 )

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】100回目の当記事では『天理教事典』の中の「上之郷大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

上之郷大教会は 城法大教会から分かれた大教会ですね。
城法大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

「上之郷大教会」については、当シリーズ第33回「城法大教会」で勉強した際に、その深い関係を初めて知りました。

「城法大教会」について勉強した時 知ったこと、それは、
上之郷の初代会長である 山本藤四郎先生は、
開設後まだ日が浅く 基盤の固まっていない「城法支教会」が 市川栄吉2代会長の辞任により 空中分解しそうな大ピンチに陥った時、
そのピンチを救うべく緊急登板し、その苦境を救った救世主のような存在だった、
ということでした。

この度、改めて 第33回「城法大教会」を読み返してみました。

読み返して 再び、山本藤四郎先生は、城法大教会の実質的な基盤を築かれた先生である ということを 再確認致しました。
それと同時に、
「城法」と「上之郷」は、
「山本藤四郎」という 同一の偉大な先人によりその基礎が築かれた という点において、
今なお 同じ光を受け継ぎ、現代に至るまで 同じ光源からの光に照らされ 輝きを放っている、
そんな感慨に包まれました。

今回の『天理教事典』「上之郷大教会」解説文の中では触れられていませんでしたが、
以前 勉強した「城法大教会」解説文の中では、
上之郷分教会が 城法中教会から分離するに至った経緯について、簡単に触れられていました。

この頃 (昭和3年頃) は、
折しも、(城法の) 後任会長問題で 部内教会が対立している時であったが、
梶本宗太郎らとも相談があって、
(城法支教会の)後任会長を 山本芳治郎とし、
(山本藤四郎の)長男・山本福松 会長の「上之郷分教会」は 
(城法から)分離して本部直属を願う ということに 決定した。

(昭和3年) 7月25日
本部の許しを得て 上之郷以下19ヵ所を分離し、
城法としては 62ヵ所となった。

(『天理教事典』1977年版 P,394)

城法支教会の基礎を固めた山本藤四郎先生の後任をどうするか、
城法内部で揉めていたのですね。

山本藤四郎先生は、元々、城法の部内教会の上之郷の会長だったので、
上之郷の担任との兼ね合い等もあって、いろいろと 外部の者にはわからない 難しい問題があったのでありましょう。

で、ご本部の梶本宗太郎先生らと相談を重ねた結果、
内部対立を収めるために、
城法支教会の後任会長を 山本芳治郎先生とし、
山本藤四郎先生の長男・山本福松先生が既に会長をつとめていた上之郷分教会は 城法から分離して 本部直属を願うこととする、
ということで落ち着いた――
そういう流れだったのですね。

そのような歴史を知ると、
「城法」と「上之郷」というのは、元は、密接不可分な教会だった、と言って良いような気がしてきます。

上之郷大教会ストリートビューより②
Googleストリートビューより

山本藤四郎先生は、上之郷の初代会長であると同時に、城法の3代会長でもあられました。

『天理教事典』によると、
明治26年に 上之郷(出張所)の初代会長に就任し、
明治29年に 城法(支教会)の3代会長に就任。

そして、明治36年に 上之郷出張所が支教会に昇格する際に、
山本藤四郎先生のご子息である山本福松先生が上之郷の2代会長に就任したことをもって 上之郷の会長は退任となった、
と 『天理教事典』には書いてありました。

そうした史実を重ね合わせると、
(実務は代行の先生が扱っておられたのだとは思いますが)
山本藤四郎先生は、明治29年から明治36年の 約7年間、
(組織図上) 上之郷の会長と城法の会長を兼務していた、
ということになります。

第83回で「洲本大教会」について勉強した際、
松村隆一郎・洲本2代会長は、
大正4年から大正6年に出直されるまで
洲本大教会長と高安大教会長(4代)を兼務されていた、ということを初めて知りました。
もしかすると、
昔は、今のようなガチガチの組織構成ではなくて、こういった会長職の兼務ということも珍しくなかったのかもしれません。

第83回「洲本大教会」の勉強をした際、私は「おわりに」の中で次のように書きました。

天理教では、昨今、会長不在の教会が増えているという話をよく耳にします。

天理教の教会をこれ以上減らしたくない、何とか存続させるんだ、という方針を維持するのならば、これからは、やりたくない人をどこかから引っ張り出してきて無理やり据える等ということはせず、天理教の会長にふさわしい先生が、複数の会長職を兼務する、というやり方もアリなんじゃないのかな…

松村隆一郎先生が 洲本大教会長と高安大教会長を兼務していた時期がある という史実を知って、そんなことを思ったりもしました。

さまよいブログ天理教 各教会の歴史探索(第83回)【洲本大教会】より

今回、山本藤四郎先生が 上之郷会長と城法会長を兼務していた時期がある という史実を知って、
改めて、その時に抱いた思いを 強くしたのでありました (^^)

上之郷大教会AppleMapより②
Apple Mapより

今回、上之郷大教会の歴史を勉強して私が一番知りたいと思ったのは、
ここまで 山本藤四郎先生を信仰の道に突き進ませた原動力は何だったのだろうか、
という点でした。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』によると、
山本藤四郎先生は、
父親の眼病をたすけて頂きたいとの一心から、
父親を背負って、なんと、3里 (約12km) もの山坂を 歩いておぢば帰りされた!とのこと。

そこで御守護を戴いたことの感激が信仰の出発点とのことですがありますが、
そもそも、
父親の眼病を何とか助けてほしいと、お屋敷まで 12kmもの道のりを 父親を背負って歩いていくという行為自体が「常人ではない!」(@_@;)
と、私には思えました。

父親の病を助けてもらいたい一心で、病んだ父親を背負って 12kmもの道のりを歩み抜かれた誠真実の心。
そのご逸話を知って私は、そこには、
桝井伊三郎先生が 危篤の母親を何とか助け頂きたいと教祖の元へ 断られても断られても3回も通われたという 有名なご逸話に重なるものがある――
そんなふうに、感じました。

山本藤四郎先生や桝井伊三郎先生に共通するのは、
道の教えを聞き分ける以前に、
既に、何とかして親をたけてもらいたいと必死に駆け回る程の「親孝行」の心を持っておられた、という点です。
それは 決して、誰もが自然に取れる行動でないと思います。

このことは、
このような先生方は 生まれながらに高い「霊格」を有する「徳の高い魂」であられる、
ということを意味していると言えるのではないでしょうか。

となると、
冒頭の「ここまで山本藤四郎先生を信仰の道に突き進ませた原動力は何だったのだろうか」という素朴な疑問に対する答えは、
「徳の高さゆえ」というシンプルなものだ、
ということになるのかもしれません。

すなわち、山本藤四郎先生の信仰の原動力は、
親を思う真実の心に宿る「徳の光」であり、
その光が 時を超えて 今もなお人々の魂を照らし続けていると言ってよいのではないか、
と、私は感じました。

そのように考えていくならば、
お道にご縁を戴いた者は、
如何にそういった「徳」を身につけていくか実践していくかということに もっともっと力を注ぐ必要がある、と言えるのかもしれません。

大きなこと派手なことばかりに心奪われてしまうことなく、
「徳積み」という地味な活動への意識をもっと高めていかないと…
等と思ったりしたのでありました (^^)

上之郷大教会ストリートビューより③
Googleストリートビューより

その他にも、
山本福松2代会長から山本義道3代会長の2代にかけて、ようやく山間部から大和平原に教会の移転建築を成し遂げた、という話、

また、
教祖80年祭活動を全力で勤め上げられた山本義道3代会長が、
年祭活動の激務のためか 年祭後に体調を崩し、80年祭を終えた同じ年内に出直された、という話など…
どれもこれも知らない事ばかりでした。

これまで知らなかった多くのことを知ることができて、とても勉強になりました。
有難いことでした。

上之郷大教会Google画像検索より②
Google画像検索より

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「上之郷大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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