天理教 各教会の歴史探索(第111回)【仙臺大教会】『天理教事典』より

「仙臺大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号110番「此花大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号111番「仙臺大教会」について勉強します。

  1. 仙臺大教会(せんだい だいきょうかい)
    1. 加藤清作の入信(明治22年)
    2. 加藤清作の布教、静岡から仙台へ(明治22年~明治26年)
    3. 塚本勝次郎・加藤清作らの仙台布教、益津からの応援(明治26年頃)
    4. 仙台警察署からの取り調べ、拘留(明治26年頃)
    5. 宮城布教事務所の開設(明治26年頃)
    6. 上級・山名からの布教視察、加藤歳次郎の仙台入り(明治26年)
    7. 宮城布教事務所の移転(明治27年)
    8. さらなる移転地の検討(明治27年)
    9. 仙臺支教会の開設(明治27年)
    10. 相次ぐ部内教会の設立
    11. 影山与吉 初代会長の益津引き揚げ ~ 出直し(明治32年頃)
    12. 初代会長出直しの節を乗り越えての教勢の拡大(明治33年頃)
    13. 小栗市十 益津支教会長の 仙臺支教会長 兼務(明治34年頃)
    14. 加藤歳次郎の副会長就任(明治37年)
    15. 小栗市十2代会長の辞任と加藤歳次郎3代会長の就任、そして分教会へ昇格(明治41年)
    16. 教勢の拡大、教会内容の充実(明治後期~大正時代)
    17. 上級・山名大教会の分割問題、仙臺は名京大教会の部属へ(大正12年)
    18. 教祖40年祭活動(大正12年頃~大正14年頃)
    19. 教祖40年祭活動後の教勢沈滞(昭和初期)
    20. 上級・益津分教会 名京大教会より分離独立、仙臺は名京大教会の直轄へ(昭和12年)
    21. 加藤歳次郎3代会長の辞任、加藤秀雄4代会長の就任(昭和15年)
    22. 仙臺大教会へ陞級(昭和16年)
    23. 神殿ふしん~付属建物のふしん(昭和23年~昭和27年)
    24. 加藤秀雄4代会長の出直、加藤みよし5代会長の就任(昭和31年~昭和32年)
    25. 加藤泰朗6代会長の就任(昭和39年)
    26. 教会移転・神殿ふしん(昭和47年~昭和49年)
    27. 詰所ふしん(昭和50年)
  2. おわりに
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仙臺大教会(せんだい だいきょうかい)

仙臺大教会Googleストリートビューより①
Googleストリートビュー より

加藤清作の入信(明治22年)

静岡県志太郡藤枝町で呉服屋を営んでいた 加藤清作は、生来の肺病で苦しんでいた。

45歳あたりから、床につく日が多く(なり)、
ついに、48歳の秋、再び立てない(程の) 病になった。

肺病・腸チフス・そして 瘰癧 (るいれき) の三つの病気が、
折り重なるように 彼の身を襲ったのである。

この時、加藤家に出入していた植木職人が、天理教の布教師で、
加藤(清作) は この人から 三日三夜の おさづけ を取次いでもらった。
(そうしたところ) 腸チフスは全快、肺の方も 若干の症状を残すのみで (状態が回復し)、鮮やかな御守護をいただいた。

加藤(清作) はこれに (深く)感激し、全財産を捧げて (ご恩報じの道を歩んで) 行くことを決心した。

時に、明治22年(1889)のことである。

加藤清作の布教、静岡から仙台へ(明治22年~明治26年)

こうして、加藤(清作) は、商売の傍らに (静岡の地で) 布教を始めた。

加藤(清作) には 男児がなかったので 養嗣子に 歳次郎 (当時21歳) を迎え、(歳次郎に) 商売を任せてからは、布教に専従した。
その結果、(静岡に) 大富出張所の設立をみた。

(静岡の地で布教に励んでいた) 加藤(清作) は、
明治26年6月、
青年布教師として活躍していた 塚本(勝次郎)と共に 仙台布教を志すに至った。

(遠路はるばる仙台に赴いた加藤清作は、塚本勝次郎と共に) 仙台の各所に「天理王命」の神名を流し、病人を探して歩き始めた。

今日の「仙臺大教会」の礎は、ここにある。

塚本勝次郎・加藤清作らの仙台布教、益津からの応援(明治26年頃)

塚本勝次郎・加藤清作の二人は、それから 連日 仙台の街を歩いた。
(そして) 仙台に来て 20日経った (明治26年) 7月14日、
はじめて 話に耳を傾ける者に出会った。

(宮城県) 仙台市三百人町57、小幡善太郎の妻・トヨ (当時30歳) である。

小幡トヨ は、永年、子宮病を患っていた。
それが、三日三夜の おさづけ により全快(するという 奇蹟的なご守護を頂いた)。
夫・善太郎は、これに感激して 入信した(のだった)。

(これ)以後、続々と おたすけにあずかる者が出(るようになっていっ)た。

この勢いに加えて、
当時の 益津支教会の部属で、時の 大富出張所長の鈴木金太郎と、同(益津)部属、島田出張所長の八倉巳之助らも、相次いで (静岡から) 仙台に来て、布教を行った。

その後、事務所を 小幡善太郎宅に設けて、出張所設置を目指して、鋭意、おたすけの手を 各地各所に伸ばし(ていっ)た。

仙台警察署からの取り調べ、拘留(明治26年頃)

(その後、静岡から仙台へ布教に来た一行の) 教勢は ますます盛んとなり、たすけに浴する者が続出した。

しかし、(そうした現象が地域の評判となるのに伴って) それが、仙台警察の耳に入り、(警察から) 取調べを受け(ることになった。)
鈴木金太郎・八倉巳之助・小幡善太郎 の 3名が拘引され、一夜 (警察署に) 拘留された。

しかし、(仙台警察署が) 奈良県警察署、及び 天理教(教会)本部に照会した結果、不正でないことがわかり、3人は(無事) 釈放された。

宮城布教事務所の開設(明治26年頃)

この事件によって、天理教の布教は かえって公然となり、
(宮城県) 仙台市三百人町57、小幡善太郎宅を 布教事務所として、
ここに「天理教宮城事務所」の看板を掲げて、名実共に 布教の実績を挙げるべき第一歩を印した。

上級・山名からの布教視察、加藤歳次郎の仙台入り(明治26年)

わけても、同(明治26年) 10月に、布教視察のために仙台にきた、当時 山名分教会長・諸井国三郎・村田熊三郎の両名が、人々に教理を取次いだので、人々は多大の感銘をうけた。

また、続いて 同年(明治26年) 11月に、
仙台布教の先駆・加藤清作の養嗣子に当たる加藤歳次郎が
(静岡の) 大富出張所より出張してきて、仙台で布教に従事することとなった。

宮城布教事務所の移転(明治27年)

こうして 教勢は急激に上昇し、事務所は人々が寄るのに狭くなり、他に移転増築の必要を感じ、
講元の 小幡善太郎・庄子栄助・岡崎長五郎…等は、移転を協議。

明治27年1月、
増築完成したので、(宮城県仙台市) 北目町37番地に移転した。

さらなる移転地の検討(明治27年)

(その後も、宮城布教事務所の) 教勢は 伸展の一途を辿り、
南は、宮城・名取・伊具・柴田・亘理、以上の各郡にのび、
北は、桃生・壮鹿・志田・栗原・遠田・加美、以上の各郡にわたって、急速に浸透した。

こうして、再び、移転 ならびに 教会認可の問題が起こった。

この(ような状況の)中、
最初に 仙台に布教に来た 加藤清作は、布教実績のあがるのを見て、命により静岡県大富にもどっていたが、
明治27年5月29日 (静岡で) 出直した。

かかる悲報にもめげず、
同年(明治27年) 6月には、
益津支教会 理事・影山与吉 (仙臺支教会 初代会長) が 来仙。

講元を集め 協議の結果、
(宮城県仙台市) 北目町の (布教)事務所を移転することに決定(した)。

各講元は、東奔西走、敷地を求めて尽力。
その結果、(宮城県) 仙台市東4番丁11番地に (移転することが)決まった。

仙臺支教会の開設(明治27年)

一方、(移転地選定と同時に) 教会本部への教会設置出願の準備も進められた。

(宮城布教事務所一同が) 当時(の) 益津支教会長・小栗周蔵に その会長となるべき者の人選を一任したところ、(小栗周蔵 益津支教会長は) 影山与吉を選んだ。

(このようにして教会設立の準備も着々と進み)
教堂 及び 付属建物が完成。
同年(明治27年) 11月20日、鎮座祭。
翌 (11月)21日には、事務所の開筵式を挙行した。

明治27年12月3日、
(天理教教会)本部から許しを受け、ただちに宮城県庁へ出願。

明治27年12月28日、
地方庁認可を得て「天理教仙臺支教会」が誕生した。

相次ぐ部内教会の設立

その後、郡部に散在する信者の整理の傍ら、
要所要所に 布教所が設けられた。

宮城郡 根ノ白石村に 宮城布教所を設置し、同郡(宮城郡) 多賀城村には 多賀城出張所を設置。
次いで、
岩沼・名取・黒川・鷹来、
以上の各布教所・出張所も設置されて、
(仙臺支教会の) 発展はとどまるところを知らないかのように見えた。

影山与吉 初代会長の益津引き揚げ ~ 出直し(明治32年頃)

しかし、ここに 一つの問題が持ち上がり、影山与吉 会長の心を痛めた。

この問題は、上級の 山名分教会長・諸井国三郎の知るところとなり、
影山(与吉) 会長は、一時、益津支教会に引き揚げることになり、静岡支教会の副会長となった。

影山(与吉) 会長は、
この後、部内教会である 有渡出張所(へ) 巡教中、脳溢血で出直した。
36歳であった。

初代会長出直しの節を乗り越えての教勢の拡大(明治33年頃)

(影山与吉) 初代会長の出直の悲しみの中にも、仙臺支教会の教勢は ますます伸びた。

明治33年に、
宮城県下には、若柳・桜岡・仙南・米谷中・新田、以上の各出張所が設立された。
また、福島県下に、福相・角田・亘理、以上が設立されて、
着々と 支教会としての充実した態勢をとるに至った。

小栗市十 益津支教会長の 仙臺支教会長 兼務(明治34年頃)

(仙臺支教会では、影山与吉) 初代会長出直の後、会長不在のままであったが、
明治34年12月8日、
益津支教会長・小栗市十が、仙臺支教会長を兼務することになった。
(それと同時に) 6名の理事も選定され、教務を整理することとなった。

加藤歳次郎の副会長就任(明治37年)

しかし、人々の間には、仙臺支教会が 山名分教会の直轄でありたいという願望があった。
益津支教会にその旨を打診したが、依然として 益津支教会は 不承知のままであった。

仙臺支教会として 専任会長の必要を感じ、益津支教会に仙臺支教会の役員の中から会長の選定を促したが、適任者なしということであったので、副会長の選定という方法がとられた。

その結果、加藤歳次郎 (を「副会長」とすること) に決定。
明治37年12月27日、
仙臺支教会 副会長の許しを得るに至った。

会長・小栗市十は 健康がすぐれず、
実質的な会長としての教務は、副会長である 加藤歳次郎が 当たった。

小栗市十2代会長の辞任と加藤歳次郎3代会長の就任、そして分教会へ昇格(明治41年)

明治41年2月26日、
2代会長・小栗市十が、兼務会長の職を辞任(した)。

これによって、
明治41年2月26日、
副会長であった 加藤歳次郎が3代会長に就任(した)。

同時に、
天理教の一派独立によって、(支教会から) 分教会に昇格した。
当時、部属教会は11ヵ所であった。

教勢の拡大、教会内容の充実(明治後期~大正時代)

分教会昇格に伴い、部内の各出張所・布教所も 続々と支教会に昇格。
(加藤歳次郎)3代会長を芯として、
組織面の整備拡充の成果は 着々とあがっていった。

(仙臺分教会の) 宮城県内の教勢は、
大きな狼火となって 遙か北海道にまで 飛び火した(程だった)。

こうした中、(大正5年) 教祖30年祭を迎えて、
初代真柱の出直、松村吉太郎の疑獄事件など(の大きな節) があったものの、
人々は 心を引き締め、(より一層) たすけ一条(の上)に励んでゆく決意を固めた。

こうして、
教祖40年祭(大正15年執行) に向かって、(仙臺分教会の) 教勢は (ますます)盛んになった。

(それまでに) 財政の著しい困難を来たしたこともあったが、会長を芯として(その都度) 難関を突破し(ていっ)た。

上級・山名大教会の分割問題、仙臺は名京大教会の部属へ(大正12年)

大正12年(1923)、
山名大教会と名京大教会の 分割問題が生じ、
仙臺(分教会)は、名京大教会の部属となった。

教祖40年祭活動(大正12年頃~大正14年頃)

こうして、
いよいよ (大正15年に執行する) 教祖40年祭 (の年祭活動期間) を迎えた。

(天理教教会)本部の年祭活動の指令に基づき、
仙臺部内も、教勢の倍加を決意。
(一同、懸命の努力を重ね)
大正14年には、20ヵ所の教会の誕生を見、一躍 41ヵ所の教会ができた。

(また) この年(大正14年) 5月15日には、
仙臺分教会部内・若柳支教会部属の 丸子キンが、
満州奉天の信濃町に「満州奉信教会」を設置。
海外伝道の範を示した。

教祖40年祭活動後の教勢沈滞(昭和初期)

(大正15年に盛大に教祖40年祭をつとめ終え、時代は) 昭和に入った。

(教祖40年祭を目標に無理を重ねたこともあって)
教祖40年祭の華々しい年祭活動の後に来る反動は どうしようもなく、
(仙臺分教会においても) 教線は 一途に沈滞した。

特に 致命的打撃は、財政的な窮乏であった。

こうした中にあって、
日本の政局も 暗雲低迷。
社会は 戦時体制に入っていった。

上級・益津分教会 名京大教会より分離独立、仙臺は名京大教会の直轄へ(昭和12年)

昭和12年(1937) 12月、
益津分教会が 名京大教会より分離、大教会となった。

それに伴って、
仙臺(分教会)は、名京大教会の直轄となった。

加藤歳次郎3代会長の辞任、加藤秀雄4代会長の就任(昭和15年)

昭和15年4月に至って、
(3代)会長・加藤歳次郎は、上級・名京大教会より「常詰」の命を受け、
(仙臺分教会) 会長の職を辞任(した)。

(それを受けて) 新しく4代会長として長男・秀雄が任命され、
昭和15年4月24日付で (天理教教会本部より) 許された。

仙臺大教会へ陞級(昭和16年)

昭和16年10月30日、
仙臺分教会は、名京大教会より分離、大教会に陞級した。

神殿ふしん~付属建物のふしん(昭和23年~昭和27年)

昭和23年4月7日に
建坪118.5坪の神殿の落成奉告祭を執行。

昭和27年には、
真柱室・会長室等 付属建物を新築完成(した)。

加藤秀雄4代会長の出直、加藤みよし5代会長の就任(昭和31年~昭和32年)

昭和31年12月31日、
加藤秀雄(4代)会長が出直(した)。

それに伴って、
翌年(昭和32年) 2月27日、
みよし夫人が 5代会長に就任。

(昭和)32年11月22日、就任奉告祭を執行した。

加藤泰朗6代会長の就任(昭和39年)

その後、昭和39年4月26日、
嗣子・加藤泰朗が6代会長に就任。

同年(昭和39年) 9月20日、
その奉告祭が 執り行われた。

(加藤泰朗)6代会長は、次代を任う青少年の信仰育成に特に心をかけ、
教祖80年祭以後、自ら陣頭に立って 指導に当たった。

教会移転・神殿ふしん(昭和47年~昭和49年)

昭和47年、仙台市の要請に応じ 大教会の移転を迫られ、
将来の発展を念じてこれに協力し、大教会神殿建築を決定した。

昭和48年6月、
(宮城県) 仙台市大和町2丁目13番10号の地に 仮遷座地を求め、
同年7月5日、地鎮祭執行。

(そして) 翌年49年 5月11日、
大教会神殿の仮遷座をなした。

詰所ふしん(昭和50年)

更に、昭和50年6月25日、
教祖90年祭(昭和51年執行) を目前にして 仙臺詰所 (第47母屋) の建築を成し、真柱を迎えて 開所式を行った。

現在、会長を芯に、
部内教会・よふぼく・信者が一つに心を合わせ、世界たすけのために 奔走している。

〔現住所〕〒984-0042  宮城県仙台市若林区大和町2丁目13−10
〔電話〕 022-232-6786

 (昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,462〜464)

おわりに

仙臺大教会Googleストリートビューより②
Googleストリートビューより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

第111回目の今回は、
「仙臺大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

仙臺大教会GoogleMap①
GoogleMapより

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも、仙臺大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとしてそのまま書写します。

宮城

仙臺はもと益津系で、益津支教会の東北布教は、山名の東北布教打ち出し以前に独自の計画でもって進められた。

明治二十六年、静岡県藤枝町の加藤清作宅で付近の信者が集まって教理研究をしていた際、東北地方か、関東は千葉のいずれかへ布教に出る相談がついた。
くじを引いたところ、東北仙台と出た。
清作と塚本勝次郎が選ばれ、二人は仙台三百人町に宿をとり、布教を始めた。

この町の小幡善太郎も、妻トヨの子宮病がたすかり、道の話を伝えて回った。
清作は、布教が軌道に乗ったことを見届けて、翌年帰郷、間もなく惜しくも出直した。
早速、益津理事・影山与吉が来て、講元たちと協議して教会地所を購入。
最初に仙台布教を始めてわずか十八ヵ月、仙台市東四番丁に、仙䑓支教会が設置された。

その後、数々の節をへて四十一年、加藤歳次郎が三代会長に就任し、理の栄えをみるようになった。

(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,117)

ネット検索する中で、
天理大学附属天理図書館天理教文献室の 早田一郎先生による「福島・宮城布教」について書かれたファイルを見つけ、その中にも仙臺大教会に関する記述がありましたので、それについても覚え書きとして書写します。

東北に山名系伝道が浸透した理由を述べる。

静岡県西部に 興った山名分教会(現大教会)は、明治26年に奥州(東北)布教を打ち出した。
この頃 すでに山名の伝道は 静岡県にかなり広まっていたため、山名系の 益津支教会と白羽支教会は、遠隔地伝道を試みようと、東北へ布教師を送り出すことにした。
なお、この両教会の初代会長は、小栗周蔵と市十 父子で、同じ根から始まった教会である。

明治26年7月、小栗市十は、二藤藤一郎を仙台へ視察にやろうとしたが、山名初代会長・諸井國三郎の助言で、まず 福島に立ち寄らせた。
二藤は、初めて見る東北が 布教の好適地であることを感じ、市十に報告した。
8 月には 市十も福島を訪れ、東北布教の有望なることを 諸井に進言した。 

同じく 明治26年、信者宅にて教理勉強していた 益津支教会の人たちは、遠隔地伝道に行こうと 籤(くじ)で 願ったところ、仙台布教と出た。
相談の結果、加藤清作と塚本勝次郎が 行くことになった。

7月、仙台に着いた二人は、早速 付近をお助けにまわった。
伊達 62万石の城下町 仙台の人たちは 田舎出の布教師を相手にしなかったが、ある婦人のお助けから 次第に 宮城県内各地に広まった。

現在、仙臺大教会のうち 75パーセントが 県内にある。

(早田一郎「天理教伝道史の諸相(23)~福島と宮城の天理教」より)

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】111回目の当記事では『天理教事典』の中の「仙䑓大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

『天理教教会所在地録』によると、
仙臺大教会は、名京大教会から分かれた大教会となっています。

しかし(以前「益津大教会」の勉強をした時に知りましたが)
組織の系統表としてはそうだが、実際には、仙䑓大教会は益津大教会から分かれた大教会と言える、ということを今回の勉強で改めて再確認しました。

益津大教会は 名京大教会から分かれた大教会。
そして、名京大教会は、山名大教会から分かれた大教会。
ということで、仙臺大教会は「山名」の流れを汲んだ大教会ですね。

山名大教会・名京大教会・益津大教会 については、以前 勉強して 記事を投稿しました。

仙臺大教会Googleストリートビューより③
Googleストリートビューより

山名の流れを汲む大教会の歴史は 名京の分離等の複雑な経緯があったりして部外者にはわかりにくいところがありますが、
今回の「仙臺大教会」解説文書写学習においては、以前(第101回)「益津大教会」について勉強していたので、その際の知識の土台があった分、事実関係把握の混乱は少なかったです。

益津大教会と仙䑓大教会の関係性については、
今回の『天理教事典』「仙䑓大教会」解説文と「益津大教会」解説文を合わせ読むことでかなり理解が深まりました。

仙臺大教会GoogleMap②
GoogleMapより

リンクを貼ればいいことですが、
第101回「益津大教会」記事の中の「仙䑓大教会」に関わる部分について、私自身の読み返し用に  (^^ゞ  以下にコピペします。

山名の奥州布教・仙台布教 〜 仙台支教会の設置(明治26年)

山名分教会では、
明治26年(1893) 夏以来、
奥州布教の方針を打ち出していた。

この方針にのっとり、
明治26年4月、
静岡県志太郡大富村の大富出張所で 県外布教の話が出て、
候補地を定め 神様にお願いして 籤を引いたところ、奥州仙台と出た。

そして、布教者を選んだところ、
加藤清作 (加藤歳次郎 養父) と 塚本勝次郎が 当たった。
これが 仙台布教の発端である。

その後、
益津から 鈴木金太郎 (益津・大富分教会 初代会長) 八倉己之助 (益津・島田分教会 初代会長) 等も参加した。

布教師達の寝食を忘れての にをいがけに、
仙台市のみならず 郡部にまで伸び、信者の数、千名にのぼった。

かくて 仙台市東4番丁11に敷地600坪を求め、
明治27年12月3日、
会長・影山与吉を以て、仙臺支教会 設置の許しを得た。

仙台支教会のふし 〜 小栗市十 益津支教会長の仙台支教会長兼務(明治32年〜明治34年)

しかし、(仙臺支教会の) この順調な気運は 何時までも続かなかった。

教勢盛んに伸展した反面、教会内部に 事情が起こり、
この事情は 会長の進退問題にまで発展した。

遂に 影山与吉は 益津へ引揚げ、
明治32年(1899) 11月27日 突然 出直してしまった。
しかも その後、(仙臺支教会)2代会長の選出が遅れ、4年間も会長不在という状態が続いた。

明治34年(1901) 12月9日、
益津支教会長・小栗市十が 現職のまま、仙臺支教会長を兼務する事になった。

加藤歳次郎、仙台支教会の副会長就任 〜 3代会長就任(明治37年〜明治41年)

しかし、小栗市十は 健康勝れず、
また、事情解決のためにも 副会長を選定することになり、
それには 仙台最初の布教の基礎を築いた関係から、
塚本勝次郎 と 加藤清作の養嗣子・歳次郎の 2人の中から選ぶことになり、
くじ引きした結果、加藤歳次郎が 副会長を勤めることになった。

これが 明治37年(1904) 12月27日のことである。

かくて教勢は 次第に挽回し、
再び 宮城県一帯に広まって、漸く前途に希望が生まれ、
明治41年(1908) 2月26日、
小栗(市十)会長は辞任し、加藤歳次郎が (仙台支教会)3代会長に就任した。

※以上、(さまよいブログ天理教各教会の歴史探索(第101回)【益津大教会】より)

今回書写した『天理教事典』「仙䑓大教会」解説文と、上記コピペした「益津大教会」解説文で、若干ニュアンスが違う記述もありますが、
わからないことが多々ありながらも、両者を合わせ読むことで その関係性についての解像度を上げることが出来ました。

早田一郎先生の「天理教伝道史の諸相(23)~福島と宮城の天理教」には、益津支教会による仙䑓布教は、明治26年からの山名大教会東北一斉大布教の一環のような書き方がしてありましたが、
『道〜天理教伝道史をあるく』という本では、山名の東北布教打ち出し以前に独自の計画でもって進められた、と書かれてありました。

詳しいところはわかりませんが、
いずれにしても、益津支教会に所属する加藤清作先生と塚本勝次郎先生が静岡から仙台へ布教に出て、そこで道がついた。それで布教事務所を開設する運びとなり、それが後に仙䑓大教会に発展した。
これは間違いなさそうです。

今回の「おわりに」では、
感想というよりも、私自身の頭の中を整理することを目的として、仙䑓大教会と益津大教会に関わる初期の歴史を、今回書写した資料を材料として「改めてなぞる」ということを中心に書いてゆきたいと思います。(^^)

仙臺大教会GoogleMap③
GoogleMapより

仙䑓大教会が、支教会として最初に教会開設するにあたって、その初代会長には、小栗周蔵益津支教会長の選任により影山与吉先生が就任された。

影山与吉先生を会長に戴いて信仰活動に打ち込んでいた仙䑓支教会一同だったけれども、
『天理教事典』等の資料によると、設立されてまだそれほど年数の経っていない初期の時代に、影山与吉初代会長の心を痛めるような何らかの事情が起きた。
それが原因で、影山与吉初代会長は 益津に引き揚げるに至った。

どんな事情だったのか書かれていないのでわかりませんが、
影山与吉先生は そのしばらく後に出直した、と書かれてありました。
出直しに至るほど大きなストレスがかかったようですから、よほどの事情だったのだと思われます。

で、影山与吉初代会長出直し後、しばらく会長不在で経過し、
(「益津大教会」解説文には 4年間不在と書いてありました) 
明治34年暮には、上級の小栗市十先生が、益津支教会と兼務で2代会長に就任された。

仙䑓大教会は、創設早々から 大きな事情に直面されたわけですね (°д°)

『天理教事典』「仙䑓大教会」解説文の中の こうした大きな事情に関する部分を読んでいて、私が気になったのは、
「(当時の)仙䑓の人々の間には、仙䑓支教会が山名分教会の直轄でありたいという願望があった。益津支教会にその旨を打診したが、依然として益津支教会は不承知のままであった」
と書いてあった点でした。

仙䑓の人々の間には、仙䑓支教会が山名分教会の直轄でありたいという願望があった――?
ウ〜ン、これはどういう意味なのか、気になる…

そんなところにとらわれるな――という心の声が湧き上がってきて 私を戒めるのでありますが、
野次馬人間の私は、ついつい そうした声も跳ね除けて、そのことの背景を 下衆の勘繰り的に想像してしまうのでありました。

「仙䑓支教会が開設するにあたって 小栗周蔵先生の指名で益津の役員である影山与吉が初代会長に就任された。しかし、その影山与吉先生の時代に事情が起きた。なので、仙䑓一同としては 山名の直轄として信仰したいと思った。しかし、益津としては、それは順序が違う、理が立たない、と諭した。」
そんなストーリーが 頭に浮かびました。

『天理教事典』「仙䑓大教会」解説文の文章を読むと、
当時、仙䑓支教会とその上級の益津支教会の関係性はあまり良くなかったように映るのですが、どうなのでしょうか…
そんなことを詮索してどうする、というお叱りの声が聞こえてきそうですが… (^^;)

以上、好き勝手な事を書きましたが、これらはあくまでも私の勝手な妄想で、事実は全く異なる可能性が大いにあります。

頭に浮かんだ想像を、全く他意なく、ただ単純に書き連ねたのでありますが、もしかしたら不快に思われた方があるかもしれません。
もしも、不快に思われた方がありましたならば、深くお詫び申し上げます。どうぞご容赦ください。

仙臺大教会GoogleMap④
GoogleMapより

そして、影山与吉先生退職後に仙䑓の2代会長に就任した小栗市十先生が 益津支教会長との兼務であり健康もすぐれないこともあって【副会長】を選任することとなった。

「仙䑓大教会」解説文には書いていませんでしたが、
「益津大教会」解説文に書いてあったことで興味深かったのが、その【副会長】を選任する方法でした。

「益津大教会」解説文には次のように書いてありました。
「小栗市十は 健康勝れず、また、事情解決のためにも 【副会長】を選定することになり、それには 仙台最初の布教の基礎を築いた関係から、塚本勝次郎 と 加藤清作の養嗣子・歳次郎の 2人の中から選ぶことになり、籤引きした結果、加藤歳次郎が 【副会長】を勤めることになった。」 

くじ引き!

確か、明治26年に加藤清作先生と塚本勝次郎先生が遠方布教を志してその布教地を選定するにあたっても「くじ引きによって決めた」とのことでしたね。
そして、明治37年に副会長を定める際にも「くじ引きによって決めた」と (°o°)

以上の史実を知って、
昔、日本史の授業で、室町時代、足利義持4代将軍が後継者を定めず死去したため【くじ引き】をして次の将軍を足利義教に決めたと教わったことを思い出しました (^^)

現代人の感覚だと、大事な事を「籤(くじ)」で決めるなんて…と思ってしまいがちですが、
現代の感覚とは異なって、昔は、籤(くじ)というのは とても神聖なものだったのかもしれませんね。

話が逸れました。
仙䑓大教会と益津大教会に関わる初期歴史のおさらいを続けたいと思います。

その後、副会長に就任した加藤歳次郎先生が明治41年に3代会長となり、その際に支教会から分教会となった。
大正7年の山名大教会 諸井国三郎初代会長出直により発生した 山名大教会長継承問題を受けて 大正12年 名京大教会が創設された際には、
仙䑓分教会は 益津分教会と共に、名京大教会の所属となった。

そして、昭和12年、益津が大教会へ昇格する際に、仙䑓分教会は 益津から分離し 名京大教会の直轄となり、
その後、昭和16年、名京大教会から分離して 大教会に昇格した。

――以上、仙䑓大教会と益津大教会に関わる初期の歴史を、改めて大雑把になぞってみました。

当シリーズ学習を積み重ね、勉強した大教会数が増えたことで、
各教会独自の歴史と共に、他の教会との関係性の歴史についても、少しずつ知見が積み重なってきました。
そのようにして、内向きの歴史と外向きの歴史を重ね合わせると、いろいろ味わい深いなぁ… と感じます (^^)

当シリーズ学習を通して、どこの大教会にも 重い苦難の歴史が潜んでいる事を学んできましたが、
今回勉強した「仙䑓大教会」においても、実に入り組んだ様々な艱難辛苦の歴史を乗り越えてきたんだなぁ…と、改めて感じさせられた次第であります。

当シリーズ記事の締めくくりにいつも出すフレーズの繰り返しになりますが、
このような教会の歴史を知った上で、今の「仙䑓大教会」の雄姿を仰ぎ見ると、その姿の中に、より一層の深みと重みが感じられてくる気がします。

仙臺大教会Googleストリートビューより④
Googleストリートビューより

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「仙臺大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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