茶木谷吉信先生講話「天の定規」の教えを学ぶ~陽気チャンネル【逸話篇の世界を旅する】より

「茶木谷吉信先生講話 「天の定規」の教えを学ぶ」アイキャッチ画像 天理教・茶木谷先生

皆さん、こんにちは。
ふらふら彷徨う「さまよい人」です。
「さまよいブログ」へようこそ。

前回、自分が視て勉強になったYouTubeを
文字起こしして紹介する記事を、
お試しで書きました。

お試しで一度書いてみて、
私のこれまでのブログは書籍紹介が中心だったので、
こういうYouTube文字起こし記事もいいかも、
と自分では思ったのですが…(皆さまいかが?) 

読んで下さる方がどう感じているか分からないものの、
もうちょっと「YouTube文字起こし記事」
いってみてもいいんじゃないかな、
と考えまして、
連続チャレンジしてみることに。

で、YouTubeネットサーフィン。

私は、令和元年に小さな天理教分教会の教会長をつとめる運びとなった者。
その関係で、天理教関係のYouTubeもいろいろ検索。

そんな中、天理教養徳社が運営している「陽気チャンネル」に出会いまして、
その中の茶木谷吉信先生による【逸話篇の世界を旅する】という動画を発見。
すばらしい‼

その動画を視て、
私のような、道と世界をふらつき「さまよう」人に知ってほしい、
という気持ちが強くなりました。

ということで、今回は、
陽気チャンネル」の中の、
茶木谷吉信先生による【逸話篇の世界を旅する】という動画シリーズをチョイス。
その中の「天の定規」解説のお話をピックアップすることにした次第。

私の書く記事は、いつもダラダラ長くなって、
最後まで読んでいただきにくい傾向がありますので、
今回は、“サクッ”とまとめたいと思います。

私のような、道と世界をふらつき「さまよう」方にとっては、
とても勉強になるお話だと思います。

ぜひ、最後まで読んでいってください。

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『稿本天理教教祖伝逸話篇』とは

sunlight over clouds photo

その前に、まず『稿本天理教教祖伝逸話篇』について、改めて確認。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』

昭和51年(1976)1月26日発行。教祖90年祭の記念出版。

『稿本天理教教祖伝』が、昭和31年(1956)10月、
永年の歳月をかけて 編纂出版された。
そのはしがきに、
「教祖の御言行、御逸話などについては、
今後つづいて、その蒐集につとめさせて頂き、
逸話篇ともいうべきものを、
別冊として不日まとめさせて頂きたいと思って居る」
との記載がある。

その意に沿って、
教祖90年祭活動の一つとして、
こふき委員会(上田嘉成 委員長)が、その編纂にあたり、
真柱の裁定によって、刊行したもの。

まず、
編集し終えたものから 50話ずつ 4集に分冊して、200話が発行された。
さらに、その逸話集の内容の検討と字句の整理が行われ、
200話の逸話を 年代順に収録して 1冊にまとめて刊行された。

『稿本天理教教祖伝』が、教祖の立場と 教えの真髄を伝えるものであるのに対して、
教祖が 信仰者の一人一人を 直接 親心をかけて導かれた信仰の様子を知り、
身近に 存命の教祖の面影を求めて信仰実践の基本となるように 意を尽くしている。

(天理大学おやさと研究所編『天理教事典』より)
さまよい人
さまよい人

稿本天理教教祖伝逸話篇は、

「身近に存命の教祖の面影を求めて、信仰実践の基本となるように」
との意図で、教祖90年祭に発行されたのですね

茶木谷 吉信先生の語る「天の定規」の教えを学ぶ

gray and yellow measures photo

今回紹介する動画は、
天理教養徳社が運営する「陽気チャンネル」というYouTubeチャンネルの、
茶木谷 吉信先生による【逸話篇の世界を旅する】シリーズの初回のお話です。

ちなみに、話者の茶木谷 吉信先生のご経歴については、
Amazon『世界たすけに活かすおやさまご逸話』
という茶木谷 吉信先生の著作の説明欄に、
以下のような記載がありました。

【著者について】

茶木谷 吉信  (ちゃきたに・よしのぶ)

  • 昭和35(1960)年 熊本県菊池市生まれ
  • 昭和58(1983)年 熊本大学文学部哲学科卒
  • 昭和59(1984)年 天理教正代分教会長拝命
  • 平成17(2005)年 熊本刑務所教誨師
  • 平成25(2013)年 玉名市主任児童委員

Amazon 『世界たすけに活かすおやさまご逸話』著作紹介 より)

今回紹介する動画(茶木谷 吉信先生の【逸話篇の世界を旅する】シリーズ初回)は、
「天の定規」についてのお話です。
【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐって

(「【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)

この動画を視ることで、
教祖が教えてくださる「天の定規」についての 理解を深めることができます。

この動画は 教内では 有名な動画のようですし、再生回数も多いので、
既に 音声で視聴済みの方が 多いと思います。
ただ、それを、改めて【文字】で見つめることで、
また、新たな 気付きが得られることも あるに違いありません。

今回 私がまとめる この記事は、
茶木谷 吉信先生の語る「天の定規」の教え についての YouTube講義を、
【文字起こし】したものです。

動画を 既に 視聴済みの方も、
ぜひ一度、茶木谷 吉信先生の 逸話篇ワールドを
【文字】で 味わってみてください。

稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」の内容

みなさん、こんにちは。
今日は、稿本天理教教祖伝逸話篇の中から、
31番「天の定規」っていうお話があるんですが、
このご逸話について、
少し皆さんと一緒に考えていくことにいたします。

まずは、このご逸話をちょっと味わってみてください。どうぞ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」の朗読》

31.天の定規

教祖は、ある日飯降伊蔵に、
「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみてくだされ。」
と、仰せになった。
伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。
すると、教祖は、
「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」と、仰せられ、更に続いて、
「隙がありませんか。」と、仰せられた。
伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。
そこで、「少し隙がございます。」とお答えすると、教祖は、
「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うていることでも、

天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」
と、お教え下された。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

お道にご縁を頂いた者なら、誰しも一度は聞いたことがある、

有名なご逸話ですね。

人間が考える【真っ直ぐ】と、神様の【真っ直ぐ】は同じではない

いかがですか。

このご逸話は、人間が考えている【真っ直ぐ】というのと、
教えに基づく神様が【真っ直ぐ】だと思っておられることとは、
少し違うということを教えてくださった、非常に有名なご逸話です。

このご逸話は、普通はですね、
人間は、自分の価値判断よりも、
教えに基づく価値判断の方を優先させなければならない、
というふうに解釈されています。

それはそれで全く問題はありませんし、間違いでもありません 。
むしろ素直な解釈だと思います。

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

人間が考える【真っ直ぐ】というものと、

神様による【真っ直ぐ】は異なる。
これは、お道だけに限らず、

すべての宗教の基本的なスタンスですよね。

誰だって自分が正しいと思って行動している

しかし、じゃあそれですべての人間間の悩みが解決してしまうのかっていうと、
これまた、それだったらそれは苦労はないなぁ、という気がしているんです。

なぜなら、誰だって自分が間違ってると思って行動しているって事は少ないんです。
みんな、自分が正しいと思って行動しています。

会社でも職場でも、あるいは家庭でも、
みんなお互いが自分が正しいと思って、
いろいろ意見をぶつかり合わせるんですけれども、
やっぱりそこで、気まずい思いをしてしまう。

「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」というふうに、
心理学者のアドラーという人は言いました。
それほど、人付き合いというのは難しいものです。

お互いが意見を主張し合う中で、
揉め事になって、喧嘩になって、人間関係の間に溝が 生まれて、
そして心を病む人だって実は出てきます。

私は、刑務所の教誨師も務めています。
「個人教誨」っていいまして、
刑務所に行って、
受刑者とカウンセリングのようなことをすることもあります。

そういう時に気づくんですけど、
受刑している犯罪者でさえ、
その犯罪に対して【真っ直ぐ】だったと思っている場合があるんです。

もちろん社会規範から言えば、
【真っ直ぐ】じゃなかったからこそ刑務所に入っているんですけれど…

こじつけであれ、その人にとっての【真っ直ぐ】、
「オレはあの時は【真っ直ぐ】だったんだ」
っていうふうに訴えられる場合があります。

自分はみんな正しいと思って行動しています。
それなのにこの世から、いさかいの種は尽きません 。
これはなぜなんでしょう。

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

この世のすべての人が、

みんな、自分が正しいと思って行動している。 

けれど、その正しさが、みんな違う。

だからいろんな場面ですれ違いが起きる。争いがなくならない。

難しいですね。

キーワードは【真っ直ぐ】

このご逸話を少し掘り下げて考えてみると
新たな視点が生まれてきます。

キーワードは【真っ直ぐ】です。
少し私と一緒に、これから考えていきたいと思います。

このご逸話の登場人物である飯降伊蔵さんという方 、
この方は、後に本席というお立場を頂かれた方で、
教祖がお姿を隠しになった後、
親神様のご神意を代わりに取り次ぐという、
天理教ではとっても大切な御用をお務めになりました。

この飯降伊蔵さん、
教祖から【真っ直ぐ】な柱を作ってくれって言われたわけですから、
一生懸命【真っ直ぐ】な柱をお作りになったんです。

この飯降伊蔵さんは「櫟本千軒きっての正直者」って言われた方で、
お仕事は大工さんです 。
だからプロなんです。

この技術をフルに生かして、
誠心誠意【真っ直ぐ】な柱を作られたと思います。
もちろん、【真っ直ぐ】な柱って言われたわけですから、
目分量で作るようなことはなさらなかったと思います。
むしろ棒のようなものを当てながら、
一生懸命【真っ直ぐ】な柱を作られたはずなんです。

ところが教祖は、
柱をつくってお目にかけた途端、
間髪を入れずに「一度定規にあててみてくだされ」っておっしゃるんです。

考えてみたら、ちょっと意地悪のようにも思えませんか?

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

理屈だけじゃなくて、たとえを用いて分からせてあげよう、

という親心が感じられますね

人間のまっすぐには限界がある

しかし私は、
この教祖の仰せになった、
定規にあててみてくだされって仰せになったことが、
実は、このご逸話を深く理解するためのヒントになると思っています。

つまり教祖は、
最初から、人間の【真っ直ぐ】には限界があるんだということに、
お気づきになっていたんです。

たとえば、私たちがケンカや言い争いをします。
つい、自分は正しくて、
相手が間違っているっていうふうに思いがちです。

たとえば、夫婦喧嘩の場合だと、
片一方は男性、片一方は女性ですから、
考え方は根本的に違う場合だってあります。
それが根底にある場合は、
どっちが正しいのかっていうことが実は言えなくなってくる、
難しくなってくると思うんです。

たとえば、相手が子供の場合どうでしょう。
子供っていうのは経験が未熟です。
だから大人は、
「お前は経験が未熟だからそう言うけれども、 それは違うよ」
っていうふうに説教してしまうんです。
しかし、もしかしたら、子どもには子どもの言い分があって、
そして、大人が【真っ直ぐ】だと思っていることのほうが、
世間の垢にまみれた、ねじ曲がった【真っ直ぐ】なのかもしれません。

でも、私たちは口論になったときは、
自分の主張を通して、
相手がいかに間違っているかということを言いつのります。
こうなると、もう水かけ論です。
もう、止まるところがありません。

たとえ仲良くなったように見えても、
実はどちらかが我慢をしているっていう場合だってあるかもしれません。

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

「人間の【真っ直ぐ】には限界がある」

ということを自覚することが、

信仰のスタートラインなのでしょうね。

お互いが【真っ直ぐ】だと思っているからこそケンカが起きる

しかし私は、この教祖の仰せになった、
定規にあててみてくだされって仰せになったことが、
実は、このご逸話を深く理解するためのヒントになる、
と思っています。

つまり教祖は、
最初から、
人間の【真っ直ぐ】には限界があるんだということに、
お気づきになっていたんです。

例えば、私たちがケンカや言い争いをします。
つい、自分は正しくて、
相手が間違っているっていうふうに思いがちです。

たとえば、夫婦喧嘩の場合だと、
片一方は男性、片一方は女性ですから、
考え方は根本的に違う場合だってあります。
それが根底にある場合は、
どっちが正しいのかっていうことが実は言えなくなってくる、
難しくなってくると思うんです。

たとえば、相手が子供の場合どうでしょう。
子供っていうのは経験が未熟です。
だから大人は、
「お前は経験が未熟だからそう言うけれども、 それは違うよ」
っていうふうに説教してしまうんです。

しかし、もしかしたら、
子どもには子どもの言い分があって、
そして、大人が【真っ直ぐ】だと思っていることの方が、
世間の垢にまみれた、
ねじ曲がった【真っ直ぐ】なのかもしれません。

でも、私たちは口論になったときは、
自分の主張を通して、
相手がいかに間違っているかということを言いつのります。

こうなると、もう水かけ論です。
もう、止まるところがありません。

たとえ仲良くなったように見えても、
実はどちらかが我慢をしているっていう場合だってあるかもしれません。

実は、ケンカっていうのは、
どちらかが正しくてどちらかが間違っているから起こるのではないんです。

実は、ケンカというのは、
お互いが【真っ直ぐ】だと思っているからこそ、
ケンカが起きるんです。

そして、そのお互いの【真っ直ぐ】というのは、
一人一人違います。

そのことを教祖は、おふでさきの中で、
「親子でも夫婦のなかも兄弟も、みなめいめいに心違うで」
と、教えてくださいました。

もしかしたら、
相手の方から見たら自分の方が間違っているように見えているのではないか、
というふうに気づくこと、
つまり、お互いの【真っ直ぐ】を認め合うこと、
まぁ、百歩譲って、認められなかったとしても、
最低でも理解しようと努力をすること、
これが、とっても大切だと思います。

ですから、どんな場合であれ、
「俺に合わせろ」というのはダメですね。
これはやっぱり、
人間同士の【真っ直ぐ】を主張しているに過ぎないわけです。
合わせている方にストレスが生じます。

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

●「お互いが【真っ直ぐ】だと思っているからこそ、ケンカが起きる」

●「お互いの【真っ直ぐ】を認め合うこと、百歩譲って、認められなかったとしても、最低でも理解しようと努力をすること、これがとても大切」

 肝に銘じておきたい言葉です。

「天の定規」に合わせ合う努力をすることが大切

オーケストラの場合、
「俺に合わせろ」って言える人が一人だけいるんです 。
それは誰かというと、指揮者です。

「ちょっとそこ、音がね、ちょっと大き過ぎるよ」
「もうちょっと、お互いの音を聞き合いましょうよ」
「あなた、もうちょっとそこはね、自分の音を出してイイよ」
こういうふうに言えるのは 、
実は演奏している人じゃなくて、指揮者だけなんです。

陽気ぐらしのハーモニーを奏でる指揮者、
それが「教祖の教え」です。

自分はこう思うんだという、
その自分の【真っ直ぐ】を一回捨ててみて、
「天の定規」にお互いが合わせ合う努力をする。
それが、とっても大切だと思います。

何回も何回も失敗を重ねて、
つまづきながら少しずつお互いの、
自分のまっすぐと「天の定規」との隙間を埋めていく努力、
これをお互いがやっていけば、
そこに喧嘩の起こる余地はないんです。

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

●「自分はこう思うんだという、その自分の【真っ直ぐ】を一回捨ててみて、

「天の定規」にお互いが合わせ合う努力をする。それが、とっても大切だと思います。」

 この価値観が世界に広まれば、世界中の争いが治まっていくだろうに…

などと考えたりします

「天の定規」に沿った【真っ直ぐ】な人の姿が、成程の理を世界に映す

「天の定規」に沿った【真っ直ぐ】というのは美しいんです。
あの人の【真っ直ぐ】は、
他の誰の【真っ直ぐ】より美しくて美しくてカッコイイって、
そういうふうに思っていただける人というのが、
成程の理を世界に映す人なんです。
それが、私たちようぼくの使命であり、
何よりの「にをいがけ」になります。

三代真柱中山善衞様は、
「自分自身の生活態度を教祖の教え通りに正直に実行することが、
何はさておき、私は、これが一番最大最強最高のにをいがけであり、
そしてそれが、また、おたすけへ繋がっていく行為である、
ということを自負していただきたいのであります」
とお述べになりました。

私たち人間の判断は、
つい、自分の好き嫌いや都合に左右されます。

このご逸話は、
日常生活で起こるトラブル解決法を、
定規という、私たちの身近にある道具を例えに出して、
見事に言い表されたものだと思うのです。

ここまで連想を広げることによって、
ようぼくの日常生活に深く関連するご逸話であるということが、
皆様方にも、ぐっと鮮明にお分かりいただけたんじゃないかな、
って思います。

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

「天の定規」に沿った【真っ直ぐ】な行いを求めていく、

それが信仰活動=求道なのでしょうね。
 とても難しいことですが。

教祖の「ひながた」に、私たちの悩みの解決策が必ずある

私たちすべての悩みや苦しみの解決策を、
教祖は「ひながた」に残してくださっています。
困ったときは、ひながたをひも解きましょう。
そこに、必ず解決法があります。

【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐってより)
さまよい人
さまよい人

「困ったときはひながたをひも解きましょう。

そこに、必ず解決法があります」

 茶木谷先生のキラーフレーズですね。

 カッコイイ‼

まとめ

switzerland sunrise mountain
  • 人間が考える【真っ直ぐ】と、神様の【真っ直ぐ】は同じではない

  • 人間の【真っ直ぐ】には限界がある

  • お互いが【真っ直ぐ】だと思って譲らないからこそ、ケンカが起きる

  • 「天の定規」に合わせ合う努力をすることが大切

  • 「天の定規」に沿った【真っ直ぐ】な人の姿が、『成程の理』を世界に映す

以上、
私が視て勉強になった、茶木谷吉信先生による
【逸話篇の世界を旅する】シリーズ1回目・稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」をめぐって
の【YouTube文字起こし】記事をお届けしました。

サラッと読むと読み流してしまうような
『稿本天理教教祖伝逸話篇』の短いお話も、
茶木谷先生の解説を聞いてから改めて読み直すと、
またそれまでとは違った、深い味わいがあります。

最後にもう一度、対象のご逸話、
稿本天理教教祖伝逸話篇31番「天の定規」を掲載しておきます。

31.天の定規

教祖は、ある日飯降伊蔵に、
「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみてくだされ。」
と、仰せになった。
伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。
すると、教祖は、
「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」と、仰せられ、更に続いて、
「隙がありませんか。」と、仰せられた。
伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。
そこで、「少し隙がございます。」とお答えすると、教祖は、
「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うていることでも、

天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」
と、お教え下された。

本当に、勉強になります。
今後も引き続き、
教祖ご逸話について勉強していきたいと思いました。
皆さまも、ともに学んでいきましょう。

ではでは、今回はこのへんで。

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