皆さん、こんにちは。
ふらふら彷徨う「さまよい人」です。
「さまよいブログ」へようこそ。
YouTube文字起こし紹介シリーズ、第4弾いきます。
5月28日に、
天理教養徳社運営「陽気チャンネル」の
茶木谷吉信先生による【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ
《「天の定規」をめぐって》のお話を、【文字起こし】紹介しました。
茶木谷吉信先生の【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズという
『教祖伝逸話篇』解説動画を視ると、
本当に、おやさまのひながたを より深く味わうことが出来るようになります。
今回は、その【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズの中から、
『稿本天理教教祖伝 逸話篇』130番「小さな埃は」のご逸話を土台として
茶木谷先生が語って下さった動画を取り上げます。
私のような 道と世界をふらつき「さまよう」人間だけでなく、
お道の信仰が長く深い方々にとっても、とても勉強になるお話です。
今回も、サクッと 軽くいきたいと思いますので、
ぜひ、最後まで読んでいってください。
今回紹介する動画について
今回、紹介(文字起こし)するYouTube動画は、
「陽気チャンネル」>【逸話篇の世界を旅する】動画シリーズ>
「【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信」
という動画です。
今回の動画は、2020年5月30日にアップされた動画です。
「小さな埃」というご教理をめぐる先人先生の行動を通して、
お道における「誠真実」というものについて 学ぶことができます。
それでは、茶木谷吉信先生のYouTube講義を、
一緒に【文字】で学んでいきましょう。
茶木谷先生による教祖伝 逸話篇「小さな埃は」をめぐるお話紹介
では、茶木谷吉信先生による
「天理教教祖伝 逸話篇130番「小さな埃は」のご逸話から悟る、
かたくなな心を溶かす真実とは」
のご講義を紹介していきます。
『天理教稿本教祖伝 逸話篇』130番「小さな埃は」のご逸話紹介
みなさん、こんにちは。
今日は、 『稿本天理教教祖伝 逸話篇』から、
130番の「小さな埃は」っていう話があるんですけど、
これについて考えていくことにいたします。まずは、このご逸話を味わってみてください。
どうぞ。******************************************
130. 小さな埃は
明治十六年頃のこと。
教祖から御命を頂いて、
当時二十代の高井直吉は、
お屋敷から南三里程の所へ、お助けに出させて頂いた。
身上患いについてお諭しをしていると、先方は、
「わしはな、未だかって悪い事をした覚えはないのや。」
と剣もホロロに喰ってかかってきた。高井は、
「私は、未だ、その事について教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、
今すぐ帰って、教祖にお伺いしてまいります。」
と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いをした。すると教祖は、
「それはな、どんな新建の家でもな、
しかも中に入るらんように隙間に目張りしてあってもな、
十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書けるほどの埃が積もるのやで。
鏡にシミあるやろ。大きな埃やたら目につくよってに掃除するやろ。
小さな埃は、目につかんよってに放っておくやろ。
その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。
その話をしておやり。」
と仰せ下された。高井は、
「有り難うございました」とお礼申し上げ、
すぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に
「ただ今こういうように聞かせていただきました。」
とお取り次ぎした。
すると先方は、
「よくわかりました。悪いこと言ってすまなんだ」
と詫びを入れて、
それから信心するようになり、
身上の患いはすっきりと御守護いただいた。******************************************
このご逸話は、
(【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
どんなに気をつけていても、心にほこりは積もるものだから気をつけましょう。
ささいなほこりだと油断しないで、払う努力を怠らないようにしましょう、
という意味で引用される、大変有名なご逸話です。
心に染み入るご逸話ですね
茶木谷先生は、この動画で、
『稿本天理教教祖伝 逸話篇』130番の「小さな埃は」
のお話をテーマにお話くださいます。
最初、私は、
お道には「八つのほこり」というご教理がありますので、
そこを深堀りするお話かと思って視聴し始めました。
が、今回お話下さる内容は、
「ほこり」のご教理そのものではありません。
「ほこり」の教理をめぐる
先人先生の「誠真実」ということについて、お話くださいます。
ご逸話の主人公「高井猶吉」先生について
登場人物は、高井猶吉さん。
ここで少し、猶吉さんについてご紹介しておきます。猶吉さんは、河内国志紀郡老原村というところのお生まれで、
今の八尾市老原になります。若い頃から、河内とお屋敷を往復する日々を送られました。
当座のお金がなくなると、河内へ戻って少しばかり稼いで、
で、またそのお金を持ってお屋敷に詰める、
という日々を 19歳までお続けになって、
おやさまのご長男、秀司先生から、
わしが食べる一杯のご飯を分けて食べようやないか、
もう河内に、帰らんとき、
と言われてお屋敷に常駐するようになります。
これは、明治13年頃のことです。それからは、
(【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
蒸し風呂の薪割りや、宿泊者のお給仕、畑仕事、買い物などを日課として、
夕方には、止宿届という宿帳みたいなもんですけど、
これを警察に持っていく、
という毎日を送りながら、
常に、おやさまのお側で仕え、親しく仕込みを受けられました。
今回ご逸話の主人公についてです
高井猶吉先生。
正真正銘、本教の道明けを支えた、重鎮の先生ですよね。
検索にて、以下の記事を発見。
天理教高岡大教会サイトのおみちの教え-教祖伝逸話篇というコーナー中の
130. 小さな埃はという記事。
そこに詳しい説明がありました。
多くの方に知って頂きたいので、コピペさせて頂きます。
(高岡大教会様、お借りします。ご了承ください<m(__)m>)
■ 高井猶吉(直吉)について
高井猶吉
高井猶吉は、文久元年(1861)1月19日、
河内国 志紀郡 老原村(現、八尾市老原)の
農家 高井猶右衛門と みのの長男として生まれた。2歳の時の大けがで 足が不自由となり、
祖母は、猶吉に 家代々の農業を継がせず、
13歳の時、桶屋に奉公に出した。明治7年か8年頃、
姉のおなおは 産後の肥立ちが悪く 元に戻らず困っていた。
その頃、河内から大和地方へ塩魚の行商に往来していた人から
大和庄屋敷村の神様の噂を聞いた。
早速、大和の方に向かい 御供えしてお願いしたところ、
2、3日のうちに御守護を頂き、家族一同 信心するようになった。明治12年(1879)猶吉19歳の年、
「ぜいき」と呼ぶ 性悪な感冒がはやり、
村人の中から14、15人死亡者を出した。
猶吉も その感冒に罹った。
この時、家族も懸命に神様にすがり、
河内から大和を遥拝し 祈願した。
すると、間もなく御守護を頂くことができた。
これより 断然 桶屋をやめ、
まだ見ぬ 大和の神様のもとへ 御礼詣りに行った。その後、1年の半分は 老原で桶職で稼ぎ、
あと半分は おやしきへ参拝し、おやしきの御用を勤めた。
当時おやしきは、官憲の厳しい迫害干渉の中にあった。
また、経済的不如意の時代でもあった。
秀司は、信者が警察の監視の中でも参拝できるよう、便法として、
明治9年頃から 蒸風呂兼宿屋業を経営した。猶吉は、河内には別段用事もないので おやしきに滞在して、
宮森与三郎(当時は岡田与之助)とともに、
毎日の泊り客(即ち信者)の食事などを手伝い、
夜は 宿泊人の止宿届けを丹波市警察署へ 届けに行った。
1日の仕事が片づくと、
教祖(おやさま)の御前に行って、1日の出来事を報告し、
教祖のお話を聞かして頂いた。明治13年、猶吉20歳の年から、
おやしき住み込み青年 第1号として、
宮森与三郎と共に、おやしきに住み込むことになった。
猶吉は、素直、正直、無口、誠実に よく働いた。
おぢばでは 道の先輩から 深く教理を学んだ。明治16年3月、教祖の命を受けて、
猶吉は、宮森与三郎、井筒梅治郎、橘善吉らと
静岡県山名郡広岡村の諸井国三郎(後の山名大教会初代会長)
の天輪講(後に遠江真明講と改称)を訪ねた。
道の理を伝え、「てをどり」の稽古をつけた。またこの年、
既に、明治8年頃から庄屋敷村、三島村で信仰していた人達が、
天元(てんげん)講を結び、16年、安達秀治郎を講元に選んだ。
猶吉は、庄屋敷村の北田嘉市郎宅に寄寓しておやしきへ運んでいたので、
傍ら 天元講の世話取りに当たり、講勤めの後、神様の話を取り次いだ。同じ明治16年の5月、
中之庄村(現、天理市中之庄町)の沖田源太郎の娘ふじ(当時13歳)が重病を患い、
源太郎の妻は 庄屋敷村の城(じょう)の家の出であるところから、
城家より 教祖に おたすけを願いに来た。
教祖は 猶吉を中之庄へ遣わし、猶吉のおたすけによって 娘は助かった。
中之庄村の人々も たすけをうけ、講社ができた。
この年、天元(あまもと)組(=読み方が異なる)が結成され、
翌 明治17年、森川重太郎が講元となった。
明治25年、天元組は 奈良支教会所となった。猶吉は、明治17年3月2日、教祖より「息のさづけ」を頂いた。
この日の前夜、猶吉は 夢を見た。
翌日、教祖に夢の様子を申し上げると、
「まだ早いと思うたけど、先に渡しておく。結構な徳を頂くのやで」
と仰せになって、息のさづけをお渡しになった。
また、お召しになっていた赤衣を脱いで
山澤ひさの手を経て、その赤衣をお渡しになった。
その時、
「おたすけに行く時は、この赤衣を身につけて行くのやで。
お前は まだ若い。赤いものを着て歩くのは恥ずかしかろうから、
懐に入れて持って行き、おさづけを取り次ぐ時に着て、取り次ぐように。
その時は、月日の名代やで」
と仰せになった。
こうして猶吉は、教祖からじかに仕込みを受け、
後々、教祖の話をそのまま伝えた。「教祖から聞かせて頂いた話を、わしは 何回でも同じ話をする。
自分の考えや、勝手な言い廻しは 一言も入っていない。」
と語った。明治21年、猶吉28歳の年、神道天理教会が公認され、
7月、おぢばに 天理教会本部が開設された。
猶吉は、教会本部庶務掛、明治25年派出掛拝命。
明治31年に、泉支教会所3代会長、
34年には 堺支教会所事務取扱、
40年には 高知県所在教会組合長、愛媛県・三重県などの組合長を歴任。
明治41年12月 天理教会本部役員、
43年 高知兼徳島教務支庁長、
大正8年には 京都・滋賀・福井・石川・富山の各教務支庁長を拝命。
かずかずの重責を果たした。
晩年、数少い息のさづけ拝戴者の一人として、
お息の紙を作るうえに、老躯を鞭打ち、つとめきった。昭和16年(1941)
81歳の出直しの前日まで 増井りんと共に、
和紙に 一日に4,000枚ほど息をかけた。
11月21日、人々に惜しまれながら出直した。〔参考文献〕高井猶久編『高井家資料』(1991年)。
(天理教高岡大教会>おみちの教え-教祖伝逸話篇>130. 小さな埃はより)
教祖ひとすじに歩んだ81年の生涯であったことが、よく伝わってきます。
現代におけるお道の隆盛は、世間から白眼視されていた不遇の時代にも、
このようにして、一筋心で変わることなくお通り下された
先人先生方の尊い誠真実の伏せ込みの上に成り立っている、ということを忘れてはならない。
改めてそう思いました。
「私は聞かせて頂いておりませんのですぐお伺いしてまいります」というご態度
さて、ご逸話に戻りましょう。
南へ三里の所へ、おやさまの御命でおたすけに行かれた、
とあります。
おぢばから南へ三里、つまり12キロです。
まぁ、これはどのあたりになるのか。
おぢば近くにお住まいの方はお分かりになるでしょうけれど、
結構、この12キロっていうのは、遠いんです。
車で結構走ったところに、JR桜井駅というのがありますけど、
そこでもまだ、11キロなんです。もっと南です。このご逸話の中で、当時20代って書いてありますけれど、
正確には、
この高井猶吉さんは文久元年 1861年生まれですから、
明治16年だと、満22歳。
本当に、若い盛りだったんです。
猶吉さんは、一度聞いた話は決して忘れなかった、
ということです。すっかり丸ごと暗記しておられたおやさまのお話を、
「をしいと申しますは…」「ほしいと申しますは…」と、
心のほこりのお話を、
おやさまからお聞かせいただいた通りに、
忠実に取り次がれたのだと思います。ところが、ご逸話では、取り次いだ先方は、
「私は悪い心を使ったことはない!」と怒るわけです。
これは、実は、現代でもよくあることなんです。
例えば、私が悩み事の相談を受けている時に、
「あいつが悪い、 あいつのせいだ」
と繰り返される方がおいでになります。そこで、
もしかしたらあなたにも原因があるんじゃないですか、
といった途端に、
「私が悪いと言うんですか!」と言って、怒鳴られる、
という経験は、私は、何度もいたしました。この逸話に出てくる人も、
自分は悪くない、と思っておられたわけです。
病気を拝んで、治してくれたら、それでいいんです。しかし、猶吉さんは、その方の文句をお聞きになった後、
今すぐ帰っておやさまに聞いてきます、と言って、
健脚を飛ばし 12キロの道のりを、走って帰られたんです。そして、おやさまから聞かせていただいたお話を、
すぐと三里の道を取って返して、その人に聞かせたかったのでしょう。帰りも走られたとしたら、往復24キロのランニングです。
(【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
ハーフマラソンより長い距離です。
高井猶吉先生の誠実さがしみじみ感じられる史実ですね
おやさまのお話、ほこりの話を取り次いだところ、
「私は悪い心を使ったことはない!」
と、逆ギレされた。
そこで、普通なら、
「そういう態度がダメなんですよ!」
と、それを押さえつけたくなるところ。
しかし、高井猶吉先生は、
決して自分を押し通そうとせず、
「私は、未だ、その事について教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、
今すぐ帰って教祖にお伺いしてまいります。」
と言って、すぐさまおやしきへ三里の道を走って帰って行かれた。
自分が…自分が…、という意識が強かったならば、
決してこのような行動には至らないでありましょう。
この史実から、
高井猶吉先生は、
あくまで自分はおやさまのお取次ぎをする者である、
という強い自覚をお持ちであられたことがわかります。
こうした表現が適切かどうかはわかりませんが、
私はここに、究極の「謙虚さ」を感じます。
信仰は、深まれば深まるほど、
自然と「謙虚」さをまとうようになるものなのかもしれない。
高井猶吉先生の行動を通して、そのようなことを思ったりもします。
かたくなな心を溶かす誠真実とは
おたすけ先の方、驚かれたと思います。
もう帰ってきたのか。
もしかしたら、ちょっと怒ってみせて、
飛んで帰ったから、厄介払いができた、
ぐらいに 思っていたかもしれない。
それが、往復走って、
なお、おやさまは こうおっしゃいました、
と話の続きをするんですから、
その勢いと真実に驚かれた、と想像するんです。このご逸話を読んで、私はこう思いました。
(【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
「よくわかりました。悪いこと言ってすまなんだ」
という言葉は、
なるほど、9割は おやさまの教えに感銘して出た言葉には違いない。
しかし、残る1割は、
この猶吉さんの、まぁ 言ってみたら、
馬鹿正直な、まっすぐな心が言わせたのではないか。
息をハーハー切らしながら、ただいまこのように聞かせて頂きました、
と目の前で自分に告げているこの青年、
ひたむきにおやさまを慕い、
自分のたすかりを願って、往復の道のりを走って来てくれたこの青年、
その誠真実の行動に感銘した、
それゆえの言葉ではなかったのでしょうか。
高井猶吉先生の誠真実が
かたくなな相手の心を溶かしたのですね
私はこれまで、この『教祖伝 逸話篇』130番のお話からは、
「ほこり」のご教理の部分のみに着目していたような気がします。
茶木谷先生の『逸話篇』解説講義を視聴して、
このご逸話からは、「ほこり」のご教理の教訓と共に、
かたくなな相手の心を溶かす誠真実というのはどのようなものであるのか
という教訓をも学び取れる、
ということを教えられました。
おやさまのご逸話を学ぶ際には、
史実そのもののからの表面的な学びで満足することなく、
その周辺の状況や背景、登場人物の人間関係等までにも視野を広げることを意識する、
そうすることで、もっと深く掘り下げた学びを得ることができる、
そのことを教えられました。
ご逸話に関連した茶木谷吉信先生の体験談
私は、教会長の御命を拝命してから、もう36年が経ちます。
この間、いつも誰かのガンと向き合っています。
今も、2人のガンと向き合っています。
それほどに、ガンという病気を、
私の周りにはたくさん見せていただいています。今では治癒率もかなり高くなっていますけれど、
私がまだ若い当時のこととて、
出会ったがんの患者さんが、
悲しいことに 次々次々お出直しになります。
つまり亡くなるんです。通っても通っても、ガンの病人さんを次々に見送るだけ。
まぁ、そのほとんどの方は、お亡くなりになったわけですから、
自分は何をしにここに通っているんだろう、
と病院の駐車場で考え込んだことも数知れません。そんな時、教会本部のある先生の講話を拝聴する機会がありました。
その先生は、こういうふうにおっしゃいました。******************************************
皆さん、病院に行って、何度通っても、
ガンは助からないですよね。
でも、毎日おさづけを取り次ぎにいきますよね。
本当はね、家族だってあきらめているんですよ。
でも、必ずたすけていただけます、といって、それを信じて、
車で行っては効能がない、毎日足を棒にして歩いてきたり、
断食をしてみたり、あるいは水をかぶったりして通いますよね。
そして、ついに命が尽きると土下座をして、
私の真実が足りませんでした、と泣いてお詫びしますよね。家族ですら諦めているのに、この人は一生懸命助かりを願ってくれている、
死んだら自分のせいだと、泣いて詫びてくれている。
その真実が、家族の心を動かすんです。
そこから、別席を運んでくれる方も生まれてくる、
なんてことはよくあることなんです。******************************************
私は、そのお話を聞きながら、落ちる涙をぬぐうのも忘れて、
ただ、ありがたく聞き入っていました。
❝あの時の会長さんの真剣なまなざしが忘れられません、
会長さんが毎日通ってくださったその真実が忘れられません❞
…その熱のこもった行動が、人の心を揺り動かすのだと思います。そして、固く閉ざされていた心の扉が、ほんの少し開く。
(【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
そこから、神様の理の話がスーッと入っていって、
その人の御守護につながるのだと思います。
全身全霊込めておたすけ活動に当たられている先生のお言葉には、
重みがありますね
世間並みの通り方しかできていない「さまよい人」は、
こうした、気高く純粋なお道のお話を前にすると、
改めて自分自身の「低俗さ」に直面させられて、
お恥ずかしながら、気おくれしてしまう、というのが正直なところです。
私は、断食したり水をかぶったり土下座をしたり…
といった命がけのおたすけ活動とは無縁な、
世俗的な通り方しかできていない 彷徨う人間です。
そのような、どこまで行っても凡俗な彷徨い人ですが、
ただ落ち込むだけでは能がありません。
凡庸な人間でも、
せめて、自分の周りの人の「たすかり」を願うことぐらいはできる、
と自分に言い聞かせ、気を取り直したいと思います。
おやさまの教えを、「身の丈に合った」サイズで自身の生活に活かしていきたい。
それが、今の私の思いです。
心を開いて頂くための真実こそが、おたすけに臨む姿勢
一言のにをいがけは、人の運命を変える。
それは、親の声を聴く時、心の向きが変わるからである。
と、三代真柱様は 教えてくださいました。まずは、心を開いて頂かないと、
その 親の声を聞いていただくことすらできません。
そのための真実こそが、
私たちようぼくの、おたすけに臨む姿勢だと思います。さあ、今日も元気を出して、おたすけに出かけましょう。
私たちすべての悩みや苦しみの解決策を、
おやさまは、ひながたに残してくださっています。困った時は、ひながたをひも解きましょう。
(【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)
そこに必ず、解決法があります。
今回の動画の結論ですね
「困った時はひながたをひも解きましょう
そこに必ず解決法があります」
出ました‼
茶木谷先生のキラーフレーズ!
素晴らしい言葉ですね。
道の歩みに行き詰まりを感じたら、
この【茶木谷フレーズ】を思い返すようにしたいと思います(笑)
結論
- 一言のにをいがけは、人の運命を変える。
それは、親の声を聴く時、心の向きが変わるからである。
- しかし、そのためには、まずは心を開いて頂かないと、その親の声を聞いていただくことすらできない。
- 相手に心を開いて頂くための真実こそが、
ようぼくに求められるおたすけに臨む姿勢である。
- 稿本天理教教祖伝 逸話篇130番「小さな埃は」における高井猶吉先生のご逸話は、
かたくなな心を溶かすのは、おやさまにもたれきった真実の姿であることを示している。
以上、私が視て勉強になった、
茶木谷吉信先生による
(「陽気チャンネル」【逸話篇の世界を旅する2】130番「小さな埃は」講師 正代分教会長 茶木谷吉信より)のYouTube文字起こし紹介記事を、
サクッとお届けしました。
最後にもう一度、今回勉強したおやさまのご逸話、
『稿本天理教教祖伝 逸話篇』130番「小さな埃は」
を 掲載しておきます。
130. 小さな埃は
明治十六年頃のこと。
教祖から御命を頂いて、
当時二十代の高井直吉は、
お屋敷から南三里程の所へ、お助けに出させて頂いた。
身上患いについてお諭しをしていると、先方は、
「わしはな、未だかって悪い事をした覚えはないのや。」
と剣もホロロに喰ってかかってきた。
高井は、
「私は、未だ、その事について教祖に何も聞かせて頂いておりませんので、
今すぐ帰って、教祖にお伺いしてまいります。」
と言って、三里の道を走って帰って、教祖にお伺いをした。
すると教祖は、
「それはな、どんな新建の家でもな、
しかも中に入るらんように隙間に目張りしてあってもな、
十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書けるほどの埃が積もるのやで。
鏡にシミあるやろ。大きな埃やたら目につくよってに掃除するやろ。
小さな埃は、目につかんよってに放っておくやろ。
その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。
その話をしておやり。」
と仰せ下された。
高井は、
「有り難うございました」とお礼申し上げ、
すぐと三里の道のりを取って返して、先方の人に
「ただ今こういうように聞かせていただきました。」
とお取り次ぎした。
すると先方は、
「よくわかりました。悪いこと言ってすまなんだ」
と詫びを入れて、
それから信心するようになり、
身上の患いはすっきりと御守護いただいた。
サラッと読むと読み流してしまうような『稿本天理教教祖伝 逸話篇』の短いお話も、
茶木谷先生の解説を聞いてから改めて読み直すと、
またそれまでとは違った、深い味わいがありますね。
本当に、勉強になります。
これからも、おやさまのご逸話について勉強していきたいと思います。
「困った時はひながたをひも解きましょう そこに必ず解決法があります」
という、茶木谷先生のキラーフレーズを思い返しながら。
ではでは、今回はこのへんで。
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