Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
前回から、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』という本の中の「おふでさき」の口語訳文を【通して】記載することを始めました。
短歌調で書かれた「おふでさき」を、【散文】で読み物風に「通して」読んでみる、
ということを通して、
今まで見えていなかった「おふでさき」景色の見え方が広がること、それを期待した企画であります。
前回にも記して、その繰り返しになりますが、
芹澤茂先生の『おふでさき通訳』口語訳文を書写するにあたっては、
「おふでさき」原文を記載しそれと対比させる形で口語訳文を記載する、というやり方では、
「おふでさき」を読み物風の散文として味わいたい、
という目的を今一つ達成しづらい感じがします。
なので、
「おふでさき」原文は一切記載せず、
ひたすら芹澤茂先生の口語訳文のみを書写、書き連ねていきます。
前回、「おふでさき」【第一号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第二号】口語訳を書写します。
では、いってみましょう。
芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
今回は、「おふでさき」【第二号】の口語訳を書き写します。
「おふでさき」【第二号】口語訳 書き写し
【第二号】
(明治貮巳年三月 七十貮才老女)
「これからは往還の道を付けかける。
(そうして)世界の心をみないさめる(のである)。」
(1)「上たる者は、心がいさんでくるから(よく注意していよ)。
何どきに来る(かと言っている間に)刻限が来た(というように、すぐ来る)。茶を摘んであとを刈り取ってしまったなら、そのあとへ出るのは(幼木であろう。
農事が一段落したら)よふきづとめ(にかかるの)だ。(皆がいさんでつとめる)このつとめ(によって)どこから心いさんで来るかと思うだろうが、上たる者がいさんでくる。」
(2~4)「だんだんと、神の守護(働き)というのは、珍しいことを仕掛けていく。
この日々の急込みの心を何と思っているのか(、一人として考えてみるものは居ないのか)。
(珍しいこととは身上・事情であるが)何が起きても、(世界並の)病や痛みではない。
みんな神の急込みでありてびき(手引き)である。なぜ急込んでいるかと言えば、つとめの人衆がほしいからである。」
(5~8)「このつとめを何のことと思っているのか。
よろづたすけのもよう(段取り)である。この(つとめによる)たすけは、今ばかり(その場だけ)のたすけと考えるな。
これは末代のこふき(こうき)となるものである。」
(9~10)「ちょっと話(する、よく聞け。
世間の人は)のぼせとか、かんてきとか言っているが、(ただの)病ではない。
神の急込み(を知らせている)。だんだんと心を尽くして神一条(神の話)を説いて聞かせているのに、まだわからない(のか)。」(11~12)
「早く表へ出ようと思うけれど、道がなくては出るに出られない。
この(表へ出る)道を早く付けようと思っても、ほかの所からでは付けれない。(神の急込んでいる)この道を本当に思ってくれるなら、胸の内から万事を思案せよ(、そしてしっかりした信心の心を定めよ)。
この話は何のことかと思うのは無理もない。
神の“打ち分け場所”を急込んでいるのである。この道がちょっとでも見えかけたならば、世界(の人々)の心がみないさみ出て来る。」
(13~17)「なんでも神の言うことはしっかり聞け。
屋敷(お屋敷)の掃除が出来上がったならば、
———(この掃除は)横目をつかう暇もないくらい直ぐに現われて、夢のようにほこりが散るのだ———
このほこりをすっきりと払ったならば、その後はよろづのたすけ一条である。(それ故、)この先はだんだんつとめを急込んで、よろづたすけの段取りばかり(急がれる)。」
(18~21)「世界中(うちもせかいも)どこが病気だ、ここが痛むと言っているが、みな神のみちをせ(道教え)てびき(手引き)であることを知らない。
この世に(人間の考えているような)病はない。
身の内(体)の障り(病気)はよく思案せよ。日々に神の急込み(であるつとめによる)このたすけを、みなの者は何と思っているのか。」
(22~24)「高い山の(静かな)池に湧き出た水で(澄んだ水で)あるけれど、(流れ出る)出端は(勢いよく土を流すため)濁って、ごもく(芥)混りである。
(人間の心も元々は綺麗なものであるから、今は濁っていても)だんだんと心を静めて思案するとき、澄んだ水のように綺麗に変わってくる。」
(25~26)「山の中の水(せかいの人々の心)の中に入り込んで、どんな水でも(元のように)澄ましてしまう。
(心を澄ました後は)日々に心を尽くし胸を治めて通るならば、末は頼もしい(道がある)。
これからは、高山の池(人の心)に飛び入り、どんなごもくも掃除する。
ごもくさえすっきり出してしまえば、あとの水は澄んでしまう。」
(27~30)「これからはからとにほんの話をする。
何を言おうとしているのかは、直ぐには分からないであろう。とうじん(からの者)がにほんのぢ(地)に入込んでままに(自由に)するのが神のりっぷく(の元)である。
(それ故、)だんだんとにほんを扶ける段取りをして、とうじんを神のままにする。この先は(その段取りとして、)からとにほんをわけて(布教伝道して)いく。
これがわかったら世界が治まる。」
(31~34)「今までは上たる者の心がわからない(真実がわかっていない)ので、(また、その上に従うせかいの者も教祖のしていることを)世界並のものと思っていた。
これからは神が体内に入込んで(そのような)心をすっきりとわけて(真実をわからせて)みせる。」
(35~36)どんなに多くの人が来ても案ずることはない、神が引き受ける。
(そうしてやがてかんろだいが据えられて将来)“珍しいこの世初めの(証拠の)かんろだい”(と言われるようになり、)これが(基になって)にほんの治まりとなるのである。」
(37~39)「高山に火と水(神の働き)が(今から神の眼には幻として)見えているが、誰の眼にもこれが見えないか。
だんだんとどんな話も説き聞かしてある。
(神の眼には)確かなことが見えているから(である)。
仕合わせが良くなりたいと言って(たすけて貰いに出て来たのであろう。
それならよく話を聞け、そうすれば)十分身についてくる(仕合わせになれる)。この(将来に見えてくる)話を楽しんでいよ。」(40~42)
「なにもかも強欲を尽くすなら、その結果、神のりっぷくが見えて(現れて)くる。
だんだんと十五日より見えかける。
善と悪とはみな現れる。この話は、どこの(誰の)こととも言わない。
見えてきたならばみな得心をせよ。」
(43~45)「高山のにほんの者ととうじんとをわけるもよう(段取り・手段)も、これもはしら(かんろだい)(に関連がある)。
(また、)とうじん(からの者)とにほんの者とをわけるのは(どうするかというと、)火と水(神の働き)を入れてわける。」
芹澤茂著『おふでさき通訳』P,45~63
(46~47)
「から」と「にほん」
というのは、口語訳だけだとよく分からないところです。
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』の中に分かりやすい解説が書かれてありましので、
以下に書き写しておきます。
「からとにほん」は、
「なにをゆうともハかりあるまい」(三一)と仰せられるように、理解するのが大変難しい言葉であります。
もとより、唐の国、日本の国という国土的な認識と混同すべきではなく、深い信仰の意味で理解されるべきです。
信仰の上で、この例えを理解するには、「こふき話」と呼ばれる人間元初まりの話を基本にするのがよいと思います。
「こふき話」には、人間が三尺から五尺に成人する間に、天地、海山がはっきり分かりかけ、最初、大和(奈良県地方)に産みおろされた人間は日本の地に上がり、次に大和以外のところに産みおろされた人間は、食物を求めて唐(中国大陸)や天竺(インド)の地に上がった、という話があります。
もちろん、そのころに現在のような国境があったわけではありませんし、人種や国籍の区別ももちろんありませんでした。
したがって、「にほん」とは最初に親神の思召を聞き分けるところ、「から」とはその次に聞き分けるところ、という意味に悟ることができます。
親神の思召を聞き分けず、心がむなしい(カラ)人間が「から」とも悟れます。
このように悟ると、あとに出てくる「にほんのもの」(四六)とは、ぢばのある日の本の庄屋敷に早く帰ってきて、親神の思召を聞き分けて親神のご用を勤める者、「とふぢ(じ)ん」とは、まだまだ親神のみ心からは遠い人のことであるようにも悟れます。
(矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』P,58~59)
「日々に寄って来る人に断りを言えば、だんだんになお慕い寄る。
どんなに多くの人が来ても案ずることはない、神が引き受ける。
(そうしてやがてかんろだいが据えられて将来)“珍しいこの世初めの(証拠の)かんろだい”(と言われるようになり、)これが(基になって)にほんの治まりとなるのである。」
(37~39)「高山に火と水(神の働き)が(今から神の眼には幻として)見えているが、誰の眼にもこれが見えないか。
だんだんとどんな話も説き聞かしてある。
(神の眼には)確かなことが見えているから(である)。
仕合わせが良くなりたいと言って(たすけて貰いに出て来たのであろう。
それならよく話を聞け、そうすれば)十分身についてくる(仕合わせになれる)。この(将来に見えてくる)話を楽しんでいよ。」(40~42)
「なにもかも強欲を尽くすなら、その結果、神のりっぷくが見えて(現れて)くる。
だんだんと十五日より見えかける。
善と悪とはみな現れる。この話は、どこの(誰の)こととも言わない。
見えてきたならばみな得心をせよ。」
(43~45)「高山のにほんの者ととうじんとをわけるもよう(段取り・手段)も、これもはしら(かんろだい)(に関連がある)。
(また、)とうじん(からの者)とにほんの者とをわけるのは(どうするかというと、)火と水(神の働き)を入れてわける。」
芹澤茂著『おふでさき通訳』P,45~63
(46~47)
「おふでさき」【第二号】は、「47首」と短いですね。
以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第二号、口語訳の書き写しでした。
「おふでさき」【第二号】の概要
次に、前回同様、
「おふでさき」【第二号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第二号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より
【第二号について】
第二号は第一号に引き続いて、同じ明治二年の三月から書かれました。
内容の上では、
第一号に続いて屋敷の掃除をし、澄んだ屋敷でよろづたすけのつとめが行えるように準備・段取りを進める思召が大前提として挙げられ、
お話を進めていく中で、高山や上、また水を澄ますといった例え話が、史実とからめて説かれています。第一号とともに、おふでさき全体の要点となる事柄が述べられています。
(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,45)
【第二号】は、
第一号と共に「おふでさき」全体の要点となる事柄が述べられているのですね。
上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より
【第二号の概要】
往還道をつけて、世界の心を勇ませると宣べ、
この往還道の根本になるのは陽気づとめであり、このつとめこそ、よろづたすけをもたらすものであると教えられる。また身上を通してのつとめ人衆の引き寄せ、布教伝道とその拠点たる打ち分け場所を急き込む旨を仰せられる。
さらに、高山の人心を浄化することを宣言され、からとにほんのたとえを用いて、これを分けることによって世界を治めると仰せになっている。
これについては、火と水をもってすること、また、かんろだいがこれに与ると述べられる。
(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,43)
【第二号】で、往還道の根本になるのは陽気づとめであり、「つとめ」こそよろづたすけをもたらすものである、と教えて下さっているのですね。
改めて、この上なく重要な人類救済手段として「つとめ」を位置づけておられたことが伝わってきます。
関連動画の紹介
前回も紹介しましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
「語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第二号に関係する動画のリンク、
前回に続き、今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)
現代訳で聞く、おふでさき02 1~47 (https://www.youtube.com/watch?v=qJa0PUAVndY)
改めて「おふでさき」【第二号】を散文で読む(括弧書きも外して)
「おふでさき」【第一号】を散文化した前回の記事で、
最後に、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
改めて、
芹澤茂先生の著作内で記されていた括弧( )や「おふでさき」番号等もすべて外して、
完全な「散文」にしたものを置きました。
それは、
“「おふでさき」を散文で味わう”
という目的を達成するのに、非常に有益なものであるように、
私には映りました。
なので、
今回も、最後に、
芹澤茂先生の著作内で記されていた括弧( )や「おふでさき」番号等もすべて外して、
完全な「散文」にしたものを置いておきたいと思います。
「おふでさき」【第二号】散文(芹澤茂先生訳)
「おふでさき」【第二号】口語訳(芹澤茂先生)
(明治二年三月 教祖七十二才)
これからは往還の道を付けかける。
そうして、世界の心をみないさめるのである。
上たる者は、心がいさんでくるからよく注意していよ。
何どきに来るかと言っている間に刻限が来た、というように、すぐ来る。
茶を摘んであとを刈り取ってしまったなら、そのあとへ出るのは幼木であろう。
農事が一段落したら、よふきづとめにかかるのだ。
皆がいさんでつとめるこのつとめによって、どこから心いさんで来るかと思うだろうが、上たる者がいさんでくるのである。
だんだんと、神の守護、働きというのは、珍しいことを仕掛けていく。
この日々の急込みの心を何と思っているのか、一人として考えてみるものは居ないのか。
珍しいこととは身上・事情であるが、何が起きても、世界並の病や痛みではない。
みんな神の急込みでありてびき、手引きである。
なぜ急込んでいるかと言えば、つとめの人衆がほしいからである。
このつとめを何のことと思っているのか。
よろづたすけのもよう、段取りである。
このつとめによるたすけは、今ばかり、その場だけのたすけと考えるな。
これは末代のこふき(こうき)となるものである。
ちょっと話する、よく聞け。
世間の人は、のぼせとか、かんてきとか言っているが、ただの病ではない。
神の急込みを知らせている。
だんだんと心を尽くして神一条、神の話を説いて聞かせているのに、まだわからないのか。
早く表へ出ようと思うけれど、道がなくては出るに出られない。
この表へ出る道を早く付けようと思っても、ほかの所からでは付けれない。
神の急込んでいるこの道を本当に思ってくれるなら、胸の内から万事を思案せよ、
そしてしっかりした信心の心を定めよ。
この話は何のことかと思うのは無理もない。
神の“打ち分け場所”を急込んでいるのである。
この道がちょっとでも見えかけたならば、世界の人々の心がみないさみ出て来る。
何でも神の言うことはしっかり聞け。
屋敷、お屋敷の掃除が出来上がったならば、
———この掃除は横目をつかう暇もないくらい直ぐに現われて、夢のようにほこりが散るのだ———
このほこりをすっきりと払ったならば、その後はよろづのたすけ一条である。
それ故、この先はだんだんつとめを急込んで、よろづたすけの段取りばかり急がれる。
世界中、うちも世界もどこが病気だ、ここが痛むと言っているが、みな神の“みちをせ”=道教え、“てびき”=手引きであることを知らない。
この世に人間の考えているような病はない。
身の内、体の障り、病気はよく思案せよ。
日々に神の急込みであるつとめによるこのたすけを、みなの者は何と思っているのか。
高い山の静かな池に湧き出た水で、澄んだ水であるけれど、流れ出る出端は勢いよく土を流すため濁って、“ごもく”=芥混りである。
人間の心も、元々は綺麗なものであるから、今は濁っていても、だんだんと心を静めて思案するとき、澄んだ水のように綺麗に変わってくる。
山の中の水=世界の人々の心の中に入り込んで、どんな水でも元のように澄ましてしまう。
心を澄ました後は、日々に心を尽くし胸を治めて通るならば、末は頼もしい道がある。
これからは、高山の池=人の心に飛び入り、どんな“ごもく”=芥も掃除する。
“ごもく”=芥さえすっきり出してしまえば、あとの水は澄んでしまう。
これからは、からとにほんの話をする。
何を言おうとしているのかは、直ぐには分からないであろう。
“とうじん”=からの者がにほんの地に入込んで、ままに、自由にするのが神の立腹の元である。
それ故、段々とにほんを扶ける段取りをして、“とうじん”=からの者を神のままにする。
この先は、その段取りとして、からとにほんをわけて布教伝道していく。
これがわかったら世界が治まる。
今までは、上たる者の心がわからない、真実がわかっていないので、また、その上に従うせかいの者も教祖のしていることを世界並のものと思っていた。
これからは、神が体内に入込んで、そのような心をすっきりとわけて真実をわからせてみせる。
日々に寄って来る人に断りを言えば、だんだんになお慕い寄る。
どんなに多くの人が来ても案ずることはない、神が引き受ける。
そうして、やがてかんろだいが据えられて、将来、“珍しいこの世初めの証拠のかんろだい”と言われるようになり、これが基になって、にほんの治まりとなるのである。
高山に“火と水”=神の働きが、今から神の眼には幻として見えているが、誰の眼にもこれが見えないか。
段々とどんな話も説き聞かしてある。
神の眼には確かなことが見えているからである。
仕合わせが良くなりたいと言ってたすけて貰いに出て来たのであろう。
それならよく話を聞け、そうすれば十分身についてくる、仕合わせになれる。
この、将来に見えてくる話を楽しんでいよ。
何もかも強欲を尽くすなら、その結果、神の立腹が見えて、現れてくる。
だんだんと十五日より見えかける。
善と悪とはみな現れる。
この話は、どこの、誰のこととも言わない。
見えてきたならば、みな得心をせよ。
高山のにほんの者ととうじんとをわける“もよう”=段取り・手段も、これも、“はしら”=かんろだいに関連がある。
また、“とうじん”=からの者と、にほんの者とをわけるのはどうするかというと、“火と水”=神の働きを入れて分けるのである。
以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第二号】口語訳書写の繰り返しになりましたが、
芹澤茂先生が著作内で記されていた括弧( )や「おふでさき」番号をすべて外し完全な「散文」にしたものでした。
「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
これは、散文化して終わりではなくて、
むしろ、散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、折に触れて読み返すことが肝要な気がします。
機会を見つけて読み返して、
そこに籠められた神様の思いが少しでも感じられるよう努めたいと思います。
ということで、
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第二号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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