Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号38番「深川大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号39番「浅草大教会」について勉強します。
- 浅草大教会(あさくさ だいきょうかい)
- 上原佐助 東初代による 東京・吉原布教(明治18年頃)
- 浅草大教会初代会長 加藤新兵衛の入信(明治20年頃〜明治21年)
- 浅草講社の発展(明治21年頃)
- 浅草支教会の開設(明治22年頃〜明治25年)
- 加藤新兵衛 初代会長の出直し(明治32年)
- 宮内初太郎の生い立ち(嘉永4年〜明治19年頃)
- 宮内初太郎の入信(明治19年)
- 宮内夫妻の布教活動(明治21年〜明治25年頃)
- 浅草支教会と宮内初太郎(明治25年頃〜明治32年頃)
- 宮内初太郎の2代会長就任(明治32年)
- 宮内初太郎2代会長の信仰生活(明治32年〜大正3年)
- 宮内初太郎2代会長の出直し(大正3年)
- 内山(宮内)浅之丞の生い立ち(明治19年〜明治44年頃)
- 宮内浅之丞の3代会長就任(大正3年)
- 関東大震災からの復興(大正12年〜大正14年頃)
- 浅草の道の広がり〜大教会への昇格(大正15年頃〜昭和15年)
- 太平洋戦争前後(昭和16年頃〜昭和23年頃)
- 創立60周年記念祭前後(昭和26年〜昭和28年頃)
- 宮内満麿4代会長就任〜創立80周年記念祭(昭和33年〜昭和47年)
- おわりに
浅草大教会(あさくさ だいきょうかい)
上原佐助 東初代による 東京・吉原布教(明治18年頃)
明治18年(1885) 東京布教を志して上京した後の
東大教会 初代会長・上原佐助によって拓かれた「東京の道」は、
最初、下谷金杉、続いて 竜泉寺町を中心に、
波紋のように八方へ広がった。(その流れで)
最も近い浅草の吉原へ伝道の歩が進められたのは、
至極 当然のことであった。浅草の吉原といえば、
江戸時代から伝統の花柳の巷として、
誰知らぬ者はない名所の一つ。その華やかさ、その賑わいは、
人の口の端に乗らぬ日とては無かったが、
一たびその裏面をうかがうと、
そこには、
いわゆる「生き地獄」の姿が まざまざと浮び上がってくるのであった。(そこでは)
果て知らぬ 遊女らの苦悩が繰り展げられ、
中でも
健康を損ねた者のみじめさは 言葉にならない程であった。(そのような者たちは)
暗くて狭い部屋に投げ込まれたまま 碌な手当も加えられず、
殆どが 死を待つばかりの悲惨を極めたのであった。上原佐助は
いち早く この谷底の人々の救済に熱意を注ぎ、
布教者として 足繁く出入りした。
(そうこうするうちに)
ふとした事から道が付き、
付いた道は、急速に 廓の内に広がり始めた。(そして)
大野伝兵衛、赤尾吉蔵、村松万蔵、今井元治郎、宮内初太郎、原田きや等の人々が、
不思議な救けに導かれて 熱心な信仰者となっていった。
浅草大教会初代会長 加藤新兵衛の入信(明治20年頃〜明治21年)
浅草の初代会長 加藤新兵衛は、
新吉原京町1丁目の遊女屋「中米楼」の店員の出であった。主人・赤倉藤吉から分店「勝中米楼」を許され、
江戸町1丁目に開業していたが、
明治16年に妻を失い、
ほどなくして 2度目の家内を迎えた喜びも束の間、
明治20年夏から 重い脚気を患い、
遂には 腰が立たぬようになった。こうした不幸な年も暮れて
翌(明治)21年 春もまだ浅い2月、
たまたま 同じ町内の寿司屋・伊勢元こと 扇谷常吉の導きにより、
当時 既に広まっていた 天理教の話を耳にした。(その後「勝中米楼」楼主の加藤新兵衛の元へ)
今井元治郎、宮内初太郎、後藤万吉等が 交代で足を運び、
(その結果)
三日三夜目には 鮮やかなご守護を見るに至った。
(その姿を見た) 一同は 歓喜に浸った(のだった)。
浅草講社の発展(明治21年頃)
これまでは、
ようよう 抱えの娼妓や店の者などの信仰に限られていた廓内で、
1戸の楼主が入信したことは
道の進展に一段と拍車をかけたのは事実で、
霊救に奮い起った 加藤新兵衛は
やがて、
主筋たる 本店「中米楼」を始め、同業の人々を導いた。かくて 浅草講社の基礎は、次第に固まっていったのである。
ただ、当時の講社に結ばれた人々は
入信の前後こそあれ、ほぼ同様の信仰程度であったようで、
その後も 誰を中心人物というでもなく
極めて自然に、廓の内から始まった道の動きは、
次いで 廓の外なる象潟、橋場、今戸から、浅草区の各所へ伝わり、
上原佐助の東京講社の中で
(浅草講社は) 一大勢力を形成するに至った。明治21年 4月、
教会本部設置の公認が出願された折には
その出願人の中に
信徒総代として、浅草講社の 村松万蔵 の名が連ねられ、同月(4月)10日に晴れの公認の喜びを得た下谷区北稲荷町の教会本部へ
(公認)3日目の (4月)13日には
早くも (浅草)講社の主だった者が顔を揃えて参拝し、
道の躍進を 心から祝福したのである。
浅草支教会の開設(明治22年頃〜明治25年)
明治22年末、
東京講社を足場として
東分教会が 天理教会本部東京出張所を引直して設けられると共に、
部内各講社の中にも 教会設置の気運が起こり、
3年後の 明治25年 4月25日、
ここに
浅草講社から「浅草支教会所」の誕生を見た。その創設地は
浅草区馬道7丁目11番地、
建坪 18坪5合のささやかな借家であったが、
「勝中米楼」主・加藤新兵衛が
推されて 初代会長に就任した。しかしながら、
その地は いかにも狭く、不便な場所であったため、
役員一同相談の上、
同区(浅草区) 通称・山谷堀川岸の南側、山川町1番地に 209坪の土地を借り、
いよいよ 救けの道場を 花の浅草の地に 打ち建てる(運びとなった。)(その)喜び(を元)に、
勇みに勇んだ教信徒の真実を集めて 92坪の神殿が完成し、
明治25年 10月9日(には)、盛大な開筵式が行われた。
加藤新兵衛 初代会長の出直し(明治32年)
加藤新兵衛(初代)会長は
元来、容姿すぐれ弁舌さわやかな一面、信念の強い人であったため、
衆望 おのずから集まり、
一時は、推薦されて 東分教会の副会長を勤めた程であった。しかし、惜しくも、
明治32年 8月26日、
肺結核のため
浅草区 金竜山下瓦町なる 樽屋の隠居宅 (病気療養のため借用) で、
妻の登美子、娘すみ子、青年の宮内浅之丞、看護婦一人に見守られつつ 出直した。
齢54歳。在任わずか 8年であった。
宮内初太郎の生い立ち(嘉永4年〜明治19年頃)
2代会長・宮内初太郎は、
嘉永4年 9月19日、
日本橋区 横山町の 宮内勝蔵の長男として出生。幼少の頃は裕福であった家産も しだいに傾き、
17歳の時、進んで浅草橋場の石屋に奉公したが、
いくばくも無く、父親の病気から暇を貰って家へ戻り、
病父を養うため、
馴れぬ魚の行商人として 自立の道を講じた。生来の竹を割ったような気性が 魚をあつかう勢のいい仕事に合って、
段々 家計も立つように成ったが、
やがて 勇み肌の鳶職に魅力を感じ、
13年も続けた魚売を廃業。
3転して、
新吉原京町2丁目の鳶頭「とび房」に
弟子入りをした(のだった)。しかしながら、
好きから入った道だけに たちまち頭角を現し、
仲間の中でも 1、2を争う顔となった。
(その後)
親方の世話で 廓茶屋の女中であった津奈子を娶り、
新吉原江戸町2丁目6番地に 世帯を持った。
宮内初太郎の入信(明治19年)
ところが、
1、2年を過ぎた頃から 妻・津奈子が
何となく 体が具合悪く(なったため)、
(宮内初太郎は) 家を外にして働かねばならぬ鳶職を休み、
素人ながら、かもじの製造を営むようになった。荒い家業に明け暮れしてきた(宮内)初太郎の胸の奥には、
他面、病妻をいたわる暖かい心遣いが溢れて、
一家の日々は 貧しいながらも和やかであった。(しかし) 津奈子夫人の容態は 日と共に悪化し、
明治19年 1月、子宮癌と診断された。こうして、(宮内)夫婦が絶望の底につき落とされていた時、
吉原の会所(組合事務所)の事務員であった 今井元治郎 が見舞いに来て、
「大和から不思議な神様の話を伝えに大島屋(引手茶屋) へよく来る 上原という人がいるが、一ぺん頼んでみたらどうか」
と話した。
(その話に) (宮内)初太郎は 心を動かした。かくて 宮内家に教えが流れ、
不治と宣告された妻の病気は快癒した(のであった)。(奇跡的なご守護を頂いて)
生一本の性格であった(宮内)初太郎は
報恩感謝の念を神一条の生涯に捧げ、
「乞食をしてでも おたすけに歩こう」
と、固く心を定めた。
宮内夫妻の布教活動(明治21年〜明治25年頃)
(宮内初太郎は)
明治21年 12月15日に おさづけの理を拝戴するや
布教に専念した。すべてを捨てて布教に励んだ 宮内夫妻の苦労は
やがて 至るところに ふしぎな霊救となって(現れ)、浅草一帯はもとより、
東京府下の千住から、遠く埼玉県の草加、越ヶ谷、粕壁…と
真実の道は 目覚しく伸びていった。
浅草支教会と宮内初太郎(明治25年頃〜明治32年頃)
こうした中で 浅草講社の勢いは拡大し
教会設立にまで進んだ(のだ)が、
当時 講元としての位置にあった宮内初太郎に代わって
明治25年 4月「浅草支教会所」の初代会長の任に推されたのは
加藤新兵衛であった。こうした時(でも)、
(宮内)初太郎は 決して自己の道を誤ることなく
ひたむきな布教にいそしみ、
(その影響は) やがて埼玉県下安行村に現れ、
後の慈林布教所を設立するまで 忍苦の道中を歩んだ。
宮内初太郎の2代会長就任(明治32年)
明治32年 8月末、加藤(新兵衛)会長の出直の後、
(浅草支教会は)
後任会長の選定に悩み、
一時(は) 役員2名を以て、代務執行の承認を本部へ願い出た(のであった)。しかし、お許しは出ず、
却って 本部より、
「浅草には 立派に会長たるべき人がいるでは無いか。宮内さんを忘れてはならない。」
と諭され、
ここに始めて 宮内初太郎が会長として 就任することとなった。
宮内初太郎2代会長の信仰生活(明治32年〜大正3年)
(宮内初太郎2代会長は)
明治32年 12月6日、
当時すでに83ヵ所を数えた理の親として 活動を開始した。明治42年 1月20日、
教会制度改正に伴い (浅草)分教会と改称。その後、間もなく
明治43年 8月、関東大洪水、
翌(明治)44年 4月、吉原大火…
などと 相次いで災害が起こった。(それらは)
教信徒の上にも大きな打撃を与え、
教勢にも 多大な影響をあたえた。しかし、
度重なる事情の中でも、
(宮内初太郎)会長は いつも明るく勇んで通った。吉原の大火で、
役員・赤倉(藤吉)の経営する「中米楼」が全焼した時には、
「今こそ因縁納消の好機である。断然、商売をやめなさい。食えなければ、女房子供は浅草へ引き取ろう。」
と勧めて、布教専務に就かせた。
この時には、
赤倉(藤吉)自身(が) 同業者から 命を狙われるような脅迫を受けた程で(あった)このことは、
(宮内)初太郎会長の 道に対する信念が
いかに積極的であったか
を物語る一例である(と言ってよいであろう)。
宮内初太郎2代会長の出直し(大正3年)
やがて (時代は) 明治から大正へと移行し、
教祖30年祭も近づきつつあった 大正3年 8月8日、炎暑の夜、
(宮内初太郎会長は)
教服に身を正し、説教していたところ、突然倒れた。
(そして) 一同の手当ての甲斐なく、
遂に、64歳で出直した。日頃 口にしていた
「道の軍人」
の信念を貫いた生涯は、
今なお尽きぬ 語り草である。
内山(宮内)浅之丞の生い立ち(明治19年〜明治44年頃)
3代会長・宮内浅之丞は、
内山新助、同・りゆ夫婦の3 男として
明治19年 3月1日、
埼玉県北埼玉郡手子林村大字町尾52番地に誕生。両親は
当時 東京から伝わった天理教の熱心な信者であり、
このような環境の中で成長した (内山)浅之丞は
小学校卒業と同時に上京、
創立浅い 浅草支教会の青年として住み込んだ。
時に 明治31年 10月24日である。以来、(内山浅之丞は)
(加藤新兵衛)初代、(宮内初太郎)2代会長に仕えつつ 独学を続け、
明治39年 4月28日、おさづけの理 を拝戴。
(その後) 布教活動に専念する中、
明治44年 1月、
宮内初太郎2代会長の養嗣子となり、
妻・吉(よし)を迎えた。
宮内浅之丞の3代会長就任(大正3年)
大正3年の夏、
(宮内初太郎)2代会長 急逝の後、
同年(大正3年) 9月25日、
(宮内浅之丞は)3代会長に就任した。時に 29歳であった。
関東大震災からの復興(大正12年〜大正14年頃)
(宮内浅之丞は)
種々の困難を通りぬけ、布教に励んでいたところ、
大正12年 9月1日、突如、関東一円を大震災が襲った。
関東大震災は、一夜の間に教会建物を瓦礫に帰せしめた。当時38歳の (宮内浅之丞)会長は、
(震災からの)復興に心血を注ぎ、
大正14年7月8日、
東京府南足立郡梅島町梅田1529番地 (現 足立区梅田町) に
1,500坪の土地を買収。
神殿 及び 付属建物の建築に着手した。(関東大震災により大きなダメージを受けた浅草分教会であったが)
災禍に屈せぬ教信徒の意気も高らかに 新神殿の竣工を見、
同年(大正14年) 11月18日、落成奉告祭を執行した。次いで
上級・東大教会の復興建築が 昭和5年 9月着工され、
(浅草分教会は)
翌(昭和)6年 10月 落成を見るまで、力を尽くした。
浅草の道の広がり〜大教会への昇格(大正15年頃〜昭和15年)
この間、
大正15年の教祖40年祭を迎えるに当たり、
教勢倍加につとめた結果、
(宮内浅之丞)会長 就任当初において 83ヵ所であった部内教会数は
一躍 148カ所に達した。続いて 教会本部の普請を勤める中、
昭和11年には 教祖50年祭を迎え、
教線も 北海道、朝鮮と伸びるに至った。(それと)同時に教祖殿建築の声が起こり、
昭和4年 6月と 昭和12年 8月に、
計約500余坪の土地を購入した。越えて、昭和15年1月23日、(浅草分教会は)
東 大教会から分離、(大教会へ)昇格した。また 同年(昭和15年) 8月27日を以て、
浅草大教会から 立野堀分教会が分離、(大教会へ)昇格した。
太平洋戦争前後(昭和16年頃〜昭和23年頃)
昭和16年 12月の(太平洋)戦争勃発は
教団にも 種々の変貌をもたらした。同(昭和)19年春、(宮内浅之丞)会長 長男 (宮内)初夫が出征した。
同(昭和)20年 4月13日(には)、空襲のため 大教会が全焼した。しかし、
終戦後(間もない) 昭和21年 1月26日、教祖60年祭は 無事執行された。
(その中で、宮内浅之丞)会長は、本部准員を拝命した。一方、(浅草大)教会の再建(の方)も
奮起した会長、役員、信者らの熱意によって、
昭和22年、34坪の教堂を完成、
同年(昭和22年) 6月19日、落成奉告祭を執行した。この建築の最中、
長男 (宮内)初夫 戦死の報が届いた。(その知らせは) 部内教会、信者一同に 多大の影響を与えたが、
(一同は) その悲しみを越えて、
信徒詰所 建造の議が起こった。(そして) 昭和23年4月(には)、丹波市町布留97番地に、
木の香も新しく 信徒詰所 開設の運びを見た。
創立60周年記念祭前後(昭和26年〜昭和28年頃)
こうして、
創立以来 幾多の曲折を経ながらも 大教会としての面目が整ってきた。(それに伴い) さきに建築した教堂も 漸次 狭隘となっ(てき)たため、
昭和26年 1月、
(宮内浅之丞3代会長から) 創立60周年記念神殿建築が提唱された。こうした中で、
役員・部内教会長が「ふしん委員会」を組織し、
養嗣子・満麿を委員長として 活動を開始。2年後の 昭和27年 12月18日には
真柱を迎えて、盛大な落成奉告祭に併せて 創立60周年記念祭を執行した。翌(昭和)28年 4月8日、
部内教会巡教中、(宮内浅之丞3代)会長が病気となった。
(そのため)
同年(昭和28年) 6月28日、
(宮内浅之丞3代会長は) その職を 養嗣子・満麿に譲った。
宮内満麿4代会長就任〜創立80周年記念祭(昭和33年〜昭和47年)
現(=『天理教事典』1977年版出版当時) 会長・宮内満麿は、
名京大教会 役員、小栗光の3男にして、
昭和23年 12月15日、
前(3代)会長 宮内浅之丞 の長女・つなえと結婚。教祖70年祭終了後の 昭和33年 11月21日に、
4代会長就任奉告祭が 執行された。昭和47年 12月22日(には)、創立80周年記念祭を執行。
記念事業として 信者会館の建築落成をみた。〔現住所〕 〒123-0851 東京都足立区梅田6丁目2番28号
〔電話〕03-3889-2341(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,11〜14)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
39回目の今回は、
「浅草大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】39回目の当記事では
『天理教事典』の中の「浅草大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
前々回「牛込大教会」、前回「深川大教会」、
東京にある大教会について勉強しましたが、
今回の浅草大教会も、東京の大教会です。
前回記事でも書きましたが、
教会番号の37〜39は、
37(牛込)・38(深川)・39(浅草)と、東京の大教会が続くのだということを、
私は 今回の勉強によって、初めて知ったのでした (*^^*)
牛込・深川・浅草の各大教会は
全て 東大教会から分かれた大教会。
『天理教事典』の中に記載がないので私にはわかりませんが、
きっと、河原町から分かれた 湖東・甲賀・水口 のように、
旬が訪れた…みたいな感じで 東大教会から大きな教会を分離するという「気運」が生じて、それで
大きな教会が 3つ続けて 東大教会から独立する という運びになったのではないのかなぁ…
と想像します。
浅草大教会は、東 大教会から分かれた大教会ですね。
東 大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。
当記事では
『天理教事典』の中の「大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。
浅草大教会の元は、
東大教会初代の上原佐助先生による 遊郭・吉原へのおたすけにあったのですね。
『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) という本の中に
上原佐助先生による歓楽街・吉原へのおたすけに関する記述がありましたので、
後学のために書写致します。
歓楽の巷 新吉原は、裏をのぞけば生き地獄の世界で、健康をそこねた遊女は薄暗い部屋に投げ込まれ、死を待つばかりの哀れさだった。
佐助は中米楼を訪れ、そんな遊女をもらい受け、重湯を与え、水垢離をとって祈願し、心込めて面倒をみた。吉原の都内の不思議なたすけは囲いを破って郭外に流れ出た。
『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) P,109より
吉原という巨大な歓楽街の中へおたすけに飛び込まれた上原佐助先生。
世間知らずの私にはよくわかりませんが、
現代だったら、歌舞伎町の中へおたすけに入っていく…
みたいな感じなのでしょうか。
私は、漫画や映画などで「吉原」の世界が描かれているのを
ほんの少し見たことがあるに過ぎませんが、
そこは、
とてつもない華やかさと、その反作用としての人間のドロドロした醜さが詰まった
「壮絶な世界」
というイメージがあります。
上原佐助先生は、
そのような修羅の世界に「おたすけ」に入っていかれた‼︎
そして、そこから、不思議なたすけが現れ、道がつき、
それが、「浅草大教会」という大きな形となって今に続いているのですね。
浅草大教会の出発点は 生き地獄に苦しむ人々への救済だった、
という事実に、私は深い感動を覚えます。
今回私は、『天理教事典』1977年版「浅草大教会」解説文の書写学習を行ったわけですが、
書き写しながら、少し感じたこと。
それは、
『天理教事典』の記述しか参考にしていませんので、ただ単なる私の大袈裟な思い込みが多分に含まれているとは思うのですが、
浅草支教会の母体となった浅草講の講元であった宮内初太郎先生が「浅草支教会」の2代会長に就任する際の混乱が、
敷島大教会・山田伊八郎先生の会長就任時の混乱に重なって見えた、
というものです。
敷島大教会・山田伊八郎先生の会長就任時の混乱とは何か。
それは、
敷島大教会の前身である城島分教会・上村福三郎会長が出直した後、
その後任を誰にするか で混乱が生じた史実のことです。
上記記事の中で
「天理教ORTHDOX」というブログ内の2015年8月の記事を引用させて頂きました。
長くなりますが、ここで改めて引用させて頂きます。
これは、ただ単純に 自分の読み返し用のものですので、
「天理教ORTHDOX」ブログ主【mkosetu.jr】様、ご了承願います。m(__)m
【根のある花 山田伊八郎】
山田伊八郎が、現在の敷島大教会の会長になるまでの道、
当時の心勇講の頃から、山田伊八郎は周りからよく思われていなかったという。
明治20年頃より、人々から、
心勇講から 追い出そう、逃げ出さそう
と あれこれ策を以て せまられていたのだ。また、そんな中で伺う「さしづ」での伊八郎への神のお諭しは、
常に「たんのう」であった。「何事もたんのうが第一。」(明治20年12月1日)
「成るよ いくよう 楽しみ一つ 事情ある、先々 たんのう理を見て暮するよう」(明治21年6月24日)どんな中も「たんのう一すじ」の心を定め、
伊八郎は 不安と不足が起こる中も、その逆境の道を通ったのである。次の「おさしづ」で、
親神様はこうした伊八郎の苦悶する心を しっかりと受け取っておられるのが分かる。「…長くは 先の楽しみ、短いは 楽しみなし。…中略…
さあ/\ これ 根のある花は 遅なる。
なれども 年々に咲く。又 枝に枝が栄える。
根も踏ん張る。」(明治24年11月1日)この「おさしづ」を頂いた伊八郎は、
その 強く頼もしいお言葉に、感激し涙したという。ただ、それでも、
その後 敷島内部から伊八郎への厭がらせは起きてくる。それは、まさに「敷島の暗黒時代」といえる程の問題にまで発展し、
伊八郎は、これほど といえる様な境地に 否応なく立たされる事となるのだ。しかし、それでも逃げずに通り抜けた伊八郎だからこそ、
神の目に叶ったのであろう。
「…さあ/\ これ 根のある花は 遅なる。なれども 年々に咲く」次の記事では その詳しい内容を述べていこうと思う。
( 天理教ORTHDOX > 「敷島の暗黒時代」より)
【敷島の暗黒時代】
山田伊八郎に関する「おさしづ」を見ていくと、
実は
敷島の後継者に関する同じ伺いが 二年に渡って続いている。これが、
山田伊八郎をさらなる逆境へと立たせる二年となった 証拠なるものである。以下の「おさしづ」より、それが起き始める。
城島分教会 担任 上村吉三郎出直しに付、後任 山田伊八郎を以て願
「… 一時定める処、心置き無う定めてやるがよい。さあ受け取る/\。」
(明治30年5月7日)この「おさしづ」により、伊八郎は神様から敷島後任の許しを得た・・・
はずだったのだが…
何を勝手に決めているんだ!
と 周りがこれに反対するのである。また、それから一年経たずに、
今度は本部より、
未だ会長が決まらず そのままであった 敷島の教会内を整理したいとの事から、
「名義を伊八郎から 本部(増野正兵衛)に移す」のはどうか
の伺いが立てられる。しかし、これについても 神様は、
「整理どころやない。あちらこちら理がこす。それ 日が経つ。」(明治31年3月30日)
「治まるまで そのまゝ…」と、整理より先に 会長を任命しろ
と 厳しく急き込まれるのである。それでもまだ 会長が山田伊八郎に定まらない。
次に伺いが立てられているのは
少し経って 翌年となる。
(この間に 関連の「おさしづ」が無いのも 不思議である。)前 増野のおさしづより だんだん 本部役員協議の上 城島分教会の事であろう との事に付願
(今 分教会にては 未だ会長定まらんに付、後任とすべき人は たゞ今にて 3名あります。山田伊八郎は古き人なり、また 加見兵四郎は講社多分あり 余程道のため尽力のせる人なり、又 峰畑為吉は 副会長の名もあり 教会に余程功ある人なり。目下 取定めに心配致し居ります。この処 願。)「…めん/\ 勝手という理があってはならん。…中略…
もう一遍 協議をし直せ。
向うにせいとは言わん。
ぢばからこう と言えば、そむく者はあろうまい。
治まるものやろう。」(明治32年5月31日)やはり、またも神様からは、他の意見には 一歩も引かなかった。
結果的に、
翌月の6月18日 城島分教会 後担任 山田伊八郎に願が出され、
ついに「さあ許そ/\」とのお言葉で 山田伊八郎が会長に任命されたのであったが…この後継者問題、何故 このような事になったのか…
以下に、こうした文面が見出せる。
「次期会長を自負する役員たちの人間心が主力となって
親神が 二代会長に山田伊八郎として おさしづお許しになった件は おそれ多いことながら 暗黙のうちに闇に葬ってしまったのである。
この おさしづ隠蔽事情が、更に事情を複雑なものへと発展させることとなり、
後担任をめぐって 人間心の醜態ともいえる 派閥乱立の暗黒の歴史が、
延々 二年余も続くのである。」
(敷島大教会 『山田伊八郎伝』より)つまりは、
後々まで 伊八郎の後任お許しのさしづは、どこかで隠蔽されていた
というのだ。今 改めて読めば
「ぢばからこう言えば、そむく者はあろうまい。治まるものやろう。」
と 仰せられる親神様のお言葉も、
この 隠蔽事情の事を言っているのでは…
とも解せるのか と思う。親神様にとっては、
敷島の後継者は 伊八郎以外にはありえなかったのだろう。いくら勝手に人の力で隠蔽したとて、神の方には倍の力。
神様の思惑には 到底及ばないに決まっている。そして、数々の厭がらせ、そうした逆境…
その中を「たんのう」一つで逃げずに通った先人。他と比べて咲くのは遅くなったが、なれども 必ず 年々に咲く。
根は踏ん張っている。これこそ、神が認めた根のある花。
( 天理教ORTHDOX > 「敷島の暗黒時代」より)
山田伊八郎という人物なのである。
今回の「浅草大教会」解説文の中にも
似たような史実が書かれてありました。
…浅草講社の勢いは拡大し
教会設立にまで進んだ(のだ)が、
当時 講元としての位置にあった宮内初太郎に代わって
明治25年4月「浅草支教会所」の初代会長の任に推されたのは
加藤新兵衛であった。こうした時(でも)、
(宮内)初太郎は 決して自己の道を誤ることなく
ひたむきな布教にいそしみ、
(その影響は)やがて埼玉県下安行村に現れ、
後の慈林布教所を設立するまで 忍苦の道中を歩んだ。明治32年8月末、加藤(新兵衛)会長の出直の後、
(浅草支教会は)
後任会長の選定に悩み、
一時(は) 役員2名を以て、代務執行の承認を本部へ願い出た(のであった)。しかし、お許しは出ず、
(『天理教事典』1977年版 P,12〜13)
却って本部より、
「浅草には 立派に会長たるべき人がいるでは無いか。宮内さんを忘れてはならない。」
と諭され、
ここに始めて 宮内初太郎が会長として 就任することとなった。
天理教の教会長というのは、
「制度としての教会」という組織の長であると同時に、
おつとめという儀式を司る聖職者の長でもある、
と思います。
前者は、主に人間側に力点を置いた立場であるのに対して、
後者は神様側に力点を置いた立場だと言えるわけで、
その両者の力点は、必ずしも一致しているとは言い難い…
だから、いろいろと難しい問題が生じてくるわけですね。
宮内初太郎先生は、
母体の講社では講元的立場であったけれども、
人間関係的な部分で総意が得られなかったため、
支教会となるにあたって その会長にはならなかった。
(この部分は、完全に私の想像です…勘違いだったら申し訳ありません m(__)m )
で、加藤新兵衛初代会長出直し後に、
ご本部からの指導をもって会長に就任した…
という具合に、随分と苦労をなされた。
しかし――
そのような困難な状況であったにもかかわらず、
宮内初太郎先生は、それを乗り越えて、
浅草大教会の道を大きく発展させられたのでした。
そして、大正3年8月8日炎暑の夜、
教服に身を正し 説教の最中に 突然倒れられ
64歳で出直された。
説教の最中に出直されたという史実からは、
自分は「道の軍人」だと口にしておられた とのエピソードとも重なり合って、
宮内初太郎先生が、
文字通り「命懸け」でこの道を歩んでおられた真剣さが、ひしひしと伝わってくるようです。
そのような先人先生方の伏せ込みの歴史を知ると、
今の浅草大教会の華々しい隆盛も、さもありなん…
という気がします。
また、
今回、書写学習した「浅草大教会」解説文の中ではあまり触れられていませんでしたが、
浅草大教会は 東京の大教会ですから、
前々回の「牛込大教会」、前回の「深川大教会」の学習で学んで知った、
首都圏の教会が等しく襲われた「関東大震災」&「東京大空襲」という大災害による被災、
浅草大教会においても、きっと、
その被害は 想像を絶するほどのものだったでありましょう。
そのような多くの苦難の歴史を知った上で 今の浅草大教会の勇姿に触れると、
また ひとしお感慨深いですね。
歴史を学ぶ大切さを 改めて感じます (^^)
その他のことも含め、
今回もまた、書き写しを通して いろいろと知ることができて、
とても勉強になりました。
有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「浅草大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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