「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7

「『おふでさき』【第七号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今より少しでも「神様」を感じられるようになりたいとの思いから、
芹澤茂先生著『おふでさき通訳』を教材として「おふでさき」口語訳を書写する
「おふでさき」を散文で読もう” シリーズ。

今回は、7回目です。

前回は「おふでさき」【第六号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第七号】口語訳を書写します。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7

person standing in a field and holding a book

今回は、「おふでさき」【第七号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第七号】口語訳 書き写し

第七号
(七十八年老母 明治八年貮月) 

「月日が三十八年以前に天降った(のは) 元のいんねん(による)。
月日は そのいんねんがある故に、何でも委細を話したいから (話をして たすけの段取りをしているのである)。

上 (世界の人々の上に立つ者)は それを知らずに 何事も (教祖よりの話を)世界並と考えている。
ここは 元なるぢばであるから、“初まり出し” について知らぬことはない。

上へ この真実をなるべく早く知らしてやろう と月日が思っても、上はそれを知らずに、めいめいに わが身思案(人間思案)をばかり思っている(のが 残念である)。」
(1~6) 

「月日には (人間世界の行方が)だんだん見えているが、その道筋に 怖い危ない道がある。
(それ故) 月日は その道を早く知らそうと思って心配している(ので、このことをよく考えよ)。

人間の わが子を思うのと同じで、(月日は) 怖い危ない道を案じている。
それを知らず 一れつ(世界中の人間)は 皆 (わが身思案の上に従って) めいめいうっかりくらして (いずんで)いる。」
(7~10) 

「この世界(のことは)、なんでも 万事一れつに 月日が支配をすると考えよ。
この話は、どういうことかと思うだろうが、これから先の道を見ていよ。

“どんな高い山でも水がつく。谷底だからといって危ないことはない”
何ごとも 月日が支配するのであるから、大きい小さいなど(の人間思案)は 問題にならない。」
(11~14) 

「これまでも 何でも 用木(よふぼく)が欲しいから、大抵 尋ね(探し)ていたけれども、このたびは 谷底に ちょっとした木(人材)が たっぷり見えている。

この木も だんだん 月日が手入れをして、つくり上げたら 国の柱になる。
それから(後)は、日々に 月日が見定め(見極め)て、あとの(後継者としての) 段取りだけをすればよい。
それには (まず) ひねた木から だんだんと手入れして引き寄せ、そのあとの段取りを(付ければよい)。」
(15~19) 

「日々に、月日の思惑は深い(が故に、色々 段取りをする)。

同じ所に 二本も三本も(見える)。
この木(よふぼく)については、女松男松(男女の区別)は 言わない。
どんな木でも 月日の思惑が(あって、引き寄せて用いるので)ある。」
(20~21) 

「この後に 何の話をするかと言えば、よふぼくのもよう(段取り)ばかり言う(から よく聞き分けよ)。

よふぼくでも、ちょっとのことではないので、五十人六十人 という人数が欲しい。
この人数は いつまでも減らないようにして、また、末代に続き、切れ目のないようにする。」
(22~24) 

「これ程まで考えている 月日の心の真実(本心)に対して、皆の心は 何と思っているのであろう。
どんな口説き話をするのも、(わが子を)たすけたい という一条(の心)からである。」
(25~26) 

「一れつの (人々の)胸の内が 本当に早くわかった ということであるなら、それからは 月日がよろづを支配して、なんでも よろづのたすけをする。

この(よろづの)たすけについては、(今 この屋敷において) 早く(たすけの証拠として 珍しい)利益を見せたい と考えて、月日の心は 急くばかりである。
何でも彼でも(という) この急込みがある故に、(まず第一に) 胸の内より 掃除を急ぐのである。」
(27~30) 

「この話は、どこのことか と思ってはならぬ。
みな めいめいのうちの話である。

(ほこりを掃除して) めいめいの胸の内から っかりと真実を出せば 直ぐに見える。
月日は (うちにおいて つとめの証拠を見せたいという) この急込みがあるから、何かと心がせわしい。

これ(このつとめによる利益)さえ 早く自由(自在であること)を見せたなら、月日の心も ひとりでに勇んでくるのに。」
(31~34) 

「今までも “今がこの世の初まり” と言ってあるけれども、何のことやら(分からないでいた)。
このたびの 自由自在(のたすけ)によって (この話を)得心せよ。
今まで こんなことは 知らないであろう。

(すなわち) 月日が体内に入込んで、自由自在(のたすけ)を みな して見せるのだ。
これ程の 自由自在という真実について話をするのは、今が 初めてである。

この先(将来)は いつになっても この道理(と同じく)、自由自在(のたすけ)を 早く知らす(。そして 得心できるようにする)。」
(35~39) 

「今までも どんな道も通ってきたが、をびやたすけの 試し始めである。

このたびは (つとめによる)をびやたすけの真実(であること)を(わからせて)、早く このたすけをしよう と急いているけれど、一れつ(の者)は 今まで知らぬ事であるから、皆 じっとしていずんでいる。

本当に 心を定めて願うなら、自由自在に 今の間にも (神はたすける)。
このことは 誰も まだ知らぬことであるから、(うちの者も) 胸がわからないでいるのは、月日の残念である。」
(40~44) 

「今までは どんなことでも見えてない(実現していない)けれども、これから先は 早く見える(ようになる)。

真実の心があるなら、何なりと 早く願え。
直ぐに叶う(ようにしよう)。

どんな事でも 叶えられぬ とは言わない。
(今は) たすけ一条を急込んでいるから。
これほど 月日の心は急込んでいるのに、そば(なる者)の心は なぜ いずむのか。

早く 心に勇んで 急込め。
月日は これ(つとめ)を待ちかねているのを 知らぬか。
月日は 自由自在(の利益)を 真実に 早く見せたい、これ一筋である。」
(45~50) 

「これ程に思う月日の真実(の心)を(考えずに)、そばの心はまだ世界並(の心でいる)。
どのようなことを言っても、人間の心で(言っているので)はない、月日の心である。
今までは 何を言っても 人間の心が混じるように思って (本当に信頼していない)。

しっかり聞け。
これからは 心を入替えて、人間心があるとは思うな。

今までは、同じ人間であるように思っているから、何もわからんのだ。
これからは 何を言っても何をしても、人間(のする事)である と決して思うな。」
(51~56) 

「今までは 日柄も もう少し来なかったので、何についても 控えていた。
この先は (控えずに言うけれど、)どんな事を言っても、怖いとか危ないということはない と思え。」
(57~58) 

「これからは 月日が出張りをする。
そして どんな事でも かやし をしてやる。(だから 心配は要らない。)」
(59) 

「月日が これまでに 残念(に思うこと)は、山のように積もり重なっている。
どれ程 残念が積もっている と言っても、(人間に)どうせよこうせよ と言うのではない。
(月日が出張って かやし をする。)」
(60~61) 

「これからは どんなに高い所にでも、この (自由自在のかやしの)真実を 早く見せたい。
(これを見て、高い所にいる)上たる(者)の心が すみやかにわかったなら、それからは 月日(が勇んで) 自由(自在のたすけ)を早くするのに。」
(62~63) 

「(それと共に) 月日がこの(つとめによる)自由(自在のたすけの利益)を 世界中へ 早く一れつに知らしたなら(、やがては 陽気づくめになっていく)。」
(64) 

「このたびの 孕んでいるのを うちの者は、どんな考えで (生まれるのを)待っているのか。
このことは 人並なこととは思うな。
(これについては) 月日は 大変な思惑がある。」
(65~66) 

「この(事の)元(から話をするなら、それ)は六年以前(明治三年)に(遡るので)、三月十五日に迎い取りた(子供がいるであろう)。
(その子を) それから今まで、月日がしっかりと抱きしめていた。
早く見せたい (生まれ返したい)。

(これが 月日の思惑であるのに) それを知らず、うちなる者は、何もかも、世界並のように思っている。」
(67~69) 

※「世界並のように思う」(69) というのは、恐らく次の事を言っておられる。

教祖は早くから櫟本の梶本家より、のちに初代真柱となった真之亮を貰い受けられている。

この子は元々、教祖の長女おはる様が梶本家に嫁に行き、嘉永七年中山家に帰ってきて長男を生んだときは “亀蔵” と名付けられたものであって、教祖は 早速 養子に貰おうとされたのを、長男故に梶本家で不承知であったため、「出直」(死亡)して 慶応二年 三男として再び生まれた。

教祖は、生まれてくる前から “真之亮” と名付け、この子を 真柱として貰い受けられた。
明治八年には 数え年十歳である。

ところが、まつゑ様に子供が生まれて その子が男子であれば、相続者が二人となる故、そばの者は この話に積極的でなかった。

そこで 親神は、まず 明治八年 男子を出生させられた。
しかし、この子は 日ならずして 出直となった。

人間の 世界並の考えで良かれ と思っても、神の自由自在の働きにはかなわないので、おそばの人々も この事によって、真柱のことも 心から納得した と伝えられる。

(「おふでさき講習会録」による。「復元」第三十七号、一〇〇~一〇五頁参照。)

(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,288~289

「この話(について)は 色々 思っているであろうが、
これが第一に (そもそも) “(今が)この世の初まり” (であることがわかるための段取りなのだ)。」
(70) 

「(この事はこの位にして) また先の道の様態(状況)を だんだんと、万事につけて 皆 説いておく。

この次生まれる子は) 名前を “たまへ” と付ける。
(この子を)早く見たい と思うなら、月日が教える(つとめの)手を しっかり(憶えてつとめをせよ)。
この話を真実と思うならば、心を治めて 早くとりかかれよ。」
(71~73) 

※お秀 (しゅう) 様の魂が 明治十年に “たまへ”様 として出生した と教えられている。

(芹澤茂著『おふでさき通訳』P,289)

「今までは 何を言っても、一れつの(人々の)胸もわからないし、その日も来ないので(、言った通りに見えて(実現)してこなかった)。
だんだんと 胸もわかれば 期日も到来してきたので、月日の心は ひどく急込んでいる。

これ (今話題になっているつとめの証拠) さえ 早く見えた(実現した)ならば、(これからの布教伝道において) かなう者はいない。
月日が、これをしっかり見せたなら、あとの (布教伝道の)仕事は どんな事でも (話通りに実現していく)。」
(74~77) 

「今までも をびや(許しや) ほふそ(疱瘡)(の守りなど) の この許し(許し物)を 皆は何と思っていたのか。
このたびは どんな事でもすっきりと みな 本当の事を言って聞かせる(故、よく思案せよ)。」
(78~79) 

「これからは をびや(許しによる)たすけも、しっかりと 切ないことなく 早く産まれるようにする。
(それには) だんだんと口で何事を言っても、月日の言うようにしなければならない。

何事でも しっかり 月日が言うようにせよ。
(月日の言うことに) 違うことはない。

どんなたすけをするのも みな つとめ(によるの)で、月日が言うように 確かに実行するなら(たすける)。
真実の心があるなら、月日の方も、しっかり 請け合ってたすけをする。

このたびは、たすけをするのにも、真実に請け合ってたすけをするので、(これは) 今が初めである。」
(80~85) 

「これ程に 月日の心は 急込んでいるのだから、そばの者も (月日の言う通りに)つとめの拵え(準備)をせよ。

この (たすけをする)もよう(手段)は、どれとどれ というものではなく、どんな事も みな つとめ(によるの)である。
(そして、)つとめでも、同じこと(をするの)ではないので、みな (願いに応じて) それぞれ(違った)手を教える。」
(86~88) 

「今までの道すがらというのは、どういう道であったのか 知っている者はいない。
(しかし、)これからは、どんな道でも だんだんと、よろづ(幾重の)道筋を みな (分かり易く)言って聞かせる。」
(89~90) 

「月日より 道筋について 何でもよく聞い(て、聞き分け)たなら、この (今言っている)残念(というの)は、無理ではない(当然である)(と分かる)であろう。

月日が この(残念という)一条を晴らしたなら、そのあとは 陽気づくめである。

日々に 陽気づくめ(になっていく)というのは、どんな事か 誰も知るまい。
何もかも 陽気というのは みなつとめ(によるの)で、(それ故、)珍しい事を みな 教えるのである。」
(91~94) 

「だんだんと つとめを教える(ことについての)段取りは、(まず そばの者の心を) 胸のうちよりみな 掃除する。
(掃除した)あとは、(神の話を聞いて) 日々に 心が勇んでくるので、(そのとき) よろづの(たすけを現わす)つとめの手を付ける (=手を教える)。

このつとめは どういうものかと言うと、をびや(産屋)・ほふそ(疱瘡)(など)を たすけるものである。
このたすけは、いかにするか と言うと、ほふそをしないように、との つとめを教えるのである。」
(95~98) 

「この道を 早く教え(ようと急込んでい)るのは、このつとめ(によって) 世界一れつの心をすます(のである)。

この話をどういうことに聞いているか。
(これは) 世界をたすけるためのもよう(段取り)である。」
(99~100) 

「どのようなたすけをするのも、真実の をや(月日)が (教祖をやしろとして)居るから、みな 引き受けるのである。
このことについて、これこそ真実なのだ と思うなら、(その)誠真実(を受け取って、) 心次第(にたすける)。」
(101~102) 

「心さえ 真実に澄んだなら、どんな事でも 違うことはない。
今までは 月日がどれ程思っても、そばの心には、(心を澄まさないから) わからなかった。
(心を澄まして 親 を信頼せよ。)

これからは、どんなつとめを教えるのも、人間の心で(教えるので)はない (と考えよ)。

月日は (つとめだけでなく)どんな事も教えるが、(これは) の世創めて(から 今までに)ない事ばかりである。
人間の心で思うようなことは、月日は 何にも言わない。」
(103~107) 

「月日は どんな事も (みな)一れつ(の人々)に教えて、陽気づくめに(する)。

世界中 みな 一れつが澄みきって、陽気づくめに暮らすことなら、(これを見て) 月日も 確かに心がいさむ(ということになるので、そうなった)ならば、人間であっても みな 同じことである。
(すなわち、)この世界の(人々の)心が勇むならば、月日も 人間も 同じことである。」
(108~111)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,208~261 
さまよい人
さまよい人

「おふでさき」【第七号】は 111首。

おふでさきの勉強を続けていると、私のような信仰初心者にでも、

“何とかして、苦しんでいる可愛い子どもをたすけたい” という、
切羽詰まった親心が伝わってくるように感じられます。

以上、芹澤茂著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第七号】の概要

「No,7」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第七号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第七号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第七号について】

第七号は 明治八年二月から四月ごろにかけて書かれたもので、教祖は 御歳七十八歳になられています。
ちょうど、このころに 中南の門屋の普請が進められていた と思われます。

この明治八年は、たいへん意義深い年で、教祖の目指される たすけ一条の道が、一つのピークを迎えた と言ってもいいと思える出来事が出てきます。

六月二十九日、陰暦でいえば 五月二十六日に、かんろだいが坐るべき“ぢば”が定められ、
また、よろづたすけの“かぐらづとめ”と、その他 十一通りの おつとめの手振りが、すべて教えられています。

その意味で、人間の心の成人を急き込まれるうえの 重要な根幹が整う、という内容となっていると拝します。 

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,235)
さまよい人
さまよい人

第七号が書かれた明治八年は、お道の芯である「ぢば定め」が行われた年だったのですね。

明治八年は教祖の目指される「たすけ一条の道」が一つのピークを迎えた年とも言える、
という矢持先生のご教示を知った上で、その年に書かれた「第七号」を拝読すると、

またこれまでとは違った味わいが出てくる気がします…

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第七号の概要】

号全体のテーマは “つとめによるたすけ” である。

まず、立教の由縁、元のいんねんを仰せ出され、元初まりをはじめ、万事を説き聞かすのも、
人々の行く手を案じ、たすけてやりたい、さらには 陽気づくめに導いてやりたい との親心からであることを、号全体にわたって 繰り返し言明される。

また「今がこの世の初まり」と、世の立て替えの始め出しを宣べられる神意を得心させるべく、自由自在の働きを顕すと告げて、
特に、をびやたすけを引き合いに、よろづたすけのつとめに加えて、それぞれの願い筋のつとめを教える と仰せられる。

結びでは、陽気づくめの語を用いて、陽気ぐらしの世の一つのイメージを提示されると共に、
その陽気づくめは、何よりも つとめによってもたらされることを改めて教示して、つとめの段取りと実行を 重ねて急き込まれる。

また、つとめについて「世界たすけのもよふ」とも仰せになり、
具体的な運びとしての、つとめを教えるための段取り、また、その担い手たる よふぼくを見出し、丹精する様子などにも言及される。

こうした中で、常に、親神の言葉には人間の心はない、心配はない、信じてもたれよと諭し、
励まされて、真実の親への確信を深めるよう促される。

をびや という語が まとまって出てくる号にふさわしく、
たまへ様の出生にまつわる思惑を明かされ、これが世の立て替えの第一歩である と、それにつけても つとめの段取りを急がれる。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,246~247)
さまよい人
さまよい人

第七号全体のテーマは“つとめによるたすけ”である」という、上田先生のご指摘。

「おふでさき」においては、「おつとめ」の大切さを繰り返し繰り返し強調されていることが分かりますね。

関連動画の紹介

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これまでの当シリーズで毎回紹介している
「おふでさき」を現代文で理解するという目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第七号に関係する動画のリンク。
今回も、以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

現代訳で聞く、おふでさき07 1~50👇   https://www.youtube.com/watch?v=IfdOcnpYy7s

現代訳で聞く、おふでさき07 51~111  https://www.youtube.com/watch?v=z8Tvayz8mdY

改めて「おふでさき」【第七号】を散文で読む(括弧書きも外して)

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これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第七号】散文(芹澤茂先生訳)

「おふでさき」【第七号】口語訳(芹澤茂先生)

(教祖七十八才 明治八年二月)

月日が 三十八年以前に 人間世界に天降ったのは、元のいんねんによる。

月日は そのいんねんがある故に、何でも 委細を話したいから、話をして たすけの段取りを しているのである。
上(=世界の人々の上に立つ者) は、それを知らずに、何事も、教祖からの話を 世界並と考えている。

ここは 元なる ぢば であるから、“初まり出し” について 知らぬことはない。
上へ この真実を なるべく早く知らしてやろう と月日が思っても、上は それを知らずに、めいめいに わが身思案(=人間思案) をばかり思っているのが 残念である。

月日には 人間世界の行方が 段々 見えているが、その道筋に、怖い 危ない道がある。
それ故、月日は その道を 早く知らそう と思って 心配しているので、このことを よく考えよ。

人間の わが子を思うのと同じで、月日は 怖い 危ない道を 案じている。
それを知らず、一れつ(=世界中の人間) は、皆、わが身思案の上に従って、めいめい うっかり暮らして いずんでいる。 

この世界のことは、何でも 万事 一れつに 月日が支配をする と考えよ。
この話は、どういうことか と思うだろうが、これから先の 道を見ていよ。

“どんな高い山でも水がつく。谷底だからといって危ないことはない。”
何ごとも 月日が支配するのであるから、大きい 小さい などの人間思案は 問題にならない。 

これまでも 何でも 用木(=よふぼく) が欲しいから、大抵 尋ね(=探し)ていたけれども、このたびは、谷底に ちょっとした木(=人材) が たっぷり見えている。

この木も、だんだん 月日が手入れをして、つくり上げたら 国の柱になる。
それから後は、日々に 月日が 見定め(=見極め)て、あとの後継者としての 段取り だけをすればよい。
それには、まず、ひねた木から 段々と 手入れして 引き寄せ、そのあとの段取りを 付ければよい。

日々に、月日の思惑は深いが故に、いろいろ段取りをする。

同じ所に 二本も 三本も 見える。
この木(=よふぼく) については、女松男松(=男女の区別) は言わない。
どんな木でも 月日の思惑があって、引き寄せて 用いるのである。

この後に何の話をするか と言えば、よふぼくのもよう(=段取り) ばかり言うから よく聞き分けよ。

よふぼくでも、ちょっとのことではないので、五十人 六十人 という人数が欲しい。
この人数は いつまでも減らないようにして、また、末代に続き、切れ目のないようにする。

これ程まで考えている 月日の心の真実(=本心) に対して、皆の心は 何と思っているのであろう。
どんな口説き話をするのも、わが子をたすけたい という 一条の心からである。

一れつの 人々の胸の内が 本当に 早く分かった ということであるなら、それからは 月日が よろづを支配して、何でも よろづのたすけをする。

この よろづのたすけ については、今 この屋敷において、早く たすけの証拠として 珍しい利益を見せたい と考えて、月日の心は 急くばかりである。
何でも彼でも というこの急込みがある故に、まず第一に、胸の内より 掃除を急ぐのである。

この話は、どこのことか と思ってはならぬ。
皆 めいめいの うちの話である。

ほこりを掃除して、めいめいの 胸の内から しっかりと真実を出せば、直ぐに見える。
月日は、うちにおいて つとめの証拠を見せたい という この急込みがあるから、何かと 心がせわしい。
これ(=このつとめによる利益) さえ 早く 自由自在であることを見せたなら、月日の心も ひとりでに 勇んでくるのに。

今までも “今がこの世の初まり” と言ってあるけれども、何のことやら 分からないでいた。
このたびの 自由自在のたすけ によって、この話を 得心せよ。

今まで こんなことは 知らないであろう。
すなわち、月日が 体内に入込んで、自由自在のたすけを 皆 して見せるのだ。

これ程の 自由自在という真実 について話をするのは、今が 初めてである。
この先(=将来) は、いつになっても この道理と同じく、自由自在のたすけを 早く知らす。

そして 得心できるようにする。

今までも どんな道も通ってきたが、“をびやたすけ” の試し始めである。
このたびは、つとめによる “をびやたすけ” の真実であることを分からせて、早く このたすけをしよう と急いているけれど、一れつの者は、今まで知らぬ事であるから、皆 じっとして いずんでいる。

本当に 心を定めて願うなら、自由自在に 今の間にも 神はたすける。
このことは 誰も まだ知らぬことであるから、うちの者も 胸がわからないでいるのは、月日の残念である。

今までは どんなことでも 見えてない(=実現していない) けれども、これから先は 早く見えるようになる。

真実の心があるなら、何なりと 早く願え。
直ぐに 叶うようにしよう。どんな事でも 叶えられぬとは 言わない。今は たすけ一条を急込んでいるから。

これほど 月日の心は急込んでいるのに、そばなる者の心は なぜ いずむのか。早く 心勇んで 急込め。
月日は、これ(=つとめ) を待ちかねているのを 知らぬか。
月日は 自由自在の利益を 真実に 早く見せたい、これ 一筋である。

これ程に思う 月日の真実の心を 考えずに、そばの心は まだ 世界並の心でいる。

どのようなことを言っても、人間の心で 言っているのではない、月日の心である。
今までは、何を言っても 人間の心が混じるように思って、本当に 信頼していない。

しっかり聞け。
これからは 心を入替えて、人間心が あるとは思うな。

今までは、同じ人間であるように 思っているから、何も 分からんのだ。
これからは、何を言っても 何をしても、人間のする事である と決して思うな。

今までは、日柄も もう少し 来なかったので、何についても 控えていた。
この先は 控えずに言うけれど、どんな事を言っても、怖いとか 危ない ということはないと思え。

これからは、月日が 出張りをする。
そして どんな事でも “かやし” をしてやる。

だから心配は要らない。

月日が これまでに残念に思うことは、山のように 積もり重なっている。
どれ程、残念が積もっている と言っても、人間に どうせよこうせよ と言うのではない。

月日が出張ってかやし」をする。

これからは どんなに高い所にでも、この 自由自在のかやし」の真実を 早く見せたい。
これを見て、高い所にいる 上たる者の心が すみやかに分かったなら、それからは、月日が勇んで 自由自在のたすけを 早くするのに。

それと共に、月日が このつとめによる 自由自在のたすけの利益を 世界中へ 早く 一れつに知らしたなら、やがては 陽気づくめになっていく。

このたびの 孕んでいるのを、うちの者は、どんな考えで 生まれるのを待っているのか。
このことは、人並な事とは思うな。

これについては、月日は 大変な思惑がある。

この事の元から話をするなら、それは 六年以前(明治三年)に遡るので、三月十五日に迎い取りた子供がいるであろう。
その子を それから今まで、月日が しっかりと抱きしめていた。
早く 見せたい (=生まれ返したい)。

これが 月日の思惑であるのに それを知らず、うちなる者は、何もかも、世界並のように思っている。

この話については、いろいろ思っているであろうが、これが第一に、そもそも “今がこの世の初まり” であることがわかるための 段取りなのだ。

この事は この位にして、また先の 道の様態(状況) を段々と、万事につけて、皆、説いておく。

この次に生まれる子は、名前を “たまへ” と付ける。
この子を早く見たい と思うなら、月日が教える つとめの手を しっかり憶えて つとめをせよ。
この話を 真実と思うならば、心を治めて 早く とりかかれよ。

今までは 何を言っても、一れつの 人々の胸もわからないし、その日も来ないので、言った通りに見えて(=実現して)こなかった。
段々と 胸もわかれば 期日も到来してきたので、月日の心は ひどく 急込んでいる。

これ(=今話題になっているつとめの証拠) さえ 早く見えた(=実現した) ならば、これからの布教伝道において、かなう者は いない。
月日が、これを しっかり見せたなら、あとの布教伝道の仕事は どんな事でも 話通りに実現していく。

今までも、をびや許しや ほふそ(疱瘡)の守りなどの この許し(=許し物)を、皆は 何と思っていたのか。
このたびは、どんな事でも すっきりと、みな 本当の事を言って聞かせる故、よく 思案せよ。

これからは、をびや許しによるたすけも、しっかりと 切ないことなく、早く 産まれるようにする。
それには、段々と 口で何事を言っても、月日の言うように しなければならない。

何事でも、しっかり 月日が言うようにせよ。
月日の言うことに、違うことはない。
どんなたすけをするのも、みな つとめによるので、月日が言うように 確かに 実行するなら、たすける。

真実の心があるなら、月日の方も、しっかり請け合って たすけをする。
このたびは、たすけをするのにも、真実に請け合って たすけをするので、これは 今が 初めである。

これ程に 月日の心は 急込んでいるのだから、そばの者も、月日の言う通りに、つとめの拵え(=準備) をせよ。

この たすけをするもよう(=手段) は、どれとどれ というものではなく、どんな事も、皆 つとめによるのである。
そして つとめでも、同じことをするのではないので、みな 願いに応じて、それぞれ 違った手を教える。

今までの道すがら というのは、どういう道であったのか 知っている者はいない。
しかし これからは、どんな道でも 段々と、よろづ(=幾重の) 道筋を、みな 分かり易く言って聞かせる。

月日より 道筋について 何でもよく聞いて、聞き分けたなら、この、今 言っている残念というのは、無理ではない、当然である、と 分かるであろう。
月日が この残念という一条 を晴らしたなら、そのあとは 陽気づくめである。

日々に 陽気づくめになっていく というのは、どんな事か 誰も知るまい。
何もかも 陽気というのは 皆 つとめによるので、それ故、珍しい事を みな 教えるのである。

段々と つとめを教えることについての段取りは、まず、そばの者の心を 胸のうちより みな 掃除する。
掃除したあとは、神の話を聞いて 日々に 心が勇んでくるので、その時 よろづのたすけを現わす つとめ の手を付ける (=手を教える)。

このつとめはどういうものか と言うと、をびや(産屋)・ほふそ(疱瘡) 等を たすけるものである。
このたすけは、いかにするか と言うと、ほふそ(疱瘡) をしないように、との つとめを教えるのである。

この道を 早く教えよう と急込んでいるのは、このつとめによって 世界一れつの心を澄ますのである。

この話を どういうことに 聞いているか。
これは 世界をたすけるための もよう(=段取り) である。

どのような たすけ をするのも、真実の親(=月日) が 教祖をやしろとして居るから、みな 引き受けるのである。
このことについて、これこそ真実なのだ と思うなら、その誠真実を受け取って、心次第に たすける。

心さえ真実に澄んだなら、どんな事でも 違うことはない。
今までは、月日が どれ程思っても、そばの者の心は、心を澄まさないから 分からなかった。
心を澄まして 親を信頼せよ。

これからは、どんな つとめを教えるのも、人間の心で教えるのではない と考えよ。
月日は、つとめだけでなく どんな事も教えるが、これは、この世 創めてから 今までにない事ばかりである。
人間の心で思うようなことは、月日は 何にも言わない。

月日は、どんな事も みな 一れつの人々に教えて、陽気づくめにする。
世界中、みな 一れつが澄み切って、陽気づくめに暮らすことなら、これを見て、月日も確かに心が勇む、ということになるので、そうなったならば、人間であっても、みな 同じことである。

すなわち、この世界の人々の 心が勇むならば、月日も 人間も 同じことである

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第七号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第七号】の散文でした。

毎回、最後に記述しておりますが、
「おふでさき」口語訳の書写シリーズ、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、
天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、
少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで、
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第七号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました

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