「おふでさき」【第九号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9

「『おふでさき』【第九号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

教祖百四十年祭へ向かう三年千日年祭活動期間に突入した本年2月から、
芹澤茂先生著『おふでさき通訳』を教材として「おふでさき」口語訳を書写する
“「おふでさき」を散文で読もう” シリーズを始めました。

今回は、9回目です。

前回は「おふでさき」【第八号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第九号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9

book read literature

今回は、「おふでさき」【第九号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第九号】口語訳 書き写し

【第九号】

(七十八年老女 明治八年六月)

「今までは何を言っても人間の心(で言っていること)のように思っていたが、このたびは、何を言っても人間の心があるとは、決して考えるな。

どんな事でもしっかりと聞いてくれ。
人間心は決して混ぜない。

月日がどんな事もしっかりと言い掛けるから、これをよく聞いてくれ。」
(1~4) 

「月日がやしろとなる者を二人共、別間に隔てておいてもらいたい。
(このことを勇んでしてくれたなら)それからは何ごともしっかり請け合ってたすけをする。
(これを)しっかりと見ていよ。

この先(=将来)は、(ここで)どんなたすけをするのも、みな(せかいでのたすけを)請け合う元であるのだ。
(それ故)どんなことを言っても(月日の言うことを“そんなことは出来ない”と言い)消さぬように、しっかり聞いて承知してくれ。」
(5~8) 

※「月日よりやしろとなるを二人」(五)
とは、教祖と こかん様である。

別間とは、明治五年の 別火別鍋 のことから推察すると、
家族や信者から離れた部屋、

すなわち、
お二人に それぞれ 専用部屋 合計二つ ということと考えられる。

(芹澤茂『おふでさき通訳』P,342) 

「この先は、どんなに難しい病でも、みな(月日が)請け合ってたすける。

人間に病というのはないけれど、この世創まりを知っている者はない(ので、ほこりを積んで病にもなる)。
このこと(=“この世の初まり出しは月日である”ということ) を知らしたいから(その日を待っていた、なのでその時期まで)だんだんと(人間の)修理や肥として医者や薬を(教え、これらが請け合ってたすけを行ってきた)。

これからは何でも万事みな説いて聞かすから、どんな事でもしっかりと聞くのだ。」
(9~12) 

「これまで(言うべきことは)大抵の話は説い(て聞かし)たが、まだ言っていない(月日の心の)真実がある(ので言っておく)。
今日からはどんなことを言うやら(わからないが、よく聞け)。

月日の心は本当に急込んでいる。
日々に何を急込んでいるかと言うと、“月日がとびでるもよう(=段取り)” ばかり。

この話をしっかり聞いて承知せよ。
(このために)どんなことをするか知れないぞ。」
(13~16) 

「この先の道の様態をしっかりと聞き分けてくれ。
(これは)月日の頼みである。

月日がとびでたということを聞いたなら、かんろだいを早く出せ。
(そのため)かんろだいを据える処(=場所)のぢばを しっかりと心積もりを(しておけ)。

これ(=ぢば)さえ確かに定めておいたなら、どんなこと(が起きてきて)も、危ないことはない。」
(17~20) 

「“月日がとびでるところ”をちょっと(=簡単に)話(しておくが、それは)“高い所や遠い所” (である)。
その話(=将来このことが起きた時の話)を聞いたならば、一れつ(の人々)は、“なんと月日はえらいものだなぁ”と、世界中みなだんだんと言うであろう。

その日が来たなら、(人々の)胸(の靄)が晴れる(に違いない)のだ。
(そしてその時は、月日の)三十八年以前から今までの胸のざんねん、(すなわち人間を見て)本当に気の毒だ(と思っていたことも晴れるのだ)。」
(21~24) 

「このたびは、どんなこともしっかりと、みな一れつ(の者)に知らす。
知らすといっても、何を知らすのかと思うであろうが、“元なるをやを確かに知らす”のである。

このようなことを言い掛けて(元なるをやを)知らすのも、何のことか(その理由は)誰も知らぬであろう。
この世を一れつに(みな)たすけたいから、この真実を知らし掛けるのである。」
(25~28) 

「今までにないたすけをするのであるから、元を知らさないわけにはいかない。
今までも知らぬことを(色々)教え(てき)たのは、(つまりは)元なるをやを確かに知らせる(ためである)。
元なるのをやを確かに知ったならば、どんなことでもみな引き受け(てたすけ)る。

この話は、誰が(=人間が)言っていると思うなよ。
月日の心で言っているのである。」
(29~32) 

「よろづよの世界一れつを見渡してみよ。
病にもいろいろある。
このたびはどんな難しい病でも、請け合ってたすける(ことのできる)家伝を教える。

(また)これからは、確かに(たすかる)薬味を言って聞かす(から)、何を言っても承知してくれ。」
(33~35) 

「このたびの悩むところは辛いであろうが、(これを越した)あとのところは楽しみ(があること)をよく知れ。
(このことについては)先より(=前もって)精一杯ことわりが言ってあるではないか、(それを)思案してみよ。

どんなことをするにも、先からことわって取り掛かる(のが月日の)仕事である。
この話はどういうことに思っているのか、月日が自由(自在のたすけ)を知らしたい故(段取りをしていることである)。」
(36~39) 

「真実にこの一条(=一点)を早く(見せたい)と、月日の心は急いているけれども、そばの者にどれ程月日が頼んでも、聞き分けがない(というのは)、なんというざんねん(なことか)。

どんなことを言っても、今のこと(=眼の前のこと)など何も言ってはいない(、先を見通して話をしているのだ)と思え。
だんだんと(=順序を追って)何の話をするのにも、先の(=将来の)ことばかり言っておく(のである)。」
(40~43) 

「これからは何の話をする(かという)ならば、かんろだいの話という一条(=一点)である。
今あるかんろだいというのは、ちょっとの雛形としてだけのもので、これからだんだんしっかりかんろだいのもよう(=段取り)(について)言って聞かす(から、よく承知してくれ)。

(まず)この台(の形状であるが、下の段から言うと、真中)を少し彫り込み、差し渡しを三尺にして、六角(=六角形)にせよ。」
(44~47) 

「今までにいろいろ話を説いてきたのは、この台を据える段取り(についてのこと)ばかりである。
これさえしっかり据えておいたなら、何にも怖いことも危ないこともない。

(けれども)月日の指図でしたことを、これを止めるようなことなら、わが身(の守護)が止まる(ような怖いことになる)。
(やがては)これ(=かんろだい)を見て、“本当に真実結構(なことだ)”と、“これこそ月日の教えである”(と、みな言うようになる)。

(将来)この台が出来上がったなら(直ぐに)つとめをするので、(そのときは)どんなことでも叶わぬということはない。」(48~52) 

「この台もいつどうせよとは言わない。
出来上がったならつとめをする。

これ(=かんろだいを据えること)さえ(決まり)、つとめに取り掛かるということになったら、どんなことでも叶わぬことはない。

よく見ていよ。
確かに月日がぢきもつ(=食物)の与えをしっかり渡す。

(それは)どんな事でも、確かに本当だという証拠がないと、(いざという時)危ういことになる(からである)。」
(53~56) 

「これからはどんな事もだんだんと細かく説く。
これに背かないように(確かに実行)せよ。

この話は何を言うのかと思うなよ。
かんろだいのもよう(=段取り)ということ(についての話)である。

この台も、だんだん(上に十二段)積み上げて、またその上は(差し渡し)二尺四寸(の台)とする。
その上の所に平鉢を載せておいたなら、そこに確かに ぢきもつ(食物)を与えよう。」
(57~60) 

「ぢきもつを誰に与えるかというなら、この世初めた(時の)親(である教祖)に渡す。
天から与えを貰う教祖の心(に思うところ)は誰も知らないであろう。

月日がしっかりと心を見定めてからぢきもつを渡すのである。
月日は、これを(教祖に)渡しておいたなら、あとは親(=教祖)より心次第に(渡すであろう)。」
(61~64)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,,339~363
さまよい人
さまよい人

「おふでさき」も、号数が進むにつれて、

人間を救済するための具体的な段取りに関する話題が増えてくるような感じですね。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第九号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第九号】の概要

「No,9」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第九号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第九号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第九号について】

明治八年五月に第八号が記されましたが、
その翌月の六月には、第九号、第十号、第十一号と、三つの号が一ヵ月の間に書かれています。

この六月は、だいへん重要な月で、
二十九日(陰暦五月二十六日)には、ぢば定めが行われました。

ぢばは、立教以来、教祖のみ心には明らかでありましたが、子供の成人を待たれて、ようやく定められたものです。

それだけに、ぢばに建てられるかんろだいの意義が、第八号に続いて、第九号、第十号でも繰り返し説かれています。
いわば、教理体系の上から言って、たすけ一条の道が、このぢば定めによって、核心に到達した感があります。

おふでさきが記された明治二年から明治十五年の間でも、
この六月は、特に教祖の筆が進んだ時期であることからも、内容の重大性がうかがわれます。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,298)
さまよい人
さまよい人

この矢持先生の「第九号」についての説明、…重いです。

「ぢばに建てられるかんろだいの意義が、第八号に続いて、第九号、第十号でも繰り返し説かれています。
いわば、教理体系の上から言って、たすけ一条の道が、このぢば定めによって、核心に到達した感があります。
おふでさきが記された明治二年から明治十五年の間でも、この六月は、特に教祖の筆が進んだ時期である(註:六月だけで第九号~十一号まで一気に書きあげられている)ことからも、内容の重大性がうかがわれます。」

これまで何となく漠然と拝読していた「第九号」が、
急に「特別な号」に感じられるようになりました。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第九号の概要】

初めに教祖の言葉には人間の心はないことを繰り返され、やしろとなる二人を別間に置いてもらいたいと仰せになる。

続いて、医薬を元初まりを知らせるに先立つ修理、肥と位置付けられ、この道は元、元の親を明かして、今までにないたすけをすると宣べられる。

この間に、月日自らとび出ての積極的な布教伝道に掛かる旨を仰せ出される。

後段では、どんな難病もたすける家伝を教えると、かんろだいを据え、つとめをすることによって授かるぢきもつ(かんろ)に言及され、どんな願いも叶うと請け合われる。

また、かんろだいの寸法、形状の角目を示される。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,313)
さまよい人
さまよい人

人類救済計画が着実に進められていく様子が、よく伝わってきますね。 

関連動画の紹介

youtube on computer

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第九号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

 現代訳で聞く、おふでさき09 01~64 https://www.youtube.com/watch?v=eNSlV2pH0e0

【ゆっくり天理教 てんちり】> 現代訳で聞く、おふでさき09 01~64)より

改めて「おふでさき」【第九号】を散文で読む(括弧書きも外して)

man reading a book in the meadow

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第九号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第九号】口語訳(芹澤茂先生)

(教祖七十八才 明治八年六月 )

今までは 何を言っても人間の心で言っていることのように思っていたが、このたびは、何を言っても人間の心があるとは、決して考えるな。

どんな事でも しっかりと聞いてくれ。
人間心は 決して混ぜない。
月日がどんな事もしっかりと言い掛けるから、これを よく聞いてくれ。 

月日がやしろとなる者を 二人共、別間に 隔てておいてもらいたい。
このことを勇んでしてくれたなら、それからは 何ごとも しっかり請け合ってたすけをする。
これを しっかりと見ていよ。

この先(=将来)は、ここで どんなたすけをするのも、みな 世界でのたすけを 請け合う元であるのだ。
それ故、どんなことを言っても、月日の言うことを “そんなことは出来ない” と言い消さぬように、しっかり聞いて 承知してくれ。

この先は、どんなに難しい病でも、みな 月日が請け合ってたすける。
人間に病というのは ないけれど、この世 創まりを知っている者は ないので、ほこりを積んで 病にもなる。

このこと(=“この世の初まり出しは月日である” ということ) を知らしたいから、その日を待っていた。

なので、その時期まで、段々と 人間の修理や肥として 医者や薬を教え、これらが 請け合って たすけを行ってきた。
これからは、何でも 万事 みな 説いて聞かすから、どんな事でも しっかりと聞くのだ。

これまで言うべき事は 大抵の話は 説いて聞かしたが、まだ 言っていない 月日の心の真実があるので 言っておく。
今日からは どんなことを言うやら 分からないが、よく聞け。

月日の心は 本当に 急込んでいる。
日々に 何を急込んでいるか と言うと、“月日がとび出るもよう(=段取り)” ばかり。

この話をしっかり聞いて 承知せよ。
このために どんなことをするか 知れないぞ。

この先の道の様態を しっかりと聞き分けてくれ。
これは 月日の頼みである。

月日がとび出た ということを聞いたなら、かんろだいを 早く出せ。
そのため、かんろだいを据える処(=場所) の「ぢば」を しっかりと 心積もりをしておけ。
これ(=ぢば)さえ 確かに 定めておいたなら、どんなことが 起きてきても、危ないことは ない。

“月日がとび出るところ” をちょっと(=簡単に) 話しておくが、それは “高い所や遠い所”  である。
その話(=将来このことが起きた時の話) を聞いたならば、一れつの人々は、“なんと月日は えらいものだなぁ” と、世界中 みな 段々と言うであろう。

その日が来たなら、人々の 胸の靄が 晴れるに違いないのだ。
そして その時は、月日の三十八年以前から 今までの胸のざんねん、すなわち 人間を見て 本当に 気の毒だと思っていたことも 晴れるのだ。

このたびは、どんなことも しっかりと、みな 一れつの者に知らす。
知らす といっても、何を知らすのか と思うであろうが、“元なる親を確かに知らす” のである。

このようなことを言い掛けて 元なる親を知らすのも、何のことか、その理由は 誰も知らぬであろう。
この世を 一れつに 皆 たすけたいから、この真実を 知らし掛けるのである。 

今までに ないたすけをするのであるから、元を知らさないわけには いかない。
今までも 知らぬ事を いろいろ教えてきたのは、つまりは、元なる親を 確かに 知らせるためである。
元なるの親を 確かに知ったならば、どんな事でも みな 引き受けてたすける。

この話は、誰が(=人間が) 言っていると思うなよ。
月日の心で 言っているのである。 

よろづよの 世界一れつを 見渡してみよ。
病にも いろいろある。
このたびは どんな難しい病でも、請け合って たすける事のできる 家伝を教える。

また これからは、確かに たすかる薬味を 言って聞かすから、何を言っても 承知してくれ。

このたびの 悩むところは 辛いであろうが、これを越したあとのところは 楽しみがあることを よく知れ。
このことについては、先より(=前もって) 精一杯ことわりが 言ってあるではないか、それを 思案してみよ。

どんなことをするにも、先から ことわって 取り掛かるのが 月日の仕事である。
この話は どういうことに 思っているのか。
月日が 自由自在のたすけを 知らしたい故、段取りをしていることである。

真実にこの一条(=一点)を早く見せたいと、月日の心は急いているけれども、傍の者にどれ程月日が頼んでも、聞き分けがないというのは、なんというざんねんなことか。

どんなことを言っても、今のこと(=眼の前のこと) など 何も言ってはいない。
先を見通して 話をしているのだ と思え。
段々と(=順序を追って) 何の話をするのにも、先の(=将来の) ことばかり言っておくのである。

これからは 何の話をするか というならば、かんろだいの話 という一条(=一点)である。
今あるかんろだいというのは、ちょっとの雛形としてだけのもので、これから 段々 しっかり かんろだいのもよう(=段取り) について 言って聞かすから、よく 承知してくれ。

まず、この台の形状であるが、下の段から言うと、真中を 少し彫り込み、差し渡しを 三尺にして、六角(=六角形) にせよ。

今までに いろいろ話を説いてきたのは、この台を据える 段取りについて の事ばかりである。
これさえ しっかり据えておいたなら、何にも 怖いことも 危ないことも ない。

けれども、月日の指図でしたことを、これを 止めるようなことなら、わが身の守護が 止まるような 怖いことになる。
やがては、これ(=かんろだい) を見て、“本当に真実結構なことだ” と、“これこそ月日の教えである” と、みな 言うようになる。

将来、この台が出来上がったなら、直ぐにつとめをするので、その時は どんなことでも叶わぬ ということはない。

この台も いつ どうせよ とは言わない。
出来上がったなら つとめをする。

これ(=かんろだいを据えること) さえ決まり、つとめに取り掛かる ということになったら、どんなことでも 叶わぬことはない。
よく 見ていよ。

確かに 月日がぢきもつ(=食物) の与えを しっかり渡す。
それは どんな事でも、確かに本当だ という証拠がないと、いざという時 危ういことになるからである。

これからは どんな事も だんだんと細かく説く。
これに背かないように、確かに 実行せよ。

この話は 何を言うのか と思うなよ。
かんろだいのもよう(=段取り) という事についての話である。

この台も、だんだん上に 十二段積み上げて、また その上は 差し渡し 二尺四寸の台とする。
その上の所に 平鉢を載せておいたなら、そこに 確かに ぢきもつ(=食物) を与えよう。

ぢきもつ(=食物) を誰に与えるか というなら、この世 初めた時の親である 教祖に渡す。
天から与えを貰う 教祖の心に思うところは 誰も 知らないであろう。

月日が しっかりと 心を見定めてから ぢきもつ を渡すのである。
月日は、これを 教祖に渡しておいたなら、あとは 親(=教祖)より 心次第に 渡すであろう。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第九号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第九号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。
散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。
機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで、
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第九号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8
天理教「おふでさき」第八号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました

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