Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号87番「防府大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号88番「愛豫大教会」について勉強します。
- 愛豫大教会(あいよ だいきょうかい)
- 井上清則の愛媛布教(明治25年頃)
- 田坂弥太郎の入信(明治25年)
- 井上清則による 越智孝輝「風眼」のおたすけ(明治25年頃)
- 井上清則にたすけられた人々による布教所の建築(明治26年)
- 井上清則の旅立ち(明治27年)
- 越智久八 初代会長の生い立ち 〜 布教専務に至るまで(明治元年〜明治27年頃)
- 教会設置気運の高まり 〜 愛豫支教会の誕生(明治26年〜明治28年)
- 教会設立後、越智久八 初代会長たちに押し寄せる苦労の数々(明治28年頃〜明治40年頃)
- 愛豫分教会へ昇格(明治42年)
- 愛豫のどん底時代(明治42年頃〜大正8年頃)
- 教会の移転(大正8年頃〜大正10年頃)
- 越智久八 初代会長の辞任 〜 出直し(大正10年〜昭和9年)
- 越智孝輝2代会長の就任(大正10年)
- 越智孝輝2代会長、苦心の教会運営(大正10年頃〜昭和10年頃)
- 神殿の移転建築(昭和20年頃〜昭和25年)
- 越智孝輝2代会長の辞任、越智 忍3代会長の就任(昭和29年)
- 越智 忍3代会長就任後の動き(昭和29年〜昭和46年頃)
- おわりに
愛豫大教会(あいよ だいきょうかい)

井上清則の愛媛布教(明治25年頃)
井上清則は、高知大教会 教師で、おたすけの名人、敏腕家であったといわれる。
(ただ、井上清則は) 高知(大教会)で(は) 他の役員との折合いが悪く、
高知(大教会)を出て、繁藤 (現・繁藤大教会) へ預かりとなり、繁藤よりおたすけに歩いていた。(井上清則は) 主として、西岡利吉と共に 本山から吉野川上流を遡り、別子銅山の山を越え、愛媛県 東予地区を歩いていたという。
(井上清則は)
明治25年(1892) 秋には、(愛媛県) 越智郡 大西町新町の「延喜屋」と呼ぶ 商人宿 (当主・村瀬喜八郎) に止宿して「病気を治す拝み」と称して おたすけに精を出していた。
(それは)
今日は誰それの足が立った、昨日はどこそこの精神病が治った…
と、(愛媛県) 大井村を始め 近村に噂が流れ(る程 勢いのあるものだっ)た。
田坂弥太郎の入信(明治25年)
(井上清則のおたすけ活動が拡大する中)
田坂弥太郎 一家、宿屋主人等が入信した。
(新たな入信者の中でも) ことに 田坂弥太郎は(熱心で) 講元となり、井上(清則の布教)を助けた。田坂家は (愛媛県) 大井村の豪農で 相当の地持ちであったので、
講元となった田坂(弥太郎) は、私財を投じて 井上(清則)の布教活動に力となった。田坂(弥太郎) の入信の動機は判明していない。
毎日毎夜、同村(大井村)「延喜屋」で 井上(清則) の説教があったところから、教理に感じて 入信したのではないか、と推察される。田坂(弥太郎) の入信は、明治25年2月10日と伝えられる。
田坂(弥太郎) は、愛豫支教会 設置後、(その) 副会長となり、明治33年9月25日 出直している。田坂家の 2代・駒吉は 理事長、3代・藤一は 理事として、
(愛媛県) 中島方面 (現・松山市分教会) 及び 地元(の) 布教(に励んだ。また 田坂家は) 上級教会(や) ぢばへの (運びの)上に (多額の) 私財を投じ、
特に、繁藤(支教会) が借金に苦労した時には 相当力になり、
(それは) 愛豫が 繁藤より分離して 高知の直属扱いとなる基となった。
井上清則による 越智孝輝「風眼」のおたすけ(明治25年頃)
井上(清則) によって伝えられた教えは 飛火の如く伸び、おたすけに番号札を出していた程であったといわれる。
この噂は 越智久八 (後に 初代会長となる) と、(その妻) 亀 の耳にも聞こえて来た。
丁度 その頃、越智家では、折角生まれた 総領息子・孝輝 (後の2代会長) が、2歳になった冬、眼に一杯ヤニが出て、これが悪化して「風眼」となっ(てしまってい)た。
拝み屋・金比羅様・医師に… と、尽くせる手は全て尽くしたが、更に悪化し、遂には、医師・拝み屋からも、
「これだけ手を尽くしても (何ともならない以上、もう) どうにもなりません。私方の力では どうすることも出来ません。
(事ここに至っては) これまでの因縁と諦めて下さい。
この坊の目は、(いくら) 金や物の力を注ぎ込んでも、とても開く目ではありません」
と サジを投げられた。(越智) 一家は 絶望の淵に追い込まれ、(悲しみのあまり、いっそ) 一家心中してしまおうか… と(まで) 相談した(程だった) とのことである。
(そのような時、越智久八・亀 夫妻は、井上清則のおたすけ活動隆盛の噂を耳にした。
越智) 初代会長夫妻は、(藁にもすがる思いで) さっそく井上(清則)を尋ね (我が子・孝輝の風眼のおたすけを願っ)た。(すると) 井上(清則)は、
「(どうやら) この子は、(本来) 盲目になるべき因縁の子(のよう)です。
前生において、そういう種を蒔いているので、蒔いた種は(必ず)生えます。(それが天理です。)
ご両親のお心としては、両眼共 開けて頂きたいでしょうが、(残念ながら) それは、無理な願いです。
(しかし) 一眼だけならば、この井上が身を削ってでも、神様に開けて頂くよう祈願させてもらいましょう。
(もしも、一眼では不十分だ) 両方共 開けてほしい、と言われるのならば、お気の毒ですが、お断り致します」
と 言った。(思いもかけぬ衝撃的な告知に) (越智)夫婦は 顔を見合わせたが、
「それでは、先生の仰せの如く、一眼だけなら開けてもらうことが出来ますか」と (おそるおそる)尋ねた。
すると、(井上清則から)
「はい、井上(清則)が、確かに引き請けます」と (これまで どこを訪ね歩いても返ってくることのなかった 希望を与えてくれる) 答えが返ってきた。
(越智夫妻は)
「それならば (ぜひ) お願いします」
と (必死の思いで、井上清則に 我が子のおたすけを請うた。井上清則は、我が子のおたすけを願う越智夫妻の言葉を) 聞くや否や、矢庭に素裸になり、井戸端で何十杯かの水をかぶった。
そして、元の座に着き、神様の話、おさづけを取次いだ。(そのような 井上清則と越智夫妻の出会いがあった後、
井上清則は 越智夫妻の息子のおたすけに) 幾日かの間 通った。おたすけに通う内 (それは10日以内と思われる)、(ついに奇蹟は起きた。
越智家の総領息子・孝輝の) 右眼(が開いたのである。
事前の井上清則の宣言通り
越智久八・亀夫妻の息子である 孝輝の一眼、右眼) は (奇蹟的な) 御守護を頂いたのだった。この奇蹟を契機として、越智家は (天理教に)入信(を)した。
この時のことを (越智久八)初代会長は
「これでお陰を受ける、こんなに有難いことはない、心が明るくなった」
と言い、(初代会長夫人) 亀 は、うれし泣きに声を上げて泣いた、と伝えられている。
井上清則にたすけられた人々による布教所の建築(明治26年)
井上清則の珍しい たすけは (愛媛県)大井村 近村に伝わり、益々 教勢は伸び、
寄り集う 善男善女の群は、おてふりに夢中になる者、三曲に熱中する者… と、
俄然、天理教一色に塗りつぶされたかの観になった。そして、明治26年(1893) 冬には、
4間半に 9間の 布教所の建築 (12月完成) が出来た。
井上清則の旅立ち(明治27年)
井上(清則) は この地に 1年半余 滞在し布教した後、
(明治)27年秋には、次の布教地へと出発している。井上(清則) は
「私は 1ヵ所くらい教会が出来たからといって 鬼の首でも取ったかの如く、後生大事にそれを守って行く訳にはいかない。
私は、一生の内 沢山の人を救けさせて頂き、数ヵ所の教会を作らせてもらいたい。
ここ (愛媛県大井村) の道は これで目鼻がついたと思うから、後のことはよろしく頼む」
との言葉を残して、
明日の飛躍を心に描きつつ、一同に惜しまれる中 (大井村)を去って行った。
越智久八 初代会長の生い立ち 〜 布教専務に至るまで(明治元年〜明治27年頃)
(後に 愛豫支教会 初代会長となる) 越智久八は、
(愛媛県)大井村の隣、小西村脇の豪農で 資産家の家に、
明治元年(1868) 6月18日に誕生した。
父を 佐市と言い、幼名を 峯吉 と呼び、長じて 久八 と改名した。(越智)久八は、男2人女2人の 末子であったが、
兄が早世して 2人の姉は分家したので、越智家を相続することになり、22歳で家を継いだ。田畑の大部分は小作に出し、申し訳程度の農事は使用人に任せて (自らが) 野良に出かけることはなく、朝から酒と浄瑠璃を語り、タ方より また今治方面へ飲み歩くのが日課のようだった。
周囲の人々は (越智)久八に放蕩を止めさすため 結婚させ、また 26歳で村長に推したりもした。この越智家は、(豪農で資産家、裕福な家であったが) 代々 妻が早世したり、また 産後に病気を起こすといったことが 続いていた。
(越智)久八の妻・亀 もまた、初産・2度目の出産ともに難産で、(何とか…との願いも虚しく) 遂に出直してしまった。(そのように、やっと授かった第三子の 孝輝が、風眼でほとんど失明しかけたわけである。
越智家の悲しみが如何ほどのものであったかは 想像に難くない。そのような絶望感で 暗闇に包まれたかの如き越智家に 一条の光をもたらしたのが、天理教布教師の井上清則であった。
人間の力ではどうすることも出来ない運命に直面する中で、
井上清則から聞かされた越智家いんねんの教理は、越智久八の胸に 深く染み込んだ。)(越智)久八は、越智家の 深い「いんねん」を悟った。
(そして、越智久八は) いんねん納消の道を歩むべく、
明治27年末より、住みなれた故郷を後にして 布教専務に 踏み切ったのである。
教会設置気運の高まり 〜 愛豫支教会の誕生(明治26年〜明治28年)
明治26年12月、
講元・田坂(弥太郎) の援助のもとに、4間半に9間の 集会所が出来上がり、熱心な周旋信者も増加した。布教活動の中心となっていた 井上(清則)は 次の布教地に行っ(てしまっ)たが、
真実の種は芽生え、ついに、時来たり 機熟して、いよいよ 教会設置の議が持ち上がった。(上級) 高知(大教会)の指示もあって、建物を台として 設置の請願をしたところ、
明治28年(1895) 10月13日、(天理教教会)本部の許しを得た。初代会長には、越智久八が 推されて就任した。
ここに、愛媛県越智郡大井村 大字新町87番地に、高知分教会部内「愛豫支教会」が誕生したのである。
教会設立後、越智久八 初代会長たちに押し寄せる苦労の数々(明治28年頃〜明治40年頃)
越智久八は、会長になったが 若年であり、かつ 入信も遅く、先輩も多かったところから 対人関係で苦情も多く、生活苦も重なり 心も倒しがちであった。
このため、病気をしたり問題が起こったり… の連続で、(その都度) おさしづを仰いでは心を持ち直し、布教に内治に また上級勤めに… と道の御用に励んだ。
一方では、(田坂弥太郎) 副会長(を)始め(とする)役員の資産にも限りがあり、借金は、雪だるま式に増えていった。
その当時の布教費や生活費は、ほとんど借金でまかなっていたと思われる。しかし (そのような中でも) (越智久八) 初代会長は、
「人間も子を生む。教会も理の子を(生む)。子供は10ヵ月腹の中にいなくても良い。
月足らずに生まれても 手を入れたら一人前に育つ(ではないか)」
と 説き (教会の先行きに不安を抱える一同を 励まし続けた。)(そして) 話に良いところがあると聞けば すぐ役員会議を開き、話が定まれば 早速 旅費雑費を借り入れ、借金など少しも意にかけずに布教に行かせるなど(して)、教勢拡張に力を尽くした。
愛豫分教会へ昇格(明治42年)
明治42年2月18日、
愛豫(支教会)は 分教会に昇格した。部内教会は 21ヵ所を数えた。
愛豫のどん底時代(明治42年頃〜大正8年頃)
しかし、一方においては、
(日に日に) 教会の収入面がおぼつかなく(なっていき)、借金で(も)如何とも出来なく(なってしまった。
そして、ついには) 分教会の土地も建物も 一切を権利者に渡し、移転をせねばならなくなった。大正5年(1916)末、
(愛豫支教会は) お目標を奉持して、夜逃げ同様(の形で) 今治市米屋町の長屋(借家)に移転(した)。
(そこから) 3年余、赤貧のどん底になり 役員信者は離散。
光を失った日が続いた。
教会の移転(大正8年頃〜大正10年頃)
大正8年暮には、(今治)市内 慶応町へ移転の話が起き、
大正9〜10年、増改築をして移転した。借金の方も、
まだ 尾を引いてはいたものの、
(越智久八 初代会長や 田坂弥太郎 副会長を中心とした 愛豫一同が伏せ込んできた誠真実の種が芽生え始め)
ようやく 目鼻がつくようになっ(てき)た。
越智久八 初代会長の辞任 〜 出直し(大正10年〜昭和9年)
(越智)久八は、病気と(なり) 上級会長の命によって、
大正10年、越智孝輝に 会長(職)を譲った。その後、(越智久八) 初代会長は、病気も平癒し、高知大教会 専務役員として10年間勤めた。
(高知大教会専務役員として勤める)その間(も)、(越智久八 初代会長は) 高知(大教会)より 愛豫 部内へ 手紙で仕込みを続け、
(そして) 昭和9年(1934) 10月17日、出直した。
越智孝輝2代会長の就任(大正10年)
大正10年 6月11日、
越智孝輝が2代会長に就任した。翌(大正)11年 5月13日、
(2代)会長 就任奉告祭を執行した。
越智孝輝2代会長、苦心の教会運営(大正10年頃〜昭和10年頃)
その頃(の愛豫支教会は)、まだ相当な負債があり、役員、部内教会の心は 2派3派に分かれていた。
(それに加えて) 借金の取立ては一段と厳しく、
(また、上級の) 高知(大教会)からは 部内教会の設置を…信者の増加を…と、成人を急き込まれ(続ける、重苦しい状態であっ)た。(そのような状況下にあった 越智孝輝2代会長は、じっと) 教会に落着いているわけにもいかず、部内人心の統一を図りに、また 教会設置運動、おたすけ・にをいがけに… と歩き回った。
そのため、(会長就任早々から) 教会に不在がちな日々を送らねばならなかった。(越智孝輝)2代会長は、先ず、
負債の整理、分教会内輪の陣容確立、部内人心の統一 、
以上 3目標を立てて つとめると共に、部内教会(の)設立に奔走した。教祖40年祭の倍加運動、昭和普請の献木運動(の上)にも 懸命につとめた。
その甲斐あって、昭和10年頃までには (愛豫支教会の) 負債もなくなり、
22ヵ所だった部内教会も 53ヵ所となった。
神殿の移転建築(昭和20年頃〜昭和25年)
(これまで、愛豫支教会では) 神殿の移転建築の議が、再三 持ち上がっ(てい)た。
しかし、一度は手付で流し、二度目は、移転地購入はしたものの場所が悪い等で(話がまとまらず) 移転建築には及ばなかった。(そうこうする内に) 昭和20年頃より、再び (神殿移転建築の)話が盛上が(るようにな)った。
(そして、ついに) 昭和23年1月、許しを得て (神殿の) 移転建築を成し、昭和25年(1950) 奉告祭を執行した。
越智孝輝2代会長の辞任、越智 忍3代会長の就任(昭和29年)
昭和29年4月26日、
2代(会長) 越智孝輝は、会長を辞任。
3代会長に 越智 忍が就任した。(越智)孝輝 (2代会長) は、
同年(昭和29年) 6月より (天理教)教会本部の説教所に勤め、
昭和38年2月2日、72歳で出直した。
越智 忍3代会長就任後の動き(昭和29年〜昭和46年頃)
越智 忍は、(昭和29年)3代会長に就任後、ただちに 教祖70年祭 (昭和31年執行) の年祭活動に勤め、
昭和32年には、信者室などの新築をなした。教祖80年祭(昭和41年執行) へ向かっての 実働 3ヵ年の間は おやさとに勤めた。
(そして) 教祖80年祭後の 昭和46年4月、
(奈良県)天理市布留町309番地に 信者詰所 (第20母屋) を完成した。〔現住所〕〒794-0072 愛媛県今治市山路831番地の1
〔電話〕0898-22-1627(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,6〜8)
おわりに

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
88回目の今回は、
「愛豫大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) という本の中にも大教会に関する記述がありましたので、自己覚え書きとして書写します。
高知系の布教者・井上清則は、明治二十五年、愛媛県越智郡に来て 大井村新町の商人宿「延喜屋」に足をとめ、“病気を治す拝みや” と おたすけに精を出した。
新町に住む 田坂弥太郎は 不思議なたすけ話を耳にし、毎日毎晩 行われる説教を聞きに行って 教理に感銘した。小西村脇の豪農 越智久八の長男・孝輝(二歳・愛豫二代)が風眼となり、医者に見放された。
清則の噂を聞いた久八は 訪ねていくと、清則は「この子は盲目になる運命の子、両眼は無理でも、一眼だけなら この井上が身を削ってでも 神様に祈願させてもらう」と言った。
越智夫婦は 一切を任せきり、右眼が開いた。二十六年に 布教所の建物が完成。
(『道〜天理教伝道史をあるく』(道友社編) P,88 )
お手振りや三曲の練習に熱中する者が増え、俄然 天理教一色に塗りつぶされたような盛況ぶりであった。
清則が 次の布教地へ出発した後、久八が 担任者に推され、新町に 愛豫支教会が誕生した。
久八は 教会設置と丹精に意を注いだ。
布教未開地の話を聞けば 役員会に諮り、布教者派遣のための旅費、布教費を借り入れて 教勢拡張に努めた。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】88回目の当記事では『天理教事典』の中の「愛豫大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことばかりでした。
愛豫大教会は 高知大教会から分かれた大教会ですね。
高知大教会については、以前勉強して 記事を投稿しました。

今回の勉強で知った、最初に愛豫大教会の礎を築いた井上清則先生の経歴が 興味深かったです。
井上清則先生は、本来は高知大教会の所属だったけれども、他の役員先生との折り合いが悪く、高知大教会を出て 繁藤からおたすけに出ていたとのこと。
そのエピソードだけでも、なかなか 個性の強い先生であったことが窺えます (^^)
それでもって、布教活動を頑張って、ある程度参拝者が出来たら また新天地を求めて旅立っていくという…
まるで「さすらいの伝道者」みたいな先生だったのですね。
「創業守成」(事業を新しく起こすよりも成果を守り続けていくほうが難しいの意)という四字熟語を習ったことがありますが、
きっと 井上清則先生は、
「創業」は得意だが「守成」は不得手、
というタイプの先生だったのでありましょう。
そのような、パワフル布教師・井上清則先生による 愛媛県東予地方における布教活動によって導かれた人々が「土台」になって生まれたのが「愛豫大教会」だった、
ということを 今回の勉強で知りました。
井上清則先生は、愛媛県東予地方に 約1年半余り滞在し、
「ここは、もう目鼻がついたから後を頼む」
と言い残して 次の布教地へと旅立っていかれたとのこと。
次は、どこに布教に行かれたのでしょうか。
パワフルでエネルギッシュな井上清則先生ですから、
きっと、次の布教地においても 次々と奇蹟的なおたすけを連発されて、多くの人々を救済されたのに違いない、
と 想像致します。

愛豫大教会の初代会長は、その井上清則先生のおたすけにより入信した 越智久八 先生。
越智久八先生 入信の元一日は、
幼いご子息(孝輝2代会長)が「風眼」にて失明しかけたところを、一眼 たすけて頂いたことによるもの とのこと。
「風眼」とは何か?
ネット検索してみました。
【風眼】 (ふうがん)
淋菌性結膜炎 gonorrheal conjunctivitis の俗称。
風や空気が原因でこの病気が起こるとされたことから,古くからこの名で呼ばれた。淋菌によって起こる結膜炎で,強い眼瞼および結膜の腫張と,大量の膿様眼脂(目やに)を伴う。
病変はしばしば角膜にも及び,角膜穿孔(せんこう)を起こし,あるいは白い癒着白斑を残す。耳前リンパ節は疼痛を伴い腫張する。
潜伏期はごく短く,数時間から3日程度で突然に発症する。
2~3週で眼脂は消退するが,乳頭肥厚を伴う結膜炎は数週間持続し,この間も淋菌は存在し,感染の危険を有する。母親が感染している新生児では,産道を通る際に感染し出生直後より強い症状を呈する。
これを新生児膿漏眼というが,これを予防するために,出産直後に新生児の眼にクレーデ点眼を行う。
大人では陰部からの直接感染による。
男性の場合,初めに右眼に起こることが多い。治療の第1の目標は他眼への感染予防であり,ペニシリン,アミノグリコシドの点眼を数時間にわたり,数分ごとに精力的に行い,また防御のための眼帯をする。
患眼に対しては抗生物質を含んだ大量の温生理食塩水で洗眼を行い,膿様眼脂を洗い流し,その後抗生物質の点眼を行う。幸い,日本ではきわめて少なくなってきている。
コトバンク 「風眼」より
執筆者:佐藤 孜
(出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報)
『天理教事典』「愛豫大教会」解説文によると、
それまでの越智家では、代々、妻が早世したり産後に病気を起こしたりして、出産にまつわる「節」が続いていたとのこと。
で、その時には、
やっと授かった越智家の総領息子が失明寸前で、医者や薬や拝み屋等、四方八方に救けを求めたものの、全てのところから断られ、万策尽きておられた。
そのような中、
たまたま愛媛県東予地方に布教に来ていた井上清則先生の噂を耳にし、
それで、藁にもすがる思いで おたすけを願われた。
そうしたところ、
「この子は、本来盲目になる因縁の子です。両眼の救済は無理ですが、一眼だけならば井上清則が身を削ってでも神様にたすけて頂けるようにお願いさせて頂きましょう」
との返答。
どこへ行っても「諦めて下さい」としか言われなかった 越智久八・亀夫妻にとって、
この言葉は どれほど嬉しかったことでしょうか。
そして、井上清則先生が 何日か おたすけに通ったところ、
風眼で ほとんど潰れかかっていた 越智夫妻ご子息の両眼の内、右眼が なんと見事に開いた!
『天理教事典』解説文には
「(その当時、越智家の者は)一家心中を考えるほどに絶望の淵に立たされていた」
と書いてありましたから、
越智久八・亀夫妻の その時の喜びが如何程のものだったか、想像に余りあります。
「この子は 一生暗闇の中で生きていかねばならないのか…」
と 我が子の不憫さで心塞がれていたであろう母親にとって、
この奇蹟は、本当にただただ感謝の気持ち、それしかなかったのではないか
と 想像いたします。
『天理教事典』には、
初代会長夫人の亀 奥様は
「うれし泣きに 声を上げて泣いた」と書いてありましたが、
さもありなん、という気がします。
豪農で資産家の家に生まれ、放蕩の限りを尽くしていた 越智久八 初代会長も、
このような奇蹟を見せられた上で、井上清則先生から「いんねん」の教理を聞かされた。
それは、さぞ 深く感じるものがあったと思います。
そこから、自らの生き方を改め、この道の人としてたすけ一条の道を歩まれた。
子供のたすかりを願う 親の心というのは、一人の人間の人生を大きく転換させる程 強いものだ、ということがわかります。
今の「愛豫大教会」は、そのような 不思議なたすけの元一日の上にあるのですね。
そう考えると、
後に2代会長となる 越智孝輝先生の 幼児時代の 風眼のおたすけが「愛豫」の出発点とも言えるわけで…
子供のたすかりを願う 親の思いというものが、後の 多くの人々のたすかりの原点にあるということ。
これは、深い史実だと感じます。
にんけんも こ共 かわいであろをがな
それをふもをて しやんしてくれ (14-34)
人間の中に自然と湧き上がってくる我が子を愛おしいと思う感情を通して、神様の人間に対する思いというものを想像してくれ、という このご神言が、改めて 沁み入ってくる気がしました。

また、
これまで【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を通して勉強する中で、実に多くの大教会が、その歴史の中で強烈な経済的困窮時代を経験していることを学んできたわけですが、
「愛豫大教会」もまた、他の多くの大教会同様、
その初期に 莫大な負債を抱え 激しい経済的困窮時代があった、という史実。
これについても、いろいろ感じさせられました。
大正5年には、借金が嵩んでどうにもならなくなり、
教会の土地建物を差し押さえられて、夜逃げ同様にして借家へ移転した、とのこと。
そして、そこから3年余も赤貧のどん底時代を通った、と書かれてありました。
それにしても「夜逃げ」とは、余程のこと…
当シリーズで勉強する中で、
この流れは ほとんどの大教会が経験したのではないか と感じる程に 頻出のパターンですが、
それほどに、天理教の教会にとって 経済問題というのは、昔からの大きな課題だ、ということでありましょう。
以前、
かつて愛豫の上級で同じ高知大教会部内だった「繁藤大教会」の初期歴史について勉強した際(第85回)、「信仰活動」と「経済活動」の両立の難しさを学んだことがありましたが、
今回改めて、教会の経済問題は、多くの教会に共通する課題だ ということを教えられました。
どうするのが 最も神意に添った在り方なのか、今の私には 皆目 検討がつきません。
しかし、今生において 天理教の教会にご縁をお与え頂いた上は、どうするのが最も適切なのか 考え続けていく必要があるなぁ… と、今回の書写学習を通して、改めて 感じさせられたことでした。
今回もまた、本当に知らない話ばかりで、これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、非常に感動すると共に、とても勉強になりました。
有難いことでした。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「愛豫大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。





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