Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
特に深い考えもないまま、
本年の3月末から
『天理教事典』(1977年版)に記載された
天理教各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を
無邪気に続けてきました。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
教会番号順に『天理教事典』を書き写してきましたので、
今回は 教会番号14番「北 大教会」を書き写す番になります。
それで、
「北 大教会」について色々勉強すべく、
あれこれ 検索し始めたわけですが…
「北 大教会」について勉強すると――
「北 大教会」の初代は《茨木基敬》という先生ですから、
否応なく【茨木事件】に直面します。
【茨木事件】を避けて通ることはできません。
そうなると、
必然的に「異端問題」と 真正面に向き合う必要が出てきます。
「異端問題」に関しては、
個人的には、非常に興味がある…
というのが 正直なところです。
それについて書かれた サイトや資料等があれば、
時を忘れて 読みふけるほどです。
しかし、
私の「異端問題」に関する興味は 完全に野次馬レベルでして、
その関心は、まさしく「興味本位」と言えます。
それについて、きちんと文献をあたったこともなく、
実際の関係者の話を聞いたこともない。
そんな私が、
「異端」に関する話題を、
(クローズドな所で書き連ねるのならともかく)
インターネットという、誰でも見ることのできるオープンな場所に
あれこれ書き散らすというのは…
ちょっと無責任じゃないか?
と 思いました。
教理を深く心に治めたとは とても言えない私にとって、
このようなデリケートな話題は「手に余る」…(^^ゞ
しかし、天理教各大教会の大雑把な歴史は 知りたい。
そこで、あれこれ考えた末、
今回の記事は、
変に 私の個人的な感想等を入れ込まずに、
ただ、『天理教事典』やネット上で見つけた情報を
後々 読み返したりすることをができることを目的として、
資料的な扱いで配置していく、
という形で まとめることにしました。
もしかしたら、
たまたま 当記事に遭遇した方で、
読む内に 不快な感情が湧き上がる方が あるかもしれません。
しかし、
毎回 記述の 繰り返しで恐縮ですが、
当ブログは【自己学習】の目的で運営しているものでありまして、
記事作成にあたっては、
何らかの主義主張を行う意図はありません。
ただ「知る」ということを目的として、
見つけてきた情報を 淡々と書き写しているに過ぎないものです。
ですので、
いろいろ ご意見をお持ちの方がある とは思いますけれども、
どうか、大らかな心で受けとめて頂きますよう
お願い申し上げる次第です。m(__)m
ということで――
前回は、
教会番号13番「高知大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しましたので、
今回は、
教会番号14番「北 大教会」について勉強します。
- 北 大教会 (きた だいきょうかい)
- 入信前の茨木基敬
- 茨木基敬の入信(明治15年~明治16年頃)
- 天地組の設立(明治17年)
- 天地組の道の広がり(明治16年頃~明治19年頃)
- 天地組開設後の茨木基敬(明治17年~明治20年頃)
- 天地組から 北分教会へ(明治20年頃~明治25年頃)
- 北分教会の 道の広がり(明治25年~明治29年)
- 北分教会、曾根崎新地からの移転(明治24年~明治44年)
- 茨木事件 前後(明治44年~大正7年)
- 山中彦七3代会長(大正7年~昭和2年)
- 村田慶蔵4代会長(昭和2年~昭和8年)
- 木村嘉四郎5代会長(昭和8年~昭和18年)
- 木村善経6代会長(昭和18年~昭和39年)
- 大浜倬7代会長(昭和39年~昭和50年)
- 木村善信8代会長(昭和50年~)
- 茨木事件(いばらぎじけん)
- 参考サイト紹介
- おわりに
北 大教会 (きた だいきょうかい)
入信前の茨木基敬
北大教会 初代会長茨木基敬は、
安政2年(1855) 10月3日、
大阪西成郡北野村
松本佐兵衛 次男として生まれ、
幼名を 信治郎といい、後に 元吉、
入信後 基敬と改める。20歳の頃、親戚茨木家を継ぎ、
きぬ と結婚し、
住居は、天満の滝川町で、
商売は 乾物商を営んでいた。
茨木基敬の入信(明治15年~明治16年頃)
(茨木基敬の) 入信は
明治15年(1882) 11月14日、
茨木基敬 28歳の時であった。入信の動機は、
木津村(今の浪速区木津町) に
同業者 園山佐平という人がおり、
茨木(基敬) は その人に 52円90銭の売掛金があり、
それを取りに 何度も通っているうちに、
天理教の話を聞くようになった。園山佐平は 当時 既に信仰をしており、
至って 貧しかった。
借金は返さなかったが、天理教の話をした。その頃、茨木(基敬) の次女 良久子が
当時 4歳、生まれつき虚弱で よく痙攣を起こし、
満足に眠ることが少なく、
この時には 二日二晩の痙攣をつづけ
死を待つ状態となっていた。この時 初めて、
茨木(基敬) は 園山佐平を介して、
当時、空堀3丁目に住む
蒸し芋屋 泉田藤吉を 紹介してもらった
(泉田藤吉が 天恵4番 講元となったのは 10年といわれているが、一説には 16年12月といわれる)。明治16年 3月6日、
はじめて「おぢば」に参拝し、
教祖にお目にかかって、
教祖より 御盃 (月日の金の模様のあるもの) を、
続いて 赤衣の襦袢をいただいた。取り次ぎは 桝井伊三郎、山本利三郎であった。
桝井伊三郎は 着流しの羽織、頭はチョン髷、
山本利三郎は 長髪、紋付の羽織にて 袴なし。
泉田藤吉は 野郎チョン髷にて 茶縞の着物であった。同年(明治16年)、
泉田藤吉は、天満の堀川に移転している。その後、茨木基敬は 信仰熱心となり、
泉田(藤吉) は これを大いに 頼りとしていた。茨木(基敬) の「教派に於ける 履歴のあらまし」に拠ると、
「明治16年 旧8月15日、天恵4番講社 講元 申付らる」
とある。泉田(藤吉) に 警察問題か 何かがあって、
天恵4番の名義を 茨木(基敬) に預けたのではなかろうか。当時、泉田藤吉は 経済的に困窮し、
茨木(基敬) は 元同業の島田市兵衛より 金30円を借り受けて
(泉田藤吉に) これを贈った。
天地組の設立(明治17年)
この頃、泉田(藤吉) は 茨木(基敬) に対し、
既に 信者も多数あったので
天恵4番より分れて、別に講を立てては
と勧めてくれた。それで 明治17年 4月20日、
「おぢば」より 天地組 の講名を得た。
場所は 樋上町の 茨木宅であった。当時の講は、
講元に 茨木基敬、講脇 上田善兵衛、周旋 木村太兵衛、
世話係 田中菊次郎、伊藤半七、衣川弥兵衛、杉本馬太郎、二十一庄吉、上村三郎兵衛
であった。こうして 布教活動が始まった。
茨木基敬の布教は、
彼みずから行くことをせず、
自分の信者を仕込み 彼らに直接の布教をさせた という。前記の天地組の役員らは
皆 (茨木) 基敬にたすけられ 布教の第一線に活躍した人々であった
と考えられる。
天地組の道の広がり(明治16年頃~明治19年頃)
天地組 周旋の 木村太兵衛は
8年来の両足の悩み、
その妻女は 10年来の「そこひ」であった。その時、同氏の借家人で 人力車夫が、
毎度 茨木(基敬) の話を伝え、
それで やっと 茨木(基敬) から話を聞いた。
「立つべき処を立てないで 逃げた」と諭され、
愕然と 心を更えたのだという。木村太兵衛は
高浜村の 金山家の長男であったのを
飛び出していたのである。その後、明治16年の春、
木村太兵衛は
生家の実弟 金山太兵衛が 長年の「ひえ」に悩んでいる
と聞いて「おたすけ」に行ったが、
実家では心よしとせず、
天理教の話を聞き入れなかった。そこで 茨木基敬が足を運んだが
やはり聞かなかった。それに懲りず、
その後も 茨木(基敬) は 何度も足を運ぶ中、
最後に
「私をたすけると思って 聞いて下さい」
と 辞を低くして願った。これには さすがの 金山太兵衛も、
その謙虚な態度に 心をうたれて入信した。
これが
現在の 淀分教会の信仰のはじまりである。この金山に 梅造という長男がおり
当時18歳ぐらいの青年であったが、
父とともに 信仰にはげんだ。時に、
兵庫県川辺郡佐曾利村から 箕を売りに来た人があり、
(金山) 梅造は この人の紹介で、
明治17年に 佐曽利村へ布教に行った。これが
天地組が山陽道を西へ伸びて行く 一つの契機となった。金山の親戚である 島本村東大寺の
井上長次郎も入信し、
淀川を越えて 北河内郡交野地方で布教し、
その子 (井上) 政治郎は
(明治23、24年頃か) 香川県の小豆島に布教し、
今の 鐸姫分教会の 初代会長となった。また、
金山の布教線は
京都府の八幡、御牧方面にも伸びた。当時 八幡の橋本に住んでいた前川万太郎は、
もと丹波国の人で、
この方面へ道を伝えようと、
先ず 明治22年、
京都府船井郡摩気村の 親戚 喜多徳次郎を訪ね、
ここで教えを説き、「おてふり」を教えた。この時、
同村の青年 樋口幾太郎は
これを聞いて、熱心となり、
府内大教会の初代となった。
また(府内大教会)3代会長の 小林豊蔵も
前川(万太郎) の布教により 入信した。なお 前川(万太郎) は
丹後の舞鶴方面まで布教線を伸ばし、
木村太兵衛、金山梅造も
ともども 丹波丹後方面の山国を東奔西走して
布教線を拡大していった。これより先、明治17年には、
天地組 部属としての 豊岡、生野への布教が始まっている。後の 豊岡大教会の信仰は、
もともと天地組からではなく、
四国の徳島から伝わった信仰である。その経歴をたずねると、
明治16年の秋、但馬地方は藍が出来ず、
紺屋仲間は 藍玉を徳島から取り寄せるべく、
温泉村湯村紺屋 木岡儀八郎が 代表して
徳島の問屋 利」こと 近藤利平方に手紙を出した。この時、
近藤方の手代として但馬へ行ったのが、
徳島在高崎の人、正木国蔵であった。正木(国蔵) は
この年 妻の産後の患いから、
徳島県麻植郡森山村山路の
野村京太 (大阪真明組、後の芦津大教会からの信仰)
から話を聞いて 入信していた。正木国蔵は、
早速 兵庫県三方郡温泉村湯村の近江屋方に泊まり、
交渉を開始したが、
そのかたわら 神様の話を伝えた。宿の森田家の車曳きの 高垣源造、
床屋の 本田菊三郎、夏川くま、木岡儀三郎などが 信仰した。
そして 照来村丹土の紺屋 田淵広七も 入信した。ある時 正木(国蔵) の言うには
「私は 四国の徳島のものであり、
私の信者となると、
ここから海を渡って徳島へ行き、
それから又 海を渡って大和へ参拝せねばならぬ。
それは大変だから、
大和への道順である大阪へ出て、
よき講元を探し、
それの講社にしてもらいなさい」と。それで、田淵広七は
明治18年の末
大阪へ出て 講元をさがすこと 3日目に、
やっと探し当てたのが、
樋ノ上橋西詰の 茨木基敬であった。しかし、時は既に 年末に近く、
但馬路は 雨雪の時期になっていたので、
茨木(基敬)は
来春には、当天地組より人を遣わしましょう と約束をし、
田淵(広七) は 但馬へ帰った。年明けて、明治19年 旧3月上旬、
天地組 周旋 衣川弥兵衛が 使者として出張した。
郷里 梁瀬村に立寄り、
ここで 天理教の話を説いた。その中に 同村の青年 当時17歳の 田川寅吉がいた。
彼は 家庭の不遇から 人生に悩んでいた時であり
早速 入信した。それから 衣川弥兵衛は
目的地である 照来村丹土の 田淵広七を訪ね、
ここで 1ヵ月滞在して 教えを伝えた。湯村の方は、
その後 茨木基敬が行って 分講を作って来た。こうした布教線の拡大とともに 多くの分講が形成され、
茨木基敬の 1番をもとに 25番まで続いた。今日の
北大教会、麹町大教会、栗太分教会、豊岡大教会、淀分教会、生野大教会、青野原分教会、岡山大教会、府内大教会、細川分教会、名張分教会、鐸姫分教会、尾道分教会
などの はじまりとなっている。
天地組開設後の茨木基敬(明治17年~明治20年頃)
さて、茨木基敬は
明治17年 4月20日 天地組の講名を得てから、
同月(4月) 28日病気となり、
これを機会に
在来の営業を放擲して 布教に専念することとなった。信者も各地に広がり、
布教の必要上
明治18年 2月5日に 教導職試補を拝命、
明治20年 1月には 権少講義に補されていた。
天地組から 北分教会へ(明治20年頃~明治25年頃)
明治20年 陰曆正月26日 教祖が現身を隠され、
翌年(明治21年) 天理教会本部が設置され、
続いて 部内の各講社は
続々と分教会、支教会を設置し始めた。天地組においては、
明治24年 8月4日、
「おぢば」の許しを得て、北分教会所を設置した。
初代会長は 茨木基敬である。これとともに、
天地組の寄所を 樋上橋西詰から 若松町に仮移転し、木幡町に移り、
同年(明治24年) 10月に 曽根崎新地に移転、かくて 教会建設用地の確保により、神殿の普請に取りかかることとなり、
明治25年 5月14日「地搗石搗新築着工の願」をなし
本部の許しを得て 工事にかかった。天地組は
教会設置当時は 3,400 余名の信者があった。茨木基敬は 教会設置に当たり、
泉田藤吉を 九州中津に訪ねて 添書をもらっている。当時 泉田は 本部の信用を失墜していた。
本部では 泉田の添書必要なし としたが、
敢て「理」の親を立てたものだろう。
※【泉田事件】
泉田藤吉が、
明治15年(1882) 10月20日に 大阪で起こした事件。
泉田は 当時 天恵四番 講元で
大阪に住む 熱心な布教者であったが、
熱心のあまりに
警官を相手に 激論をしてしまった。
そのかどで、
教祖は 奈良警察署の取り調べを受けることとなった (10月27日)。
その結果、
(明治15年) 10月29日には、
教祖はじめ 5名の者が 警察へ引致され、
教祖は 12日間、
他の者は 10日間の 投獄に処せられた。
この教祖の拘留の同じ原因となったものに 我孫子事件がある。
(『天理教事典』(1977年版) P,48 )
北分教会の 道の広がり(明治25年~明治29年)
翌 明治25年には、
府内、青野原、生野、岡山、豊岡、名張
の 6講社が 支教会を設置し、
又 (明治) 26年には、
細川、淀、尾道 の3講社が 支教会を設置した。
いずれも 北の直轄教会となった。北系統で 東京布教の先鞭をつけたのは、
豊岡系の 岸本唯之助 (後に 可賀美と改名) であろう。
明治25、26年頃ではなかろうか。岸本(唯之助) は
豊岡初代 木岡儀八郎の親戚で、
その妻は 貴族院議員の姪に当たっていた という。その関係で 東京に出て 布教することになったものと思う。
場所は 麹町区3番町11番地で、
旧幕臣 松平の屋敷跡を借り受けていたものだという。相当の信者が出来るに及び、
天地組の理事 上田善兵衛が、
この信者の世話を引き受け、天地組 2番とし、
(上田善兵衛) 自らが その講元となり、
岸本(唯之助) を 自分の養子とした。そして 明治29年 7月11日、
上田善兵衛 名義で、麹町支教会を設置している。明治29年の教祖10年祭には、
麴町の団体は 赤いショールを着て帰参し、随分目立った という話がある。
麴町の信者は、場所がお屋敷町だけに、裕福な人が多かった。ところが、
支教会長の上田善兵衛が、
安堵村の飯田岩治郎の異説の先鋒となり、
教会本部より免職され、
信者千余名といわれた麹町も 四散して、
わずかに 久保治三郎等を残すだけになった。それにも増して、飯田岩治郎へ走った講社が多く、
北として 一大被害を蒙った。すなわち 教費公納金が 年々 借りとなっていった。
また一方、
明治29年の 内務省の秘密訓令の影響により
教勢は 次第に萎縮し始め、財政の困窮を告げた。
北分教会、曾根崎新地からの移転(明治24年~明治44年)
明治24年 教会設置以来の住居 北区曽根崎新地は、
その後 漸次 花柳街として発展し、
教会は その中にはさまれる状態となり、
教会敷地としては適当でなくなったため明治39年 11月26日、本部の許しを得て、
大阪府東成郡生野村大字国分字荒田 438番地の1より6筆の
地所1,963坪を買い受けて 移転工事を開始し、
明治40年 9月18日に移転した。これが 現在の勝山通りの 北大教会の地所である。
この新築移転奉告祭は、明治45年 5月18日に行われた。
これより先、明治29年 3月1日、
丹波市町三島堂ノ西548番地の地所を買収し、
建坪90余坪の信徒詰所を建設し、
その一部は 明治33年 4月以来 同35年まで
天理教校校舎に使用された。この間、茨木基敬は
明治23年 4月15日、天理教会準派出掛を拝命。
明治42年 1月8日、準役員を拝命。また 明治42年 1月20日には
(北分教会が) 大教会昇格を許された。明治44年 10月 (茨木基敬は)
天理教会本部役員を拝命した。
茨木事件 前後(明治44年~大正7年)
いわゆる 茨木事件の発端は、
明治44年 11月18日の真夜中より はじまった。すなわち、
茨木基敬に神様がお降りになる
と 言い始めたのである。これより 追々 北部内の信徒は これを信じ始め、
本部としては放置出来ず、
大正7年 1月16日に
茨木基敬、
同(茨木) 基忠 (基敬の長男、明治14年12月7日生、大正2年3月2日、2代会長を継承していた)
を 免職処分になし、
本部員 山中彦七が
同年(大正7年) 1月17日 新会長に就任した。その後、茨木基敬は
大正10年 11月14日「おぢば」を去り、
生駒郡富雄村に移り、
昭和4年10月29日出直した。享年75歲。2代会長 基忠 (幼名 子太郎、後改名して 基忠) は、
基敬とともに 富雄村に去り、
昭和21年 1月9日出直した。享年66歲。
山中彦七3代会長(大正7年~昭和2年)
3代会長 山中彦七は、
奈良県磯城郡纒向村大豆越で、
山中忠七の長男として生まれた。(山中彦七は)
大正7年 1月17日、茨木事件直後、北大教会長に就任し、
同日(大正7年 1月17日)、 直ちに教会を
大阪市東区元伊勢町809 番地に 移転奉告祭をした。後、同年(大正7年) 4月20日
元の 生野村国分に帰った。在職10年にして、
昭和2年 7月25日に会長を辞し、
昭和7年 1月28日出直した。享年84歳。山中会長 在職中、部属教会であった
生野(大正9年)、
麴町、岡山、府内(以上 大正14年)、
豊岡(大正15年)
が分離し、
それぞれ 本部直属教会となった。この 5分教会の分離とともに、
大正10年 3月15日より、
前記詰所より 前天理小学校の処へ 詰所を移転した。その土地面積は 1,400余坪、建坪は 260余坪であった。
村田慶蔵4代会長(昭和2年~昭和8年)
4代会長 村田慶蔵は
昭和2年 7月25日、山中前会長辞任と同時に 任命された。
村田(慶蔵) は
明治20年 2月2日、奈良県天理市三島に生まれ、当時 本部員であった。村田会長 在職中の 主な事柄としては、
(1). 昭和3年 5月、
現大教会内に 信徒宿泊所(建坪68坪) を 新築したこと。(2). 昭和6年 10月15日
詰所を 三島(前天理小学校の処) より 川原城丹波市駅西側へ 新築移転したこと (敷地坪数、1,600余坪、建坪770 余坪)。(3). 昭和8年 10月10日、
尾道、淀、青野原、 栗太、細川、鐸姫、名張、玉江、八阪
の 9部属教会が 本部直属となったこと。なお、これに先だち、
部内 竹原分教会所属の 大浜庄市は、
昭和8年 1月17日、本部直属 南安藝分教会を 新設した。9分教会 分離の直後、
昭和8年 10月22日、村田(慶蔵) 会長は辞任し、
かわって 木村嘉四郎が5代会長に就任した。
木村嘉四郎5代会長(昭和8年~昭和18年)
5代会長 木村嘉四郎は、
明治7年 1月13日、
広島県御調郡西野村字小雨、大林国蔵の 3男として生まれ、
入信後、天地組周旋(北分教会理事) 木村太兵衛に見込まれ 長女かねと結婚、
梅花分教会長、北大教会理事、大阪教務支庁主事を歴任し、
昭和8年 10月22日、北大教会5代会長に就任した。(木村嘉四郎5代会長) 就任当時の教会状勢は、
多数の部内教会の分離後で (当時 教会数 70余ヵ所)
困難な状態にあった。尚、前回に引きつづいて、
芸備支教会、岸部宣教所、守庄宣教所
の3教会が 本部直属として分離した。
木村嘉四郎会長は、
昭和18年 5月11日辞任、
同日 養嗣子木村善経が6代会長を継承した。
木村善経6代会長(昭和18年~昭和39年)
6代会長 木村善経は
明治40年 8月15日
奈良県五条町、五条分教会 宇恵準治の6男として出生し、
天理外国語学校を卒業、昭和10年(木村嘉四郎) 5代会長の娘 信枝と結婚、
大教会の青年、役員を勤め、
昭和18年 5月11日、6代会長に就任した。しかし、昭和18年 10月には応召、軍務に服し、
終戦後 シベリアに抑留、昭和22年10月28日復員。その間、妻 信枝が 会長代務者となっていたが、
昭和22年 12月27日に 代務者の任をとかれた。昭和25年 5月20日、
真柱の臨席を受け 創立60周年記念式を執り行った。昭和30年 12月25日には 教祖70年祭の臨時祭典願を出した。
当時 部内教会は 67ヵ所であった。昭和37年 2月26日、西門位置 及び 塀改築願、
また 同年(昭和37年) 8月26日には 教祖殿神床ほか 位置変更 及び 神殿移動改築願を提出し、
同年(昭和37年) 8月30日 遷座祭を行ない、改築に取りかかった。更に 翌(昭和)38年 1月26日には、付属建物増築願を提出した。
昭和38年 5月22、23両日に亘って 鎮座祭、奉告祭を執行した。同年(昭和38年) 7月26日に 詰所建物移動 並び 塀移築願を出し着工したが、
折しも 翌(昭和)39年 11月7日 (木村善経)6代会長が 出直した。
大浜倬7代会長(昭和39年~昭和50年)
7代会長には
大浜倬 (明治24年1月10日生) が 同年(昭和39年) 12月26日に就任した。
その奉告祭を 翌(昭和)40年 2月18 日に 執行した。昭和41、42年に亘って、付属建物の塀や増築を行った。
昭和42年 11月17日には、
伊藤雄造、近藤茂雄、岡本十代、武田保造が 責任役員として届け出された。昭和45年 10月27日、神殿増築 及び 付属建物移動増改築願を提出、
同(昭和)47年 9月26日、付属建物増築 及び 正門拡張 並び 塀構築願を提出、それぞれ建築を行った。昭和48年 2月1日には 表示変更があり、
大阪市生野区勝山南2丁目1番34号となる。7代会長 大浜倬は 昭和50年 9月29日 出直した。
木村善信8代会長(昭和50年~)
8代会長には、
木村善信(昭和17年5月17日生) が、
昭和50年 12月26日に 許しを得て 就任した。
就任奉告祭は 翌(昭和)51年 3月24日に 執行された。このような教会の歩みの中から 幾多の教訓を学びつつ、
教会内容の充実と世界だすけに向かって 歩を進めている。〔現住所〕〒544-0021 大阪市生野区勝山南2丁目1番34号
〔電話〕06-6715-2135(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』(1977年版) P,227~230 )
茨木事件(いばらぎじけん)
大正7年(1918) 1月16日、
本部員 茨木基敬
及び
当時の北大教会長 茨木基忠の 父子二人が
教会本部より 免職された事件。茨木基敬は
安政2年(1855) 10月3日、
大阪西成郡北野村
松本佐兵衛 の次男 信次郎(入信後 基敬と改める)
として 出生。20歳の頃 親戚の 茨木家を継ぎ、
天満滝川町にて 乾物商を営んでいた。明治15年(1882) 11月、
次女 良久子の患いを
泉田藤吉に救けられて 入信。明治16年 3月6日、
はじめて「おぢば」に参拝し
教祖にお目にかかった。この頃より、
天満滝川町の店を閉めて 布教専一となり、
明治17年 4月20日には
天地組を組織して 講長となる。その後、この講を基として
明治24年 8月4日
北分教会 (明治42年1月20日大教会に昇格) が設立され
初代会長となる。明治42年(1909) 当時、
北分教会は 曽根崎新地の真中にあり、
付近の住民から 教会の移転を強く要望され、
間に警察が入って 頼みに来る有様であった。そこで彼は
移転先を 生野区勝山町と定め、
同年(明治42年) 7月11日までに と日をきって
移転を約束して
さっそく信者たちと 移転の仕事をはじめた。7月10日には ほとんど移してしまい、
あとは 石燈籠とか敷石の類しか 残っていなかった。それを運ぶ荷車が 上本町にかかった頃、
北区空心町から火事がおこり、
天満から曽根崎、福島を燃えつくし
海の方まで燃え進んだ。これを見た信者たちは、
うちの会長は神様だ、
このことがあるのを知って
7月11日と 日限をきったのであろう
と言いあった。その後の茨木基敬の行動には
常識で考えられないような事件が
相次いで起こった。いわゆる 茨木事件 そのものの発端は、
明治44年 11月18日の 真夜中よりはじまる
と言われている。すなわち、
同年(明治44年) 10月に
本部員に任命されたばかりの茨木基敬に 天啓が下る と言われ、
彼は 暗夜に筆をとり 神様のおつげを書き写して
信者たちに 神意を伝えはじめた。このため、
信者の中には
彼を 神として崇拝する者が出て来るようになり、
次第に「ぢば」の意義をも 無視するようになり出した。教会本部としても これを放置しておくことができなくなり、
大正6年 1月に 彼を休職処分として
種々説得していたが 聞き入れられず、
逆に 日を追って
信者や所属教会長等も 彼に対する信仰を深めていった。そこで 教会本部は
翌(大正) 7年 1月16日付をもって
茨木基敬と
北大教会長 茨木基忠の
父子を 免職にしたのである。この事件は、
本部准員 飯田岩治郎のおこした異説 安堵事件と共に、
教会本部の中枢にいる者の唱えた異説として
当時の天理教内に 大きな衝撃を与えた。〔参考文献〕高野友治『天理教伝道史Ⅰ』『天理教高安大教会史下巻』
(『天理教事典』(1977年版) P64,~65 )
参考サイト紹介
今回、「北大教会」の歴史を勉強にするにあたってあれこれ検索する中で、
モリジロウ氏の「note」に出会いました。
非常に興味深い内容で、とても勉強になりました。
私のような「茨木事件」についての知識がない者にとって、
そこからあれこれ思案を深めるために必要な材料を提供してくれる
貴重な記事です。
少しでも多くの方に読んで頂きたいと思いましたので、
ここで紹介させて頂きます。
モリジロウ様、リンク貼らせて頂きます。ご了承下さい。 m(__)m
私の「茨木基敬」考…その1
私の「茨木基敬」考…その2
私の「茨木基敬」考…その3
このたび初めて、モリジロウさんのnoteに出会いましたが、
その他の記事も興味深い内容ばかりでした。
「note」を通して 多くの勉強をさせて頂いています。
ありがとうございます m(__)m
その他にも勉強になる記事に出会いましたので、リンク貼らせて頂きます
(高慢と言われた茨木基敬さん(クマッピーさん))
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
14回目の今回は、
「北 大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
前回までは、末尾に
私の個人的感想等を書き足しておりました。
しかし今回は、
そのような蛇足はカットして、
後々 読み返したりすることを目的とした
『天理教事典』やネット上で見つけた情報を、
ただ単純に、
信仰上の思案を深めるための資料として
そっと置いておくにとどめます。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「北大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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