天理教 各教会の歴史探索(第86回)【大森町大教会】『天理教事典』より

「大森町大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号85番「繁藤大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号86番「大森町大教会」について勉強します。

  1. 大森町大教会(おおもりまち だいきょうかい)
    1. 上級・麹町、久保夫妻の入信(明治27年)
    2. 久保夫妻の熱烈布教(明治27年〜明治30年頃)
    3. たび重なる節による久保夫妻の信仰一時休止 〜 求道の復活(明治30年〜明治31年頃)
    4. 久保信子夫人が導いた寺門きみ、その実弟・知久徳次郎について
    5. 知久徳次郎 妻・りきの実家、守屋家について
    6. 守屋家の入信、大森町大教会の芽生え(明治33年)
    7. 久保治三郎麹町会長長男・久保清次郎と つる夫人による 大森布教の始まり(明治33年)
    8. 高まる反対攻撃(明治33年頃)
    9. 雨乞いづとめの奇蹟(明治33年)
    10. 天地組第363番支講社の開設(明治35年)
    11. 守屋寸々、家族と別居して布教専念=天地組第587番支講社の開設(明治36年)
    12. 大森町布教所の開設(明治41年)
    13. 大森町宣教所へ改称(明治42年)
    14. 教会の移転 新築ふしん、支教会へ昇格 〜 奉告祭(明治42年〜明治43年)
    15. 相次ぐ部内教会の新設(明治42年頃〜大正12年頃)
    16. 関根豊松2代会長の就任と辞任 〜 守屋寸々3代会長の就任(大正12年)
    17. 教会の移転 新築ふしん 〜 奉告祭(大正13年)
    18. 大森町の躍進 〜 神殿ふしん(大正14年〜昭和6年)
    19. 守屋長蔵 会長補佐役の就任 〜 分教会へ昇格(昭和6年〜昭和7年)
    20. 守屋与志4代会長の就任 〜 守屋寸々3代会長の出直し(昭和7年〜昭和10年)
    21. 教祖殿ふしんの完成 〜 奉告祭(昭和11年)
    22. 守屋長蔵5代会長の就任(昭和13年)
    23. 大森町大教会へ昇格(昭和16年)
    24. 太平洋戦争末期、守屋長蔵5代会長の北海道での労働奉仕(昭和19年頃〜昭和20年)
    25. 守屋与志4代会長の出直し(昭和20年)
    26. 東京大空襲における大森大教会(昭和20年)
    27. 戦後復興(昭和20年〜昭和26年頃)
    28. 守屋長蔵5代会長の出直し(昭和26年)
    29. 守屋菊代6代会長の就任 〜 奉告祭(昭和26年〜昭和28年)
    30. 大森町の着実な教勢伸展(昭和28年頃〜昭和45年頃)
    31. 大森詰所の移り変わり(昭和23年頃〜昭和32年)
    32. 大教会 客殿ふしん(昭和41年頃〜昭和43年)
    33. 守屋政一7代会長の就任 〜 奉告祭(昭和48年)
  2. おわりに
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大森町大教会(おおもりまち だいきょうかい)

大森町大教会写真④
ホームメイトリサーチ旅探天理教大森町大教会 より

上級・麹町、久保夫妻の入信(明治27年)

日清戦争の影響で何となくあわただしい 明治27年(1894) 3月某日(のこと。)

当時 東京市本郷区東竹町23番地で質商を営んでいた 久保治三郎 (後の麴町大教会長) 宅へ、昔「淘宮術」の友達であった 友平助七 (当時・天地組2番分講 世話係) が 埼玉県からわざわざ訪ねてきた。

(わざわざ訪ねてきた友平助七は、久保治三郎に対して) 天理教(の素晴らしさを説き) 入信を勧めた(のだった)。

その頃、久保家は、うち続く家人の病弱に加えて、9歳になった末子を亡くすという悲運に(見舞われていた。
また) それまで、手広く経営していた葉煙草の製造販売を 長男・清次郎 (後の大森町初代会長、久保治三郎の後の麴町大教会長) に任せ、質商に転じ(てい)た(のだ)が、
相変わらず 家族は病気がちで、特に 次男・多三郎 (後の国華分教会 初代会長) は、肺結核で再起不能という状態であった。

(様々な方面で行き詰まりを感じ、重苦しい空気に包まれていた久保)治三郎・信子夫妻であったが、(友平助七から勧められ) 天理教の教理(を聴くようになり) 大いに感ずるところがあり、(その後) 入信(する運び)となった。

久保夫妻の熱烈布教(明治27年〜明治30年頃)

(強い行動力を有する) 久保家の場合、入信は、同時に布教活動の開始で(も)あった。

(久保夫妻は、入信すると すぐに布教に邁進した。)
特に (久保)信子の布教は熱烈で、久保家の格式も影響して、(久保信子の手引きによって) わずか 3年間に 約700戸もの信者が加入した(ほどだった)。

布教活動が進むにつれて、自然(と) 商売は 二の次という状態になって、
明治30年(1897) 4月(には)、(久保夫妻は) 質店を廃業し 布教専念の生活に入った。

たび重なる節による久保夫妻の信仰一時休止 〜 求道の復活(明治30年〜明治31年頃)

(それほどに信仰に打ち込んでいた久保夫妻であったのだが) 
同年(明治30年) 安堵事件が起き、また、翌年(明治31年) 本郷の大火事で久保家 全焼の厄に遭って(しまうという大きな節が重なるに及んで) 信仰を一時 休止するような状態となった(のだった)。

そうしたところへ、茨木基敬 (北大教会・初代会長) が (大阪から)はるばる上京して 久保家を訪問。
(そして 茨木基敬は、久保治三郎に) 講の引き起こしを (粘り強く) 説得した。

(その)結果、(悩み続けた久保)治三郎(であったが、ついには) 布教再開の心が決まり、(それにより) 今日の麹町大教会の基礎が固まった。

久保信子夫人が導いた寺門きみ、その実弟・知久徳次郎について

その頃、久保信子(麹町会長夫人)の導いた信者に 
寺門きみ (後の錦江初代会長) がいた。

(その、寺門)きみの弟の 知久(ちく)徳次郎は、
東京府荏原郡 入新井(いりあらい)村 不入斗(いりやまず) (現・東京都大田区大森北3丁目付近) に居住して、やはり 天理教の信仰をしていた。

知久徳次郎 妻・りきの実家、守屋家について

その (知久)徳次郎の 妻・りきは、大森の守屋家の 3女で、
実母・寸々(すず)=(後の大森町3代会長) は、
同(東京府荏原郡) 入新井村 不入斗の旧家として知られた 守屋寅吉の妻であった。

守屋家では、長女・与志(よし)=(後の大森町4代会長) に 養子・鉄五郎を迎え、
喜三郎・長蔵= (後の大森町5代会長)・こう =(後の愛町分教会 初代夫人) の 3人の孫もあって、裕福な暮らしをしていた。

守屋家の入信、大森町大教会の芽生え(明治33年)

ところが、明治33年(1900) 4月、
(守屋)与志よしが、次女・寿美 =(後の大光分教会 初代会長夫人) を出産してから 産後の肥立ちが悪く、足腰が立たず寝返りさえ打てないようになってしまった。

(そのような)時、(守屋家一同は、知久家へ嫁入りした3女の) りきを通じて(天理教を知り、その後 奇しき縁により) 守屋家も 天理教に入信した(のである)。

(守屋家が熱烈な布教活動を開始するに至る経緯は、次の通りである。)

その年(明治33年) 5月12日、
久保信子(麹町会長夫人) が、寺門きみに案内されて、(大病を患った守屋与志よし おたすけ、、、、のため) 守屋家を訪れた。

(寝返りさえ打てなかった守屋)与志よし(であった)が、
(久保)信子(麹町会長夫人) の真実な祈願で、
(なんと) 3日目には 歩行できるほどの (不思議な)ご守護を頂いた。

(守屋与志) 本人はもとより、母 (守屋)寸々すずの喜びは 一方でなく、
(守屋)寸々すずの場合も (久保信子夫人同様)、
入信即 布教活動(を) 開始(する程)の 熱心な天理教信者となった。

(丁度、その頃)
(久保治三郎 麹町会長の長男である) 久保清次郎も、商売をやめて布教に専念していた。
(守屋)寸々すずは、(久保)清次郎に 大森布教の中心的存在となってもらいたいと希望して、(守屋家の)自宅の離れ座敷を 布教の根拠地に提供した。

これが、大森町大教会の芽生えとなった。

久保治三郎麹町会長長男・久保清次郎と つる夫人による 大森布教の始まり(明治33年)

こうして 本格的な大森布教が開始されることになったが、
(久保治三郎 麹町会長の長男である) 久保清次郎が 初めて大森へ出向いたのは、その年(明治33年) の6月頃であった。

(久保)清次郎・つる夫妻は、新橋から乗った汽車を大森駅で下車したが、西も東も判らぬ土地で、初めて (寺門きみの実弟である) 知久(の) 家を訪ねるというのに、(いきなり) 病人を求めて それぞれ道を右と左にとって行くほど 布教熱心であった。

(ちなみに)
(久保)つるは その道すがら、(さっそく) 30日間も水しか咽喉を通らない胃癌の重病人を発見して おたすけ、、、、を行った。この人は その後10年間 健在であった(とのことである)。

(そこからは) このような奇蹟が相次いで、布教線は 八方へ広がった。
(そして) その年(明治33年) 8月3日には、(久保清次郎に大森布教を請願した)守屋(寸々すずの) 家に 神実様を鎮座した。

高まる反対攻撃(明治33年頃)

しかし (おたすけ、、、、の実績が積み重なる) 一面、土地の人々の天理教反対も激しいものとなっていった。
信者の人々の中には、路上で石を投げられたり 悪口を浴びせられたりする人が多々出てくるようになった。

雨乞いづとめの奇蹟(明治33年)

この頃 (明治33年頃)、
天理教の名を近在に広めた出来事の一つに、雨乞いの一件がある。

その夏は ひどい日照り続きで、村民の願いもむなしく 雨が降らなかった。

そこで、村の有志も立ち合いのもとに、
(明治33年) 8月22日、久保清次郎・寺門きみ・関根豊松等が中心となって、
知久宅と守屋宅の 2度に分けて 雨乞いの祈願を行った。
(そうした)ところ、夜半にいたって 風まじりの大雨となり、(その雨は) 翌朝まで降り続いた。

(また) その夜(は)、天理教反対の旗頭的存在であった田中某家に落雷もあった。
(それを見た)近在の人々は 内心 恐れをなして、天理教に対する悪口も 一時 遠慮がちとなった(のだった)。

天地組第363番支講社の開設(明治35年)

こうした状態の内にも 信者の数は増加し、(日に日に) 神実様を奉祀する家も数多くなって(いった。
そして) 明治35年(1902) 3月3日、
久保清次郎を講長として、天地組 第363番支講社の認可を受けるに至った。

(守屋家の離れ座敷にて 講社を開設したのであったが)
講元としてのそれ (守屋家の離れ座敷) は、万事に不都合であった。
そのため、間もなく、同村(入新井村) 不入斗 981番地にある 同家(守屋家) の家作(=貸家) に移転した。

この頃、麹町支教会にいた関根豊松が、(天地組第363番支講社の) 講元に住込みとなった。

守屋寸々、家族と別居して布教専念=天地組第587番支講社の開設(明治36年)

当時の講元の経済状態は、相当苦しかった。

守屋寸々すずは、入信以来 余りにも熱心な布教活動の明け暮れであったため、
孫達をいたわることが少なくなって、ついに家人から「鬼婆」と呼ばれるまでになった。

この上 自宅にいては 種々 不都合が生じるということで、
同(明治)36年(1903) 12月、(守屋寸々すずは) やむを得ず 家族と別居して 布教に専念する決意を固め、大森南原 (現、大田区大森本町) に 1戸を構えた。
(そして) 天地組 第587番支講社の認可を得て、ここを布教の本拠とした。

土地の旧家の夫人が、夫と別居するさえ穏やかでないのに、
自宅から離れて、近在を布教と称して連日歩きまわるので、
周囲の人々から(は) 種々(と) 取り沙汰された。

大森町布教所の開設(明治41年)

このような初期の人々の努力が実って、信者の間から教会設置の機運が持ちあがり、明治41年(1908) 3月3日付で
神道天理教 北分教会 麴町支教会 大森町布教所としての認可があった。

(大森町布教所の) 当時の教勢は 次の通りである。
教師:久保清次郎、関根豊松、衣笠与助、
教徒:男4名、女3名、計7名。
信徒:159戸、
総人数:795名。

なお、同じ年(明治41年) の 8月5日に 鎮座祭、翌 (8月)6日に 奉告祭が執行された。

大森町宣教所へ改称(明治42年)

さらに、天理教一派独立認可に従って、
明治42年(1909) 3月11日付、
大森町宣教所と改称の許しがあった。

教会の移転 新築ふしん、支教会へ昇格 〜 奉告祭(明治42年〜明治43年)

(大森町宣教所は) 内容的には 支教会昇格の資格がありながら、借地借家ということで、その機を逸していた。

(しかし)
明治42年(1909) 11月に、田中寅吉 (大茂分教会 初代会長) が、同村(入新井村) 不入斗1131番地の土地100坪を献納したこと(により、ついに自前の土地を有するに至ったこと)から、(それに合わせて自前の)教会(施設) 新築の議が発展した。

(借家ではない自前の教会施設の新築工事は順調に進み) 
同年(明治42年)末、
建物は 木造平家建、建坪 22坪5合、付属建物 3坪5合で、(無事) 落成した。

(自前の教会施設の新築ふしんが無事完成したことを受けて、
教会の)移転と同時に、支教会(へ) 昇格する運びとなった。

明治43年(1910) 1月28日付で (そのお)許しがあり、
同(明治43年) 2月9日 遷座祭、(2月)10日に 奉告祭が執行された。

相次ぐ部内教会の新設(明治42年頃〜大正12年頃)

(大森町支教会の) 部内教会は、
明治42年以来、大正10年までに 7ヵ所を数えた。

大正11年(1922) に教祖40年祭活動が開始されるや、
教勢倍加運動の実績として、
大正11年に 7ヵ所、
(大正)12年に 4ヵ所、
以上の部内教会が 新設された。

関根豊松2代会長の就任と辞任 〜 守屋寸々3代会長の就任(大正12年)

同(大正)12年(1923) 4月7日、
久保治三郎・麴町分教会長が出直した。

(それを受けて) 久保清次郎 (大森町初代会長)が、その(久保治三郎の) 後任(の麴町分教会長)に就いた。

(久保清次郎が 麹町分教会長に就任するのに伴って 大森町会長を辞任することを受けて) 
大森町支教会の2代会長には、関根豊松の就任が決まり、
同年(大正12年) 4月30日付で (関根豊松が2代会長に)就任した。

しかし、同年(大正12年) 5月12日、
関根(豊松2代)会長は、突然、愛知県下へ布教に赴くことになった。

(そのため) 後任者が問題となったが、
(大森町)部内の一致した意見により、守屋寸々すずを3代会長に迎えることに決まった。

(そして) 同(大正12年) 5月28日付(で)許され、
(守屋寸々すずが3代会長に) 就任した。

教会の移転 新築ふしん 〜 奉告祭(大正13年)

大正13年(1924) 2月、
村田彦太郎が、現・大森町大教会所在地である 大森町 谷島972番地 (現、大田区大森西4丁目4番10号) の土地 1,307坪余を寄進した。

(それを受けて) 木造瓦葺平家建 3棟49坪4合2勺の建物で 移転新築の出願をし、同(大正13年) 9月28日付(で ふしんの)許しを得た。

このふしんは、(大正13年) 11月末に完成。
同(大正13年) 12月9日 遷座祭、翌 (12月)10日に 奉告祭が執行された。

大森町の躍進 〜 神殿ふしん(大正14年〜昭和6年)

(丁度その頃は、教勢倍加運動が提唱された) 教祖40年祭活動の最中のこととて、
(大森町支教会においても) 同(大正)14年末までには、27ヵ所の部属教会を数えるに至り、まさに大森町にとって 躍進の旬であった。

(そのような旬に) 時あたかも (大森町) 谷島の土地に (新たな)「神殿」を建築することになり、
同年(大正14年) 8月23日 (神殿)建築の出願をし、その許しを得て 工事が着手された。

かくて、(大森町)部内の総力を結して、
昭和6年(1931) 2月、総建坪 111坪5合、総檜造りの神殿が竣工。

直ちに (天理教教会)本部(へ) 出願(し 許しを受け)、
(昭和6年) 3月9日 遷座祭、翌 (3月)10日には 盛大な 奉告祭が執行された。

守屋長蔵 会長補佐役の就任 〜 分教会へ昇格(昭和6年〜昭和7年)

なお、この間 (大森町支教会は) 種々の問題を抱えていたので、
当時 麴町中教会 理事であった 守屋長蔵を 会長補佐役として迎えた。

(その後) さらに (大森町支教会の) 教勢は 順調に伸展して、
その頃(昭和6年) までに
部属教会 36ヵ所・教師 137名・教徒 391名となった。

かくて、同年(昭和6年) 12月、分教会昇格の出願をし、
同(12月)19日付(で) 許しがあり、
翌(昭和) 7年 3月10日 奉告祭執行となった。

守屋与志4代会長の就任 〜 守屋寸々3代会長の出直し(昭和7年〜昭和10年)

守屋寸々3代会長は 85歳の高齢に達したので、守屋与志よしが後任に決まり、
昭和7年(1932) 4月25日 
(守屋与志よし4代会長が) 就任した。

(守屋)寸々すず(3代会長) は、
昭和10年(1935) 9月16日、89歳で出直した。

教祖殿ふしんの完成 〜 奉告祭(昭和11年)

昭和6年(に)落成した 神殿建築の際、同時に計画されながらも 都合で着工が遅れていた「教祖殿」 (=木造瓦銅交葺平家建) が、その後、完成した。

(そして) 昭和11年(1936年) 5月30日付で 許しを得て、
同(昭和11年) 6月9日 遷座祭、翌 (6月)10日 奉告祭が執行された。

守屋長蔵5代会長の就任(昭和13年)

(その後) 
これまで 会長補佐役として長年つとめてき(てい)た 守屋長蔵が 
守屋与志よしの後を継いで 5代会長に就任することとなった。

昭和13年(1938) 11月9日付をもって 許され
(守屋長蔵が5代会長に 就任し)た。

大森町大教会へ昇格(昭和16年)

昭和16年(1941) 3月、天理教教規の改正がなされ、その規定するところに従って、
大森町は、本部直属の大教会に昇格することとなった。

同(昭和)16年(1941) 3月26日付 許しがあり、
同年(昭和16年) 5月9日、
2代真柱の臨席を得て (大教会昇格の) 奉告祭が執行された。

(大教会)昇格当時の (大森町の)教勢は、
支教会 6ヵ所、宣教所 47ヵ所、布教所 62ヵ所、教師 177名、教徒 980名であった。

太平洋戦争末期、守屋長蔵5代会長の北海道での労働奉仕(昭和19年頃〜昭和20年)

(大森町が大教会に昇格した頃)
満州事変に端を発した太平洋戦争は、いよいよ その終局の様相へと推移し(ていた。)

(その) 戦況も 一段と緊迫の度を加えてきた頃、(天理教の)少壮教会長・青年は戦場へ駆り立てられた。
(そして、天理教の)教会は 老人・婦女子のみとなり、しかも 留守を守る人々も 軍需工場等へ動員される という有様になってきた。

かような中にあって、
守屋長蔵5代会長は、病状にもかかわらず、遠い北海道の地に 骨を埋める固い決意のもとに、
昭和19年(1944) 8月20日「天理教東京教区いざひのきしん隊」支隊長として、勇躍 北海道 赤平鉱へ向かった。

(守屋長蔵5代会長は) 翌(昭和)20年(1945) 1月23日(に) 帰会するまで、
厳寒(の中)、隊員と共に、地下 数千尺の鉱山での激しい労働奉仕を、最後まで敢然と勤め抜いた。

守屋与志4代会長の出直し(昭和20年)

折も折、このように切迫した状況の中、
同年(昭和20年) 2月10日、
(守屋)与志よし4代会長が 埼玉県川口の疎開先で その生涯を了えた。

東京大空襲における大森大教会(昭和20年)

昭和20年に入ると、3月9日夜の大空襲に続いて、東京では、昼夜を分かたず B29の編隊が飛来する、恐怖の明け暮れとなった。

わけても、4月14日の空襲は、大教会付近一帯をことごとく焦土と化した(壮絶な)ものであった。

(4月14日の東京大空襲に襲われた)この夜、
雨あられと降りくる焼夷弾を浴びて、(大森町)大教会(の)神殿は (どう考えても) 灰燼に帰する(ことから逃れられない)運命にあった。

(焼夷弾は雨あられと降り注ぎ、神殿の) 正面玄関では 天井を突き破った数発の弾が火を吹き、隣接する民家・工場等は 次々と火の手を上げ始めた。

(荒れ狂う炎は 刻々とその勢いを増し、東京中の街を飲み込みながら広がっていった。) 

火炎の魔手は 近隣を襲いつつ暴れ進み、(その炎がついに大森町の神殿にも到達するかと思われた時)、不思議なことに、(まさに神殿に炎が移らんとする)その度に、神殿を守るかの如く、三度(も) 風向きが変わったのだった。

(そして、恐怖の大空襲が) 明けて 4月15日――
見渡す限りの焼野原の中、
ただ1ヵ所、(大森町)大教会神殿のみが 無事(な姿で)残っていた(のだった)。

戦後復興(昭和20年〜昭和26年頃)

かくて、(日本は) その年(昭和20年) 8月に敗戦を迎えた(わけだ)が、
この戦争を通して、東京にほとんどの部属教会を持つ 大森町(大教会) は、
焼失教会 33ヵ所、強制疎開教会 6ヵ所という、大打撃を受けた。

しかし、(守屋長蔵)5代会長は、(激しい戦禍にも心倒すことなく 戦後復興に全力で取り組んだ。
そして、様々な苦難を乗り越えて) 過半の戦災教会を復興した(のであった)。

守屋長蔵5代会長の出直し(昭和26年)

激しい戦火の中を(くぐり抜け、
戦後は)部内教会の修理の上に その生涯を捧げた (守屋)長蔵(5代)会長は、
昭和26年(1951) 2月14日、おやさと、、、、で出直した。

守屋菊代6代会長の就任 〜 奉告祭(昭和26年〜昭和28年)

(守屋長蔵5代会長の出直しを受けて)
菊代夫人が、
部内教会の戦傷いまだ癒えやらず容易でない中、
6代会長として就任することとなった。

同(昭和26年) 4月25日付で任命があり、
同(昭和)28年(1953年) 6月3日、
2代真柱・中山善衛(3代真柱) 臨席のもとに、(6代会長)就任奉告祭が執行された。

大森町の着実な教勢伸展(昭和28年頃〜昭和45年頃)

(守屋)菊代(6代)会長は、ぢば一条の信仰に徹し、さらには部内教会の修理丹精(の上)に、懸命の努力を傾注した。

かくて、(大森町の) 教勢は着実に伸展して、
教祖70年祭から教祖80年祭へかけての おぢば帰参者は飛躍的に増大。
昭和45年の「万国博記念にをいがけおぢばがえり団体」には、
その半年の期間中に、延 7,309名 (も)の帰参者があった。

大森詰所の移り変わり(昭和23年頃〜昭和32年)

さて、(話は遡るが)
(大森町の) おぢばの詰所は、(麹町から) 分離昇格後も ずっと麹町大教会信者詰所に同居していた。

(しかし、本部直属となって歳月も経過し、少しずつ戦後復興も進んだこともあり)
昭和23年(1948) 6月に、天理市川原城の民家を買収。
(大森町) 信徒詰所として、独立 開設した。

その後、おぢば帰参者の増加に伴って、(今度は) 詰所(を) 新築しようとの議が起こった。
(大森町として) 新敷地を求めて、まさに建築にとりかかろうとしていた矢先、(天理教教会)本部の都合で、この時は (一旦) 中止となった。

(その後しばらくして、改めて、詰所新築の話が進み) 
昭和32年(1957) 6月、天理市三島の現詰所への移転が決定。
同 (昭和32年6月)27日に (詰所の)移転が行われた。

大教会 客殿ふしん(昭和41年頃〜昭和43年)

昭和41年(1966) から計画していた (大森)大教会 客殿ふしんは、翌年(昭和42年) 着工し、
同(昭和)43年 8月10日に 真柱夫妻を迎えて 客間開きが行われた。

守屋政一7代会長の就任 〜 奉告祭(昭和48年)

就任以来、多方面にわたって内容の充実をはかってきた (守屋菊代)6代会長は、
かねてから、(早く) 後継者・守屋政一に 大教会長(職)を譲りたいとの思いを漏らしていた。

(その後、時旬が訪れて)
全教会長会議において、(守屋政一を7代会長として戴くことについて) 満場一致の賛意を得るに至った。

(それを受けて、天理教教会)本部(へ) 出願の運びとなり、
昭和48年(1973) 8月26日、
(守屋政一が7代会長に) 就任(した。)

(そして) 同(昭和48年) 11月8日の 2代真柱霊様合祀祭に続いて、
翌 (11月)9日、(3代)真柱夫妻 臨席のもと、盛大な (7代会長) 就任奉告祭が執行された。

〔現住所〕〒143-0015  東京都大田区大森西4丁目4番10号 
〔電話〕03-3761-3526

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,112〜115)

おわりに

大森町大教会写真①
ホームメイトリサーチ旅探天理教大森町大教会

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

86回目の今回は、
「大森町大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

大森町大教会AppleMapより①
Apple Map より

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】86回目の当記事では『天理教事典』の中の「大森町大教会」についての記述を書き写したわけですが、今回も、本当に知らないことばかりでした。

大森町大教会は、麹町大教会から分かれた大教会ですね。
麹町大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

『天理教教会所在地録』によると、
麹町大教会から分かれた大教会には、錦江大教会と大森町大教会があるとのこと。

で、大森大教会同様、麹町大教会から分かれた錦江大教会については、当シリーズ前々回の第84回で勉強しました。

大森町大教会写真①
ホームメイトリサーチ旅探天理教大森町大教会

錦江大教会について勉強してまだそれ程時間が経過しておらず、記憶に新しいこともあって、
今回の「大森大教会」初期歴史は 非常に頭に入りやすかったです (^^)

麹町大教会、錦江大教会、大森町大教会は、初期に中心となられた先生方の人的交流が非常に密なので、
その初期歴史については、むしろセットで勉強した方がわかりやすいなぁ…と感じました。

大森町大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビューより

大森町大教会の初代会長は、久保清次郎先生なのですね。

久保清次郎先生は、麹町大教会の実質的な初代である久保治三郎先生の長男であられて、
ご両親 (久保治三郎・信子ご夫妻) の信仰を受け継いで布教活動に専念しておられたところ、
久保信子麹町会長夫人より娘の身上をたすけられた 守屋寸々すず先生に乞われて、大森地方で布教するようになられた。

大森地方で、久保清次郎・つる ご夫妻を中心に布教活動を展開し 次々と不思議なご守護が現れ、その結果、生まれたのが 大森大教会――
そういうことだったのですね。

久保清次郎先生が大森地方で布教活動を展開することになったのは 守屋寸々すず先生が請願したからとのことですが、
その守屋寸々すず先生の元へ 久保信子麹町会長夫人を案内したのは、錦江大教会初代会長の 寺門きみ先生とのこと。

そうした初期の歴史を知ると、
麹町大教会、錦江大教会、大森町大教会というのは、本当に深い関係性をもって繋がっているのだなぁ…
ということが、改めて よくわかります。

大森町大教会AppleMapより②
Apple Map より

その中で、
久保清次郎・大森町初代会長が 久保治三郎麹町会長出直しを受けて麹町会長に就任した後、
関根豊松先生が2代会長に就任しながらも、わずかその半月後には辞任して 愛知布教に赴かれたという史実は、ちょっと気になりました。

関根豊松先生は、
その後、愛知で「愛町分教会」という 天理教内で比類なき輝きを放つ教会を設立されるわけですから、
きっとそうした史実の中には、常人には窺い知れない 深い神意が籠められているのだと思います。

ただ、『天理教事典』にはその背景が書かれておらず、
その経緯を知らない天理教初級者としては、
どうしてなのかなぁ…
とちょっと気になるところではあります (^^;)

…しかし、そういうところは、お道を歩む上で囚われる必要のない 枝葉末節の部分かもしれません。
興味本位で掘り下げることは慎みたいと思います。

大森町大教会写真③
ホームメイトリサーチ旅探天理教大森町大教会

今回の書き写し学習の中で、最も印象に残ったのは、
太平洋戦争末期の 東京大空襲のくだりでした。

これまで【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】で東京の大教会について勉強する中で、何回も東京大空襲の壮絶さを教えられてきました。

しかし、今回の『天理教事典』「大森町大教会」解説文では、
執筆された先生が東京大空襲の史実について多くのスペースを割き、実に詳しく書いて下さっていることもあって、
これまで以上に、東京大空襲の事が 非常に臨場感を持って 生々しく感じられました。

街中が焼き尽くされていく中、
大森町大教会の神殿は、炎が燃え移りそうになるたびに風向きが変わり延焼から逃れて、
見渡す限り焼野原の中、ただ一箇所だけ残った、という史実。
今回の勉強で 初めてそのような史実を知って、胸が熱くなりました。

東北大震災の際に唯一残った一本の松が、その後「奇跡の一本松」としてその地域の人々の復興の心の支えとなった如く、
きっと、唯一焼け残った大森町大教会の神殿も、「奇跡の神殿」として、その当時のその地域の人々の復興の心の支えになったのに違いない――
そんな思いが 私の頭の中に湧いてきたのでありました。

大森町大教会AppleMapより③
Apple Map より

その他にも、
大森布教の初期、雨乞いづとめにより大雨のご守護を頂き、それと同時天理教反対の旗頭となっておられた方の家に落雷があり、そこから一時的に天理教への攻撃が遠慮がちになった、
という話。

また、
太平洋戦争末期、守屋長蔵5代会長が、遠く北海道へ「東京教区いざひのきしん隊」の隊長として赴き、厳寒の中、隊員と共に およそ半年近くもの間、地下深い鉱山の労働奉仕を勤め切られた、
という話。

どれもこれも 知らない話ばかりで、
これまで知らなかった多くのことを知ることが出来て、非常に感動すると共に とても勉強になりました。
有難いことでした。

大森町大教会写真②
ホームメイトリサーチ旅探天理教大森町大教会

いずれにしても、
その他のことも含め、今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。

今回の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】においても また、
歴史を知ることで 今の現象をより立体的に感じる、
という体験をすることが出来ました (^^)

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「大森町大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

他の大教会の記事もたくさんあるので、ぜひ見てね!

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