Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
本年3月後半から
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】
というものを開始しておりました。
しかし、バタバタして、
週イチ更新ペースに 穴が空きそうだったので、
前回はお休みし、つなぎ記事として、
勝間和代氏の
「何が正解か悩みまくるよりも選んだことを正解に近づけよう」
という動画の【文字起こし】学習記事を投稿しました。
1回お休みさせて頂き、少しばかり整いましたので、
また今回は、
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】
の続きをいかせてもらいます。
ちなみに、
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】というのは、
自分の教会にあった『天理教事典』(1977年初版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写し、
それによって
天理教 各大教会の 大雑把な歴史というものを知ろう
という企画です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
前々回の記事では、
教会番号3番「山名大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。
なので、今回は、
教会番号4番「船場大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
勉強したいと思います。
船場大教会 (せんば だいきょうかい)
江戸時代後期〜明治14年2月
後に初代会長となった 梅谷四郎兵衛は
弘化4年(1847)
大阪府 南河内郡 西浦村 東坂田にて出生。14歳で
親戚の 大阪阿波座戸屋町 3丁目 箱屋町の
「左官四郎」を名乗り、
左官棟梁 浦田小兵衛の 養嗣子となったが、
後に 旧姓 梅谷に復した。梅谷家では
四郎兵衛の長兄 浅七のソコヒに苦慮し、
弟子 巽徳松の父の話により、
四郎兵衛は 徳松を伴ない、
暗がり峠を越えて 初めて「おちば」に参拝した。時に 明治14年(1881) 2月20日のことである。
10日後、
米田駒吉、義田楢次郎 外 7、8 名を連れて再び参拝。
3度目は 同行者30名といわれる。
明治14年5月〜明治19年
明治14年5月14日には
明心組 講名を 拝戴 (講番14号)。同日 講名を頂いた 真明組の人々と共に、
滝本村で「かんろだい」の石出し「ひのきしん」をしている。同年12月10日
明心組講元となった梅谷四郎兵衛は、
真心組と合同で
大阪 阿弥陀池 和光寺を通じて
教会公認運動を試みた。この時
手続書 1通、
「おふでさき」3、4、5号の 3冊
並びに「当神古記」1冊と
両講より 金一封(50円)を添えて 提出したが
返答がなかった。明治15年、年の初め頃より
左官得意先の 旧肥後藩士 鳥居某を通じ、
教会公認の運動をしたが、
未提出のうちに終わる。この頃、
梅谷梅次郎(後の 2代会長) が「おぢば」に参拝して、
「赤衣」を召された教祖に お目にかかった時、
煙草屋の看板の姫だるまを思い出して
「だるまはん、だるまはん」
と言い囃した。恐縮した四郎兵衛は
それより子供を同伴しなかったところ、
教祖は
「小さい時から心うつさにゃ 道切れるで」
と 仰せられた。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』
117.父母に連れられて
明治15、6年頃のこと。
梅谷四郎兵衛が、当時5,6才の梅次郎を連れて、お屋敷へ帰らせて頂いたところ、
梅次郎は、赤衣を召された教祖にお目にかかって、
当時煙草屋の看板に描いていた姫達磨を思い出したものか、
「達磨はん、達磨はん。」と言った。
それに恐縮した四郎兵衛は、
次にお屋敷へ帰らせて頂くとき、梅次郎を同伴しなかったところ、
教祖は、「梅次郎さんは、どうしました。道切れるで。」と、仰せられた。
このお言葉を頂いてから、梅次郎は、毎度、父母に連れられて、
心楽しくお屋敷へ帰らせて頂いた、という。
明治16年5月
四郎兵衛は 御休息所の建築にあたり
壁塗り「ひのきしん」をする。ある日、
他の者の四郎兵衛への蔭口を聞いて 立腹、
真夜中に「やしき」を出ようとするが、
教祖の咳払いにて 足が動かず、
思い直して 翌朝 教祖にご挨拶申し上げたとき、
「人がめどうか、神がめどうか」
とお諭しを受けた。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』
123.人がめどか
教祖は、入信後間もない梅谷四郎兵衛に、
「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」
と、お諭し下された。
生来、四郎兵衛は気の短い方であった。
明治16年、折りから普請中の御休息所の壁塗りひのきしんをさせて頂いていたが、
「大阪の食い詰め左官が、大和三界まで仕事に来て。」
との陰口を聞いて、
激しい憤りから、深夜、ひそかに荷物を取りまとめて、大阪へもどろうとした。
足音をしのばせて、中南の門屋を出ようとした時、
教祖の咳払いが聞こえた。
「あ、教祖が。」
と思ったとたんに足は止まり、腹立ちも消え去ってしまった。
翌朝、お屋敷の人々と共に、御飯を頂戴しているところへ、教祖がお出ましになり、
「四郎兵衛さん、人がめどか、神がめどか、神がめどやで。」
と、仰せ下された。
同年11月27日
明心組の礼拝の「めどう」として「おはじばんの赤衣」を、
四郎兵衛には 一重の「赤衣」を拝厳した。
(「おはじばんの赤衣」は 現在 大教会 教祖殿の「お目標」である。)明治17年の ある日、
四郎兵衛は 教祖に 道頓堀によい芝居があることを申上げたところ、
教祖は
「このお屋敷はな、 神一条の話より外には 何も要らん」
と 四郎兵衛を仕込まれた。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』
159.神一条の屋敷
梅谷四郎兵衞が、ある時、
教祖のお側でいろいろお話を承っていたが、ふと、
「ただ今、道頓堀に大変よい芝居がかかっていますが、」
と、世間話を申し上げかけると、
教祖は、その話を皆まで言わさず、
「わしは、四十一の年から今日まで、世間の話は何もしませんのや。
この屋敷はな、神一条の話より外には何も要らん、と、神様が仰せになりますで。」
と、お誡めになった。
また 同年5月9日
京都の明誠組が 心学道話を用いているのに倣い、
四郎兵衛が 社長となって
「心学道話講究所 及び 社号御許可願」
を 天輪王社の名義で 大阪府庁に出願した。17日付「書面願之趣 指令スベキ限二無之依テ 却下候事」であったので、
南警察署に質したところ、
願文の趣は 差支えなし
との 回答を得た。ここで
明心組 周旋 西田佐兵衛宅、南区順慶町通 1丁目9番地に
「心学道話講究所 天輪王社」
の看板を出した。同年6月11日
間口4間半、奥行6間の天輪王社(参拝所) の普請を始めたが、
炭屋町の竹内 などの 天輪教会創立運動 に妨げられ、
頓挫を来した。この頃より 翌18年10月頃まで
四郎兵衛は 「おちば」参拝を控え、
夫人 たね のみ 参拝していた。明治19年1月3日
四郎兵衛は 正月に 絹物廃止の心定めをなし
一段と信仰を進めたが、2女 みちゑ が出直した。教祖に伺ったところ、
「大きい方でのうて けっこうやったな」
と諭された という。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』
184.悟り方
明治十九年二月六日(陰暦正月三日)、
お屋敷へ帰らせて頂いていた梅谷四郎兵衞のもとへ、
家から、かねて身上中の 二女みちゑがなくなった という報せが届いた。
教祖にお目通りした時、話のついでに、その事を申し上げると、
教祖は、「それは結構やなあ。」と、仰せられた。
梅谷は、教祖が、何かお聞き違いなされたのだろうと思ったので、
更に、もう一度、「子供をなくしましたので。」と、申し上げると、
教祖は、ただ一言、
「大きい方でのうて、よかったなあ。」
と、仰せられた。
明治20年〜明治21年
明治20年2月18日
教祖 御身お隠れになった時、
四郎兵衛は
増野正兵衛、梶本松治郎と共に
家事取締りを 勤めた。同年5月16日 「息のさづけ」を拝戴し、
同年6月「道一条」の心定めをなし、
左官職を 弟子 巽徳松に 譲り渡した。その年の 秋頃、
移り住んだ八幡町で
家族に 洋家具商を営ませた。しかし、
不慣れな商売は うまくゆかず、
金銭的な苦労が多くなり、
梅次郎が学校に持参する 筆1本の代金 2銭5厘が無く、
母子 相擁して泣いたのも この頃のことという。この頃 頂いた「おさしづ」 には
「どのような道も 皆々 50年の間の道を手本にしてくれねばならんで、今の難儀は 末の楽しみやで」
と 諭されている。明治21年2月 梅谷家は
家族に営ませた 洋家具商を廃め、
名実共に「道一条」の信仰に入る。また 同年 8月17日
この年 4月より
四郎兵衛は「おちば」に寄留してつとめていたが、
借家事情につき
「梅谷四郎兵衛 大阪へ帰宅に付 さしづ」
を伺ったところ、
「おやしき」に住み込んで、勤めておればこそ、
これが元となり台となって 御守護が頂ける
と 諭された。
明治22年〜明治29年
明治22年(1889) 1月15日
四郎兵衛の病気より
「おさしづ」にて 分教会設置をうながされ、
「大阪明心組より 分教会所 御許し願」
を出したところ、
初代真柱の親心にて 内規の例外として認可あり、
「船場」と命名された。初代会長に 梅谷四郎兵衛がなった。
同年4月10日
分教会所の設置場所を、
天輪王社跡は 狭隘であるところから
新町橋西詰 3丁の 小西アイの持家が適当である との理由で、
役員、島、小西、太田の 3名より
「今までの地所を 他へ 移転仕り度し との願」を出したが、
「小さきが 大き成る」と 許されず、
南区 順慶町通 1丁目9番地 の
王社跡に 設置場所が定まった。このため 辞職願を出したり、
普請を止めたりした役員があり
一時 紛糾した。同年10月2日
鎮座祭、翌3日 開筵式を執行した。明治25年9月1日
梅谷梅次郎を中心に
神友道楽 青年会 (後の志道会)発会。24年末より「おさしづ」にて、
「ひろめ一条」「たすけ一条」
と 部内教会設置を急き込まれ、
菟原、渋川、児島各支教会が、また 翌26年
横堀、堀江支教会が 設置された。この年(明治26年)、梅次郎は
神戸の新聞に
外人が 眼病の救けを求めている記事を見て、
海外布教を企図した。明治28年11月28日
教祖10年祭を迎える準備として
詰所建築の許しを得て 完工した。明治29年4月7日
米田駒次郎、志賀清太郎、玉置仙太郎の3人が
米国布教願いを 梅谷四郎兵衛に提出したが
容れられなかった。しかし 同年7月26日
玉置仙太郎が 単身ロスアンゼルスに密航した。翌年3月
川田富三郎も 密航を企てたが
これは 果たせなかった。
明治30年代
明治32年5月31日
梅谷梅次郎は 2代会長に就任した。この年、敷地が 約4百坪に拡張され、
分教会設置当時の負債を返済、
また 部内8ヵ所が 一時に設置されるなど、
分教会にとって 最も隆盛の時期であった。明治33年6月27日 未明
東隣の紙屑屋より出火、
神殿、教祖殿、祖霊殿、炊事場に延焼、
お目標は 無事であった。後日
「十分すつきりしたら 十分した芽を ふかす」
と 励ましのおさしづを頂く。このため 同年 8月11日 新築願出。
敷地拡張の上 明治34年11月に落成し、
翌35年1月13日 鎮座祭、
翌日 落成奉告祭を執行した。総工費 約7万3千円かかり
負債が 約8千円あり、
頼母子講をもって 完済しようとしたが、
後年 その運営を誤り、
紛争混乱を生じて 役員の多くは 分教会を去り、
会長信任問題にまで 発展した。
明治40年代
明治42年1月8日
船場分教会より 教会に改称。明治43年6月25日
赤木徳之助、正信藤次郎、高見庄蔵の3名は
神戸港よりロンドン布教に出発した。これは
42年5月 母親の眼病から、天理教に関心をもった
大阪電機 株式会社の 英人 顧問技師 T. A. ローズ が、
通訳 福永秀夫と共に 初めて参拝、
ロンドンへ 布教師の派遣を要請して帰国したのに 端を発している。以後、
正信、高見などを 関西英語学校に学ばせる一方、
中西牛郎編、福永秀夫訳パンフレット
『英文天理教』(“TENRIKYO”) を作るなど
ロンドン布教に備えていた。明治44年9月16日
教会より 大教会に改称された。
大正時代〜昭和20年
大正3年11月13日
関西英語学校長 F. H. デビスン夫妻が入信して ロンドン布教に赴いたが、
先着者と意見対立、
加えて 大教会に諸種の問題が惹起して、
布教費の送金が打切られ、
折角 軌道に乗りかけていた口ンドン布教も 遂に断念、
正信、高見などに 帰国を要請した。大正4年4月
唯根泰治郎著、英和天理教会話書
“Catechism on Tenrikyo”
を発刊した。大正8年5月29日
初代会長 梅谷四郎兵衛は
73歳をもって 出直した。大正13年1月25日には
信徒詰所を 三島530番地より
二階堂村 指柳400番地へ 移転した。また 同年4月26日
春野貞造著『梅谷四郎兵衛』を
地場思潮社より 発刊している。大正14年2月19日
2代会長 梅谷梅次郎が出直。これにともない 3月8日
梅谷忠雄が 3代会長に就任した。この頃 教内は
大正10年1月、
教祖40年祭の打ち出しと共に
「教勢倍加運動」が提唱され、
年祭を前に 活況を呈していた。船場も、
大正10年春に 53ヵ所 であった部内教会は、
大正15年1月の 教祖40年祭には
大教会を含めて 99ヵ所の教会数となり、
年祭直後、 中華民国に漢口教会を設置、
2代会長 念願の 100カ所に到達した。更に 教祖50年祭を目指して 教勢は活発化され、
北は北海道より 南は台湾にも及び、
年祭時には 147カ所に達した。昭和20年(1945)3月13日
太平洋戦争の戦火により
神殿並びに付属建物 焼失、
お目標は 渋川、東船分教会より 詰所へと 転々と奉遷、
戦災焼失 部内教会は 70数ヵ所に及んだ。
昭和21年〜昭和40年代
昭和21年5月8日
資材難より
部内教会の付属建物を解体移築して
第1次 神殿(約24坪) 復興を行なう。昭和23年10月14日
第2次 神殿(34坪) 並びに 付属建 物建築落成して 鎮座祭、
翌15日
奉告祭 並びに 教会創立60周年記念祭を 執行した。昭和25年12月に
隣接地 約2百余坪の買収が成り、 客間を建築、
明心組 名称拝戴 70周年記念祭を執行した。
同日『梅谷文書』を発刊している。昭和27年6月に
隣接地 約2百坪 買収して
敷地は戦前の倍となり、昭和34年9月26日
鉄筋コンクリート造 銅板葺2階建神殿(延263.82坪)
及び 付属建物の建築の許しを得て 着工、
昭和37年3月10日 落成して 鎮座祭を、
翌11日 奉告祭を執行した。同年5月26日
梅谷忠一が 4代会長に就任し、
11月4日 就任奉告祭を執行した。忠一は 教祖80年祭を目標に
不振教会復興に力を注ぎ、
12カ所の復興を成し、
イギリス領 香港に 船場香港布教所の開設をなした。昭和41年3月26日
ブラジル・サンパウロに 明心プラジル教会設立。忠一は お目標を奉持して渡泊、
これを機に
パリ・ロンドン・ローマ・香港を歴訪、
初の海外巡教を行った。昭和44年5月25日
大教会において、
29日 本部祖霊殿において
初代会長夫妻 50年祭を執行。この時 詰所会長宅の 改修が成る。
翌45年1月24日
明心組 講名拝戴 90周年記念祭の執行を打ち出して、
明心会館ふしんの発表を行い、
3月26日 その許しを受けた。ところが 同年4月8日朝、
隣家より出火、
旧神殿、客殿の一部を 類焼した。このため. 8月26日
明心会館 ふしん計画 変更の許しを得て
着工した。昭和46年5月23日
明心組 講名拝戴 90周年記念祭 執行。
同日 小冊子『九十年の歩み』を発刊した。昭和47年(1972) 8月22日
3代真柱を迎え、2代真柱の霊を合祀し、
翌23日 明心会館 落成披露をした。
同日『梅谷文書』 (再版)を発行した。教祖90年祭の打出しを受けるや、
(『天理教事典』1977年版 P,464~466)
教会内容の充実を図れ との呼びかけに応じ、
先ず 不振教会の復興に傾注、
その復興の見通しも立ち、
各教会の内容充実に 拍車をかけた。
おわりに
天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
4回目の今回は、
「船場大教会」の歴史をなぞりました。
当シリーズ 前回最後に記した お断りフレーズを、
今回も 最後に記載させてもらいます。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【初版=1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています。
しかし、私が知りたいのは各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
船場大教会の初代会長である 梅谷四郎兵衛先生は、
『稿本天理教教祖伝逸話編』に頻繁に名前が出てこられるので、
そこに所属していない者にとっても、
何かしら馴染みがあるというか…
いろんな節目の際に
「人がめどか」(『稿本天理教教祖伝逸話篇』123)等の有名なご逸話に支えられた…
という経験を持っているのは、
きっと私だけではないと思います。
当記事では
『天理教事典』の中の
「船場大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も、また知らないことばかりでした。
明治20年6月に
梅谷四郎兵衛先生「道一条」の心定めをなし左官職を弟子に譲り渡した後、
家族に洋家具商を営ませたもののうまくゆかず、
金銭的に困窮し、
後に 2代会長となる 息子の梅次郎先生が
学校に持参する筆1本の代金 2銭5厘すら無く
母子相擁して泣いた話。
明治22年4月10日
船場分教会所の設置場所である 天輪王社跡が狭いということで
広い所へ移転する話となって、設置場所まで定まったのに、
お許しが出ず、
そのことで心を倒し 辞職願を出したり普請を止めたりする者が出て、
紛糾した話。
明治33年6月 隣家からの出火により神殿その他が延焼、
明治35年に 神殿 及び 教会施設を再建したものの、
総工費の債務を 頼母子講をもって返済していく予定が、
後年 その運営を誤り、
紛争混乱を生じて、役員の多くが 分教会を去った話。
…などなど。
「山名大教会」書写学習の際の「おわりに」でも書きましたが、
本当に、どんな組織にも、
長い歴史の間には いろいろなことがある…
という事実に、
改めて浸っています。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょうね。
ということで――
今回は「船場大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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