Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
本年の3月末から
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】継続中。
当シリーズ意図は、
天理教 教祖百四十年祭へ向かう旬に、
これまでご縁がなかった天理教教会の歴史を
多少なりとも知ることを目指す というもの。
そのための教材として、
たまたま自教会にあった『天理教事典』(1977年版)を活用しています。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
何分 古い教材であるため記述内容がとても古い。
また、無条件に「原文」を書写しているので、
たまたまこの記事を目にした関係者の方の中には、
この記述内容は事実と異なる!(~_~;) …
と 不快な思いをする方が おられるかもしれません。
ですが、
当ブログは、自己学習目的のものであり、
記事作成にあたっては、
何らかの主義主張を行う意図はありません。
すなわち、
当シリーズ 全ての記事は、
「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したものに過ぎません。
よって、
記事の記述内容の正確性というところまでは よく検証できていない ということを、
まず冒頭に お断りしておきたい と思います。
当シリーズ前回は、
教会番号9番「日本橋大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番10番「高安大教会」について勉強します。
高安 大教会 (たかやす だいきょうかい)
明治3~4年頃
明治3年(1870) 秋の頃、
河内国高安郡 教興寺村(現大阪府八尾市教興寺)の
松村栄治郎の妻 おさく が、
俗に「タチヤマイ」といわれる病気のため、
腹に棒の立つような苦しみを受け、
近村の名医数人に立会診察を受けたが
助かる見込みなし との診察で、
日々に 重篤となった。そこで おさく は気長く静養するため、
同(明治) 4年 正月 2日、
実家である大和国平群郡平等時村、小東政吉宅へ帰ったが妹 まつゑ が教祖の長男秀司の妻になっていたことから、
教祖がどんな難病でも救けられるというも聞いており、
なんとなく信仰したい気持になり、
(明治4年) 正月10日、
駕籠で「おぢば」に参拝した。ところが
1年越しの長患で 頭髪が蓬のように乱れているばかりか、
虱がわいて 非常にむさくるしい姿であったのにかかわらず、
教祖は 少しも意に介されず
「直ぐ湯に入れ」といわれ、
自ら肩を流し 毛髪を櫛けずり、
虱をとり除きながら 教理を聞かせ
「お願いつとめ」までなされると、
さしもの大恵も 嘘のように 御守護を頂いた。そして おさく と秀司の妻 まつゑ が 姉妹であるということから、
中山家と松村家が 親族の関係であり、
夫 栄治郎も、心に 神の不思議な救けを感じて、
おぢばに来る日が 多くなった。教祖は おさく を
「姉さん、姉さん」
と呼んで 親しくされた。その後、
大阪・河内方面へ教線が伸びるに伴い、
代々 河内地方の素封家である松村家へ
信仰者の出入が 多くなっていった。
明治15年頃
明治15年、おさく は
「痛風症」(リュウマチ)を患った。夫 栄治郎が 早速 おぢばに参拝し
教祖に「おたすけ」を願ったところ、
「姉さんのお障りなら、私が見舞いに行く」
と仰せになって、(明治15年) 6月18日、
飯降伊蔵 ・山中栄造を供に、赤衣を召され、
人力車で松村宅に来られ 3日間滞在されて、
親しく抱き寝をされては 教理を説かれた。このことを伝え聞いた 近在の信者が
多数 松村家へ押しかけて来たので、
柏原警察分署から巡査が出張し
門を閉塞したほどの騒ぎであった。教祖は 滞在中、
「ここは 将来参り場所になるのや 『うちわけ場所』の理を許す」
と仰せられ、
高安の地に 尊い理を許された。教祖が おぢばに帰られて 3日後、
おさくは駕籠でおぢばに参拝し、
約1ヵ月間 滞在、さしもの重患も 全快した。夫 栄治郎と共に お礼と帰宅の挨拶に出た時、
教祖は 栄治郎に対し、
召されていた赤衣一裲を 白紙に包み、
初代真柱に命じて 白紙の上に「教栄命」と書かせて、
お下げになった。また この時、
教祖が 常に用いられていた食器一切も お下げになったが、
その食器で食べると 如何なる病気もよくなるので、
あちらこちらより借りにきて
今では 茶碗しか残っていない。
明治19年頃~明治21年頃
明治19年の春、
松村栄治郎の長男 吉太郎は
肺病に近い 肋膜炎を患った。医師の力も及ばず
悪化の一途をたどっていった。(松村) 吉太郎は 当時 村役場に勤務していたが、
幼少より学に秀で、
理屈多く 堅苦しい気性であったから、
自らの理知で判断して
不合理と思われる信仰には 入りにくかった。ある日 信仰を勧めると
「それでは 試しに信仰してみよう」
と答えたので
村内講社のある人が
「あなたは理屈の判る人に似合わぬ 訳のわからん事をいわれる。
よく考えてみなさい。
人間にしても 試みに頼んでみたところで、どうして それを聞いてくれますか。
神様も それと同じことです。
試みに信心していて 神様から充分な御守護を頂ける筈はない。」
といわれ、
「なるほど」と 深く悟った吉太郎は
「それでは 本気で信心しよう」
と 一筋心で神にすがり、
暫時の間に 平癒した。その後 吉太郎は 求めて教理を聞き、
土曜日の午後より 日曜日にかけては おぢばに参拝して、
教理の仕込みを受け、
その信仰は 燃えてきた。そして
仏教側による 天理教撲滅演説会が聞かれた時は、
常に 反対演説に出て 活躍するまでになり、
明治21年 1月31日
「こうずいのさづけ」を戴いた。
明治21年頃〜昭和22年頃
同年(明治21年) 4月、教会本部 設置後、
吉太郎は
ぢばにて勤めるべきか、高安の実家にて働くべきか
を神に伺うと「一代は一代、二代は二代の理、 代々続く 生涯末代の理である。
さあ/\ 国所に 一つの理の治め、ちばにて尽くす、二つの理を一つの心に治め。
これを 心の道を合わせて通れば、身上も 速やかであろう。」
(さ22・1・29)との「おさしづ」があって、
ぢばと国所(地方)にて 尽くしきらねばならぬ という神意がわかったが、
栄治郎も吉太郎も 布教した人でなく、
従って 信者がない。それなのに 神様は
国所にて 教会を設置するよう
重ねて おさしづがあったので明治22年 2月、吉太郎は
河内一円の講社、
誠神・栄続・ 真恵・教真・真誠・天心・天徳
等を集合し、
高安分教会を設置することに 相談をとりまとめ、
同年(明治22年) 3月3日、許しを受け
(松村) 吉太郎は 初代会長に 就任した。しかし、吉太郎にとっては
年少でもあり、
しかも 不統一の講を統一して 講社を結成し、
その会長職に就任して 講社を動かしていくことは
至難のことであった。その上
大阪府の認可が なかなか出ないので、
一部の人は 教会設置 覚束なしとて分離して、
別に 教会設置の動きも出た。加えて (松村) 吉太郎は、
祖母の出直、自分の結婚、父 栄治郎の出直…
と相次ぐ問題に出会い再三 神様に伺って、
結成された講元達と協力して願い出て、
遂に 明治23年 6月10日
大阪府より 教会設置の認可を受けた。それより 吉太郎は
自己の屋敷内で松村家の山より切り出した材木で 教会建築に着手し、
同年(明治23年) 11月3・4日、
高安分教会の 鎮座祭、開筵式を執行した。
明治24年頃〜明治31年頃
明治24年10月21日、
教会設置後もそのまま使用していた 従来の各講名を
光道講 と改名すべく 許しを受け、
当時18ヵ所あった講は
それより、
光道 第1号・第2号 と称するようになった。明治24年より 約5年間は
内外事情が重なり 窮迫の度は 増していった。その中心的動きは 仏教よりの反対運動で、
陶器村事件 その他の事件で
警察だけで治まらず 憲兵隊まで出動する
ということもあり、
(松村吉太郎) 初代会長は
幾度となく警察へ出頭して 事件の解決に奔走した。しかし、
こうした反対攻撃が大きければ大きい程、
若き 初代会長を中心として
分教会は 隆昌への道をたどった。しかるに
教会は 西・北の二方が 道路、
東・南二方 が 池の堤防で、
これ以上拡張ができないので松村家の柿畠(現大教会所在地) が京街道に面した所にあったところから、
ここへ移転建築することになり明治28年10月30日 許しを得て、
10間に15間、周囲に1間の雨縁、4間に1間の玄関の
神殿建築に 着手した。折しも 内務省の秘密訓令が発せられて 信者の気持が離れてしまい、
寄付金は止まり、
神殿は棟上げが中断したり、
屋根板は張られたが 瓦がのらず 雨の降る毎に柱が汚れ、
役員達は 天を仰いで 男泣きに泣いたこともあった。明治30年 8月20日 おさしづを伺うと、
神殿建築は 一人、二人の力によって成るものではない、
多数の者が寄り集った理で成り立つ と諭され、
また
大きい難局には 大きい心を持たねばならん との仰せで、
(松村吉太郎) 初代会長は 一層 勇んでつとめた。かくして
明治29年 6月から 同(明治) 31年 5月までの工事で
神殿・教祖殿・客間などを 移転建築し、
(明治) 31年5月5日 その奉告祭を執行した。また 明治28年11月20日、
丹波市三島(現在の教会本部西門のあたり) に 信者詰所建築の許しをうけ、
4間に6間の2階建と 付属屋を建築した。神殿建築にかかった当初、
高安の部内教会数が 38ヵ所であったのが、
落成時には 93ヵ所に増加し、
また
この建築を機に 高安の教線は
近畿地方はもとより 東海・関東・北海道と伸び、
中国・四国・九州へと 広がっていった。
明治31年頃~明治32年頃
(松村吉太郎) 初代会長は
明治31年より 天理教の一派独立運動に取り組み、
10年間、教会をかえりみることなく 勤めた。このため 教会内は
文字通りの どん底生活を 余儀なくされた。この独立運動に併行して
教会内の役員宅を建築したり、
信者詰所の移転建築をなした。
この詰所は 三島 (元の天理中学前)にあって
総坪数 3,142坪、建坪 858坪である。それだけに
当時70余人の 分教会専従の家族は、
お供の神饌米を分けて食べるだけで、
朝夕は 葱や水菜の味噌雑煮という有様であったが、
(松村吉太郎) 初代会長は
常に 教祖の苦労話をされて、
その中を勇んでつとめるよう 諭すとともに
自らも 実行した。その間
部内教会であった 大縣支教会は
明治32年12月29日、高安より分離し 本部直属となった。
明治37年頃~明治43年頃
明治37年 7月8日、
(松村吉太郎) 初代会長は、
専心 独立運動に従事するため、
また 教会財政上の問題もあって 辞職し、
役員 仲谷与十郎が 2代会長に就任した。しかし
独立請願は 思うにまかせず、
一方 教会の財政問題も解決せず、
その上 病気や問題が重なり、
遂に
(松村吉太郎) 初代会長が 再び 高安分教会長に就任した上で この難関をきり抜けようと、
明治39年11月3日、
松村吉太郎は 高安3代会長に 再任された。明治41年11月27日
天理教は 一派独立の許可をうけた。そこで 同(明治) 年12月22日
高安分教会は 高安大教会と 改称された。明治43年 1月28日には
婦人会 高安支部が 設置され、
婦人会活動が 開始している。
大正4年頃~大正15年頃
その後、
松村吉太郎は 本部の業務に専念するべく 3代会長を辞し、
大正4年(1915) 1月29日
松村隆一郎が 4代会長に就任したが(松村) 隆一郎が 出直したので
大正6年 9月28日
吉太郎は 三たび会長に就任した。大正8年 1月25日には 青年会高安分会が設置され、
青年会活動が 展開されることになった。また 同(大正) 9年10月には
教祖殿・客殿 2棟が 新築完成した。大正10年1月27日、教祖40年祭の発表があり、
松村吉太郎は 本部より 準備委員長を命じられたので、
大正10年 6月25日、
高安大教会 5代会長を 松村義孝に譲った。以後、
新会長をたすけて 部内教会長と共に 倍加運動に着手しその結果
大正9年末の 部内教会数 217、教人数 1,120名が、
大正14年末には
部内教会数 525、教人数 3,329名になり、
青年会員・婦人会員も これに応じて倍加された。詰所の移転建築(現詰所)も その活動目標の一つであり、
大正13年 4月2日より起工し、完成して
同(大正) 14年 4月23日より使用開始、
更に
詰所本館は 昭和2年(1927) 4月中旬 落成した。当時 教内全般に 文書布教熱がおこり
機関誌出版が計画され、
大正12年 1月『六踏』の名をもって創刊されたが、
第2号よりは『うちわけ』と改名し、
以来 戦争によって一時中断したが、
現在(編者註:『天理教事典』1977年版発行当時)まで
大教会機関誌として 発行している。また昭和2年 4月には「高安大教会史』(上・下2巻)を 編纂発行した。
大正15年には
大教会の敷地拡張の必要上 隣接地を買収し、
敷地合計 4,335坪となる。
昭和初期~昭和17年頃
昭和4年11月13日、
教会子弟の教養扶育の機関として、
財団法人「高安教学会」が 文部大臣より認可され、
詰所内に「教学会」の寄宿寮を開設し、
天理中学・天理高等女学校に通学する 学生の便に供した。なお 詰所建物を「教学会」の基本財産として寄付し、
部内教会からも 冠婚葬祭時に 篤志が寄せられた。その後 昭和10年 1月
「教学会」扶育生の 卒業後の 相互親睦の信仰の指導的機関として
「みもみ会」を創立した。
当初の会員数は 450名余であった。昭和5年 8月1日
豪雨により布留川が増水し、川岸が浸蝕され、
詰所正門の橋が流失し、門柱は折れ、 事務所が大破した。そこで 護岸工事に着手したが、
地元民の反対にあい 一時中断したが、
同年(昭和5年) 12月22日南側、
翌年(昭和6年) 9月 北側も完成した。また 昭和7・8年に亘り
大教会の事務所・会長宅・食堂を建築し、
冠木門を築造した。昭和6年 1月
教祖50年祭 及び 立教百年祭を期し「昭和普請」が打出され、
同(昭和) 8年 1月に
両年祭活動の 決死隊が組織された。具体的目標として
別科生募集、神殿・教祖殿ふしん(昭和普請)の献木が挙げられ、
別科生の大募集も、
同年(昭和8年) 9月には 一挙に 1,200名の卒業生が出、
その後も 毎期 千名前後の 卒業生があった。また 本部神殿・教祖殿の献木についても 成果をおさめ、
両年祭も 盛大につとめ終え昭和15年 4月16日
大教会 創立50周年祭を執行したが、
当日の参拝者は 5千余名で
空前の盛大さであった。昭和6年12月13日、
松村吉太郎は
教祖の生家 前川家の建物が 荒廃しているのを 痛ましく思い、
これを借り受け教会としたい旨を 本部へ申込み、許されたので
教会設置の許しを受け その初代会長となった。
そこで 部内教会 8ヵ所を設けた。昭和9年 1月25日
東本分教会が 高安から分離昇格し、
東本よりは
本保・本愛・本芝の 3教会が
その後 分離昇格している。次いで 同(昭和) 16年 3月11日に 洲本分教会が、
同年(昭和16年) 6月8日に 都分教会が、
同年(昭和16年) 6月12日 に 南・西成の 2分教会が、
同(昭和) 17年 5月28日に 大鳥・ 古市の 2分教会が
それぞれ分離陞級し、本部直属となった。
昭和23年頃~
昭和23年12月25日、
松村義孝 6代会長が辞任し、
松村義晴が 7代会長に就任した。その後
布教活動をより一層強力とするため、
昭和25年 5月には「よふぼく道場」を開設してよふぼくの育成に当たり同(昭和) 26年 1月には 年祭活動祈願1万人徒歩団参を挙行し、
老齢の松村吉太郎を先頭に信貴山越えにて「おぢばがえり」をなし、同(昭和) 39年には 8回に分けて 後継者講習会を、
同(昭和) 40年には 3回にわたって 布教者講習会を開催するなど布教活動を容易にするための催しをすると共に、
毎年 2回以上 部内全教会に巡教し、
心をそろえた歩みを続けている。更に 同(昭和) 43年 3月には 少年会高安団を結成し、
後継者の育成にも 励んでいる。なお 松村吉太郎は
三昧田分教会設立と同趣旨により、
昭和27年 1月25日、
平等寺分教会を設立許しをうけ、
その初代会長に就いている。しかし、同年(昭和27年) 9月17日、
(松村吉太郎は) 85歳で その偉大な生涯を終えた。昭和43年 9月26日、
年々増加する信者の受入れのため、信者会館建築の許しをうけ、翌44年10月、
地下1階・地上5階・鉄筋コンクリート建・瓦屋根葺、 延床面積4,421.84㎡を完成し、引き続き 明治31年より 72年間使用した神殿を取りこぼち、
その跡へ、
昭和45年10月より 3年間の歳月を要して、
鉄筋コンクリート瓦葺 2階建、延床面積 5,076.55㎡の 神殿を建築し、同(昭和) 48年10月22日
その落成奉告祭を 執行した。
当日の参拝者は 15,947名であった。現在、会長を芯に、
部内一同 世界だすけに邁進している。〔現住所〕 〒581 大阪府八尾市教興寺 7丁目75
8う〔電話〕072-941-7005(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,482~485)
おわりに
天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
10回目の今回は、
「高安大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
天理教に関係ある人なら 当然 知っているとされる一般知識も、
私のような、常に 逃げ腰(笑)の者にとっては、
知らないことである場合が 非常に多いです。
高安大教会初代・松村吉太郎先生の母親である「松村おさく様」は、
中山秀司先生の奥様 まつゑ様 のお姉さん
――すなわち、
天理教真柱の中山家 と 高安大教会の松村家は
親戚だったのですね。
きっと、天理教関係者なら 当然 知っているレベルの話なのだと思いますが、
お恥ずかしながら、私は 知りませんでした (^^ゞ
親戚ということもあるのでしょうが、
今回の『天理教事典』「高安大教会」説明文を読んで、
まず 私が感じたのは、
おやさまの、
松村おさく様に対する 愛情の強さが ハンパない(言葉が不謹慎!? m(__)m )
…というものでした。
明治15年、
松村栄治郎先生が おやさまに おさく様の 身上おたすけを願った際には、
「姉さんのお障りなら 私が見舞いに行く」
と仰せになって、
直々に 教興寺村の 松村家へ出向かれ、
親しく 抱き寝(!)までされて
教理を説き おたすけをなされた。
そして、
「ここは 将来参り場所になるのや 『うちわけ場所』の理を許す」
と 仰せられて、
直々に 高安の地に 尊い理を許しておられる。
おやさまが【万人】に対して 変わらぬ 温かい親心をおかけ下さっていることは 間違いないし、
表面的な狭い人間の視点に他ならない ということは 十分 自覚していますけれども…
しかし そのような自覚を踏まえてですら、
今回の『天理教事典』「高安大教会」説明文を読むと、
松村おさく様・高安に対する 思いの強さには、
より一段と深いものがあるように 私の眼には映るのでした。
特に、
松村家滞在中に
「ここは 将来 参り場所になるのや 『うちわけ場所』の理を許す」
と、直々に【現地で!】仰っておられる ということ。
これまで『天理教教祖伝逸話篇』で拝読して、
そうした史実があることは 漠然と知っていましたが、
“よく考えてみると、それって 実はすごいことじゃないか!”
と、このたび 改めて感じたのでありました。
『天理教教祖伝逸話篇』102. 私が見舞いに
明治十五年六月十八日(陰暦五月三日)
教祖は、まつゑの姉にあたる河内国教興寺村の松村さくが、痛風症で悩んでいると聞かれて、
「姉さんの障りなら、私が見舞いに行こう。」
と、仰せになり、飯降伊蔵外一名を連れ、赤衣を召し人力車に乗って、国分街道を出かけられた。
そして、三日間、松村栄治郎宅に滞在なされたが、その間、さくをみずから手厚くお世話下された。ところが、教祖のおいでになっている事を伝え聞いた信者達が、大勢寄り集まって来たので、柏原警察分署から巡査が出張して来て、門の閉鎖を命じ、立番までする有様であった。
それでも、多くの信者が寄って来て、門を閉めて置いても、入って来て投銭をした。
教祖は、
「出て来る者を、何んぼ止めても止まらぬ。ここは、詣り場所になる。打ち分け場所になるのやで。」
と、仰せられた。さくは、教祖にお教え頂いて、三日目におぢばへ帰り、半月余りで、すっきり全快の御守護を頂いた。
と、ここまで書いた時、
そういえば、以前、
敷島大教会について勉強した際に参考にした「天理教ORTHDOX」というブログの中に、
「打ち分け場所」に関しての記事があったなぁ…
ということを 思い出しました。
改めて検索してみると、以下の記事がヒットしたので
コピペさせて頂きます。
単純な自己覚え書き目的ですので、
「天理教ORTHDOX」ブログ主様、ご了承願います。<m(__)m>
うちわけ場所 (2015年8月25日)
「打ち分け場所」という言葉がある。
これは「おふでさき」には、このはなし なんの事やと をもている 神のうちわけばしよ せきこむ (二号 16)
と 記されており、その注釈には、
「うちわけばしよとは、打ち分け場所で、将来は内、中、外に各々三十一ヶ所宛、都合九十三ヶ所出来ると仰せられた。
如何に業病の者でも、その打ち分け場所を回っているうちに、病気を救けて頂くのであるが、そのうち一ヶ所は 非常に辺ぴな場所にある。
しかし、これを略するようでは救からない。
又、たとい途中で救かっても、車やつえを捨てないで、結構に救けて頂いた事を 人々に知らせて、最後に それをおぢばに納めるので、もし 途中でそれを捨てたならば、一旦救けて頂いても、又 元通りになる、と仰せられた。」
と 述べられてある。
この文を見るに、「巡礼」に近いものとも解せれるが…
実際に教祖が打ち分け場所になる と仰せられたとされる場所は、
大縣大教会、高安大教会、旧郡山大教会、敷島大教会 の四ヶ所である。前の三ヵ所は、これは、『稿本天理教教祖伝逸話篇』の
「四七 先を楽しめ」、「一〇二 私が見舞いに」、「一八九 夫婦の心」
の それぞれの話に 記載されている通りである。敷島大教会については、『増野鼓雪全集 5』にこう述べられてある。
「本部直轄の教会が多数ある中で、神様が打分け場所と仰せられたのは、我が 敷島大教会と 高安大教会の 二ヶ所だけである。
神様の御予言に、地場を中心に 六里四方に内三十一ヶ所の 打分け場所が出来る と仰せられてある。
して見れば、九十三ヶ所の打分け場所の中、我が敷島は 御地場に最も近い内三十一ヶ所の部に属するものである。」
(「國への土産」 より)
とはいえ、必ずしも今ある教会がいずれ「打ち分け場所」になるとは言い切れないだろう。
第一に、講・教会ではなく、その場所・地点を示すものと考えるならば、教会移転等したらどうなのか…
そうした未来さえも 分からないのであるから。また、教祖は 文久・元治のころから「講を結べ」と仰せになり、
「打ち分け場所」「詣り場所」「神の出張り所」
などという言葉も 口にしていたという。それを考えるなら、
「教会→打ち分け場所」よりは、「講→打ち分け場所」の方が妥当とも考えられやしないだろうか。(今ある教会の役割と 本来の講の役割が違うのであれば…)また、「打ち分け場所」、「詣り場所」、「神の出張り所」に関しても、
それぞれ 違う役割を持っているモノとも 捉えられるかもしれない。詳しい事が分からない以上、曖昧な表現ばかりになってしまうが、
いずれにしても、これが 当時の 講や今日の教会への予言として仰せられたとされる「打ち分け場所」である。ただ最後に一つ、「打ち分け」と表記する意味も、私としては 興味深いところであるが…
天理教ORTHDOX >うちわけ場所 より
「天理教ORTHDOX」ブログの この記事では、
増野鼓雪先生は、
“神様が 打分け場所と仰せられたのは、敷島大教会と 高安大教会 の2ヶ所だけだ…”
と仰られていた、と書かれてありますね。
私は、教理の難しいことは全く分からないので (#^^#)
これ以上 言及しませんが(…する資格なし(笑))
おやさまが、直々(‼)現地に赴いて、
「ここは 将来参り場所になるのや 『うちわけ場所』の理を許す」
と仰せられた、という事実…
これは 重いのではないでしょうか。
天理教にとって【高安大教会】には並々ならぬ重みがあるということは間違いない!…
無知な私にでも、その程度のことはわかります。
何と言っても、
おやさまが、その「現地」において
「ここは 将来の参り場、『うちわけ場所』や」
と宣言してくださったのが、今の【高安大教会】なのですものね。
…などと、基礎知識が乏しいにも関わらず、
ちょっと調子に乗って 知ったかぶりなことを書き連ねてしまいました (^^;)
教養のない者が教理の深いところに入っていくと、
迷子になって出て来れなくなってしまうので、
このあたりで切り上げさせて頂くとこととします (^^ゞ
今回も、『天理教事典』「高安大教会」説明文を書写することで、
知らなかったことを、いろいろ知ることが出来ました。
特に、高安大教会・初代、松村吉太郎先生の
強い個性は印象深かったです。
本部の御用との兼ね合い等々で、3回も会長になられていたということ、
教祖の生家 前川家の建物が荒廃しているのを痛ましく思い、三昧田分教会を設立しその初代会長となられていたということ、
同趣旨で平等寺分教会を設立し、その初代会長になられていたということ…等々。
その他のことも含め、全く知らないことばかりでした。
とても勉強になりました。
本当に知らないことだらけだなぁ…
と改めて思います。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「高安大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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