天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より

「南海大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】
の続きです。

当シリーズ意図は、
天理教 教祖百四十年祭へ向かう旬に、
これまでご縁がなかった天理教教会の歴史を
多少なりとも知ることを目指す というもの。

そのための教材として、
たまたま自教会にあった『天理教事典』(1977年版)を活用しています。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

何分 古い教材であるため記述内容がとても古い。

また、無条件に「原文」を書写しているので、
たまたまこの記事を目にした関係者の方の中には、
この記述内容は事実と異なる!(~_~;)
と 不快な思いをする方が おられるかもしれません。

ですが、
当ブログは、自己学習目的のものであり、
記事作成にあたっては、
何らかの主義主張を行う意図はありません。

すなわち、
当シリーズ 全ての記事は、
ただ単に、
「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したもの――

よって、
記事の記述内容の正確性というところまでは よく検証できていない――

その点を
まず、お断りしておきたい と思います。

当シリーズ前回は、
教会番号10「番「高安大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番11番「南海大教会」について勉強します。

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南海 大教会 (なんかい だいきょうかい)

TabiKen > 「新宮の大建築、天理教南海大教会の神殿と旧神殿」 よりお借りしました

南海大教会の成り立ち

南海大教会は 
紀伊半島の東南、熊野灘に臨み、
木材の集散地として熊野川の河口に開けた 
人口4万を数える 和歌山県 新宮市に在る。

南海大教会は、
初代会長と 2代会長が 相共に入信し、
直ちに布教した結果、
明治20年(1887) 12月19日結成された 正明講 を前身とするが、

明治24年(1891) 2月28日
山田作治郎を初代会長に、
畑林為七を副会長として 許しを得、
南海支教会として
この地に創立された。
(「おさしづ」明治24年2月27日、地方庁認可 同年5月12日)

南海大教会初代会長・山田作治郎について

後に 初代会長となる 山田作治郎は、
万延元年(1860) 12月19日
三重県 南牟婁郡 尾呂志村(現御浜町) 大字川瀬に
山田作平・はる の長男として生まれた。

家は 通称「宮ノ芝」で呼ばれ、
代々 農業を本業とするかたわら、
父の代に 雑貨店を開き、
村では 中流の暮しであった。
(山田) 作治郎は 幼少の頃から聡明である上、

負けじ魂の持ち主で
前途を嘱望されていたが、
14歳の時、寺小屋を下り 家業の雑貨商に励んだ。

18歳の頃から 胸の病に冒されたが、
床に臥す程でもなかったので、 
家業に励むとともに
公共のことにも力を尽くして 村人から感謝された。

26歳の春
同村の山田与兵衛の 3女 とめ と結婚した。

商売は順調に発展して行ったが、
一家の柱である(山田) 作治部は 
父が出直す前後から 胸の病が嵩じ、

医薬の限りを尽して養生しても快くならず、
また 加持祈禱に頼って信心も続けたが 効験は現れず、
死を待つよりほか 手の施しようがないようになった。

この頃
「宮ノ芝」に出入りしていた 大和下市の 筆墨行商人から
天理教の風評を聞いた。

そうしている中にも、
病は募る一方なので、
一先ず 大阪へ養生に行く心を決め、
母や親類の 同意を得た。

大阪へ行くについて 同伴者を求めていたところ、
幸いにも
大阪の地理に詳しい 畑林爲七(後の2代会長)の快諾を得たので、
明治20年 9月20日 上阪の途についた。

山田作治郎と畑林爲七は 大阪に向け 出立したが、
作治郎の希望により
十津川村から 途を大和路に転じて、
(明治20年) 9月24日(陰暦8月8日)
丹波市(現、天理市)に着き、
初めて「おぢば」の土を踏んだ。

「お屋敷」で教理を聴問し、
「おさづけ」を取次いで貰い
身心共に 軽くなった。

その後 大阪に出て、緒方病院で診てもらったところ、
病の気はないから安心するがよい
との言葉であった。

ここに 両人は
初めて 救けに浴したことを知り、
共に 感涙にむせんだ。

ただちに帰郷した (山田) 作治郎は、
その足で その日(明治20年10月16日、陰暦8月30日) から
布教活動を始め、
信仰生活の第一歩を 踏み出した。

南海大教会2代会長・畑林爲七について

一方、畑林為七は
大阪での商用を済ませ、
1週間程遅れて 下市木に帰ったが、

その途中「宮ノ芝」に立寄ったところ、
布教を進める(山田) 作治郎の 真剣な言葉を受けて
布教専務の心を固め、
(明治20年) 10月24日
帰宅と同時に 布教を始めた。

畑林為七は、
嘉永3年(1850) 11月20日 
三重県 南牟婁郡市木村(現、御浜町)大字下市木で
畑林 半次郎・さき の 3男として 生まれた。

生家は
代々 鍛冶屋を本業とする傍ら 農業も営んでいた。

が、余り裕福ではなかったので、 
幼少の頃から 農家奉公、行商、船乗りなどを経て 
注文取りの傍ら 行商をして
大阪へも往復するようになった。

この生業が縁となって 山田家と近付き、
入信、布教を志すようになった。

明治20年~明治24年頃

(山田) 作治郎、(畑林) 為七
両名の布教活動により、
瞬く間に 同村を中心に 南牟婁郡内に教えが広まったので、

相談の上
(畑林) 為七が 講社帳 (74名加入)を持参して、
同年(明治20年)末 おぢばに帰った。

初代真柱から「正明」という講名を受け、 
2人講元として 講が 成立した。

翌(明治) 21年10月に至って 
本部の指示にそって  2人講元は 正・副講長に改められ、
(山田) 作治郎が 講長に、
(畑林) 為七が 副講長になった。

結講後 幾何もなく 
官憲の迫害干渉、社会の反対攻撃が激しくなって来て 
なみなみならぬ苦労をしたが、
両名は これを物ともせず 布教活動に励んだので、
相次いで救けが現れ、

明治22年 1月頃までに、
後の南海大教会の基礎を作った人々をはじめ
講社に加入する人達が 急激に 増加して来た。

よって 同年(明治22年) 1月に 
尾呂志 (山田作治郎宅) 及び 市木(畑林為七宅)に 集談所を設け、

次いで 翌(明治) 23年までに 
各村 及び 新宮町に集談所を設けるなど、
目覚ましい活動振りであった。

救けに浴した人々は 
両講長の指導の下、激しい迫害干渉の中 布教に努め、
正明講の伝道線は 
郡内より 北牟婁郡、和歌山県の北部、中部にまで伸びると共に 
北海道 新十津川の地にも及ぶ。

教祖5年祭 執行の年、
明治24年(1891) 2月27日、
和歌山県新宮町に 
山田作治郎を会長に
南海支教会 設置の許しを得た。

これは 和歌山県 最初の教会である。

教会設置の許しを得たので、
丹鶴城趾の一角に 千余坪の敷地を買収し、
ただちに 普請に着手。

同年(明治24年)12月5日
新宮町 未曽有の盛況裡に 開筵式を執行した。

明治24年~明治25年頃

この年(明治24年) の末、
(山田作治郎) 初代会長は 
遠く北海道へ 布教師 2名を派遣して
北海道布教に着手した。

これは、
これより先の明治22年 8月に
大和の十津川村が 大洪水に襲われた際、
奈良県当局の斡旋により、
被災者が 北海道の徳富の新村(新十津川村)に移住して 新天地の開拓に取り組んでいたのだが、
この移住者の中に
日元講(旭日大教会の前身) で信仰していた 後の雨龍大教会の 初代会長(西垣定喜)
正明講(南海大教会の前身) で信仰していた 中島国蔵がおり、
信者の増加に伴い教義勉強の必要を痛感した両名から
布教師の派遣を乞われ、
その 求めに応じたものである。

また、明治24年 10月
岐阜・愛知両県を中心として
濃尾大地震が起った際には、

(山田作治郎) 初代会長の提唱と 部内の人達により
「ひのきしん隊」が結成された。

この人達が 熱田伝馬町に止宿し、
倒壊家屋 片付けなどの ひのきしんに励んだのが 
名古屋地方布教の契機となった。 

早速(明治) 25年秋には 
熱田町に 
教会(後の東愛大教会)が 設置されることとなった。

明治25年~明治28年頃

支教会として発足してからも 
社会の反対攻撃はやまなかったが、
教勢は四方に伸び、
設置の許しを受けてから 1年と1ヵ月にして 
早くも 明治25年(1892) 3月3日 分教会に昇格し、
本席臨席の下に 昇格奉告祭を執行した。

これに伴い 
部内教会も 紀熊、紀尾、宮浜 を始めとして 
三重、和歌山県など 各地に 続々と設置された。

教勢は 著しく伸びて行ったが、
明治26年には 金山拷問事件が発生して
(山田作治郎) 初代会長の心痛は 並大抵ではなかった。
しかし「おさしづ」により 金山事件も 無事解決した。

次いで (明治) 27年 4月には 
分教会が 失火により全焼する 
という 大きな難局に遭った。

当時は 社会の反対が 未だやまず、
苦難の日が続く中、
布教網を広げ 各地に教会を設け 布教に励んでいる 矢先のできごとである。

当時 教内では、
教会は 火にも焼かれず 水にも流されない 
と説かれて信じていたのに 
教会全焼という 教内最初の「ふし」を見た。

これが、
初代真柱をはじめ 教内全体に与えた影響は 大きかった。

その後 ただちに許しを得て 復興建築に着手した。
1年後には 再築の工を終えて、
(明治)28年 5月1日 初代真柱 臨席の下に 
新築落成 奉告祭を執行した。

明治29年頃

復興建築 落成奉告祭後、
(山田作治郎) 初代会長は、
今まで相次いだ難局により 遅れた布教を取戻す気持も込めて、
「世界たすけ」の神意達成のために
遠大な「全国布教」を提唱した。

そして 布教地を選定し、
布教者をそこに送り込むように 指導した。

部内教会は この提唱と指導に応えて、
一斉に 全国布教に立上がり、
布教者は 
遠く 九州、奥州、新潟など 布教に赴いて行った。

かくて 
教祖10年祭執行の 明治29年(1896)を頂点として、
前後 4、5年の間に、
教勢は 北は 東北に始まり
関東、中部、近畿、中国、四国から
南は 九州の涯にまで 及ぶに至った。

これに伴い、
他の直属教会と相前後して、
(明治)29年末、
おぢばの三島に 南海出張事務所(信者詰所の前身)が 設けられ、
増加する参拝信者を収容することが 出来るようになった。

後、詰所は 
大正13年に 現在(編者註:『天理教事典』1977年版 発刊当時)
田井庄の地に移転した。

明治30年頃~明治33年

前述のように、
失火により全焼した 分教会の再築が 急速に進められたために、
多額の負債が残った。

加うるに、
部内教会もまた 普請による負債を生じ、
それらの整理は 並大抵ではなかった。

その治め方について
本部へ  度重ねて出張を願った。

薬物含有という 中傷による金米糖事件や
片付かぬ負債整理や…で、
心の休まる暇もなかった (山田作治郎) 初代会長は、
春頃から病気となったので、
これらの治め方について伺うため、おぢば へ帰った。

病状は勝れず、詰所で静養していたところ、
明治32年 10月14日 
おさしづにより 本部員に登用された。

また 
板倉槌三郎 本部員の配慮により
会長後任のこと、また 山田家相続人のこと、
更には 
畑林家養子のことなどの問題が 円満に解決され、
(山田作治郎 初代) 会長は 安堵して、
翌(明治) 33年(1900) 1月16日 出直した。

享年41歳、入信以来 わずか13年であった。

明治33年~明治44年

ただちに(明治33年)  
畑林(爲七) 副会長が 2代会長に就任した。

(畑林爲七) 2代会長は、
南海が直面している
負債整理と部内教会修理という
重大問題の解決に当たることになった。

問題の解決は なかなか進捗せず、
その苦労は 筆舌に尽くし難いものがあった。

その中、
10余年にわたる 会長夫人の病を通して 親神の思召をさとり、
年をおって その実が挙がると共に、
役員住宅 及び 信者宿泊所の敷地買収などの
事業を推進することも 出来た。

かかる中、
天理教は 多年の宿願が成り、
明治41年 (1908)  一派独立した。

これに伴い、
南海は
翌(明治) 42年 1月6日 大教会に昇格した。

翌(明治) 43年
 (畑林爲七)  2代会長は 
苦節10年にわたった会長の職を辞して 本部詰めとなり、
(明治43年)  3月1日 
山田清治郎が 3代会長に就任した。

なお (畑林爲七) 2代会長は、
明治44年 9月26日本部員に 登用された。

南海大教会3代会長・山田清治郎について

(山田清治郎) 3代会長は、
明治13年(1880)  8月2日
三重県 南牟婁郡市木村に  
(畑林爲七) 2代会長の長男に生まれ、
幼少の時から 父母に従って 布教の苦労を嘗めて成長した。

11歳の時 一家と共に 新宮へ移転した。

南海支教会が設けられた後は、教会で勤めていたが、
(山田作治郎) 初代会長の希望に応えて 東京に遊学。
病気により中退して 帰郷した。

間もなく関東布教に出掛けたが、
またもや病気になり、教会に帰って 詰所専務となった。
明治33年 1月 (清治郎は) 山田家の相続人となった。

明治43年~大正14年

(明治43年) 就任後、
(山田清治郎)  3代会長は 教勢の発展を計るべく、
本部神殿建築と、大教会ならびに部内教会の負債整理に 
不退転の精神で臨んだ。

当時は、いろいろな障害が生じ、
教祖30年祭へのつとめも出来兼ねて 
教勢も振るわない有様であった。

しかし (山田清治郎) 3代会長は、
大正6年(1917) には 正明講 結成30周年記念祭、
同(大正) 8年には 初代会長20年祭、
同(大正) 10年には 大教会 創立30周年記念祭を
相次いで勤め、
草創時代の苦労を偲び 初代の信仰を想起して
前進の勇気を鼓舞した。

その一端として、
同(大正) 7年『南海大教会の由来』を 編述刊行した。

大正10年 1月 本部から 教祖40年祭の執行が提唱されるや、
教恩報謝の実を挙げるのはこの時にありと、
 (山田清治郎) 3代会長の指導の下に 
南海は 打って一丸となり 年祭に邁進した。

結果、教勢倍加の実を挙げると共に、
多年にわたった負債も 全部 整理された。

また 大正13年 (1924) 11月 機関誌『正明』を発刊して、
南海部内教会の有機的活動を促進。

同(大正) 14年 
三島の詰所を 現在(編者註:『天理教事典』1977年版 発刊当時)
田井庄に移転建築をなし、
さらには 維持財団を設けるなどの活動をした。

大正15年~昭和5年頃

南海における教祖40年祭は、
大正15年 4月 盛大に勤められた。

この後 大教会は 内容の整備充実を図る一方、
 (山田清治郎) 3代会長の提唱と英断とにより 
海外布教に着手して、

昭和4年(1929) 5月
南米ブラジルに 布教者9家族を送り出して
海外への道を開いた。

また 東京、大阪、神戸に「正明会」を設けて 
地方の教会の 団結を固めるようにした。

昭和3年 2月に 
大教会内に 史料集成部を設けて 史料・史実の蒐集に力を注ぎ、
将来の活動に備えると共に、
『3代会長講話集』『南海大教会略史』などを刊行した。

同(昭和) 5年から (昭和) 8年にかけて 
(和歌山)市内 丸山に 10数町歩の移転地を買収した。

が、この広大な移転地は 
昭和20年の敗戦後、農地改革法により 
買上げ転売されることとなった。

昭和5年~昭和16年頃

昭和5年 10月 本部より 
教祖50年祭(昭和11年1月) と 立教百年祭(昭和12年11月)
両年祭執行が 提唱された。

以来 5ヵ年にわたる 両年祭活動の上には、
(山田清治郎) 3代会長の白熱的指導の下に「一手一つ」になって 勤めた。

その結果、教勢は 一段と伸びて、
昭和10年に 東愛が 
翌(昭和) 11年に 中紀が 
それぞれ 中教会に 昇格分離した。

これより先、
昭和10年 12月に起こった 天理教の 所謂 税務事件により、
(山田清治郎) 3代会長は 本部会計部長の要職に就いた。

同(昭和) 11年
ブラジルの地に2教会が初めて設けられ、
海外伝道の苦心と英断が 結実したのである。

(山田清治郎) 3代会長は、
数多くの本部の要職に就いて 繁忙となってきたところから、
昭和16年(1941) 12月27日 
長男 山田清雄が 4代会長に就任した。

以後、(山田清治郎) 3代会長は 本部の常詰となった。

南海大教会4代会長・山田清雄について

(山田清雄) 4代会長は、
大正2年10月20日 (山田清治郎) 3代会長の長男に生まれ、
昭和9年3月 天理外国語学校をおえて 教校別科に入り、
翌(昭和) 10年から 東京布教に赴き、

次いで 同(昭和) 13年6月から
天津 また 華北伝道庁勤務を命ぜられて
海外伝道の体験を積んだ。

会長就任の直前に勃発した 第2次世界大戦の激化に伴い、
同(昭和) 17年 2月 応召入隊したので、
(山田清治郎) 3代会長が
会長代務者として 再び 教務を管掌することになった。

終戦後、20年9月
(山田清雄) 4代会長が 無事 復員し、
再び 教務を執る事となった。

昭和20年頃~昭和21年頃

戦火により
南海部内教内も 35~36ヵ所が 灰燼に帰したが、
終戦後間もなく おぢばから打ち出された「復元」の声に応え、
勇んで 復興に立ち上がった。

昭和21年 1月26日から 2月18日まで、
おぢばで 教祖60年祭が 盛大に執行された。

大教会では 2代真柱を迎え、
4月3日 その祭典を勤めた。

当時の交通事情 食糧事情の困難な中、
帰参した一同は この日に会えた喜びを大にして、
虚脱と混迷を乗り越えて 世界たすけに邁進する心を新たにした。

昭和21年末~昭和23年

この年(昭和21年) の末、
南海震災が発生して 新宮市の大半が 鳥有に帰した。

幸いに、大教会をはじめ 市内の教会は 災禍を免れることが出来たので、
震災後から 翌(昭和) 22年 1月中旬にかけて、
救護班に便宜を計ったり、市内焼跡のひのきしんに出動した。

昭和22年 2月3日
(山田清治郎) 3代会長の提唱で 一斉に教会を巡回し、
復元の趣旨に基づき 教義の徹底を期した。

昭和21年 10月頃から4代会長夫人が病床の身となり、
(昭和) 23年 1月頃は 重態に陥ったので、
(山田清治郎)3代会長は 一同の自覚の奮起を促した。

この年(昭和23年) 10月、
『天理教教典』(稿案)が編集されたので、
大教会 及び 部内教会で教典講習会を開き、
教典の精神の普及に努めた。

またこの年(昭和23年) 、
移転地 買上げに対する 異議申請の 否決 に会い、
丸山に移転する望みは
遂に 断たれることになった。

昭和24年~昭和48年頃

昭和24年2月、
(山田作治郎) 初代会長 50年祭と
(畑林爲七)2代会長 20年祭を
勤めた。

これを機会に、
初代の信仰に帰ろうと 創立60周年記念祭の執行が 提唱された。

待望の 創立60周年記念祭は、
昭和26年 4月6日 2代真柱を迎え、盛大に勤められた。

戦後からこの日までに 18ヵ所の教会新設を見た。

同年(昭和26年) 8月 
(山田清治郎)3代会長は 
2代真柱に随行して 北米と南米の巡教に向かっている。

また 同年(昭和26年) には 婦人会 復元結成式が、
翌(昭和) 27年には 青年会 復元結成式が挙げられた。

両会の活動は、年を追って活発となり、
婦人会では
(昭和) 29年5月 地元新宮市に 正明保育園 を開設、
社会福祉事業に手を染めた。

一方 青年会は、
(昭和) 28年夏から 婦人会と共催で、
部内教会長の子弟を対象とした中学生 夏季錬成会を開き、 
その指導育成に当たった。

また 正明文庫を開設し、
教内外の図書を購入、一般の閲覧に供している。

更に これより先、
(昭和) 25年 4月、機関誌『正明』が復刊され、
文書伝道の上に力を尽くすことになった。

昭和27年 4月、
おぢばから教祖70年祭の執行が 提唱された。

(山田清雄)4代会長は 天理教青年会委員長に就任、
また 教議員に選出され、身辺益々多忙を極めた。

昭和33年 4月23日、
信仰一筋の精神をもって 本部の御用と 大教会の指導に生涯を捧げた
(山田清治郎)3代会長が出直した。
享年79歳であった。

昭和36年4月6日、
2代真柱を迎え 創立70周年記念祭を勤め、
その喜びと感激をもって、
教祖80年祭活動に進むことになった。

昭和27年以降 10年間に 24ヵ所の教会新設を見た。

この記念祭に際し、
待望 の『南海大教会史 第1巻』が出版された。

この年(昭和36年) 4月、諭達第2号が発布され、
大教会では 諭達の精神を徹底するため 部内教会巡回を実施した。

一方、(山田清雄)4代会長は 
病弱の夫人を伴って ブラジルへの途についた。
これにより 夫人の病気は 快癒した。

翌(昭和) 37年 4月
(山田清雄)4代会長は 本部員に登用された。

この(昭和) 37年以降 40年末に至る間は、
年祭活動を真剣に展開した。

この期間に
雨龍分教会が分離、大教会に陞級した。

昭和41年 4月6日 2代真柱を迎え、
大教会で 教祖80年祭を執行した。

(山田清雄)4代会長の病から、
当日 大教会の移転建築が提唱され、
且つ 2代真柱の視察により 移転地が決定された。

ここに、
移転建築と 創立80周年 記念祭の活動が
始められることになった。

同年(昭和41年) 11月5日の 移転地 山開きの儀を皮切りに 
5ヵ年にわたり、
(山田清雄)4代会長を先頭に 
一手一つになって、工事を進めた。

同(昭和) 46年 10月8日 真柱を迎えて、
神殿落成奉告祭と 創立80周年記念祭を
芽出度く勤めた。

この記念祭に『南海大教会史 第2巻』が出版され、
南海の苦労を顧みた。

昭和37年以降10年間に、33ヵ所の教会新設をみた。

翌(昭和) 42年 7月14日、
内助の功を全うした3代会長夫人が出直した。

昭和48年 4月25日、
(山田清雄)4代会長が 俄に出直した。
享年61歳であった。

その後 ただちに、
昭和48年 6月26日、
26歳の若き身をもって
長男 山田清太郎が5代会長に就任した。

現在(…『天理教事典』1977年版 発刊当時 )
会長を芯に 心を一つに合わせ、
陽気ぐらしの世界実現を目指して 励んでいる。

〔出版物〕『正明』(月刊)、『南海大教会史』(1~3巻)

〔現住所〕〒647 和歌山県新宮市新宮7697番地(…『天理教事典』1977年版 発刊当時 )
 〒647-0021 和歌山県新宮市池田1丁目1-26(現在)
〔電話〕0735-22-2275 

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,,642~646)

おわりに

TabiKen > 「新宮の大建築、天理教南海大教会の神殿と旧神殿」 よりお借りしました

天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

11回目の今回は、
「南海大教会」の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

だいぶ前に、
「天理教災害救援ひのきしん隊」について調べた記事を公開したことがあります。
(2022年1月15日)

その記事は、
金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』(道友社)
という本を参考にして
「天理教災害救援ひのきしん隊」について 紹介したものですが、
今回、南海大教会について 勉強するにあたって、
その著書の中で、
次のように 記述されていたことを 思い出しました。

明治24年 10月28日、濃尾地震。

M8.0の大地震。
死者が 7200人余、全壊家屋 14万2千戸。

おさしづを受けて 慰問使が派遣される。
本部から義援金(85万円)。

12月、南海支教会から 名古屋訪問にひのきしん隊が出動。
岐阜まで足を延ばす者も。(太字は編者による)

(金子昭著『駆けつける信仰者たち~天理教災害救援の百年』 P,274)

※【編者註】
上記引用文に続けて、
“ここを道あけとして 岐美大教会が生まれ 東愛大教会の 道のかかりにもなった”
との 解説あり。

『駆けつける信仰者たち』という本によれば、
明治24年の 濃尾地震を受けて、
南海大教会山田作治郎 初代会長
組織的な救援活動を行って 復旧活動にいそしんだとのこと。

私は その著書を通して、
南海大教会による組織的な活動が、
今の「天理教災害救援ひのきしん隊」の先駆けだったことを
初めて知ったのでした。

今、まさに、
能登地震にあたって大活躍中の
「天理教災害救援ひのきしん隊」ですが、
南海大教会は、そのパイオニア‼

南海大教会に繋がる方々にとっての
誇らしい歴史と言えるのではないでしょうか \(^o^)/

TabiKen > 「新宮の大建築、天理教南海大教会の神殿と旧神殿」 よりお借りしました

さて、今回も
『天理教事典』「南海大教会」説明文を書写することで、
今まで知らなかったことを、
いろいろ知ることが出来ました。

南海大教会は、
山田作治郎先生と 畑林為七先生の「2人講元」として始まり、
その後に、
正・副講長に改めるように とのご本部からの指示で、
山田作治郎先生が 講長となり
畑林為七先生が 副講長になられた、
という 成り立ちだったのですね。 

知りませんでした。

また、
明治27年の「教会全焼事件」のくだりは
印象に残りました。

『天理教事典』説明文では、
以下のように サラリと触れられていました。

… (明治) 27年 4月には
(南海)分教会が 失火により 全焼する 
という 大きな難局に遭った。

当時は 社会の反対が 未だやまず、
苦難の日が続く中、
布教網を広げ 各地に教会を設け
布教に励んでいる 矢先のできごとである。

当時 教内では、
教会は 火にも焼かれず 水にも流されない 
と説かれて信じていたのに 
教会全焼という 教内最初の「ふし」を見た。

これが、
初代真柱をはじめ 教内全体に与えた影響は 大きかった。

昔のお道は、
“教会は 神様が居られるのだから、
火事の時でも 炎は 神殿を避けて通り過ぎていくものだ”
というような「神秘主義的 考え方」が
幅を利かせていたのでありましょう。

現実に、火災の中でも神殿だけは焼けることなく残った…
というような
神秘的で 奇跡的な現象もあったに違いありません。

そのような空気の中で、
教会が全焼してしまった…

『天理教事典』では、
明治27年4月の 南海分教会の全焼が
(教会が全焼するという現象において)教内で初めてのことだった、
と記述されています。

そして、その記述に続けて
「初代真柱をはじめ 教内全体に与えた影響は 大きかった」
と書かれてあるのを見ても分かるように、
それは、当時の関係者の方にとっては、
信じていた足元がぐらつくような衝撃だったのかもしれない…
と 推察されます。

しかし、南海大教会は、
そのような大きな節も 見事に乗り越え、
その火災の1年後、明治28年には 新築の神殿を再築して 復興を成し遂げ、
(昭和初期に買収した丸山の広大な土地が敗戦後の農地改革法により買い上げられてしまったり…というような紆余曲折を経ながらも)
昭和46年には お城のような巨大な神殿を建築し、
現在も、私達の前に荘厳な姿でたたずんでいます。

そのような歴史を学んで 私が感じた事は、
理想的な神秘主義の世界をイメージしてお道に足を踏み入れた初期信仰者の方々は、
そのような理想を裏切るような、生々しく現実的な経験を 様々積み重ねながら、
少しずつ少しずつ
神秘主義と現実主義のバランスを取るということ、
及び、バランスの取り方というものを
学習していったのだろうなぁ…
ということでした。

当然、神秘的現象が見られない、裏切られた!
と言って 離れていった方も、たくさんおられたでしょうが…

神秘的な面だけに目を向けてたらダメだよ、
現実的な面もおろそかにしたらいけないよ、
今風な言葉で言うと、
スピリチュアルな面とリアルな面と 両方とも大事だよ、
ということを、
神様は、時間を掛けて 少しずつ 人間に教えていかれたのかなぁ、
などと 思ったりします。

分かったふうなことを書いて お恥ずかしい限りですが…(汗)

今回も、また 知らないことばかりの中、
『天理教事典』説明文の書写を通して
今まで知らなかった 多くのことを知ることが出来て、
とても勉強になりました。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「南海大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

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