「おふでさき」【第十四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,14

「『おふでさき』【第十四号】を散文で読む」アイキャッチ画像 おふでさき口語訳

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

本年2月から継続中の“「おふでさき」を散文で読もう”シリーズ。

今回で14回目になりました。

すっかり長丁場になってしまいました。
書き写した本人ですら、なかなか読み返す気力が湧かないほど…

完全な自己満足シリーズです(笑)

能書きはさておき、早速始めたいと思います。

前回は「おふでさき」【第十三号】口語訳を書写しましたので、
今回は【第十四号】口語訳を書写します。

では、いってみましょう。

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芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,14

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今回は、「おふでさき」【第十四号】の口語訳を書き写します。

「おふでさき」【第十四号】口語訳 書き写し

【第十四号】

明治十貮年六月ヨリ 

「どのような (変わった) 夢を見るのも 月日 (の働き) である。
(変わったことを) 何か言っても、みな 月日 (の働き) なのだ。

月日は日々に心が急込ん(で、いろいろ働い)ても、(それを見て) そばの者の心は いずんでしまうばかりである。
いずむのも、どうしていずむのかというなら、(その元は) 上(たる者)が 何も(真実を)知らぬからである。

(その上に) 世界の者は、それを知らずに、何ごとにつけ、みな従って(いる故に) いずんでいる(ので、そばの者も世界並になって いずむ)のである。」
(1~4) 

「月日には 第一に これが残念である。
そこで、どんな事でもする(ので、どうかして 勇むようにしたい)。
月日が 日々 心急いていても、口では どうも言うに言われない。
それ故、夢でなりとも にをいがけ(をしている)。

早く 思案をしてくれ。
月日には この残念というのは、口で言うようなものではない。」
(5~8) 

「今日までは、どんな話もだんだんと いろいろ説いてきたけれども、何を言っても、日柄や刻限が来ないために、何も (人間の眼に) 見えたことはないので、そのために、何を月日が言っても、みな疑って 言い消すばかりである。

月日には、第一に これが残念である。
(これからは) 何でも これをしっかり現わす。」
(9~12) 

「今までは、どんなことを言っても、直ぐに見えた ということはないが、このたびは、三日のうちに だんだんと 世界(において)の話として、何(=どんな話)を聞くか (わからぬ)。

これからは 日々に 月日は働くので、どんな仕事をするか 知れない。

この世に “かまい” とか “憑きもの” とか “化け物” などが在るとは 決して思うな(、みな 月日の働きによって 人間の心が 現われてきたものである)。」
(13~16) 

「今までに 月日の残念が 山のように積もってあるのを、みな 晴らす。
この晴らしは、どのようにして晴らすか というなら、月日の心(にあること)を、みな して見せる。」
(17~18) 

「今日までは、この世創めてから 日が(随分)経ったが、月日の(心にある)真実は まだ 知るまい。
どのようなことでも 月日のすることである。

どんな事(が起きて、たとえ それが病)でも、(ただの)病ではない。
身の内に どのようなことをしても、病ではなく、月日の手入れである。
世界では コレラと言っているけれども、月日が 残念を知らしているのである。」
(19~22) 

「世界中、どこの人でも みな 同じように、(月日が 手入れをすると) 心がいずんでしまうのであるが、これからは 心をしっかり入替えて、陽気づくめの心に なってくれ。

(もともと) 月日が 人間を創め掛けたのは、(人間の) 陽気遊山を見(て 共に楽しみ)たい故である。
世界では、この真実を知らぬから、みな どこまでも いずむばかりである。」
(23~26) 

「月日が (特に)陽気づくめと言って (たすけの段取りをして)いるのを、これを止めたなら (月日の) 残念は 大変なことになる。
この話を どうかしっかりと 聞き分けて、早く をしてくれるよう(と、言っておく)。」
(27~28) 

「今までは “月日” と言って説いたけれど、もう今日からは (“をや” と)名前を変える。」
(29) 

「今日までは 大社や高山が幅を利かして、ままに (=自由に) していたのであるが、これからは をやが代わって ままにする。
これ(=をやのすること) に背いたならば、直ぐに かやしをする。」
(30~31) 

「今日までも、をやの残念というのは、ちょっとのことではない と思え。
(また) このたびも、まだ 世界では 何ごとにつけても (上に立つ者は)幅を利かしていて、(をやの心など) 何も知らずにいるのだ。

人間も 子供は可愛いであろうが。
それを思って やの思いを) 思案してくれ。

日々に、をやの思案というのは、(わが子を)たすける段取りばかり 思っている。
それを知らずに、世界中は (うちも世界も) 何か悪いことのように 思っている。」
(32~36) 

「何もかも をやの残念を よく思ってみよ、(何もわからぬ)子供に (親が)意見をされて(いるのだぞ)。
これからは、どんな所(の者)の意見でも、をやが出ている(のだから)、受けることはない(=必要はない)。

この(ような)意見(については)、どのような者が 幅を利かして言った(としても、言った)と思えば 直ぐに (その者から をやの守護は) しりぞいてしまう。
(しりぞくも働きをするも) どのような仕事をするのにも、先より 精一杯ことわって(=予告して)おく。」
(37~40) 

「今日までは、どんなことも 日々に 心配したけれども、明日からは、どんなことを見たとて、(また) 何を聞いても 楽しみばかりである。
これまでは 高山から、何もかも、どんな指図も受けたけれど、この先は どのようなことを言われても、をやの指図があるから、決して 受けることはない。」
(41~44) 

「今までは、日柄も ちょっと来ていなかったので、どんなこと(について)も、じっとしていた。
もう今日は、その日が十分に詰んで(=迫って)いる。
どんなことでも、そのままに(=直ぐに)する(=実行する)。

(それ故、)これからは、をやの思うことだけ(が 大事なの)だ。
一言 言ったら、これに違いはない(=その通りになる)。」
(45~47) 

「世界中一れつは、皆 どこまでも、どんなことがあるか 知れない。
どのようなことがあっても、真実の心次第で、怖いことはない。

心さえ すっきりと澄んだことならば、どんなことでも 楽しみばかり(である)。
この話を疑う心があるならば、承知して(=心に納めて)おるがよい。
どんな道があるか わからぬぞ。

世界中(の人間)は、をやにとっては みな 子供である。
(子供)可愛さの余りに、何を言うやら わからぬ)。」
(48~52) 

「この世界は、高山も谷底も、をやにとっては 子供ばかりである。
(その子供に) このたびは 何でもかでも、真実(=本当)の をやの心を 知らしたいのである。

これ(=をやの心)さえ 確かに 承知したならば、いつまで(この世に)いても、陽気づくめである。
この道(=をやの心を知らせる布教伝道の道)は をやの頼みである。
一れつは、どうか しっかり承知してくれ。」
(53~56) 

「今日までも、どのような道も だんだんと 通り抜けてきたけれども、これからの道は、なんでも 珍しい(道となる)。
この (今の)道を通り抜けたなら、それからをやの心が勇み出て、どんなことでも初め掛ける。
これさえ初め掛けたなら、どんな者でも、をやに もたれる(ようになる)。」
(57~60) 

「この道を付けようとして、(今までは) 仕拵え(=準備) (をしてきた)。
どんな者でも (をやが これからどんな働きをするか) まだ 知らないであろう。

さあ (取り) 掛かれ。
もう これからの道筋は、どんな(所の)者(に対して)でも、危ないことはない。

今までは うちの者にも いろいろと 心配を掛けてきたけれども、明日からは をやが先頭に出るから、どんなこと(に対して)でも、かやしをしてやる。」
(61~64) 

「さあ 今日は、何の話も、だんだんと 細かく(よふぼくに)言え。
もう その節(=時節)である。

何でも、言わずにいては 分からないので、何でも 委細を みな 言って聞かせよ。
この話は、何のことか知るまいが、をやの働きを みな 言っておけ。
働きといっても、何のことか 知るまいが、世界(の人々)の心を みな 現わす(ということである)。」
(65~68)

 「これを現わし出す というのも (どうするか言うと)、めいめい(=当事者) の口で みな 言うように (をやが)仕掛ける。
どのようなことでも、わが身の口から言うことなら、是非はあるまい (=仕方ないだろう)。

これからは、めいめいが 何も言うまい と思っても、をやが入込んで 言うように 仕掛ける。」
(69~71)

 「この先は どんな者でも、真実に 胸の掃除をするように みな 仕向けていく。
この掃除は、どうしてするか と思うだろうが、(をやは子供に) どんな意見をするか 分からない。

どのようなことがあっても(=起きてきても) 案じることはない。
すべて (子供を可愛いと思う) をやの意見である。

口先で なんぼ 真実を言っても 聞き分けがない(とは)、(なんという) をやの残念(か)。
それ故、をやが 体内に入込んで、どんなことをするか 知れないぞ。

(身上に) どのようなせつないことが出てきても、病ではない。
をやの残念 (の現われ出たもの)である。
この話は どこのこととは 言わない。
(人間は) をやにとっては 皆 わが子である。」
(72~78) 

「真実の をやの残念が出たならば、この治め方は 誰も知るまい。
これについては、誠真実(の心)があるならば、どんな事でも 言って聞かせる。」
(79~80) 

「どのようなことを言うか 分からないが、これに背いたなら、(をやは) 直ぐに しりぞく(=守護がなくなる)。
これまでは、何をしても 止められて、背くばかりのことであったから (をやの残念が 積もったのである)。

今日の日は (をやが) どのようなことをしたとしても、また 何を言っ(たとし)ても、背かないようにせよ。
この (=今話題の) 道は、くれぐれも頼んでおくが、(これについては) をやが引き受ける故、案じなくてもよいのだ。」
(81~84) 

「このことは、何の事かと思うな。
つとめの鳴物を 早く (できるようにして) ほしいのだ。」
(85) 

「もう 今日の日は、どんな事をしても、何も案ずるな。
みな、をやが 請け合う。

今までは、上は 何も知らないから、差止めばかりして、意見などもしてきたが、このたびは どんな (剛の)者でも、(をやの言うことに) 逆らえない。

(意見を) 言うような心であるなら、をやは しりぞく(=守護がなくなる)。
この事を、早く しっかりと心定めして、早く (つとめに)とり掛かれよ。」
(86~89) 

「何もかも (みな) 早くつとめの仕拵え(=準備) (をせよ)。
をやの請け合い(であるから)、危ないことはない。
このことを心定めをして、思案して、早く(つとめの)人衆のもよう(=段取り) を急ぐ。
早々と、心が揃って しっかりとつとめをするなら、世界は治まる。」
(90~92)

芹澤茂著『おふでさき通訳』P,551~585
さまよい人
さまよい人

第十四号は明治十二年に御執筆。第十三号が明治十年御執筆だから、二年ほど間が空いたというわけですね。


「おふでさき」も号数が進むにつれ、どうか聞き分けてくれ、なぜ分かってくれないのか、もどかしい…、というお言葉がさらに重ねられる感じで、誌面全体から神様の残念な思いが滲み出てくる感じがします。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』第十四号、口語訳の書き写しでした。

「おふでさき」【第十四号】の概要

「No,14」の文字

次に、前回まで同様、
「おふでさき」【第十四号】が、全体の中でどういう位置付けなのかを押さえておくため、
及び、「おふでさき」の全体性を見失わないという意識づけのために、
矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』と上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』に書かれてある、
「おふでさき」【第十四号】の概略を書き写し、掲げておきたいと思います。

矢持辰三先生著『おふでさき拝読入門』より

【第十四号について】

第十四号は、表紙に「明治十貮年六月ヨリ」とあり、この日付は陽暦で記されていると推定されますので、陰暦では明治十二年の四月十二日以降に書かれたことになります。

当時の国家の宗教政策を見ておくと、おふでさきの内容を理解するうえで参考になると思いますので、少し述べておきたいと思います。

明治維新当初の新政府は、祭政一致の神道国教化政策をとり、神仏判然令の太政官達を出して、廃仏毀釈を展開しました。

しかし、庶民教化の役割を担っていた儒教や仏教の反対によって混乱を招いたため、太政官の上に置かれていた神祇官を太政官の下に格下げして神祇省と改称し、さらに神祇省を廃止して教部省に格下げしました (明治五年陰暦三月十四日)。


かくて祭政一致ではなくて、宗教的な祭り事と政治をはっきり区別することになり、極端な神道国教化政策は退けられたのですが、神々を管理することが教部省という行政の手に移ったことで、国家神道体制が制度として定着するのです。

特に、教則三条にある「皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事」、つまり、天皇を神として崇め、天皇の考えを守っていく限りにおいては、自由な宗教活動が認められ、神道のみならず、仏教、儒教を取り込んだ形で、広範な国民教化運動が展開されるのです。

いわば、国民生活にとっての宗教体系が、明治四、五年から国家神道体制に転換してゆくことになります。

明治五年(陰暦)四月二十五日には教導職が設けられ、同年十一月の教部省達で、東京に大教院が設置され、続いて全国の各府県に中教院、各地の社寺に小教院が置かれ、僧侶や神官を含めて教導職に登用し、教則三条を徹底させる国民教化運動を展開しました。

記録によると、明治六年十一月四日には、百五十人の聴衆がおやしきに集まって、石上神宮の神官たちが講師となって説教をしていますので、この国民教化運動は、確実に、おやしきをも包み込んで高まりを見せていたと思われます。

この神官による説教のありさまを、教祖は、どのようにご覧になっていたのでしょうか。


明治七、八年に記されたおふでさき第三号から第十二号を、そうした背景を念頭に置きつつ拝読させていただくと、親神の政治権力に対する「ざんねん」がはっきりうかがえるとともに、教祖のそば近くにいる者をはじめ、教祖の教えを聴く人々に対して、国民教化運動に迎合する態度を戒められているように受け取れます。

明治七年に、教祖自ら高山布教に出ることを示唆されていますが、このご姿勢は、政府の国民教化政策に対抗するという意味合いよりも、むしろ、教祖の教えを信じてついてくる人たちの心の掃除と、つとめの完成を促されることに重点があったようにうかがえます。

この明治十二年、第十四号が記される段階においても、人々の心に親神の真実の思いは理解されることなく、人々は官憲をはばかって、教祖の仰せに素直に従えない状況にあったように思われます。

第十四号では、そうした子供たちを放っておくのではなく、“ゆめでなりともにをいがけ” をする(七)  と記され、親神の名を「月日」から「をや」へと変えられています (二九)。

また、国内でコレラが大流行したことについても、親神の残念の現れであると諭して、反省を促されています。

この年は、村人たちからも迫害を受けるというありさまで、お参りに来ると川に突き落とされ、あるいは砂をかけられる。
また、村人たちは、祭典日には露店が出るので子供が銭を使って困る。
雨が降れば、親戚の者には傘を貸さなくてはならないから迷惑だと、「ようない」(迷惑料のこと) を出してもらいたい、ということさえ言ってくる始末であったと、『教祖伝』には記されています。

ちなみに、この年のコレラ罹患者は一六万二六三七人、死者一〇万五七八四人であったということです。

(矢持辰三著『おふでさき拝読入門』P,461~463)
さまよい人
さまよい人

第十四号は明治十二年に御執筆。第十三号が明治十年御執筆だから、二年ほど間が空いたというわけですね。

矢持辰三先生の解説を拝読することで、この「おふでさき」を御執筆下さった当時が、いかに緊迫した社会情勢だったか、というのが分かります。

本当に、世の中が大きくうねり蠢いていた時代に、おやさまは教えを説いておられたのですね。
今後は、もっともっと、そうしたことを想像しながら「おふでさき」を拝読させて頂くようにしたいと思います。

上田嘉太郎先生著『おふでさき通解』より

【第十四号の概要】

上を恐れていずむ側の人達をはじめ、世の人々が皆いずんだ心で暮らすあり様を残念と思召され、これを陽気づくめの心へと入れ替えるよう望まれる。
これに関連して、元初まりの思召、「陽気遊山」を明かされる。

また、どれほど説き諭しても聞き分けのない人々の成人の鈍さをも残念とされ、今後は、速やかに神意を顕して、親神の思い通りにすると言明される。

こうした中で、「月日」の呼び名を「をや」と改められ、全ては一れつ子供をたすけたい親心からであると教えられる。

その上で、親心の真実を教えて、陽気づくめへと導いてやりたいと、たすけ一条の道すがら、布教伝道の推進に触れる一方、親神の残念を晴らす根本の道、鳴物を入れてのつとめの実行を切望される。

この間、上、高山の干渉を恐れ、躊躇する人々を、繰り返し励まし、安堵させつつ導かれる。

第十四号では親神様が自らの呼び名を「月日」から「をや」へとお変えになっています。

また、「月日にわにんけんはじめかけたのわ よふきゆさんがみたいゆへから(十四 25)」という人間創造の目的を明かされたお歌が出てまいります。

なぜ、「月日」から「をや」へとお変えになったか、といったことも考えながら味わって頂いたら、と思います。

(上田嘉太郎著『おふでさき通解』P,489~490)
さまよい人
さまよい人

第十四号で、親神様が自らの呼び名を「月日」から「をや」へとお変えになったのですね。

“なぜ「月日」から「をや」へとお変えになったのか、ということを考えながら味わってみよう”

という課題が、上田嘉太郎先生から出されました。


今後、第十四号を味わう際には、その点を意識しながら拝読させて頂くようにしたい、と思いました。

関連動画の紹介

boy in black long sleeve shirt sitting in chair in front of black flat screen TV

前回まででも紹介してきましたが、
“「おふでさき」を現代文で味わう” という目的を達成する上で非常に役立つ動画、
【ゆっくり天理教 てんちり】チャンネルの
語り文で聞く『おふでさき』」シリーズ中の、
「おふでさき」第十四号に関係する動画のリンク、
今回も以下に貼っておきます。
(チャンネル主さん、ご了承願います<m(__)m>)

現代訳で聞く、おふでさき14  01~51👇https://www.youtube.com/watch?v=txx3ytzYGtg

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき14  01~51)より

現代訳で聞く、おふでさき14  52~92👇https://www.youtube.com/watch?v=HY20Vt-ayms

【ゆっくり天理教 てんちり】現代訳で聞く、おふでさき14  52~92)より

改めて「おふでさき」【第十四号】を散文で読む(括弧書きも外して)

man in a blue and white striped crew neck shirt reading a book during the day

これまでの当シリーズ同様、
「おふでさき」を散文で味わうという目的をより確実なものとするために、
芹澤茂先生の口語訳文、著作内で記されていた括弧や番号等すべて外し完全な「散文」にしたものを、最後に置いておきます。

「おふでさき」【第十四号】散文(芹澤茂先生訳)

 「おふでさき」【第十四号】口語訳(芹澤茂先生)

第十四号

明治十二年 六月ヨリ 

どのような 変わった夢を見るのも、月日の働きである。
変わったことを 何か言っても、みな 月日の働きなのだ。

月日は 日々に心が急込んで、いろいろ働いても、それを見て そばの者の心は いずんでしまうばかりである。
いずむのも、どうしていずむのか というなら、その元は、上たる者が 何も真実を知らぬからである。

その上に、世界の者は、それを知らずに、何ごとにつけ、みな 従っている故に いずんでいるので、そばの者も 世界並になって いずむのである。

月日には、第一に これが残念である。
そこで、どんな事でもするので、どうかして 勇むようにしたい。
月日が、日々 心急いていても、口では どうも言うに言われない。
それ故、夢でなりとも にをいがけをしている。

早く 思案をしてくれ。
月日には この残念というのは、口で言うようなものではない。

今日までは、どんな話も 段々と いろいろ説いてきたけれども、何を言っても、日柄や刻限が来ないために、何も 人間の眼に見えたことはないので、そのために、何を月日が言っても、みな疑って 言い消すばかりである。

月日には、第一に これが残念である。
これからは、何でも これを しっかり現わす。

今までは、どんなことを言っても、直ぐに 見えたということはないが、このたびは、三日のうちに 段々と 世界においての話として、何(=どんな話)を聞くか 分からぬ。

これからは、日々に 月日は働くので、どんな仕事をするか 知れない。

この世に “かまい” とか “憑きもの” とか “化け物” などが在る とは 決して思うな、みな 月日の働きによって 人間の心が 現われてきたものである。

今までに、月日の残念が 山のように積もってあるのを、みな 晴らす。
この晴らしは、どのようにして晴らすか というなら、月日の心にあることを、皆、して見せる。

今日までは、この世 創めてから 日が随分経ったが、月日の心にある真実は、まだ 知るまい。
どのようなことでも 月日のすることである。

どんな事が起きて、たとえ それが病でも、ただの病ではない。
身の内に どのようなことをしても、病ではなく、月日の手入れである。
世界では コレラと言っているけれども、月日が 残念を知らしているのである。

世界中、どこの人でも みな 同じように、月日が手入れをすると 心がいずんでしまうのであるが、これからは 心をしっかり入替えて、陽気づくめの心になってくれ。

もともと 月日が人間を創め掛けたのは、人間の陽気遊山を見て 共に楽しみたい故である。
世界では、この真実を知らぬから、皆、どこまでも いずむばかりである。

月日が、特に、陽気づくめと言って たすけの段取りをしているのを、これを 止めたなら、月日の残念は 大変なことになる。
この話を どうか しっかりと聞き分けて、早く 思案をしてくれるよう、と、言っておく。

今までは、 “月日” と言って説いたけれど、もう今日からは、 “をや” と名前を変える。

今日までは、大社や高山が 幅を利かして、ままに (=自由に) していたのであるが、これからは、親が代わって、ままにする。
これ(=親のすること) に背いたならば、直ぐに「かやし」をする。

今日までも、親の残念というのは、ちょっとのことではない と思え。
また、このたびも、まだ世界では 何ごとにつけても、上に立つ者は 幅を利かしていて、親の心など 何も知らずにいるのだ。

人間も 子供は可愛いであろうが。
それを思って、親の思いを 思案してくれ。

日々に、親の思案というのは、わが子をたすける段取りばかり思っている。
それを知らずに、世界中は、うちも世界も、何か悪いことのように思っている。

何もかも、親の残念を よく思ってみよ、
何も分からぬ子供に、親が 意見をされているのだぞ。
これからは、どんな所の者の意見でも、親が出ているのだから、受ける事はない (=必要はない)。

このような意見については、どのような者が 幅を利かして言ったとしても、言ったと思えば、直ぐに その者から 親の守護はしりぞいてしまう。
しりぞくも働きをするも、どのような仕事をするのにも、先より 精一杯ことわって (=予告して)おく。

今日までは、どんなことも 日々に 心配したけれども、明日からは、どんなことを見たとて、また、何を聞いても、楽しみばかりである。
これまでは、高山から、何もかも、どんな指図も受けたけれど、この先は、どのようなことを言われても、親の指図があるから、決して 受けることはない。

今までは、日柄も ちょっと来ていなかったので、どんな事についても、じっ としていた。
もう 今日は、その日が 十分に詰んで (=迫って) いる。
どんなことでも、そのままに(=直ぐに)する(=実行する)。

それ故、これからは、親の思うことだけが 大事なのだ。
一言 言ったら、これに違いはない (=その通りになる)。

世界中一れつは、皆 どこまでも、どんなことがあるか 知れない。
どのような事があっても、真実の心次第で、怖いことはない。

心さえ すっきりと澄んだことならば、どんな事でも 楽しみばかりである。
この話を疑う心があるならば、承知して(=心に納めて)おるがよい。
どんな道があるか わからぬぞ。

世界中の人間は、親にとっては、みな 子供である。
子供可愛さの余りに、何を言うやら 分からぬ。

この世界は、高山も谷底も、をやにとっては 子供ばかりである。
その子供に、このたびは 何でもかでも、真実(=本当) の親の心を知らしたいのである。
これ(=親の心) さえ確かに承知したならば、いつまで この世に居ても、陽気づくめである。
この道(=親の心を知らせる布教伝道の道)は、親の頼みである。
一れつは、どうかしっかり承知してくれ。

今日までも、どのような道も 段々と 通り抜けてきたけれども、これからの道は、なんでも 珍しい道となる。
この、今の道を通り抜けたなら、それから 親の心が勇み出て、どんなことでも 初め掛ける。
これさえ 初め掛けたなら、どんな者でも、親に もたれるようになる。

この道を付けようとして、今までは、仕拵え(=準備) をしてきた。
どんな者でも、親が これからどんな働きをするか、まだ知らないであろう。

さあ、取り掛かれ。
もう これからの道筋は、どんな所の者に対してでも、危ないことはない。

今までは、うちの者にも いろいろと心配を掛けてきたけれども、明日からは、親が先頭に出るから、どんな事に対してでも、「かやし」をしてやる。

さあ 今日は、何の話も、段々と 細かくよふぼくに言え。
もう その節(=時節) である。

何でも、言わずにいては 分からないので、何でも委細を、みな 言って聞かせよ。
この話は、何のことか知るまいが、親の働きを みな 言っておけ。
働きといっても、何のことか知るまいが、世界の人々の心を、みな現わす ということである。

これを現わし出す というのも、どうするか言うと、めいめい(=当事者) の口で みな 言うように、親が 仕掛ける。
どのようなことでも、わが身の口から言うことなら、是非はあるまい (=仕方ないだろう)。

これからは、めいめいが 何も言うまいと思っても、親が入込んで言うように、仕掛ける。

この先は、どんな者でも、真実に 胸の掃除をするように、みな 仕向けていく。
この掃除は、どうしてするか と思うだろうが、親は子供に、どんな意見をするか 分からない。

どのような事があっても (=起きてきても)、案じることはない。
すべて、子供を可愛いと思う 親の意見である。

口先で なんぼ真実を言っても、聞き分けがない とは、なんという親の残念か。
それ故、親が体内に入込んで、どんなことをするか 知れないぞ。

身上に どのような せつない事が出てきても、病ではない。
親の 残念の現われ出たものである。
この話は どこのこととは言わない。
人間は、親をやにとっては、皆、わが子である。

真実の親の残念が出たならば、この治め方は 誰も知るまい。
これについては、誠真実の心があるならば、どんな事でも 言って聞かせる。

どのようなことを言うか 分からないが、これに背いたなら、親は 直ぐにしりぞく (=守護がなくなる)。
これまでは、何をしても止められて、背くばかりのことであったから、親の残念が 積もったのである。

今日の日は、親が どのような事をしたとしても、また、何を言ったとしても、背かないようにせよ。
この (=今話題の) 道は、くれぐれも頼んでおくが、これについては、親が引き受ける故、案じなくても 良いのだ。

このことは、何の事か と思うな。
つとめの鳴物を、早く 出来るようにしてほしいのだ。

もう今日の日は、どんな事をしても、何も案ずるな。
みな、親が請け合う。

今までは、上は 何も知らないから、差止めばかりして、意見などもしてきたが、このたびは、どんな剛の者でも、親の言うことに 逆らえない。

意見を言うような心であるなら、親はしりぞく(=守護がなくなる)。
この事を、早く しっかりと心定めして、早く つとめに取り掛かれよ。

何もかも、みな、早く つとめの仕拵え(=準備) をせよ。
親の請け合い であるから、危ないことはない。

このことを心定めをして、思案して、早く つとめの人衆のもよう(=段取り) を急ぐ。
早々と、心が揃って しっかりとつとめをするなら、世界は治まる。

以上、
芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十四号】口語訳を書写した、
「おふでさき」【第十四号】の散文でした。

「おふでさき」口語訳の書写シリーズ。
毎回、最後に記述しておりますが、
散文化して終わりでは意味がなくて、むしろ、それはスタート。

散文化した後、天理教原典である「おふでさき」の「全体像」がよりイメージできるように、
折に触れて何回も読み返すことが肝要なのだと思います。

教祖百四十年祭に向かう「三年千日」年祭活動期間の旬。

機会を見つけて読み返し、少しでもそこに籠められた神様の思いを感じることが出来るようになるよう、自分なりに努めたいと思います。

ということで――
今回の「彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】」は、
「芹澤茂著『おふでさき通訳』【第十四号】を散文で味わう」
という学びの記録でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

「おふでさき」【第一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写
天理教「おふでさき」第一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,2
天理教「おふでさき」第二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,3
天理教「おふでさき」第三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第三号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第四号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,4
天理教「おふでさき」第四号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第四号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第五号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,5
天理教「おふでさき」第五号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第五号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第六号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,6
天理教「おふでさき」第六号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第六号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第七号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,7
天理教「おふでさき」第七号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』第七号、口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第八号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,8
天理教「おふでさき」第八号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第九号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,9
天理教「おふでさき」第九号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,10
天理教「おふでさき」第十号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十一号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,11
天理教「おふでさき」第十一号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十二号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,12
天理教「おふでさき」第十二号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました
「おふでさき」【第十三号】を散文で読む~芹澤茂著『おふでさき通訳』口語訳書写シリーズNo,13
天理教「おふでさき」第十三号を【散文】で味わうことを目的として、芹澤茂先生著『おふでさき通訳』口語訳の部分のみを書写しました

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