Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
本年の3月末から
『天理教事典』(1977年版)に記載された 各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】投稿中。
前回は 週1回継続ピンチにて
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】をお休みして
つなぎ記事として、勝間和代氏動画【文字起こし】を
投稿しましたが、
今回は【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】
の続きをいきます。
なぜ、このシリーズを始めたのかについては、
当シリーズ 初回記事の冒頭に記述してありますので、
ご一読頂ければ 幸いです。
教材は、
たまたま自教会にあった 1977年版の『天理教事典』を活用しています。
とても古い教材につき 記述内容はとても古いです。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
そして、
無条件に「原文」を書写していますので、
この記事を目にした関係者の方の中に、
この記述内容は事実と異なる!… (~_~;) …
と 不快な思いをする方が おられるかもしれません。
ですが、
当ブログは、自己学習目的のものであり、
ただ単に、
「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したものです。
ですので、
記事の記述内容の正確性というところまではよく検証できていないということを
まず、お断りしておきたいと思います。
当シリーズ前回は、
教会番号11番「南海大教会」の『天理教事典』記述を書写して、
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号12番「芦津大教会」について勉強します。
芦津 大教会 (あしつ だいきょうかい)
井筒梅治郎 初代会長の入信
井筒梅治郎は
天保9年(1838) 4月
大阪市西区本田町において生まれた。当時、井筒家は 万綿商を営んでいた。
慶応2年 結婚して 妻の名を とよ といった。明治12年 5月頃、
生後3ヵ月の長女 たね の腹から下にかけての百いぼで悩んでいる時、
堺の種市より 初めて天理王命の神名をきいた。井筒夫妻は 熱心に祈り
遂に たね の病は全快した。これが 井筒家入信の動機となった。
明治12年(1879) 7月30日の事である。
本田寄所の開設(明治12年頃~明治14年頃)
娘 たね にあざやかな御守護を頂いた梅治郎は
熱心に天理教を信仰するようになり、
遠近の病人に 布教するようになった。隣家の 中川文吉の失明が 一夜のうちに全快したのを始めとして、
永年の疝気で足が立たず 戸板に乗って 治癒を乞いに来た人が
帰る時には 一人で歩いて帰る 等、
永年の間、不自由であった眼や、耳や、口や、手足などが ことごとく良くなるなど
ふしぎな救けの評判を聞いて 難病に苦しむ者が
続々と「おたすけ」を乞いに集まり、
井筒家は 門前市をなす有様であった。不思議な御守護の数々に 喜び勇んだ 梅治郎は、
まだ見ぬ「ぢば」教祖への思慕も強く、
明治13年 陰暦3月4日、
妻、娘の 一家3人で
初めて おぢばへ お礼参拝をした。早朝 出かける時は大雨で
途中 藤井のお幸茶屋に 一泊し、
翌朝、からりと晴れた好天の中を
午後 おぢばに着いた。教祖は にこにことされて、
「あの雨の中を よう来なさった」
と言われ、たね の頭を撫でて下さり、「お前がたは 大阪から来なさったか。
めずらしい神様のお引き寄せで、
大阪へ 大木の根をおろして下されるのや。
子供の身上は あんじる事はない」
との事であった。こうして、
大阪へ大木の根をおろす
とのお言葉を頂いた梅治郎は、
救けられた喜びは 人をたすける事である と信じて、
大阪へ帰るや 熱心に布教を始めた。そして その年の秋には
10数名の信者を連れて 再度 おぢばへ参拝した。明治14年(1881)
信者の増加に伴い
井筒家の向かいに 二階家を借りて 信者の寄り合い場所とし、
神様をおまつりした。
これが「本田寄所」である。
真明組の誕生(明治14年頃)
明治14年 陰暦4月17日、
教祖より「真明組」の講名を頂いた。
これが 芦津大教会の前身である。これまで天理教は 農村に発達して来たが、
真明組は、都会における 最初の講結成である。この真明組は「おつとめ」にきびしく
「真明の踊り講」と言われ、
信者一同が 熱心に練習に励み、
病人に対しては 全員が水ごりを取り 身を清めて、
枕元で おつとめをして 一心に 快癒を願うのである。一手でも間違えると 皆で話し合いをし、
これはどういう思召であろうか と諭し合いをした。明治14年「おぢば」では
最初の「かんろだい石造りふしん」が行われた。この時 かんろだいの石を 瀧本山から伐り出し、
麓の道路まで運び出す大役を 真明組が引き受け、
道路からお屋敷までの運搬を 明心組が受けた。これが、
天理教に於ける「ひのきしん」の始まりといわれる。都会人であり商人である 梅治郎が入信して以来、
天理教は 商人の間に伝わり
僅か 8年の間に 真明組から広く延び広がって、
各地で 講社の結成を見た。
真明組の道の広がり(明治14年~明治20年頃)
明治14年
井筒家の裏にいる 立花善吉を通して
天理教が兵庫に伝播し、
同年(明治14年) 陰暦6月上旬、
上田藤吉を講元として 初期 兵庫真明組が 結成 (後の兵神大教会)。明治15年(1882)
井筒講元に眼病を救けられた 吉本八十八によって天理教が遠州に伝わり、
諸井国三郎を講元とする 遠州真明組が 結成 (後の山名大教会)。明治14、15年頃に
大阪真明組 信者 野村辰太と 弟 京太によって 阿波へ天理教が伝わり、
播州、但馬へ伝わっていった。明治16年に
阿波出身の岡本久太郎、宗我元吉が入信、
天理教が郷里に伝わる。同(明治)17年には、
真明組の 河合六兵衛が 淀川の回船業をしていたので
天理教が山城伏見に伝わり、
伏見真明講が設置された。明治18年(1885) 7月
真明組の上原佐助は
大阪へ 妻子を置き東京に出て布教し、
東京真明組を設置 (後の東大教会)。大阪に残った さと夫人は
明治19年 舅姑のいる笠岡へ帰って布教し、
後に 笠岡大教会となる。明治19年 (1886)
秋岡亀次郎が 入信、
西宮で布教し 後に 西宮大教会となる。明治20年(1887)
高知の 島村菊太郎は
痔病を 真明組の信者 都築竹治によって助けられ 入信、
高知に帰る。井筒講元 始め 7名の授訓者を派遣して 布教をし、
短い間に 天理教は
高知県下から愛媛県へと 延びていった。
これが 高知大教会の前身である。
真明組、苦難の道(明治12年頃~明治23年頃)
が、この間、
道は容易に延びたのではなく、
幾多の困難苦労の道が ついてまわったのである。梅治郎は 親類縁者の白刃を振りかざしての阻止や、
5回に亘る警察への拘留科料等の 迫害干渉をものともせず、
命がけで布教し、信者の育成に と走り回った。講元 梅治郎は
また一面 大阪人らしい明朗闊達そのもので、
春陽気が訪れる頃となると、
誰いうとなく 梅屋敷の梅見物、野田の影藤の藤見に
と講元を中心に 陽気に出かけて行き、
一同は 重箱の馳走や酒を出す前に
必ず円陣を作って 陽気に「おつとめ」をする
という風であった。明治20年(1887) 6月
どうしたわけか 梅治郎夫妻は 発熱し、
早速 (明治20年6月) 12日 おぢばへ参拝したところ、
明けて 13日、
心違わねば末代子孫に続く
「神水の水の授け」
が与えられた。明治21年 教会本部設置の公認が出、
明治22年 1月14日、
真明組 分教会設置の許しを得て
初代会長に 井筒講元が就任した。早速 大阪府庁へ 認可申請したところ 却下された。
しかし そうした中にも 信者は増加し、
本田寄所は 益々狭く
(明治)23年 4月には
大阪市西区立売堀南通3丁目に 新築移転した。同年(明治23年) 9月
俗に 新町焼けと呼ばれる大火が起り、
猛火は 真明組事務所にも 迫って来た。水の授けを戴いている井筒講元は
神前に 一荷の水を供え、
一同一心におつとめをして
その水を手桶に移し 火の粉の飛び散る屋根に上り
「南無天理王命」と 水をかけた。その時、事務所の板塀が 音を立てて焼け落ちたが、
風向きが 突然一変し
一瞬の差で 延焼をのがれた。四方3,000戸 悉く焼失した中に
真明組 事務所だけが ポツンと残った。人々は驚喜し 一層 勇み立った。
芦津分教会の公認前後(明治24年頃~明治25年頃)
明けて (明治)24年、
教祖5年祭を迎えて
真明組は 教会公認問題の解決に向かった。真明組からすれば
地方の真明組講社が
すでに地方庁の教会公認となっていることから
一刻も早く と願う心に、
早くかかれ との「おさしづ」を受け、
(明治24年) 6月に入って
教会名称を「芦津」と改めて
3度目の教会設置の願書を
(明治)24年 6月17日提出。おさしづを幾度も仰ぎつつ、
(明治24年 6月) 29日付を以って
地方庁から 公認された。(明治24年) 8月26日
海路陸路を問わず、
真明組につながる者が寄り集い
喜びの中に 開筵式を陽気につとめた。同年(明治24年) 10月には、
西区新町南通2丁目に 320坪の土地を購入、
移転建築に着手し、
(明治) 25年 5月には
神殿を中心に 付属建物も落成した。真柱 及び 本席を迎えて
(明治25年) 5月5日 鎮座祭、6日 開筵式、7日 大祭を盛大に執行。真明組 講社時代の地方講社である
遠江真明組は 山名分教会、
兵庫真明組は 兵神分教会、
東京真明組は 東分教会として、
いずれも本部直属となり、土佐真明組は
(明治) 24年 高知分教会 設置の許しを得、
翌(明治) 25年には
芦津分教会より分離して 本部直属となった。その他の各地の講社は
それぞれ 支教会、出張所、布教事務取扱所を設置して
明治29年迄に 31ヵ所に及び、
その範囲は
大阪、兵庫、岡山、広島、京都、和歌山、島根、徳島、福岡、鹿児島、沖縄の各府県に及んだ。
井筒五三郎2代会長就任(明治29年頃~明治31年頃)
井筒会長の娘 たね (18歳) に
高安分教会長 松村吉太郎の弟 五三郎(23歳)を
明治29年 11月18日 養嗣子に迎えた。五三郎は 後に 2代会長となり、
同年(明治29年) 12月31日
井筒梅治郎は 59歳を以って出直した。当時は
内務省の秘密訓令、安堵の水屋敷事件、教会の財政難、外部からの圧迫干渉等が
天理教全体に 大きな波紋を なげかけていた。こうした時に、五三郎は、
明治30年 4月28日、
2代 芦津分教会長を 拝命した。五三郎は
信仰篤い 松村家の 3男として生まれ、
16歳の時 激しい痔の患いから 布教専心を定めて、
19歳で 単身 淡路島へ布教に出た。淡路島に 五三郎の足跡の及ばない所は無い程に 布教に専念し
教勢の伸展と共に 教会設置の運びとなり
22歳で 出張所担任、
翌年 洲本支教会長を拝命、
部内教会 6ヵ所を設立した人である。若さと 固い信仰を内に秘めた会長を中心に
力強い 躍進の第一歩を 踏み出した。信者の数も 次第に増加、
一家を挙げて 布教に専念する人も多く、
住み込み家族も増えたため 大教会役員宅を新築。おぢばへ参拝する信者も多くなったので
明治29年(1896)
三島の376坪(現在南門の位置) の土地に 信者詰所を新築。婦人の活動も活発となり、
「婦人研究会」と称して
教理の研究、心の練成に努め 部内の婦人巡教を展開する中に、
入会者も増加し、
明治31年 11月18日
芦津分教会 婦人会が 結成された。
芦津分教会から大教会へ(明治41年~大正8年頃)
明治41年、
天理教一派独立と共に
芦津分教会は 芦津大教会と改称、
4月に 改称奉告祭を執行した。当時 教師として 本部より辞令交付された者は
1,764名であった。明治43年
本部において 各地の婦人会を統合して 天理教婦人会が創立、
芦津婦人会は
1,400余名の会員をもって 芦津支部となった。信徒の増加につれて
明治43年 6月
2階建1棟を 増築落成した。その頃 大教会は
諸種行事の活発化によって 狭隘を極めたので、
大正2年 7月 建築物を更に増築。大正5年 5月、
大教会 北隣接地に 教祖殿を建築、
大正8年 1月21日 新築落成奉告祭を執行した。同年(大正8年) 11月2日
(井筒五三郎2代)会長 図らずも 病床に臥し
同月(11月) 8日、
46歳をもって出直した。
井筒たね3代会長(大正8年~昭和5年)
(井筒五三郎)2代会長 出直し当時、
嗣子 (井筒)貞彦は 14歳であったため、
後任者についての相談の結果、
大正8年 12月2日 (井筒たね)2代会長夫人が
3代会長に就任した。
初の 婦人大教会長であった。時 恰かも
教祖40年祭に向って「倍加運動」のさ中であり、
この波紋の中に
職責を果たすべく 全力を注いで活躍した。別科生、授訓者も 急激に増加し、
海外への伝道も 台湾、樺太に及んだ。教祖40年祭活動の一つである お屋敷の拡張整備に伴い、
丹波市町丹波市に 土地3,000坪を購入し、
大正13年 6月(1924) 信徒詰所移転に 着手した。翌(大正) 14年 12月16日
詰所本館 落成式を執行。この建造物は
600坪の地下室を有する鉄筋コンクリート造りで
最新式設備や巨大な信徒室の棟等、詰所設備の先駆であって
見学が絶えなかった。また (井筒たね3代)会長は、
婦人会本部理事としても 身を徹してつとめ切り、
台湾への初巡教、幼稚園、託児所の建築、養徳院の改築、など
積極的にとりくんだ。昭和5年 2月5日、
(井筒たね)3代会長は辞任し
子息 貞彦に 会長職をゆずる。その間 新設教会は 217ヵ所、
合計 376カ所を数えるに至った。その教線は
新たに 富山、東京、神奈川、山口、佐賀、樺太、台湾にも及んだ。
井筒貞彦4代会長(昭和5年~昭和33年)
4代会長 井筒貞彦は
昭和3年 郡山大教会長 増田甚七 5女 志まへ と結婚し、
昭和5年 2月15日 4代会長に就任。昭和10年 4月
笠岡分教会は 中教会に昇格分離。当時、戦争は 増々進展して
遂に 会長も召集となった。
出征に際し、
会長は 池田、西宮 両教会を
本部へお供する旨を 伝えた。戦時中、
会長は「いざひのきしん隊」隊長として 九州炭坑に出動し、
また 兵庫教区長として 管内を統轄した。昭和20年 3月14日
大阪を一面火の海と化した大空襲は
大教会をも全焼した。しかし
翌(昭和) 21年 10月
大教会 焼失の地で 復興建築に着工、
(昭和) 24年 5月21日 落成奉告祭を執行した。終戦を契機として
日本の動向は 180度転換し、
天理教には「復元」の日が訪れた。(井筒貞彦4代)会長は
次々と 本部の要職に推され、ぢばにつとめ切り、
大教会においては、
全員総力を駆使して 立ち遅れた教勢の挽回につとめた。戦災の傷跡は生々しく、
ことに 都会の教会では 苦労もひとしおであったが
一歩一歩と 元の姿に近づいていった。戦後の混乱の中を
大勢の布教師達が東京、大阪へと単独布教し、
信仰の根を下ろしていった。
井筒敏夫5代会長(昭和33年~)
(井筒貞彦)4代会長に嗣子なく、
昭和32年 3月
撫養大教会長の弟 敏夫を 養嗣子として迎え、
更に 4月 治道大教会長 3女 ふみ子を 嫁に迎えた。翌(昭和) 33年 4月、
(井筒貞彦) 4代会長は その職を辞し
本部勤務に専念した。こうして
昭和33年 4月24日
井筒敏夫は 5代会長に就任。真柱より 新しい芽を息吹かせるよう言葉を頂いた会長は、
席の暖まる暇もなく 北海道から沖縄へと 全国を駆けまわり、
部内教会信者に至るまで 修理丹精した。これまで沈滞気味であった部内一同の空気は
活発となっていった。(井筒敏夫5代会長は)
芦津大教会の成人は 初代の心にかえる事である と信じ、
大教会の土地建物すべてを 献納する決意を固めた。これにつづいて
同年(昭和33年) 10月21日
大阪市阿倍野区三明町2丁目49番地、
元芦浪分教会の土地建物を借用し 移転した。借地借家であり、
仮住いのように形は小規模であったが、
熱心な布教を展開して、
布教所は各地に開所され、
教会内容は 自ずと充実の兆をみるに至った。かくて 昭和37年
(井筒五三郎)2代会長 40年祭を機に、
現在の大教会の敷地である
大阪市東住吉区平野西脇町525番地に
千坪の土地を購入、
(昭和37年) 6月21日
大教会神殿ふしん 第1期工事に着手した。翌(昭和) 38年 5月20日
鉄筋コンクリート3階建の神殿 及び 付属屋が落成し、
2代真柱・現(=『天理教事典』1977年版 発刊当時) 真柱の臨席のもとに
鎮座祭、翌(5月) 21日は
喜びの中に 奉告祭を執行した。(井筒敏夫5代) 会長は
准員そして本部員として ぢばへの勤めに 励み、
信者一同 一丸となって通る中に、
昭和45年 千坪の大教会 敷地拡張の機が訪れ、
4月16日 愈々 本格的な神殿建築に着手した。一同は喜びに溢れ、
教会長 始め 全「よふぼく」が 真剣に布教活動を展開し、
人手不足の社会情勢にも拘らず、
連日 百名に上る よふぼく信者のひのきしんによって、
巨大な神殿、その他 付属建物が建築された。かくて 昭和48年 5月19日
真柱臨席のもと 鎮座祭を執行し、
20日は 8,000人のよふぽく信者の寄り集う中で
神殿建築落成奉告祭を執行した。〔出版物〕『真明芦津の道』(一・二・三巻)
『芦津大教会年譜』(昭和八年迄)
『井筒五三郎略伝』
『真明』(月報)。〔現住所〕〒546-0003 大阪府大阪市東住吉区今川8丁目6‐32
〔電話〕06ー6702-1980(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,18~20)
おわりに
天理教各教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
12回目の今回は、
「芦津大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
私は、天理教各大教会の歴史というものをよく知らず、
そういう自覚があるからこそ、
このたび、『天理教事典』を教材として、
これまで自分とご縁がなかった大教会の歴史について勉強しようと思って、
今、教材の書き写しをしております。
私はこれまで、単純に、
古い教会から順番に教会番号が振られてあるのだろう…
と思っていましたが、
今回の「芦津大教会」歴史の書き写しを通して、
教会番号の順番と教会の古さはイコールではないことを知りました。
(無知の極み (>_<) … お恥ずかしい)
『稿本天理教教祖伝逸話篇』などを読んでいると、
よく「○○真明組」という講名が出てきますが、
それらは、すべてのこの、
井筒梅治郎先生が創設された「真明組」から生まれたものだったのですね。
既にこのシリーズで取り上げたことのある
「兵神大教会」の前身は、兵庫真明組。
「山名大教会」の前身は、遠州真明組。
「東 大教会」の前身は、東京真明組。
それら大教会の教会番号は 芦津大教会より若いですが、
名前から分かる通り 真明組から分かれた訳ですから、
単純な時間的な『古さ』という点では、
芦津大教会の方が「古い」ことになる…
そういえば、
書き写した『天理教事典』「芦津大教会」解説の本文に
次のような記述がありました。
明けて(明治)24年、教祖5年祭を迎えて
真明組は 教会公認問題の解決に向かった。真明組からすれば
地方の真明組講社が すでに地方庁の教会公認となっていることから
一刻も早く と願う心に、
早くかかれ との「おさしづ」を受け、
6月に入って 教会名称を「芦津」と改めて
3度目の教会設置の願書を (明治)24年 6月17日提出。おさしづを幾度も仰ぎつつ、
(『天理教事典』1977年版 P,19)
(明治24年 6月) 29日付を以って 地方庁から公認された。
芦津大教会の前身である「真明組」は、
所轄の大阪府庁へ認可申請したけれど
なかなか認可してもらえずにいた。
その内に、
真明組の流れを汲んだ 他地域のグループの方が先に、
次々と認可を受けて教会として公認された…
…真明組の本家本元の方が
真明組の分家よりも 教会番号が後になっているという事実には、
そういう背景があったわけなのですね。
きっと、
真明組にご縁のある方々にとっては当たり前の知識なのだと思いますが、
お恥ずかしながら、私は知りませんでした。
勉強になりました。
そう考えると、
「真明組」=芦津大教会は、
「斯道会」=河原町大教会のような、
今の天理教を支える多くの大教会を生み出す 母胎となった教会、
そう言えそうですね。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】12回目の当記事では
『天理教事典』の中の
「芦津大教会」についての記述を書き写したわけですけれども、
今回も また、知らないことばかりでした。
おやさまから
「南半国道ひろめに出す」
との 直々のお言葉を頂いてつけられた【敷島】の道の如く、
【芦津】=真明組の道も、
「大阪へ 大木の根をおろして下されるのや」
との、
おやさま 直々のお言葉を頂いてつけられたものだ、ということ。
明治23年 9月の大火の際、
水の授けを戴いていた 井筒梅治郎 講元が、
神前に一荷の水を供え 一同一心におつとめをして その水を手桶に移した上で、
火の粉飛び散る屋根に上り「南無天理王命」と水をかけたところ、
風向きが突然一変し 一瞬の差で延焼をのがれた、という史実。
…等々の
このたびの書写を通して知ることの出来た 数々の史実は、
不勉強な私にとって、
ほとんどすべて 知らないことばかりでした。
たくさんの知らなかったことを知ることが出来て、
本当に有り難いことでした。
その中でも、
井筒敏夫5代会長が、
昭和33年 会長就任後に、
「芦津大教会の成人は 初代の心にかえる事であると信じ、
大教会の土地建物 すべてを献納する決意を固めた」
という話…、
これは衝撃的でした。
お道にご縁を頂いた者として、
おやさまのお残し下された「貧に落ち切る」ひながたは、
事につけ折に触れ 耳にします。
しかしそれは、
おやさま御在世当時の 幕末から明治時代初期という…
どことなく 遠い昔の話のようなイメージが、
正直、私の心の中にはありました。
しかし、
井筒敏夫5代会長が 大教会の土地建物すべてを献納する決意を固めた話は、
昭和33年! つい最近!
ほんの少し前の話ではありませんか!
『天理教事典』の短い記述だけでは分かりませんが、
おそらく、そのような決断に至るには、
限られた紙面には書き切れないような深い事情があったのでありましょう。
きっと、芦津大教会にご縁のある方にとっては、周知の事実であり、
その歴史、意味合いは深く心に刻み込まれ、
現在の信仰の土台となっているになっているに違いない と推察致しますが、
無知な私にとっては衝撃であり、
改めて、
おやさまのひながたを 現代に引き寄せて考える契機となる史実でありました。
昭和33年に土地建物をすべて献納し、
借地借家から再出発した芦津大教会。
何もない ゼロどころか、
マイナスとも思えるような逆境からの再出発に見えます。
そのような逆境の中、芦津大教会につながる方々は、
信者一同、一丸となって苦難の時代を乗り越え、
昭和37年になって、ようやく
自前の大教会の土地を手に入れられた。
そして、
大教会の土地建物 献納から15年後の
昭和48年5月には、
ついに盛大な鎮座祭、神殿建築落成奉告祭を執行され、
見事に復興を果たされたのでした。
『天理教事典』には、
井筒敏夫5代会長様が大教会の土地建物すべてを献納する決意を固めるに至った理由を、
「芦津大教会の成人は、初代の心にかえる事である」と信じたから、
と記述してあります。
芦津大教会初代の心とは、どんな心だったのでしょうか。
芦津初代、井筒梅治郎先生の入信の動機は、
子供を次々と亡くす中、ようやく授かった一人娘、
その娘がまたしても身上となってしまい 絶望感に打ちひしがれていたところを、
鮮やかにご守護頂いたことでした。
その後の
井筒梅治郎先生の どんな苦難も乗り越えられた道の原点は、
愛娘をたすけて頂いた、
そのことの感謝と感激にあることは 間違いありません。
芦津初代、井筒梅治郎先生にとって、
最愛の娘をたすけて頂いたことの喜びは、
如何に大きなものだったのでしょうか。
どんな苦難の中も 揺るぎなき信念で歩まれた道中から推察するに、
もしかしたら、井筒梅治郎先生にとって、
その後の人生は、
可愛い娘をたすけていただいたことの感激の延長線上の出来事に過ぎなかったのかもしれない――
僭越ながら、そんな感慨が私の中を占めました。
信仰落第生の私に難しいことは分かりませんが、
「芦津大教会」歴史の書写を通して、
“たすけて頂いた有難さ” から 自然と湧き上がってくる ただただ感謝でいっぱいの心――
もしかしたら、
それこそが、井筒敏夫5代会長が目指そうとされた「初代の心」なのではないだろうか、
そんな思いを抱きました。
そして、「初代の心にかえる」とは、
そうした「ただ、とにかく有り難い」という感謝ばかりの「初代の心」
そうした心境に少しでも近付こうとする営みなのかもしれない…
そんなことを思ったりもしました。
ウ~ン、ちょっと調子に乗って書き過ぎたようです…
分をわきまえず、
また今回も、何も分かっていない者が、
知ったかぶりのことをあれこれ書き連ねてしまいました。
お恥ずかしい… (#^^#)
(でも、せっかく書いたから消すのも惜しい…
このまま公開します (^^ゞ …)
いずれにしても、
今回も、いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「芦津大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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