Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】、
今回もいきます。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
教材は、
たまたま自教会にあった 1977年版の『天理教事典』。
今から27年も昔の、
1997年=昭和52年に出版された教材ですから、
記述内容は 昭和50年頃までで止まっています。
そして、
無条件に「原文」を書写していますので、
もしかしたら、
この記事を目にした関係者の方の中に、
この記述内容は事実と異なる!
と 不快な思いをする方が おられるかもしれません。
ですが、
当ブログは、自己学習目的のものであり、
ただ単に「知る」ということだけを目的として、
ひたすら教材である『天理教事典』(1977年版)の記述内容を
淡々と書き写したもの。
ですので、
記事の記述内容の正確性というところまではよく検証できていない ということを
お断りしておきます。
前回は、
教会番号15番「湖東大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号16番「甲賀大教会」について勉強します。
甲賀大教会(こうが だいきょうかい)
山田太右衛門 初代会長
初代会長 山田太右衛門は
安政元年(1854) 旧2月5日、
滋賀県甲賀郡 柏木村宇田 538番地
山田太良平の長男として 生まれた。29歳の時
山田九郎兵衛の次女 きく(18歳) と結婚。明治19年(1886)
隣家の綿小屋より出火、
山田家は類焼し
築きあげた資産を 殆ど失った。翌年(明治20年) 次女 ます を出産後、
(妻) きく は病床の身となり、
医者・ 薬・神仏へと祈願したが その効力なく、遂に 同年(明治20年) 旧6月2日
黄瀬駒吉(妹婿) の手引きにより
京都 宇治田原村 湯屋ヶ谷
西野清兵衛 (斯道会 第2号講元) の来訪を求め、
はじめて「天理王命」の話をきくことになった。(明治20年) 翌7月2日
西野清兵衛宅へ 夫婦揃って参拝し、
奇跡的にも 病妻が元気となり 入信した。
甲賀支教会、本部のお許し(明治20年頃〜明治25年頃)
(明治20年) 翌8月16日
「ぢば」へ 初参拝、
神恩の有難さが身にしみ、
以後 たすけられたよろこびにひたりつつ
布教伝道の生活に入る。明治21年 (1888) 2月15日、
京都 河原町分教会より 斯道会 第38号の講名をうけ、
同年(明治21年) 8月17日
「おさづけの理」 拝戴。爾来 不思議なたすけは 近郷近在に及び、
早くも 翌 明治22年 8月1日に
本部より 甲賀支教会の許しを受く。この間 僅か2ヵ年という短時日で 教会を設置した太右衛門の信仰は、
入信 即 布教伝道、伝道 即 教会設置と、
全く 電光石火というか、
いかに彼の信仰が熱烈であったかが分かる。しかし当時、
地方の天理教に対する反対、迫害攻撃は非常に盛んで、
官憲の圧迫も烈しく、
教会設置に対する地方庁の認可はむずかしく、
申請は 数度に及び、
4年後に やっと認可されたのである。
甲賀の道の広がり(明治20年代〜明治34年頃)
この間 教線は県内にとどまらず、
岐阜、三重、中部、東海から 関東の遠隔地へ伸び、
明治34年には 早くも 所属教会69カ所を数えた。現在 甲賀より分離した
日光はじめ 秩父・日野・岐美・中野などの各大教会は
殆ど この時代に設置された。この間、彼は
教会内部 (20数家族) の信仰的指導、
地元教信者の育成、
部属教会の指導に
一身一家を捨てて東奔西走、
また、素直・正直を信条とし、
人々の嘲笑をも意に介せず、布教に捧げつくした。ところで、
明治21年 (1888) 2月15日
河原町分教会より 斯道会 第38号をうけた時、
講元 山田太右衛門、講脇 岡川治右衛門であった。他に 結講当時の人々として、
山崎房蔵、山田九郎左衛門、山崎市松、 沢田定吉、山崎太郎吉、西松源治郎、東井重吉、古沢弥兵治、上村治一郎、西川嘉平治、東井八右衛門、 柏木六左衛門、柏木九左衛門、北村太右衛門、徳地平五郎、筒井卯之助、飯村松左衛門、林茂右衛門、林 茂七、徳地辰次郎、藤井久三郎、中村清六、中村粂吉、谷口太三、岡田源七、松村仁平、福西伊之助、片山鉄次郎、小沢万吉、高田兵吉…
等々がいた。
神道天理教会甲賀支教会、地方庁の認可(明治22年頃〜明治26年)
しかし、
教会が設置されないと 公然と布教も「おつとめ」もできないので、
教信徒全員が力を合わせて、
河原町分教会を通じて 本部の許しを得た。つづいて 明治22年(1889) 8月1日、
神道天理教会 甲賀支教会
(滋賀県甲賀郡 柏木村大字宇田第70番屋敷)、
地方庁へ認可申請したが、
申請は却下された。第2回、第3回と申請したが 却下され、
漸く 第4回
明治26年 12月28日付で 認可された。
神殿建築(明治27年〜明治33年)
かかる中、神殿建築の議が起こり、
明治27年 1月27日 許しを得て、
神殿 (10.8米、18米) と 2階建事務所 及び 客間の建設を見、
明治27年 5月10日 開筵式を執行した。教会公認と短期間のふしんで
相当の借財と 人心に疲労が現われ、
加えて 日清戦争で信仰信念を喪失。せっかくの教会活動にも 一頓挫をきたしたが、
本部の指導により
関東方面へと 教会はすばらしい発展の一路をたどり始めた。そして ここに、
部属教会全部が 心を揃えて
教祖殿 及び 客室の普請にかかった。明治30年 12月24日 本部の許しを得て、
明治33年 5月9日 落成奉告祭の運びとなった。
河原町から分離、本部直属へ(明治34年〜明治40年頃)
翌 明治34年(1901) 9月9日、
河原町分教会長 深谷源次郎の子供の病気から 分離を言い渡され、
分離の「おさしづ」を頂いて 分教会に昇格。
本部直属となる。
当時の部属教会 69カ所。本部直属となったが、
これまでのふしんの疲れ、
また 詰所の開設などに追われ、
形の上よりも 内部において 疲労の色があらわれ、
日露の戦争とともに 生活に困難をきたした。(山田太右衛門) 初代会長を中心に寄り集う役員20数家族は、
明日の食糧なく 苦難のどん底を歩んだ。その中を 教祖の「ひながた」を心におさめ、
(山田太右衛門) 初代会長を中心として 布教に奔走した。そして、
こうしたどん底時代に、
不思議にも 部属教会がどんどん設置されたのである。
甲賀分教会から大教会へ(明治42年〜昭和2年)
明治42年(1909) 1月12日
大教会昇格の許しを得る。当時の教勢は、
日光95、秩父48、中野33、蒲生15、日野10、大野5、
その他加えて 216カ所であった。(山田太右衛門) 初代会長は、
本部の御用に精励せんがため、
その職を 山田勘治郎に譲る。大正3年(1914) 6月23日、妻 きく 出直。
同(大正) 5年 1月24日 本部准員、
同(大正) 7年 11月27日 本部員に登用される。
同(大正) 9年 3月4日 徳島教務支庁長を命ぜられた。大正7年 1月29日に 大教会長を辞任。
昭和2年 9月1日、齢74歳で出直した。
山田勘治郎2代会長
2代会長 山田勘治郎は、
明治12年 10月10日
山崎勘兵衛の次男として
柏木村宇田に生まれ、
幼少の頃より 兄 房蔵について 天理教の信仰を仕込まれ、
早くも 明治32年 7月10日「おさづけの理」を拝戴。21歳にて 松江市へ単独布教。
明治35年 5月10日、
(山田太右衛門)初代会長 長女 小よ祢 と結婚。
山田家へ入婿。大正7年 1月29日 2代会長に就任。
就任奉告祭は 同年(大正7年) 10月22日に挙行。
当時の部属教会は 350ヵ所であった。
教祖40年祭前後(大正13年頃〜大正14年)
教線は 次から次へと伸び、教会設置がみられ、
大正13年 6月29日には
部属教会500ヵ所設置の内祝が行われた。教祖40年祭 教勢倍加が提唱され、
益々 布教伝道線は伸び、
大正14年末 部属教会は 794カ所となり
盛大裡に 教祖40年祭はつとめられた。
大教会の移転建築(大正15年〜昭和初期)
しかし 部属教会の内容充実はともなわず、
年祭後の活動として
交通便利な場所への大教会移転建築の議が起こり、大正15年(1926) 4月30日、
本部の許しをえて 甲賀郡貴生川村 大字内貴330番地に
移転することとなった。場所は 国鉄 貴生川駅に近く、
広い土地を求めることは困難なことであったが、
貴生川村では 臨時村議会を開いて、
議員 満場一致で
甲賀大教会 移転建築に協賛する決議がなされた。その結果、
38筆に分れた土地も 24名の地主から快諾を与えられ、
ここに 343,900平方米の境内地の実現をみたのである。建物は
神殿・教祖殿 その他に 檜材を多く必要とする上から、
岐阜県 木曽七宗山帝室御料林の払下げをうけ、
御料地内17町余歩の檜生立木4,651石を伐り出すことを認可された。工事は 5カ年計画で進められ、
その間の「ひのきしん」の人数は 延221,300人を数え、
大工・左官・石工などの職人は、延9,220人で
如何に大きいふしんであったかが窺える。落成奉告祭は
2代真柱はじめ 教内外者多数の参列を得て、
さらに 全国から臨時列車が駅にならび、
さしもの広大な境内地も 万余の人々で賑わった。このふしんこそ
(山田太右衛門)初代会長に始まる信仰の種が 美しく開花したものである。
太平洋戦争前から戦後の道中(昭和初期〜昭和32年)
教祖50年祭に本部の神殿教祖殿のふしんが打出され、
(山田勘治郎)2代会長は 建築委員を拝命。昭和3年10月18日 本部進員。
同(昭和)9年 10月20日 本部員に登用。移転建築完成に伴い、
日光分教会が分離し本部直属となった (昭和7年11月16日)のに続き、
中野分教会 (昭和14年5月16日)、
蒲生分教会 (昭和15年2月26日)
日野分教会 (昭和15年2月26日)
秩父分教会 (昭和15年 4月30日)
岐美分教会 (昭和15年6月15日)
が相ついで分離昇格したので、
昭和15年には 部属教会が144ヵ所に激減し、その上、戦況は悪化し、
人々は戦場へ あるいは軍需工場 または炭坑へと かり出された。教会は (山田勘治郎)2代会長を中心に
どこまでも 初代の精神を肝に銘じ、
県民修練所に、あるいは 陸軍病院分院に、
また 大阪疎開児童をうけ入れるため
老人婦女子が尽力した。この間にあって、(山田勘治郎)2代会長は
教庁経理部長をはじめ 綜合学校建築委員、全国巡教員などの役職を歴任。終戦の翌年 教祖60年祭をつとめ、
復元の提唱に呼応して、
まず 戦災教会の復興につとめきり、昭和23年(1948) に
(甲賀)大教会 創立60年を記念して
山田吉三に 会長をゆずった。その後 本部に専務し、
昭和32年 (1957) 1月7日、齡79歳で出直した。なお(山田勘治郎)2代会長夫人 山田小よ袮は、
昭和45年 6月15日、
齢 87歳で出直した。
山田吉三3代会長
山田吉三は、
明治44年(1911) 9月29日、
上田長次郎の次男として
大阪府三島郡 福井村に生まれる。生家は 高安部属の 高和分教会である。
幼少の頃より 信仰信念を培われ、
昭和4年 7月17日「おさづけの理」拝戴。
同年(昭和4年) 3月 天理外国語学校スペイン語部を卒業。応召後 兵役に従事、
のち 母校で教鞭をとっている時、
(山田勘治郎)2代会長の 3女 貞と結婚、
分家として 山田吉三となっていた。そして、
昭和23年 4月25日に
3代会長に就任。
戦後の復興(昭和23年〜昭和34年頃)
(山田吉三)3代会長は
戦後の世相悪化の中において、
まず 戦災教会の復興をはかった。復元の声に添い、単独布教を目ざす者 多数あり、
教祖70年祭後、
昭和34年 10月22日には
(甲賀)大教会 創立70周年記念祭を
2代真柱を迎えて 盛大につとめた。この年(昭和34年) 9月26日
伊勢湾台風があり、
東海地方の多くの部内教会は 殆ど被害をうけ、
これがため 記念祭を延期する声もあったが、予定通り行い、
予想以上の盛況ぶりであった。
詰所移転前後(昭和45年頃〜昭和51年)
昭和45年 10月頃より
詰所移転を本部より指示され、
昭和46年 4月着工。翌年(昭和47年) 6月25日完成。
第23母屋となった。(山田吉三3代会長は)
この間、
昭和37年 4月18日には 本部准員、
同(昭和)49年 4月18日に 本部員に登用され、
昭和46年から 滋賀教区長も務めたが、昭和51年 2月18日に 出直 (齡 66歳)。
同年(昭和51年) 4月26日には
山田達之輔が 4代会長に就任した。○〔出版物〕 :
『甲賀の道』 昭和6年5月10日発行 394頁。
『甲賀の栞』 大正13年10月22日発行。
『甲賀大教会教会要覧』 昭和28年11月3日発行。
『さざなみ会報』 (春秋2回) 大正11年4月創刊、 大正13年10月廃刊。
『甲賀』(月刊) 大正14年1月発刊、 昭和6年9月廃刊。
『甲賀会報』 (定期) 昭和12年7月再刊、 現在に至る。
『甲賀青年会報』 (年4回) 昭和45年4月創刊、 現在に至る。〔現住所〕〒528-0049 滋賀県甲賀郡水口町貴生川330
〔電話〕 0748-62-2020(昭和50年12月31日調 『天理教統計年鑑』 昭和50年度版)
(『天理教事典』(1977年版) P,318~320 )
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
16回目の今回は、
「甲賀大教会」の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
甲賀大教会は、前回勉強した湖東大教会同様、
「斯道会」の流れを汲んだ大教会ですね。
斯道会=河原町大教会については、
以前勉強して 記事を投稿しました。
部外者から見ると、
前回の「湖東」、今回の「甲賀」、次回の「水口」、
教会番号15~17番の大教会は、
河原町分離の三大巨頭というか三羽ガラスというか…
三兄弟のような存在に見えます。(^^)
前回の湖東大教会の勉強の際に、
湖東大教会の、
道の付き始めの頃から 狭い所に治まることなく 全国あちこちへ広がっていこうとする「外向き」の力の逞しさ、
それは、江州商人=近江商人の気質が土台になっていたのだ…
と 知ったわけですが、
今回勉強した「甲賀大教会」、
そして 次回勉強する「水口大教会」、
斯道会の流れを汲む三大分離教会が 道の初期から実に広範囲に日本全国へ広がっていった背景には、
「江州商人の進取性」
というものがあったのですね。
今回の勉強を通して、そう感じました。
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】16回目の当記事では
『天理教事典』の中の「甲賀大教会」についての記述を書き写したわけですけれども、
今回も、また知らないことばかりでした。
初代の山田太右衛門先生については、
昔、道友社VHS「道の先人シリーズ」の中の『大愚太右衛門』という作品を視たことがある筈なのですが、
お恥ずかしながら その中身はよく覚えておりませんでした。
今回、勉強させて頂いて、改めて、
僅か「2ヵ年」という短時日で「甲賀支教会」を設置するほどの道の広がりを見せた山田太右衛門初代会長の信仰が、如何に熱烈であったか、
ということを教えられました。
その事実は、
実家が火災に遭って丸裸になった上に 妻が病に倒れ絶望の淵に立たされていたところをたすけられた
そのよろこびが 如何に大きいものだったのか、
ということを 表しているように思われます。
その他にも 知らないことばかりでしたが、
その中でも 特に、
山田勘治郎2代会長時代の 大正15年(1926)に、
交通便利な場所へ移転しようという話が出て、甲賀郡貴生川村へ移転することとなった際、
広い土地を求めることは困難と思われたところが、
貴生川村の方で臨時村議会を開き、満場一致で、甲賀大教会 移転建築に協賛する決議がなされた、
という話は衝撃的でした。
お道の教会が引っ越してくると 地域の人は嫌がる…ようなイメージがありますが、
甲賀大教会の場合は、
村議会の方が「満場一致」で移転建築に【協賛】する決議をなされた‼
『天理教事典』の担当執筆の方は、
“このふしんこそ (山田太右衛門)初代会長に始まる信仰の種が 美しく開花したものである”
と記述しておられますが、
本当に、地域の方に受け入れられ信頼されていた、ということなのでしょうね。
初代会長様を始めとする先人先生方の、
地域へのおたすけ活動が如何に活発であったか ということが、
時代を越えて伝わってくるようです。
…その他のことも含め、
今回も、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「甲賀大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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