Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号31番「堺 大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号32番「御津大教会」について勉強します。
- 御津大教会(みつ だいきょうかい)
- 初代会長・小松駒吉の入信(明治15年)
- 泉田藤吉と小松駒吉初代会長(明治15年)
- 小松駒吉のおぢばがえり、教祖からのお言葉(明治15年)
- 泉田藤吉との決別、5番天恵組の設立(明治15年〜明治17年)
- 官憲の圧迫、神道分局事務取扱所としての活動(明治17年頃〜明治20年頃)
- 小松駒吉初代会長の おやしき普請への伏せ込み(明治20年頃〜明治21年頃)
- 神道分局からの独立→「御津分教会」誕生(明治21年頃〜明治42年頃)
- 信徒詰所の建設(明治39年〜明治20年頃)
- 御津教会への昇格〜初代会長の出直し(大正7年〜昭和9年)
- 小松駒太郎2代会長時代(大正13年〜昭和35年)
- 小松松太郎3代会長就任(昭和35年〜昭和46年頃)
- おわりに
御津大教会(みつ だいきょうかい)
初代会長・小松駒吉の入信(明治15年)
初代会長 小松駒吉は、
慶応元年(1865) 2月15日に出生し、
大阪市南区 瓦屋町に住み、
父・小松清吉のもとで 大工を職としていた。明治15年6月、18歳の時、
当時 市内に流行したコレラ病に感染し
一昼夜で重態に陥ったが、
広本熊吉 (後の泉田藤吉)に救けられたのが
入信の動機であった。当時、泉田藤吉は 芋熊と言われ、
屋台車をひいて 子供相手に 蒸し芋を売り歩いていた。毎日 午前10時頃になると 小松駒吉宅の前で車をとめ、
バケツを下げて 芋を蒸すための換え水を貰いにくる。
その日も いつものようにバケツを下げて入ってきた。ところが、
高熱のため人事不省になっている(小松)駒吉を囲んで
家族の者が狼狽していた。(泉田藤吉は) それを見るなり、バケツを捨て、
夕刻までそばにつき添って、一心に親神に祈願した。すると、
夕方には、さすがの高熱も下がり、
正気に戻って、鮮やかに 親神の守護を頂いた。
泉田藤吉と小松駒吉初代会長(明治15年)
危篤の状態をたすかった(小松)駒吉は、
早速、その翌夜、父・清吉とともに、
(泉田)藤吉宅に 金米糖一斤と白米を持参し お礼に行った。泉田藤吉は、(小松)駒吉に
「私が救けたのやない、天の親様がお救け下されたのである。
天の親様へのお礼をなさい。
天の親様へのお札は、御恩報じに人を救けるのや。」
と 毅然とした態度で言い、
親神へのお願い (祈願) の手振りを教え、
また 十二下りのお歌の本(当時天恵組にて刊行していた) を貸し、
毎晩来るように告げた。その後、
毎晩 いわれる通り (小松)駒吉は泉田藤吉宅にかよい、
また、(泉田)藤吉のお伴をして 布教に出るようになった。これは(小松)駒吉に限らず、
当時 親神にたすけられた人々は、それぞれ連れ立って (泉田)藤吉のお伴をしたもので、
これを「御恩返しに出る」と言い習わしていた との事である。
小松駒吉のおぢばがえり、教祖からのお言葉(明治15年)
病気をたすけられた その(明治15年) 翌7月、
初代会長・小松駒吉は、泉田藤吉に導かれ、
十三峠を越えて おぢばにお礼に帰り、
初めて 教祖にお目にかかった。その時 教祖は、
みずから「おまもり」を渡され、
「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。
年は18、まだ若い。
間違いのないように通りなさい。
間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで」
(『稿本天理教教祖伝逸話篇』176-177頁)
とのお言葉を (小松)駒吉は賜わった。(小松)駒吉は
この教祖のお言葉を 生涯の守り言葉として、
地道な信仰生活を送ることになったのである。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』 103. 間違いのないように
明治十五年七月、大阪在住の小松駒吉は、
導いてもらった泉田藤吉に連れられて、
お礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂いた。
コレラの身上をお救け頂いて入信してから、間のない頃である。
教祖にお目通りさせて頂くと、
教祖は、お手ずからお守りを下され、
続いて、次の如く有難いお言葉を下された。
「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。
年は十八、未だ若い。
間違いのないように通りなさい。
間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで。」と。
駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として、
しっかり守って通ったのである。
泉田藤吉との決別、5番天恵組の設立(明治15年〜明治17年)
その後、
(小松)駒吉は さらに勇んで恩返しにつとめ 信者も増加したが、
その年(明治15年)の冬、
講社の治め方について泉田藤吉と意見を異にし、
(泉田)藤吉が講元をしていた 天恵4番から 身を退くことになり、
単独で 信仰を続けていた。ところが、翌 明治16年2月、
(大阪)市内南区 周防町在住の 堀久兵衛という人が病気で寝ている所へ行き、
不思議な守護を頂いたことによって 次第に信者が増え、30戸以上にもなった。そこで 講社結成の議が起こり、
(明治16年) 4月22日 おぢばに帰って 講社名簿を納め、
5番天恵組 と命名された。講元は 小松駒吉、
取締は 松井善助、
老分に 堀久兵衛、
周旋に 清水新助、
筆者として 石塚松治郎、
外に周旋として 岸本吉衛門、安藤駒吉、山下徳松、浅田徳松、森本平助、古川喜代治
の名が列ねられた。講社結成の喜びは その後のおたすけに拍車をかけ、
周旋が 上町、島之内、天王寺各方面に分かれ、
それぞれ分担して おたすけや、お手振りの稽古に熱中し、
寄り集まる信者も多くなってきた。そこで、明治17年 1月3日に
講社の中心地である 島之内で「寄所」を新築することを決め、
南区問屋町に 敷地30坪を借り受け
14坪余りの平家を建築し「寄所」開きをした。
官憲の圧迫、神道分局事務取扱所としての活動(明治17年頃〜明治20年頃)
当時 おちばにおいても官憲の取締りが厳しい時であったが、
大阪地方も同様で、
「寄所」の新築と共に、更に勢を得て 毎夜布教に出、
又 お手振りの稽古で「寄所」は賑わった。だが、おつとめの最中に警官が踏み込み、
集まった人々に 説諭の上 解散を命じ、
(小松)駒吉は、その都度 警察署に留め置かれた。そこで 便宜上、
「神道分局 事務取扱所」の看板を掲げることになった。しかし、
実際は 天理教のおつとめをし「元初まりのお話」を取次ぐのであるから、
その後も、
警官が幾度となく踏み込む
ということが繰り返された。このため、
布教はできたが、人を集めることも集まることも難しく、
講社の教勢は にぶりがちであった。明治19年 6月には 父・清吉が出直し、家計の苦労は増していた。
(そのような中)
明治19年 12月25日、
(小松駒吉は) 井川孫左衛門の長女 しほを 嫁に迎えた。しかし、一家には負債もあったので、
その後、(小松)駒吉は 昼は仕事に行き、夜には布教、
(妻)しほも 日夜 手仕事をして家計を補っていた。しかし、こうした中にも
熱心な信者は 夜々に集まって信仰の喜びを語り合い、
教理の練り合いをかさねていった。明治20年 旧正月
お節会に (小松)駒吉は おぢばに帰り、
教祖にお目にかかった折に、
教祖から「赤衣」を戴いた。明治20年は 教祖が御身をかくされた年で、
官憲は 時を得たとばかりに圧迫の度を加え、
ますます取締りが厳しくなったので
「奉斎天輪王命守護」の目標札も隠して、
お社の中へは 皇太神宮のお札を納める というような有様であった。したがって、
布教は一層困難になり、信者も減る一方であった。同年(明治20年) 11月末より (小松)駒吉は、病状がすぐれなくなった。
そこで、12月3日 おぢばに帰ったところ、
翌(12月) 4日 (小松)駒吉 23歳、
入信後 6年目に「おさづけの理」を拝戴した。
小松駒吉初代会長の おやしき普請への伏せ込み(明治20年頃〜明治21年頃)
(小松)駒吉は、さらに勇んで布教活動に励んだが、
官憲の圧迫は厳しく、
ともすれば倒れがちな(小松)駒吉自身の心を支えたのは、
「しっかり種をおぼりて(埋めて)おけ、旬になれば必ず芽がふく」
という意味の 教祖のお言葉であった。当時の(小松)駒吉の布教生活を伝える話として
次のような事実が残されている。明治21年4月1日頃、
(小松)駒吉は、講社に 信仰のいぶきをしっかり吹き込むためには、
もっと深く教義を修得せねばならないという気持ちから、
1ヵ月程の予定で、おぢばに帰り、
中山重吉宅の2階の1間を借りて、おふでさき・古記等を写し、
また、辻忠作から 詳しく信仰の仕込みを受けた。その最中に、山本利三郎が宿に来て、
今月(4月)10日 東京において天理教会本部設立の許可が下ったと知らせるとともに、
その東京で許可になった本部を おちばに移すために おやしきのふしんが始められる、そこで このひのきしんに参加するように、
と (小松駒吉に)要請した。厳しい取締りで布教に苦しんでいた(小松)駒吉は 手を打って喜び、
山本利三郎の言葉に従い、
その後は おやしきの小二階に寝起きして、
昼は ひのきしん、夜は写しものに 励んでいた。そのうちに、(明治21年) 7月に入り、
ある日 大阪から、
当時 2歳になる長女アイが 咽喉に腫物ができて 乳も飲まず 昼夜泣き通している、
という知らせが届いた。(小松駒吉は)
はじめ1ヵ月の予定だった(おやしきでの普請ひのきしん)が、そのまま3ヵ月余に及んでおり、
家の事も気がかりであった。
そこで、一旦 家に帰る心になり、増野正兵衛に申し出た。すると、増野正兵衛より
「身はおぢばにあって勤めていても心は半分家に帰っている。
それでは半分の理であるから、すっかり家の事を忘れて 落成までつとめるように。」
という意味の、おさしづに基づいた諭しを受けた。(増野正兵衛のおさとしを受け) 駒吉は、
早速 その旨 心を定めた。すると、間もなく大阪から、
(アイの咽喉の) 腫物の口が開いて(治癒の)守護を頂いた、
という知らせが届いた。聞き合わせると、
かんろだいに参拝をしておわびした時間と
腫物の口が開いたのが
同時刻であった。(小松)駒吉は、
親神の深い神意と守護に感激して、
(おやしき普請のひのきしんを)最後までつとめあげた、
ということである。信仰の喜びを通しての(小松)駒吉の おぢばでの働きが、
「御津」の基礎をつくりあげたといえる。
神道分局からの独立→「御津分教会」誕生(明治21年頃〜明治42年頃)
この年(明治21年)、(5番天恵組は) 神道分局からはなれ
本部の許しに伴い、
改めて「神道直轄天理教会 天恵組事務所」の看板がかけられた。明治24年には、
おさしづの言葉通り、長らく埋もれていた種がいよいよ芽を出すように、
教勢は 急速な発展を遂げ、建物の増築もされ、
同年(明治21年) 11月25日、
おさしづとともに、
「浪華の御津の里」という所在地付近の古称に因んで、
初代真柱から「御津」という教会名を受けた。教勢の方は、
明治27年に 初めて兵庫県に 志筑布教所、
(明治)28年に 大阪市内に 大南出張所
と 漸次 部内教会を設置、
明治33年には 部内教会 6ヵ所に発展した。明治41年の天理教一派独立に伴う教規の改正により、
(明治)42年 1月31日、「御津分教会」と改称した。
信徒詰所の建設(明治39年〜明治20年頃)
また、明治39年 教祖20年祭には
まだ信徒詰所はなく、
本部 門前通り 布留街道南に入る西側の本部の土地 約80坪を借用して
仮小屋を建てて 帰参信徒の宿泊所とした。(明治)43年 6月、
同敷地に 約50坪のものを建てて、信徒詰所を開設した。以来、教祖30年祭には 部内教会が18ヵ所になり、
従って、信徒詰所も 狭隘を感じる上から、
大正4年に 三島に3反程の敷地を買収し、移転建築をした。その後、次々に拡張増築し、
大正9年には、敷地 坪700余坪になった。
御津教会への昇格〜初代会長の出直し(大正7年〜昭和9年)
この間、大正7年 5月27日には、
「御津教会」に昇格改称した。かくて、教祖40年祭を迎えたのであるが、
将来を見透して、更に 詰所の移転拡張の議が起こり、大正11年、
守目堂に 3,800余坪の敷地をもつ詰所が出来上がった。大正12年 11月26日、
(小松)駒吉は、当時としては異例の人事抜擢で、本部准員に登用。大正15年 天理教校講師、
昭和3年に 天理外国語学校講師を担当し、
昭和8年 10月23日には 本部員に登用された。(小松駒吉は)
教祖殿落成の遷座祭に 本部員として初の奉仕をしたが、
「奉仕中、入信当初に頂いた “間違いさえ無ければ 末では 何程結構になるやしれんで” との 教祖のお言葉が思い出されて 感涙に堪えなかった。」
と、自身の 地道な信仰生活をふりかえって語っている。その(小松)駒吉も、
昭和9年2月13日、70歲をもって出直した。(小松駒吉の)その生涯を通じて終始一貫した誠実な生活は、
信仰の範として 衆望を集めた。
小松駒太郎2代会長時代(大正13年〜昭和35年)
2代会長・小松駒太郎は、
初代・駒吉の2男として出生。明治45年 天理教校別科を卒業、
大正2年に東京に単独布教に出て、大正4年 津東宣教所を設置、
また (大正)8年には 九条支教会長となる。大正13年、
(小松駒吉)初代会長が本部准員に登用され (御津の)会長職を辞任するのに伴って、
同年(大正13年) 1月11日に 2代会長に就任した。時あたかも 教祖40年祭を前にした教勢倍加運動が提唱されていたので、
(小松駒太郎)2代会長を中心に布教戦線の拡大につとめ、
就任当時39ヵ所であった部属教会が
教祖40年祭には、一躍78ヵ所に増加した。大正7年「御津中教会」と改称。
昭和8年、信徒詰所講堂 並びに 信徒室4棟が増築された。
御津大教会へ昇格(昭和15年)
昭和15年 1月23日、
「御津大教会」へと昇格した。(小松)駒太郎は、
昭和9年本部青年となり、同年(昭和9年) 本部准員、
さらに(昭和)17年に 本部員に登用された。
太平洋戦争前後(昭和16年〜昭和35年)
しかし、
昭和16年にはじまった戦争は、昭和20年には最悪の様相を示し、
その中で、
長らく(小松駒吉)初代会長をたすけ、陰の力となってきた
初代会長(小松)駒吉の妻 しほが
同(昭和20年) 4月20日に出直した。また、同(昭和20年) 6月8日、
(御津)大教会の建物が、空襲により烏有に帰した。元来、(御津)大教会の所在地は、都市の中心地帯であり、
(小松駒吉)初代会長時代から、
幾度か拡張の議が起こりながらも
実現をみるに至らずにきたのであった。(御津は)戦災を機に
(この大節を生き節とすべく、信徒一同力を合わせ)
昭和23年 1月に、従来の3倍強の680坪と拡張した土地に、
神殿付属屋(客室兼会長室)の2棟 計65坪5合を建築、
併せて炊事場を改築し、
(昭和)24年に竣工した。昭和26年には、
教会創立60周年の記念事業として
神殿縁側の拡張、奉仕室の増築
及び 事務所 兼 信徒室 2階建1棟が
建築された。(御津の)教勢は、
昭和28年には 部属教会 87ヵ所になった。
小松松太郎3代会長就任(昭和35年〜昭和46年頃)
3代会長・小松松太郎は、
(小松駒太郎)2代会長の 4男として出生し、
昭和24年 天理語学専門学校卒業後、(昭和)26年に 本部青年となる。昭和35年 1月26日に
3代会長に就任した。爾来、(小松松太郎)3代会長を中心に
「御津」の歩みは さらに信仰に拍車がかかり、教祖70年祭の帰参信徒のために、
昭和40年春より
詰所においては 母屋のふしんにかかった。また 昭和46年には、
創立80周年の記念事業として、
すでに拡張された敷地に 鉄筋4階建の信徒会館を建築し、
そして、より一層 積極的な世界だすけを目指して進んでいる。〔現住所〕〒542-0082 大阪市中央区島之内1丁目3ー25
〔電話〕06-6244-0515(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,797〜800)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
32回目の今回は、
「御津大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】32回目の当記事では
『天理教事典』の中の「大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
「御津大教会」は、
泉田藤吉先生の『天恵4番』講社の流れをくんだ教会だったのですね。
『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) という本の中に
泉田藤吉先生と小松駒吉先生の関係についての記述がありましたので、
(おそらく同じ執筆者なのでしょう『天理教事典』の記述と重なりますが)
後学のために書写致します。
【ご恩報じとおたすけ実習】
泉田藤吉は 大阪ミナミの空堀界隈で “芋熊”と呼ばれていた。
屋台を引いて 蒸芋を売っていたのである。明治十五年六月の朝、瓦屋町で、いつものようにバケツをさげて、
小松清吉の家へ もらい水に訪れた。
しかし、様子が違う。息子の駒吉(十八歳)が高熱に冒されて 人事不省に陥っていた。
全国に蔓延していたコレラだった。藤吉は、商売道具を道端に放ったまま、祈願にかかった。
夕刻には さすがの熱も下がり、危篤状態から脱して 駒吉はたすかった。翌日、小松親子は 金平糖と白米を持ってお礼に行った。
すると、藤吉は「わしがたすけたのやない!」と一喝。「わしがたすけるなら、こないな蒸芋屋なんか、しておらん。
天の神さんがおたすけ下さったんや。
わしも無い命をたすけてもろて、その御恩返しに歩いとるんや。
そんなもん、もらたら、せっかくの御恩返しがなんにもならんわい」そして、諭した。
「ほんまにありがたいと思うたら、天の神さんにお礼申しなされ。
それは、御恩返しに、人さん たすけることや」駒吉は翌日から、昼は生業の大工に励み、夜は「毎晩来るように」との藤吉の言葉を守って 空堀に通った。
そこには おたすけ実習が待っていた。藤吉は 駒吉を連れて回り、病人の枕元で 直に おたすけのイロハを仕込んだ。
師弟が ひざ突き合わせての、何ものにも勝る現場教育であった。やがて駒吉は 一人でおたすけに出るようになる。
藤吉は あちこちに 大木に育つ種をまき、
『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編)P,16~17
駒吉は のち 御津大教会を築く。
御津大教会の初代会長は、小松駒吉先生。
その御津大教会の初代会長である小松駒吉先生の『稿本天理教教祖伝逸話編』のご逸話は、
親が天理教を信仰している家庭で育つ者が、
若い頃によく聞かされるお話の一つではないでしょうか… (^^)
小松駒吉先生は、入信間もない18歳(!)の時、
おやさまから
「(あんたは)年は18。未だ若い。
間違いのないように通りなさい。
間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れんで。」
と、声をかけられた。
小松駒吉先生は その言葉を受け、
このお言葉を 自分の一生の守り言葉として、
しっかり守って通られた。
コレラの身上をたすけて頂いたことの喜びが土台にあるとはいえ、
おやさまから直接お言葉を掛けて頂いたことの感激からとはいえ、
実際に、その、おやさまのお言葉を自分自身の指針として「生涯」通り切ることが出来るというのは、
やはり、
小松駒吉先生の魂の徳の高さによるものではないかしら…
と思います。
私のような徳のない魂の者は、
「間違いさえなければ末は何程結構になるや知れんで」と言葉を掛けられても、
きっと正しい道を通った方がいいんだろうなぁ…と頭で分かっても、
因縁に負けて、たびたび道を外れるのであります… (-_-;)
当記事では
『天理教事典』の中の「御津大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も、また知らないことばかりでした。
その中でも特に、
明治21年、
東京で認可された天理教会本部をおちばに移すための
おやしき普請の ひのきしんの際の
娘さんの身上にまつわるお話は、
印象深く心に残りました。
官憲の圧迫に苦しめられていた小松駒吉先生は、
東京において天理教会本部設立の許可が下ったと聞いて、大層喜ばれた。
で、その東京で許可になった本部をおちばに移すためにおやしきの普請を行うこととなり、
大工であった小松駒吉先生は、喜び勇んで そのひのきしんに参加された。
そのひのきしんの最中、
2歳の愛娘アイの咽喉に腫物ができ、乳も飲めず昼夜泣き通している
という知らせを受けた。
最初1ヶ月程度の予定でひのきしんに参加していたのが3カ月余りと長期化していたこともあり、
小松駒吉先生は、一旦 大阪へ帰ろうとされた。
すると、増野正兵衛先生から、
「身はおぢばにあって勤めていても 心は半分家に帰っている。
それでは 半分の理である。
すっかり家の事を忘れて 落成までつとめるように」
と、おさしづに基づいた おさとしを受けた。
小松駒吉先生は そのおさとしを受けて、
「家の事は忘れて最後までつとめ切る」心を定めた。
そうしたところ、
かんろだいに参拝をしておわびした時間と同時刻に、
長女の腫物の口が開き、見事に治癒した。
「大工」というご職業もそうですが、
まさしく、ご本席様を彷彿とさせる逸話だという気がします。
今回の勉強を通して、
今の 御津大教会の雄姿は、
小松駒吉先生の変わらぬ誠・誠真実の上に見事に花開いた果実であることを
改めて感じさせて頂いたのでありました。
その他のことも含めて、
今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「御津大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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