Dear everyone,
こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。
今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。
私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)
最新版👇
このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。
前回は、
教会番号32番「御津大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。
今回は、
教会番号33番「城法大教会」について勉強します。
- 城法大教会(しきのり だいきょうかい)
- 「心実組」講社の結成(明治11年〜明治14年頃)
- 「心実組」の広がり(明治14年頃〜明治21年頃)
- 城法支教会の開設(明治25年〜明治26年)
- 市川栄吉2代会長の辞職(明治27年〜明治28年)
- 城法支教会長 後任問題と移転(明治29年〜明治30年)
- 山本藤四郎3代会長の就任(明治29年)
- 城法の発展、分教会への昇格(明治29年〜明治42年)
- 教会改築計画の見直し〜教祖40年祭(大正初期〜大正15年)
- 山本藤四郎3代会長の出直し(昭和初期〜昭和3年)
- 山本芳治郎4代会長の就任(昭和3年)
- 山本芳治郎4代会長時代(昭和3年〜昭和16年)
- 山本正信5代会長時代(昭和16年〜昭和47年)
- 山本久二夫6代会長の就任(昭和47年〜)
- おわりに
城法大教会(しきのり だいきょうかい)
「心実組」講社の結成(明治11年〜明治14年頃)
後年、城法支教会 設置の核となったのは、
大和平野のほぼ中心を東西に走る 柳本箸尾街道、
いわゆる長岳街道に沿う法貴寺、海知、檜垣における信仰であった。この辺り、おぢばに近いことから
庄屋敷の生神様のうわさが 幕末の頃には一円に伝わっていたが、
組織化されるのは
明治11年 中山秀司を講元に おぢばで結ばれた「真明講」の講中が、
法貴寺、海知、蔵堂、小坂の村々におかれたのが 最初であろう。しかし、
はっきりした形で教会設置へとつながっていくのは、
明治14年(1881) 4月
(奈良県) 法貴寺村 前川喜三郎を講元とする「心実組」講社の結成による。前川喜三郎は
文久3年(1863) 妻 たけの 癪から入信し、
中山秀司、辻忠作、仲田儀三郎らと親しく交際して 信仰も深まり、
慶応3年(1867)頃には、
家業も家人にまかせがちに、
村人や親族の冷笑の中を近郷一帯の布教に歩いた。折から 教祖は「みかぐらうた十二下り」を教え終えられた時で、
直接 その振り付けをうけたのも この頃である。「心実組」結成前、
(前川) 喜三郎の他に 布教して歩き その礎を築いたのは、
海知村 美並久五郎、小阪の 松田利平、蔵堂の 増田忠八、海知の 沢田権次郎らであった。また、法貴寺の素封家 ・市川重郎平の入信も
講社結成に大きな力となった。更に、
人伝ての不思議なたすけ話に 自ら教祖に教えを聞いた近郷の人々が加わって、
「心実組」講社 結成の運びとなった。
当初は、
法貴寺、海知、檜垣、蔵堂の4ヵ村に 講元・周旋人がおかれた。
「心実組」の広がり(明治14年頃〜明治21年頃)
(心実組)結成 まもない頃、
教祖のもとへ「かぐら面」を献納し、
また、礼拝の目標として「赤衣」を拝戴した。これは、
(奈良県) 式下郡 法貴寺村137番屋敷
市川(重郎平)宅の 別座敷に祀られた。引続き、
法貴寺周辺の 小坂、遠田、武蔵、井与戸、大木、江包に 講社ができ、
明治17年(1884)には 味間、
翌年(明治18年) 上之郷、
次の年(明治19年)には 結崎、田原本、嘉幡、庵治
と 講社結成が続き、
明治21年 4月 天理教会(本部)が認可なった時は、
奈良県 計43講社、信者戸数千有余を数えた。
城法支教会の開設(明治25年〜明治26年)
かかる隆盛をみて、
明治21年 法貴寺 市川(重郎平) 屋敷内に3間に7間の「集談所」の建物を建築したものの、
(全国)各地で教会設置が相次いだのに反し、
「心実組」が (城法支)教会として開設に至るのは
明治25年のことであった。この間の消息を推測するならば、
40に余る講社の大部分が おぢば から10km内外の近在で、
それがため おぢばの「うちらのもの」たる意識が少なからず働いていて、
ことさら教会を設置し 公認を得なければ ということもなかったし、
あるいは
それぞれの講元らが 教祖の直弟子である という自負もあり、
入信の系譜も一筋でないところから 皆の心がまとまらず
教会開設の機運が盛り上がることがなかったから ともいえよう。しかしながら、
明治25年 1月22日(陰曆明治24年12月23日)
「心実講」集談所の月次祭当日、
本部より出張した 喜多治郎吉、地元出身の 鴻田忠三郎、宮森与三郎らが
公認を勧めたため、
前川喜三郎 以下、各講元、周旋人らが相談し、
集談所の建物を 1間建て増して 4間に7間とすることにして、
(教会を設立することで相談がまとまった。)
(そして実際に)
本部へ願い出たのは その翌日(明治25年1月23日)のことであった。同(明治25年) 2月10日 本部の添書を得、
同(明治25年) 3月14日には 奈良県庁の認可がおりた。しかし、
(心実組の初代)会長・前川喜三郎は
本部で 本席詰としての用も多いところから、
「心実組」講社 取締の任にあった 市川栄吉が
教会設立のお許しを受けた早々、後任者となった。
そして、沢田権次郎ら 10名の役員を任命した。市川栄吉は
明治8年頃入信の 父・重郎平の信仰を継いで、
明治21年 2月20日(陰曆正月9日) には「水のさづけ」を拝戴し、
同年(明治21年) 夏には
本部から「心実組」講社 取締に任ぜられていた。
また、
天理教会(本部)設置後 東京から ぢばへ(教会本部)移転の際には
信徒総代として名を連ねてもいた。「城法支教会」の開筵式は
明治26年 3月11日(陰曆正月23日)
初代真柱の臨席をえて、市川栄吉が祭主となり 執行された。
当日の参拝者 700余名、門前市をなして賑わった。この頃、教導職にあったものは 38名を数えた。
市川栄吉2代会長の辞職(明治27年〜明治28年)
(城法支教会) 開筵の頃と時を同じくして法貴寺から三島へ居を移していた
前川喜三郎が、
明治27年(1894) 5月 出直した。後見役のごとく(市川栄吉)2代会長をたすけて 各講社の発展に心を傾けていた(前川)喜三郎を失った 市川栄吉は、
当時、若干31歳だった。31歳という若さから 信仰経験も浅く、
また、教会の成り立ちからみても、
会長として 心を悩ます点が多かった。加えて 教会の出費が大きくなり、家人・親族の反対も激しく、
行先きを案じて 心をいずませることが多くなった。明治28年(1895)夏、(市川)栄吉が病気になった。
おさしづを願うと、
「一つの心の理に治めかえはじめたら、治まったよう定める」
とのお言葉があった。喜多(治郎吉)、宮森(与三郎)は、市川(栄吉)宅に出向き
この おさしづの意を諭したが、
市川栄吉の気持ちに変化は起こらなかった。遂に 市川栄吉は
同年(明治28年) 11月9日(陰暦9月23日) 月次祭当日、
役員集合の席上、会長辞職の申し出をし、
更に 教会建物も (市川宅の)屋敷内より取払うよう求めた。
城法支教会長 後任問題と移転(明治29年〜明治30年)
(市川栄吉の辞意を受け)
役員らは、心を倒しながら 協議を重ねたが、
結論は 容易には出なかった。本部としても この治め方に苦慮したが、
まず 第3号講長 北野元治郎に 檜垣に移転するべく相談をかけ、
次いで
(城法支教会長の)後任を 第2号(後の上之郷大教会) 講長・山本藤四郎とすることとし、
(山本)藤四郎に その内意を伝えた。これら協議の結果に対してお許しの おさしづを受けた上で、
前川宅に集まった役員らは、移転の日取り、準備の相談を行った。(そして)
この問題(=城法支教会長後任問題) が ようやく解決に向かったのは、
翌年(明治29年) 1月10日(陰暦11月26日)の 本部月次祭の日であった。同(明治)29年 1月22日(陰暦12月8日)、
まず 川東村檜垣65番地 岡田善七宅へ仮遷座し、
次いで
北野治平、岡田善七、林田元吉から寄付をうけた 1反5畝余の土地に
法貴寺の(市川宅の)建物を移築。引続き
9間に6間の神殿などの普請をして、
1年後の 明治30年 2月23日(陰曆正月22日) 鎮座を終えた。
山本藤四郎3代会長の就任(明治29年)
山本藤四郎は 明治11年末、
父 (山本)藤五郎の心臓病から入信し、
以後 山坂3里を足繁く おぢばへ通うては 信仰を深め、
鴻田忠三郎と親交を結ぶうち 積極的に布教をし、
また、
「心実組」講社に加入して、
明治18年には「上之郷」講社を結成。
城法支教会 開筵の年(明治26年) 6月には、
早くも 上之郷出張所 設置を願い出ていた。こうした ひたむきな信仰をもつ (山本)藤四郎が (城法支教会の)3代会長に就任して、
(それは) 教祖10年祭を間近に控えて湧き立つ時と 時を同じくしたので、
沈滞していた教勢は 奔流のごとく好転し、
一挙に 10ヵ所の出張所、布教所の設置をみた。(それは) 明治29年のことで、
これらが、今日の「城法大教会」の礎となった。
城法の発展、分教会への昇格(明治29年〜明治42年)
これ(明治29年)から 教祖20年祭(明治39年)までに 10ヵ所、
更に 30年祭(大正5年)までに 13カ所
と 次々に(部内教会の)開設をみたが、
この間、
明治36年(1903) 4月 教祖殿 建築落成を祝い、
明治38年 12月には 三島479番地に 信徒詰所 建築の許しを得、
また、
明治42年 1月には (城法) 分教会に昇格して、
信者戸数も 3,750戸、教師数121名となった。
教会改築計画の見直し〜教祖40年祭(大正初期〜大正15年)
大正年間に入って 3、4年は
第1次大戦により世情不安定で、
その影響もあってか
教祖30年祭が終わると 再び 教勢は沈滞していった。これを一掃しようと
役員らの合議により 教会の大改築が計画され、
普請の用材を購入するなど 計画が軌道にのり始めた矢先、
教祖40年祭が提唱された。山本藤四郎(3代会長) は、
真実を伏込んだ布教活動をおろそかにしたこの普請(計画)に 日頃から反対の立場をとっていたこともあり、
この機会(教祖40年祭活動の打ち出し) に
買入れた用材を おぢばの普請に献納することを主張。
役員らも、結局 これに従って、
大正10年(1921)末からは、用材搬出の ひのきしんに勇み立った。この勇み心に 沈滞ムードは次第にぬぐわれ、
おぢば の拡張整備計画による 詰所移転をはたした。また、
教勢倍加運動の時流にのって 布教活動も かつてないほどに活発となり、
教祖40年祭(大正15年)には
部属教会の設置も 38ヵ所に及んで 合計78ヵ所となり、
(教勢)倍加の 実はあがった。
山本藤四郎3代会長の出直し(昭和初期〜昭和3年)
昭和2年(1927) 4月『心実』を創刊。
同年(昭和2年) 11月、
(大正)12年に「城法教会」と改称していたが
教規規程改正により「城法中教会」と改称された。昭和3年 7月、
山本藤四郎(3代会長) の身上にて 見舞の飯降政甚より、
「道に世上の親子兄弟はなく、誠一つが真の兄弟」
との諭しがあった。この頃は、
折しも、後任会長問題で 部内教会が対立している時であったが、
ここに
梶本宗太郎らとも相談があって、
(城法支教会の)後任会長を 山本芳治郎とし、
(山本藤四郎の)長男・山本福松会長の「上之郷分教会」は
(城法から)分離して 本部直属を願う
ということに決定した。(昭和3年) 7月25日
本部の許しを得て 上之郷以下 19ヵ所を分離し、
城法としては 62ヵ所となった。その5日後(昭和3年 7月30日) 、
(山本)藤四郎が 出直した。(山本)藤四郎の 真実に徹した信仰態度に学ぶというよりも
千里一眼といわれた その時々の諭しの言葉にのみ頼りがちであった 教信者は
茫然自失した。
山本芳治郎4代会長の就任(昭和3年)
同(昭和3年) 9月、4代会長に就任した 山本芳治郎は、
宇陀郡 新向渕在の 飯降文吉の次男で、
青年時代を 本席・飯降伊蔵のもとで過ごし、
25歳のとき 山本藤四郎 長女 うの の婿養子となった。以来 20年間、
(山本藤四郎)3代会長をたすけて「城法」の道に尽くしてきたが、
上之郷分離と (山本)藤四郎の出直という
「城法」にとって 明治27年以来の難局にあたっては、
(山本)藤四郎の遺言を守り、
部内教会一丸となって乗り切るべく 邁進した。
山本芳治郎4代会長時代(昭和3年〜昭和16年)
教祖殿の新築(昭和4年)
(山本芳治郎4代会長は、昭和3年に就任後)
まず、
狭隘であった教祖殿の新築に着手し、
昭和4年 10月22日 落成。
その夜、2代真柱 中山正善祭主にて 鎮座祭が執行された。この日の式典に特筆すべき点は
(2代)真柱の指示によって
教祖在世当時にならい (式典の)服装を おつとめ衣としたことである。
おそらく 復元の式服は 教内で最初の例であろう。
教祖50年祭・立教百年祭活動(昭和5年〜昭和12年)
その翌年(昭和5年)、
教祖50年祭・立教百年祭の打ち出しがあって、
部内教会一体となって 定めた活動方針の実現に立ち働き、
本部神殿、教祖殿の普請の「ひのきしん」にも精を出した。こうして、
開設教会18ヵ所をもって (城法中教会は)両年祭を迎えた。
(教祖50年祭=昭和11年)昭和12年 10月、
「城法」においても 立教百年祭式典を執行し、
その直後から 積年の念願である 神殿建築などの計画を進めた。
しかし、
折から世情の事態が切迫して、再び 立ち消えとなった。
城法大教会への昇格(昭和15年)
昭和15年 1月、
(2代)真柱の臨席を得て、大教会 昇格奉告祭を執行した。その当時の教勢は、次のとおりである。
教会数 80、
教師数、男 336名、女 403名、計 739 名、
信者数、男 1,224名、女 1,723名、計 2,947名。
山本正信5代会長時代(昭和16年〜昭和47年)
翌年(昭和16年) 7月、
役員集会の席上、(山本)芳治郎から 会長変更の意が伝えられた。これによって、
(昭和16年7月)27日、本部の許しを得て、
山本正信が(5代)会長に就任した。(山本)正信は 山本芳治郎の長男で、
昭和5年 本部青年に任ぜられて以後、
北海道、東京、岡山の 各教務支庁 書記などを勤めたが、
青年時代 つぶさに3代会長 (山本)藤四郎の徹し切った信仰生活をみていたので、
かねがね その心を心とするところに「城法」の道は開ける と考えていた。
城法大教会の戦後復興(昭和20年〜昭和25年頃)
間もなく終戦となり、
天理教の受難の時が過ぎて「復元」が打ち出された。(山本)正信(5代会長)は、
戦災教会や活動の十分に出来ない教会の復興のため 自ら足を運び、
戦時中の長い間行き届かなかった部内教会の修理育成に 率先して尽力した。会長として当然のことであったとはいえ、
伝統的に芯に添い切ることのなかった教会内に一手一つの心がみなぎり、
役員らは 会長の手足となるべし と一致団結した。
創立60周年記念祭前後(昭和26年〜昭和27年)
昭和26年(1951) 1月、春季大祭 祭典後、
(山本)正信(5代会長)は、
創立60周年記念祭を執行するにつき、
今までの遅れのおわびのためにも一層の努力を と呼びかけた。同月(1月)28日の 250名の初席者団参を皮切りに
部内一同勇み立ち、
翌年(昭和27年) 5月4日の参拝者は 4,000余を数えた。
(創立60周年)記念祭までに 別席者1,015名、修養科263名、
新設教会も14ヵ所を数えて 合計95ヵ所となった。
教祖70年祭活動(昭和28年頃〜昭和31年)
教祖70年祭打ち出し後、
城法として 別席者団参を定期的に行うことになり、
当初は 年4回、年6回と続いて、
昭和30年からは 毎月の実施となった。また、
おぢば 整備に伴ない 都市計画道路・北大路線が 詰所南側に建設されるのを機会に、
詰所の増改築を行い、昭和29年 4月 新館が落成した。同(昭和)30年 4月『連絡報』を創刊。
(教祖70年祭=昭和31年)
城法大教会、待望の移転建築の実現(昭和32年頃〜昭和47年)
初席者を中心とした 月々の別席者団参は (教祖)70年祭後も続けられたが、
その当初から 交通不便の(城法)大教会への参拝は、
バス団参が恒例のこととなっていた。しかし、
檜垣村の南に位置する教会まで、
村中の家並の間を抜けて大型のバスは入ることができず、
相当の距離を歩かざるを得なかった。かねてから 念願の神殿建築を含む大改築のこともあり、
いっそのこと バスの入るところへ移転しよう という声が高くなった。(そのような折)
2、3の候補地の中から、
櫟本町の東の 小高い丘一帯を世話しようというものがあって、
移転の話が急速に進展した。
昭和33年のことであった。120余の所有者からの買収は 類例のないほど順調に進んだものの
(それは) 前後3ヵ年(の長期)にわたり、
(また) 80年祭の打ち出しもあったことから(思いの他 時間がかかり)、
昭和38年 5月 食堂棟に仮神殿を設け、
(ようやく) 檜垣から櫟本へと移転した。その工事期間には
敷地内の古墳から 国宝級の埋蔵物が発掘されたりして、
連日繰り出されていた ひのきしんの人々は もとより大いに喜び、
2代真柱も 2度3度 足を運び 視察した。昭和44年 4月 『心実』が復刊した。
同年(昭和44年) 8月には いよいよ神殿建築が着工となった。
(ふしん情報を周知すべく)
翌月(昭和44年9月)『ふしん月報』が創刊された。昭和46年 5月、『月報しきのり』創刊。
(神殿ふしんの) 着工に至るまで、
教えにふさわしい明るく陽気な神殿を
という5代会長 山本正信の理想に基づき、
設計図は 数次にわたって 書きかえられた。神殿建築が佳境を迎えた頃、
新神殿には新会長を、という(山本正信)5代会長の思いもあり、
昭和47年 2月、山本久二夫が6代会長に就任した。昭和47(1972) 年、
城法大教会の新神殿は、
現真柱(編者註:3代真柱) から「山辺里」と名付けられた 櫟本の町並を見下ろす高台に、
見事に完成した。昭和47年 4月、
理想通り出来あがった神殿の落成奉告祭と共に、
(城法大教会)創立80周年、更に
同年(昭和47年) 2月に (6代)会長に就任した 山本久二夫の就任奉告祭、
それらが 併せ執行された。
山本久二夫6代会長の就任(昭和47年〜)
山本久二夫(6代会長)は、
高知大教会 2代会長・島村国治郎の次男に当たり、
昭和30年 養子縁組 整うて 山本家の人となった。おちば に勤めることが多かったが、
(城法大教会の)神殿ふしんが始まるや、
ふしん委員長として 部内の督励に当たった。(昭和47年4月の)
(神殿落成 & 創立80周年 & 6代会長就任) その奉告祭の直前、
前年 (昭和46年) 打ち出しのあった おさづけ人団参が行われ、
心定め通りの 500人の おさづけ拝戴者 が生まれた。これは 前代未聞の団参であり、
それは教内の注目を集め 大きな話題となった。「全人類のおぢばがえり」を掲げて教祖90年祭をつとめ終えた今 (編者註:『天理教事典』1977年版出版当時)、
「城法」は、
明るく陽気な神殿にふさわしい成人をとげようと、
山本久二夫6代会長の おぢば一筋の思いを胸に、
世界たすけを目指して、更なる力強い歩みを進めているところである。〔現住所〕〒632-0004 奈良県天理市櫟本町2525番地の1の1
〔電話〕0743-65-0281(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑』昭和50年度版)
(『天理教事典』1977年版 P,392〜395)
おわりに
天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。
33回目の今回は、
「城法大教会」初期の歴史を勉強しました。
当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。
とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…
しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】33回目の当記事では
『天理教事典』の中の「城法大教会」についての記述を書き写して勉強しました。
自分の頭を整理するために、
『天理教事典』に書かれた「城法大教会」の歴史を
箇条書きにしてみます。(敬称略)
【城法大教会の歴史】
- 明治11年 中山秀司を講元に おぢばで結ばれた「真明講」の講中が、
おぢばに近い法貴寺、海知、蔵堂、小坂の村々におかれた。 - 文久3年(1863)、前川喜三郎は、妻 たけの 癪から入信し、
中山秀司、辻忠作、仲田儀三郎らと親しく交際して 信仰も深まった。
慶応3年(1867)頃には、家業も家人にまかせがちに、村人や親族の冷笑の中を近郷一帯の布教に歩いた。 - 同じ頃、海知村 美並久五郎、小阪の 松田利平、蔵堂の 増田忠八、海知の 沢田権次郎らも布教に歩き、また法貴寺の素封家 ・市川重郎平も入信し、この周辺の信徒が増加していった。
- 明治14年 4月、近郷一帯の信徒を統合する形で、 奈良県 法貴寺村の前川喜三郎を講元とする「心実組」講社が結成された。
- 「心実組」結成後、教祖より礼拝の目標として「赤衣」を拝戴したので、
これを、奈良県式下郡 法貴寺村137番屋敷 市川(重郎平)宅の 別座敷に祀った。 - 「心実組」内に次々と講社ができ、道が広がったので、
明治21年 法貴寺 市川(重郎平)屋敷内に 3間に7間の「集談所」の建物を建築した。 - 明治21年 4月 天理教会本部公認後に各地で教会設置が相次いだのに反し、
「心実組」では、内部からの教会開設の機運が盛り上がることはなく、
講社結成の歴史の古さの割には、他の教会に比べて教会設置は遅いものとなった。 - 明治25年 1月22日(陰曆明治24年12月23日) 「心実講」集談所の月次祭当日、
本部より出張した 喜多治郎吉、地元出身の 鴻田忠三郎、宮森与三郎らから 教会設置を勧められ、
前川喜三郎 以下、各講元、周旋人らが相談し、
集談所の建物を 1間建て増して 4間に7間とすることにして、教会を設立することで相談がまとまった。 - 明治25年 2月10日 本部の添書を得、同(明治25年) 3月14日に奈良県庁の認可がおりた。
明治26年 3月11日(陰曆正月23日) 城法支教会の開筵式が執行された。 - 城法支教会の母体である「心実組」の前川喜三郎講元は、
本部の用が多いということで、
「心実組」講社 取締の任にあった 市川栄吉(当時31歳)が、
城法支教会の会長(2代会長)をつとめることとなった。 - 明治27年 5月、前川喜三郎 初代会長が 出直した。
- 後見人を失った市川栄吉2代会長は、
31歳という若さもあり、会長として心を悩ませることが多くなった。
加えて 教会の出費が大きくかさむようになり、家人・親族の反対も激化。
行先きを案じて 心をいずませることが多くなった。 - 明治28年11月9日(陰暦9月23日) 月次祭当日、
ついに、市川栄吉は、役員集合の席上、会長辞職を申し出た。
更に、教会建物も 市川宅の屋敷内より取払うよう 求めた。 - 市川栄吉の辞職に伴い、役員らは 本部とも相談しながら 事態の収拾を模索。
その結果、「心実組」第2号(後の上之郷大教会) の講長・山本藤四郎を 城法支教会長の後任会長とすることで 相談がまとまった。 - 明治29年 1月22日(陰暦12月8日)、法貴寺の市川栄吉宅にあった教会を、
まず 川東村檜垣65番地 岡田善七宅に神様の仮遷座を行い、
次いで 北野治平、岡田善七、林田元吉から寄付をうけた1反5畝余の土地に、建物を移築した。
引続き、その土地に 9間に6間の 神殿などの普請をした。
そして、1年後の 明治30年 2月23日(陰曆正月22日)に 正式に神様の鎮座を行った。 - 心実組第2号(上之郷)講社の講長をしていた山本藤四郎が「城法支教会」の3代会長におさまってから、城法支教会の教勢は大きく飛躍した。
- 明治36年 4月、教祖殿 建築落成。
- 明治38年 12月、三島479番地に 信徒詰所 建築のお許し。
- 明治42年 1月、支教会から 城法分教会に昇格。
- 教祖30年祭後、教勢の沈滞を挽回すべく役員らの合議により 教会の大改築が計画され、普請の用材を購入するなど 計画が軌道にのり始めた矢先、教祖40年祭が提唱された。
山本藤四郎3代会長は、教祖40年祭活動の打ち出しを受け、教会改築用に買入れた用材を おぢばの普請に献納することを主張。
役員らもこれに従って、教会改築計画は中止となった。
大正10年(1921)末からは、用材搬出の ひのきしんに励んだ。 - 教勢倍加運動の時流にのって 城法分教会でも布教活動がかつてないほどに活発となり、教祖40年祭(大正15年)には、教勢が大きく伸展した。
- 昭和2年 11月、教規規程改正により「城法中教会」と改称。
- 昭和3年 7月、山本藤四郎3代会長の身上に際し、
飯降政甚より「道に世上の親子兄弟はなく、誠一つが真の兄弟」との諭しがあった。
後任会長問題で 部内教会が対立している時であったが、
梶本宗太郎らとも相談の結果、城法支教会の後任会長を 山本芳治郎とし、山本藤四郎の長男・山本福松会長の「上之郷分教会」は 城法から分離して 本部直属を願う、
ということに決定した。 - 昭和3年 7月25日、本部の許しを得て 上之郷以下19ヵ所が分離独立した。
城法は 62ヵ所となった。 - 昭和3年 7月30日、山本藤四郎3代会長、出直し。
- 昭和3年 9月、山本芳治郎4代会長就任。
- 昭和4年 10月22日 教祖殿落成。同夜、鎮座祭。
- 昭和12年 10月、城法において 立教百年祭式典を執行。
その直後から 積年の念願である神殿建築などの計画を進めたが、折から世情の事態が切迫して、再び 立ち消えとなった。 - 昭和15年 1月、城法大教会へ昇格。奉告祭執行。
- 昭和16年 7月、役員集会の席上、山本芳治郎4代会長から 会長変更の意が伝えられた。
昭和16年7月27日、山本正信5代会長就任。 - 昭和20年の終戦後、山本正信5代会長の丹精もあり、城法は一致団結して復興に励んだ。
昭和27年 5月4日の創立60周年記念祭の参拝者は 4,000余名を数えた。 - 教祖70年祭打ち出し後、城法として 別席者団参を定期的に行うことになり、
当初は 年4回・年6回と続いて、昭和30年からは 毎月の実施となった。 - 昭和29年 4月、おぢば 整備に伴ない 都市計画道路・北大路線が 詰所南側に建設されるのを機会に、詰所の増改築を行い、新館が落成した。
- 積年の願いであった、神殿の移転建築が、昭和33年頃からようやく本格化し、様々な紆余曲折を経て、昭和44年8月には ようやく神殿建築の着工にこぎつけた。
- 昭和47年 2月、新神殿には新会長を、という山本正信5代会長の思いもあり、
山本久二夫が6代会長に就任した。 - 昭和47年 4月、神殿落成 & 創立80周年 & 6代会長就任の奉告祭、執行。
以上、『天理教事典』1977年版「城法大教会」解説文を箇条書きにしてみました。
今回、「城法大教会」解説文の書き写しを行って 私が一番心に残ったのは、
(城法大教会史の本流からは少しはずれた部分かもしれませんが…)
市川栄吉2代会長の動向でした。
市川栄吉2代会長は、
お道の初期である明治8年頃に入信のしていた 父・市川重郎平の信仰を受けて
お道に関わりを持たれることになられたわけですね。
法貴寺周辺の講社をまとめて 前川喜三郎先生を講元とする「心実組」講社が結成された際、
市川家は 素封家であったこともあり、
その屋敷内に「集談所」の建物が建築された。
父親が熱心な信仰者で、【自宅】の屋敷内に講社が設立されたわけですから、
自然と、息子である市川栄吉先生は
初代である前川喜三郎 講元をたすけて
「心実組」講社の取締の任に当たるようになられたのでありましょう。
そしてその「心実組」が【城法支教会】となった。
『天理教事典』1977年版には以下のように記述されています。
(明治21年 4月 天理教会本部が公認された後)
各地で教会設置が相次いだのに反し、
「心実組」が (城法支)教会として開設に至るのは
明治25年のことであった。(=遅かった)この間の消息を推測するならば、
(『天理教事典』1977年版 P,393)
40に余る講社の大部分が おぢば から10km内外の近在で、
それがため おぢばの「うちらのもの」たる意識が少なからず働いていて、
ことさら教会を設置し 公認を得なければ ということもなかったし、
あるいは
それぞれの講元らが 教祖の直弟子である という自負もあり、
入信の系譜も一筋でないところから 皆の心がまとまらず
教会開設の機運が盛り上がることがなかったから ともいえよう。
すなわち、
「心実組」当事者の皆さんは、
講社から「教会」へ衣替えする必要性を感じていなかった。
しかし、明治21年4月に天理教教会本部が公認されて、
お道の中に “「教会」設立すべし” という全体的なムーブメントが起きていた。
そして、ご本部から “教会になろうよ” と直接お声かけを頂いた。
それを受けて、
「心実組」も「教会」(=城法支教会)になることにした。
これは全くの想像に過ぎませんが、
「心実組」の皆さんは、もしかしたら
「別に今のまま(=講社のまま)で いいんだけどなぁ…」
と 思っていたのかもしれない。
この想像を延長していくと、
市川栄吉先生が会長職の辞任を申し出た経緯が
(あくまで想像に過ぎませんが)
一つのストーリーとして浮かび上がってきます。
私には、そのストーリーが
現代的な言葉で言うところの「信仰二世問題」的に見えて、
それは、
親が教会長をつとめた関係で 自分から求めたわけではなく流れの中で何となく教会長をつとめることになった自身の境遇と重なるものを感じることもあり、
明治28年 11月9日(陰暦9月23日) の月次祭当日、
役員集合の席上で【会長辞職】の申し出をし、
更に 教会建物も 市川宅の屋敷内より取払うよう求めた 市川栄吉先生の心の痛みが、
他人事ではなく、まるで自分ごとのように
心に響くのでありました。
ちょっと不謹慎かもしれませんが、
以下、少しだけ
その当時の市川栄吉先生の心境についての「妄想」を綴らせてもらいます。
市川栄吉先生は、
父親が熱心で、自宅敷地内に「心実講」という講社があるし、
自然な流れで、講社の実務を取り仕切るようになった。
そうした中、道の動きとして “講社から教会へ” という流れが出てきた。
それで、自分が実務を取り仕切っている「心実講」も
「城法支教会」という【教会】へ衣替えすることとなった。
市川栄吉先生は「城法支教会」という形に変わった後も、
前川喜三郎講元を支えて教会の実務に励んでいこうと思っていた。
(注:このあたりは、完全に ブログ主の想像です)
そうしたところ、
初代である前川喜三郎先生が、
本部で 本席詰としての用も多いから…との理由で、
教会設立のお許しを受けた早々、市川栄吉先生に
“おまえ「城法支教会」の会長をやってくれ”
と頼まれた。
市川栄吉先生は、当時まだ31歳と年が若い。
「エェッ! まだ早いよ!」と、とまどいながらも、
この教えの素晴らしさも感じていただけに、とまどいつつも引き受けた。
(注:このあたりも、完全にブログ主の想像です… (^^ゞ )
市川栄吉先生は 流れの中で教会長を引き受けたものの、
もともと、近場の講社をひとまとめにして出来た教会で、
講社ごとに空気も違うし 意見も異なる。
それをまとめていくには、
31歳の若輩者である自分には キツイ… もう無理だ…
そう思われるに至ったのではないか。
そのようなストーリーが
私の中で出来上がるのであります。
そして、そのような勝手に作り上げたストーリーにハマって、
私は、
市川栄吉先生がそのような行動をとられたのも 無理からぬこと、
さぞかし苦悩されたのだろうなぁ…
と、勝手な同情心に 包まれるのでありました。
しつこいかもしれませんが、
以上は、完全に個人的な想像(妄想)です。
市川栄吉先生の経歴の部分を書き写しながら こみ上げてきた思いを、
何だか書かずにはおれない気持ちになって、
つい書きあげたのでありました…
もしかしたら、
関係者の方々からすると、それは全く見当違いだ!と感じる部分があるかもしれません。
いや、きっとあるでしょう。
しかし、これは、
何と言っても、常々 思考が偏っていると周囲から白眼視される「さまよい人」の戯言です。
どうぞ上手に受け流して下さい。
もしも、不快な思いをされた方があるならば、
深くお詫びを申し上げます。m(_ _)m
今回の「おわりに」では、
城法大教会初期歴史の勉強の中でも、自分が気になった部分ばかり掘り下げしてしまいましたが、
書き写しを通して、他にも、
山本藤四郎3代会長が教祖40年祭活動の打ち出しを受け、教会改築用に買入れた用材をおぢばの普請にすべて献納した話や、
長年の課題であった神殿の移転建築が 様々な紆余曲折を経てようやく実現できた話など、
城法大教会の 多くの貴重な歴史を知ることが出来ました。
とても勉強になりました。
いずれにしても、
今回もまた、知らなかった多くのことをいろいろと知ることができて、
本当に有難いことでした。
「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――
だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。
ということで――
今回は「城法大教会」初期の歴史の勉強でした。
人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。
ではでは、今回はこのへんで。
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