天理教 各教会の歴史探索(第40回)【西陣大教会】『天理教事典』より

「西陣大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号39番「浅草大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号40番「西陣大教会」について勉強します。

  1. 西陣大教会(にしじん だいきょうかい)
    1. 西陣大教会の始まり(明治24年)
    2. 初代会長 永尾泰徳の入信(明治19年)
    3. 斯道会第24号集談所の開設(明治20年〜明治22年)
    4. 支教会設置へ向かう情熱の高まり(明治22年頃)
    5. 西陣支教会の設立(明治23年〜明治24年)
    6. 永尾菊子初代会長夫人と義兄の出直(明治28年)
    7. 飯降伊蔵本席お入込み〜初代会長の再婚(明治28年〜明治29年)
    8. 布教者支援組織「旅行会」の創設(明治29年頃〜明治37年)
    9. 西陣分教会への昇格(明治23年〜明治24年)
    10. 永尾徳三郎の帰会〜2代会長就任(明治24年頃〜大正8年)
    11. 永尾泰徳初代の会長退任後(大正8年〜昭和19年頃)
    12. 西陣分教会の移転建築(大正9年頃〜大正14年)
    13. 西陣分教会の発展(大正15年頃〜昭和5年頃)
    14. 教祖殿の建築(昭和10年〜昭和11年)
    15. 西陣大教会への昇格(昭和13年〜昭和15年)
    16. 大教会昇格奉告祭における2代会長の身上ご守護(昭和15年春)
    17. 永尾徳三郎2代会長の出直(昭和15年冬)
    18. 永尾トク3代会長の就任〜太平洋戦争(昭和16年〜昭和20年頃)
    19. 永尾泰徳初代会長の出直〜創立60周年記念祭(昭和20年〜昭和26年)
    20. 永尾隆徳4代会長就任〜教祖80年祭(昭和34年〜昭和41年)
    21. 成人舎、親成館の建築〜創立80周年記念祭(昭和44年〜昭和46年)
    22. 教祖90年祭活動(昭和48年頃)
  2. おわりに
スポンサーリンク

西陣大教会(にしじん だいきょうかい)

西陣大教会写真Facebookより①
天理教西陣大教会Facebookより

西陣大教会の始まり(明治24年)

西陣大教会 (京都市北区衣笠大祓町49番地) の創立は、
今を去る80有余年の昔、
明治24年(1891) 4月18日であり、
初代会長・永尾泰徳の白熱の信仰によって
その歴史は始まる。

初代会長 永尾泰徳の入信(明治19年)

生まれつき温厚で 自らに厳しい永尾泰徳は 
学問を好むと共に 信仰心も大層篤かった。

明治19年 4月、
弟・(永尾)義太郎が 俄かにパラチフス病で重態に陥った時、
天理教河原町大教会 (深谷源次郎)初代会長の導きにより 信仰し始めた。

(永尾)義太郎の病気は
不思議な御守護により 全快した。

永尾泰徳は いたく感激し、
信仰は 一段と深く広く 大きく伸び進み、
教会創立の機運へと進んでいった。

斯道会第24号集談所の開設(明治20年〜明治22年)

元来、永尾家の家業は 織物業であったが、
その大半を妻や弟たちに任せながら、
初代・(永尾)泰徳は
毎日 熱心に布教伝道に歩いた。

そして、遂に
明治20年 8月5日、
京都市上京区寺の内通大宮西入大猪熊町85番地において
斯道会第24号 集談所の開設を見るに至った。

永尾泰徳は (弟の)義太郎と力を合わせ、
心を尽くして布教に奔走し、
更に 部内集談所2ヵ所が結成されたので、
明治22年 3月1日
「神道直轄 天理教会之第24号 連合集談所」
の看板を掲げ、開設式を挙げた。

支教会設置へ向かう情熱の高まり(明治22年頃)

世間の烈しい反対攻撃の中、
救けられた人々は 漸次増加し、
不思議な親神の守護を見るにつけて、
永尾泰徳をはじめ 信者の胸の中には 
教会設置を願うようになった。

ある日、永尾(泰徳)は 
友人の結成した教会の開筵式に招かれた。

その帰路、
同行した役員の誰言うとなく
「西陣も なんとかして一日も早く普請をして教会を、それも 支教会を建てたいものだ」
との話が持ち上がり、
そうだ、しっかりやろう との 一同の意気が昂然として 一致したのである。

思えば、
「西陣支教会」の設置も普請も
この時の意気と一致した精神の上に 芽生えてきたのである。

西陣支教会の設立(明治23年〜明治24年)

明治23年の暮、12月18日の朝、
東側隣家に火災が起こった。
幸い 類焼は免れたが、危ない所であった。

ところが、
この家屋敷が 永尾泰徳の妻・菊子の父の所有のものであったので、
教会敷地として 譲り受ける話合いが とんとんと進んだのである。

そして、
翌(明治24年) 2月から 引き続き 普請の相談が起こり、
普請金の積立が 議決された。

信者の間には
いかなる障碍があろうとも それを乗り越えて…
という 悲願にも似た意気と力とが燃え立っていた。

一方、
支教会設置の出願書の作成にも取りかかり、
明治24年(1891) 4月18日
「西陣支教会」設置の許しを受けた。

その後、
建築の準備も着々と進み、
信者所有の山林からは 材木の寄付を受け、
石材や竹材など 各方面より寄付があり、
延150人近い熱心な信者たちの ひのきしん があった。

もとより資金あっての普請ではなく、
信仰の熱と気力で これまで邁進してきたのである。

だから、
幾多の金銭上の問題が 永尾泰徳を悩ました。

しかし、その都度、
親神の庇護の下に難関を切り抜け、
遂に、
同年(明治24年) 11月15日には 盛大な開筵式を執り行い、
永尾泰徳は (西陣)支教会長に就任した。

初代会長・永尾泰徳をはじめ 役員一同の喜びは 
いかばかりであったろうか。

永尾菊子初代会長夫人と義兄の出直(明治28年)

しかしながら、ここに
教会にとって、また (永尾泰徳)初代会長にとって
試練の時が訪れた。

明治28年 7月7日、
(永尾泰徳)初代会長夫人・菊子が、
突然、かりそめの病のために出直した(のだ)。

11歳を頭に 6人の子供、
しかも
末の子は生まれたばかりであった。

つづいて
信仰の始め頃から片腕となって活躍した
義兄の 突然の出直に遭った。

(永尾泰徳) 初代会長は
人間の思案と神のさしづ、
この両者を比較して 神の思召の重いことを悟って、
この難局を契機として 
悲嘆の涙を拭い「神一条」となるべく家業を廃止、
名実ともに 教会一本立の姿に 雄々しく立ち上がった(のだった)。

飯降伊蔵本席お入込み〜初代会長の再婚(明治28年〜明治29年)

(西陣)支教会設置後 5年目の秋、
(明治28年) 11月23日 飯降本席が来会した。

信者一同の喜びは その頂点に達し、
信仰信念は 益々高まっていった。

明けて 明治29年 12月11日、
(永尾泰徳)初代会長は 志賀子と再婚、
ここに 久方ぶりに 
陽気に満ちた教会と家庭の姿が 再現されたのである。

布教者支援組織「旅行会」の創設(明治29年頃〜明治37年)

同時に、
また一方にあっては 布教伝道熱は高まり、
それを志す人々の手は 次第に伸び広がった。

京都市内はもちろんのこと 東に西に大勢の布教者が、
あらゆる悪条件を乗り越えて (西陣)支教会発展の礎を築いた。

これら布教者の経済的援助を目的として
「旅行会」という組織がつくられ、明治37年まで 継続された。

これは (西陣)支教会にとっては 誠に頼もしく、
また
これ程明るい 希望を持たせるものはなかった。

西陣分教会への昇格(明治23年〜明治24年)

明治41年、
天理教一派独立という 躍進の時が訪れた。

西陣支教会も、これに伴い 
翌 明治42年「西陣分教会」と昇格改称し、
(永尾泰徳)初代会長が 分教会長に就任した。

当時すでに 部内教会8ヵ所が設置され、布教も活発であった。

永尾徳三郎の帰会〜2代会長就任(明治24年頃〜大正8年)

更に加えて、
(永尾泰徳)初代会長の長男・徳三郎 (後の2代会長) が 
おぢばでの学業を終えて 教会へ帰った。

(永尾)徳三郎は、
(永尾泰徳)初代会長の手足となって 布教の第一線に立つとともに、
部内教会の巡教に、
また 西陣青年会を組織して 
雅友会、史料集成活動、幻燈会、音楽隊、子供会
などの文化活動にも力を注いだ。

(永尾)徳三郎は、大正元年(1912) 12月14日、
奥田トクと結婚。

大正8年 9月5日、
(永尾泰徳)初代会長は、
高齢のため (永尾徳三郎2代会長へ) その職を譲った。

この時、部内教会は21ヵ所であった。

永尾泰徳初代の会長退任後(大正8年〜昭和19年頃)

その後、(永尾泰徳)初代会長は、
河原町大教会役員宅に居を移して、ひたすら上級教会のつとめに専念、
昭和19年 4月18日には 本部准員に登用された。

西陣分教会の移転建築(大正9年頃〜大正14年)

かくする中にも 信者の増加に伴い、
建物が狭隘となってきたので 教会の移転建築の話が起こった。

(永尾徳三郎)2代会長を中心として 移転地購入の運動が開始され、
満2ヵ年を要して、敷地1,380 坪を入手し、
建築にかかった。

大正13年 1月14日 教会本部の許しを受け、この普請にかかり、
大正14年 5月7日、新築落成奉告祭を 盛大に執行した。
これが 現在地、
京都市北区衣笠大祓町49番地である。

西陣分教会の発展(大正15年頃〜昭和5年頃)

大正15年、教祖40年祭を迎えるに当たり
教会の倍加運動が全国的に澎湃として起こり、
西陣分教会の教線も著しい発展をみた。

更に
昭和5年(1930) 10月、
教会本部より 教祖50年祭、立教百年祭に関する発表があり、全天理教の進むべき目標が確定され勇躍したのであった。

教祖殿の建築(昭和10年〜昭和11年)

かかる時、親神のいかなる思召であろうか、
昭和10年 2月11日、(永尾徳三郎)2代会長が
ふとした風邪が日に日に重く(なり) 熱のため臥床した(のだった)。

その後、病状は一進一退(の経過をたどり) 
安心は出来なかった。

この時、(永尾徳三郎)2代会長の胸に浮かんだのは
教祖殿建築のことであった。

思えば10年前(大正14年)、
新築なった神殿に親神を御遷座申し上げたが、
その折には 教祖殿は まだ建てるには至らなかった。

以来、今日まで 
そのことが 常に 心に重くかかっていたのである。

(永尾徳三郎)2代会長は、早速 (その件を)役員会議に付した。
そうしたところ、
満場一致で 教祖殿建築の件が可決された(のだった)。

幸いにも 敷地については、
以前に 北側隣接地150坪を入手していたので
準備はただちに出来上がり、建築が始められた。

(その後)
(永尾徳三郎)2代会長の身体は、追々快方に向かい、
夏頃には、以前より元気な程に 良くなったのである。
(そして)
昭和11年 10月19日
教祖殿落成奉告祭が 感激裡に執行された。

西陣大教会への昇格(昭和13年〜昭和15年)

昭和13年 12月26日、
天理教は「諭達」第8号をもっての革新を 断行した。

昭和14年 12月30日、(永尾徳三郎)2代会長は
突然、河原町大教会長の招きを受けた。
(そして) その席上、
大教会昇格 という話をうけた(のだった)。

役員、直轄教会長一同は、この報に喜び、
ありがたく受けることに一決した。
(そして)
昭和15年 1月25日、大教会昇格のお許しを受けた。
この時、部内教会は55ヵ所であった。

ただちに 詰所が 河原町詰所内に併置され、
詰所事務も開始された。

そして、同年(昭和15年) 5月17日、
(大教会)昇格奉告祭 並びに 創立50周年記念祭を、
2代真柱の初めての臨席を受けて 感激裡に執行した。

大教会昇格奉告祭における2代会長の身上ご守護(昭和15年春)

ここで特筆すべきことは、
奉告祭準備の真最中、
(永尾徳三郎)2代会長の身体に 異変が起こった(ことである)。

それは、祭典を目前にした 5月に入った時(のこと)、
(永尾徳三郎)2代会長が、マラリヤ病と診断された(のである)。

役員信者の狼狽は一方ならず、(永尾泰徳)初代会長も、
「お前が出られなければわしが出てやる」
とまで言った程で、
祭典をつとめることは 医者も無理だと言った。

しかし、(永尾徳三郎)2代会長は
「死んでも勤めさせて頂く」
と 固い決心を示した。

すると、不思議なことに、
祭典の前日には 熱が下がり 平常の健康状態となったのであった。

一同は 喜びとともに、大いに驚いた。
(そして)
神に仕えることの厳しさと、また 有難さを 身にしみて 知らされた(のであった)。

永尾徳三郎2代会長の出直(昭和15年冬)

(そのような大節を乗り越え、一同胸をなでおろしたのも束の間)
この年(昭和15年)の秋、
(永尾徳三郎)2代会長を 3回目の大患いが襲った。

大教会(へ)昇格後 半年(経過して)、
教会内容も充実拡張し、
益々 多事多用の一途をたどる時であったので、
役員一同の心配は 深まるばかりであった。

(しかし 一同の祈りもむなしく、永尾徳三郎2代会長は)
同年(昭和15年) 12月16日、
54歳をもって 遂に 出直した(のだった)。
家族はもちろん、(西陣)大教会にとっては
大黒柱を失い、大きな打撃であった。

永尾トク3代会長の就任〜太平洋戦争(昭和16年〜昭和20年頃)

しかし、教え子達は 
やがて、悲しみの中から立ち上がった。

2代会長夫人・トクが、3代会長として就任したのは、
昭和16年 2月4日であった。

この年(昭和16年)の暮れには 太平洋戦争が勃発、
戦争は熾烈化し、
大教会の諸用務も 少数の婦人によって 勤められねばならなかった。

(永尾トク)3代会長は、
女の身として 自らを鞭打ち、精魂を傾け 教務に励んだ。

この戦争で 部内教会15ヵ所が 戦火の灰と化した。
戦争は 日本の敗戦で終わった。

永尾泰徳初代会長の出直〜創立60周年記念祭(昭和20年〜昭和26年)

折りも折、
昭和20年11月19日の早朝、
(永尾泰徳)初代会長が
88歳の高齢を以って、
幾多の輝かしい業績を残し、
60年の長い信仰生活を閉じた(のだった)。

昭和21年、教祖60年祭が執行され
「復元」が提唱された。

新時代の訪れを迎え、
天理教にとっても
特に 青壮年層による実動的な布教体制が必要となった。

西陣でも、
ここに再び 西陣青年会員による具体的活動が始まった。

新たに「陽睦会」という若人の会をつくり、
各種の文化活動をもって 若い人々への積極的な布教を開始したのである。

昭和26年 11月23日には 創立60周年記念祭を執行、
この時 部内教会は 65ヵ所となった。
この記念祭には 詰所建築を行い、
昭和28年 10月3日 完成した。

永尾隆徳4代会長就任〜教祖80年祭(昭和34年〜昭和41年)

昭和34年 1月26日、
4代会長に永尾隆徳が就任。
5月22日、(4代)会長就任奉告祭を執行した。
この時部内教会は78ヵ所であった。

3代会長 (永尾)トクは、
この年(昭和34年) 4月1日付をもって、
本部神殿おたすけ係の任命をうけた。

昭和41年 1月、教祖80年祭が執行され、
(西陣)大教会においても、4月14日、教祖80年祭を執行した。
この時、参拝者は1,000人を越え、
賑やかに年祭の喜びにひたった。

成人舎、親成館の建築〜創立80周年記念祭(昭和44年〜昭和46年)

(西陣)大教会の付属建物の損傷 甚だしいところから、
教職舎と信者会館の建築を決め、普請の手順を整え、
建物の永久性を考慮して 鉄筋コンクリート建のものとして着工、
昭和44年 これを完成、
それぞれ 成人舎、親成館と名付けた。

昭和46年 10月30日、
創立80周年記念祭を執行した。
参拝者は 2,500名を数え、
教会設立の元一日を偲んで、
来たるべき教祖90年祭を目標に、
一層 心を定めて前進することを誓い合った。

教祖90年祭活動(昭和48年頃)

昭和48年 1月26日、「諭達」第2号が発表され、
年祭活動「三年千日」の実動に入った。
(西陣)大教会として、
年祭活動の第一歩に 詰所増築の件を決定した。
おぢば帰参者の受入態勢の準備である。

本部から母屋として許しを受け、
教信者一同の真実により、同年(昭和48年) 7月22日、
第37母屋(天理市川原城町101番地) は竣工した。

思えば、今を去る80有余年の昔、
京都の乾の一隅に芽を出した一粒の種は、
(京都)市内はもちろん、
東京、河内、但馬と枝を伸ばし、
更に 東北、北海道、九州へと広がり、
果ては アメリカ、ブラジルにまで飛んで、
その種子は (次々と) 新芽を出している。

〔出版物〕
『道すがら』(昭和27年1月)
『西陣』(月刊)

〔現住所〕〒603-8351  京都市北区衣笠大祓町49番地
〔電話〕075-461-7952

(昭和50年12月31日調『天理教統計年鑑」昭和50年度版)

(『天理教事典』1977年版 P,654〜656)

おわりに

西陣大教会GoogleMapよりより①
GoogleMapより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

40回目の今回は、
「西陣大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

西陣大教会Googleストリートビューより①
Googleストリートビューより

天理教 各教会の歴史探索シリーズ】40回目の当記事では
『天理教事典』の中の「西陣大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

西陣大教会は、河原町大教会から分かれた大教会ですね。
河原町大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

天理教青年会秩父分会「ひとすぢ」斯道会に繋がる青年会斯道会「大教会系統樹」.jpg より

『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) という本の中に
西陣大教会の永尾泰徳初代会長に関する記述がありましたので、後学のために書写致します。

西陣の永尾泰徳(徳松)は
明治十九年、弟 義太郎がパラチフスになった時、
手代の杉山駒吉より道の信者を紹介された。

斯道会六号 講元の細川伊助で、
彼は以前も 永尾家からおたすけの依頼があったが、
全快したと断ってきたことがあったので、
「よう行かん」と拒絶した。

(杉山)駒吉は
この神様の もう一つの元があると聞いていたのを思い出し、
訪ねあてたのが
河原町三条下ル東側にある 鍛冶屋 源さんであった。

パラチフスは伝染病で、
病室へみだりに入らぬようにしていたが、
(深谷)源次郎は 家族を中に入れて 神様の話をし、
井戸で 水垢離をとってお願いをかけた。

(永尾)泰徳はじめ 家族の者は、
(深谷)源次郎に 人をたすける真実の姿を見た。

(永尾)義太郎の病は 日ならずして全快した。

永尾家は 多くの織子職人を抱える 西陣織の織元で、
その入信は 京都の道に 新風を吹き込んだ。

この年(明治十九年)の八月、
下鴨村より (永尾)泰徳の元へ
雨乞い祈願の依頼が来ている。

『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) P,77より

当記事では
『天理教事典』の中の「西陣大教会」についての記述を書き写したわけですが、
今回も知らないことばかりでした。

『道~天理教伝道史を歩く』の中に、
西陣大教会の永尾家は、
多くの織子職人を抱える「西陣織の織元」だ
と書かれてありました。

私は全然詳しくないのですが、
「西陣織」というのは 京都の高級織物ですよね。
その【織元】とのことですから、
(深谷) 京都の名家であられたのだと思います。

そうした社会的に地位のある方ですから、
当時 社会的に認められているとはとても言えない
お道の信仰に飛び込むことを決断するにあたっては、
とてつもなく大きなエネルギーが必要だったのではないか、
と想像いたします。

永尾泰徳先生にとって、
弟・永尾義太郎先生が重篤なパラチフス病をたすけて頂いたことの喜びが如何に大きいものだったのか、
ということだと思います。

『道~天理教伝道史を歩く』の中では、次のように書かれてありました。

パラチフスは伝染病で、
病室へみだりに入らぬようにしていたが、
(深谷)源次郎は 家族を中に入れて神様の話をし、
井戸で水垢離をとってお願いをかけた。

(永尾)泰徳はじめ家族の者は、
(深谷)源次郎に 人をたすける真実の姿を見た。

その部分を読んだ時に、
以前「筑紫大教会」の勉強をした際
「堤丑松」という先生のおたすけの激しさに衝撃を受けたことを思い出しました。

その勉強時に知ったのは、
「堤丑松」という先生のおたすけは、
おさづけを取り次いだ後、その人に向かって水を吹きかけ(!)
その後すぐに風呂へ入らせる というスタイルだった、
ということでした。

水を吹きけかる⁉︎
正直なところ、最初ちょっと引きましたが、
けれども、
その行為には、
実際に 次から次へと奇蹟的なご守護が生まれ、
多くの人がたすかっていった
という結果が伴っていました。

人に水を吹きかける等という行為は、
外形的には 非常識に見える行為です。
それは、
人の目を気にしていたら、とても出来ない行為でありましょう。

にもかかわらず
堤丑松先生が そのようなおたすけを続けられたのは、
人からどう言われようと構わない、
ただこの人にたすかってもらえればそれでいい、
という 自分自身を捨て切った心境に到達された結果ではないか、
と 私は想像しました。
また 何よりも、
そこに命懸けの真剣さが籠っていたことは疑いようのない事実だと思います。

河原町初代の深谷源次郎先生も、
パラチフス感染で重態となられた永尾義太郎先生のおたすけにあたって、
皆がためらう中、
その病室に 臆することなく入って行かれた。
そして、家族にも中に入ってもらい 神様の話をし、
井戸で水垢離をとって お願いをされた。

そこには、
堤丑松先生同様の、
自分はどうなってもいい、何とかしてこの人にたすかってもらいたい、
という 自分自身を捨て切った心境が溢れている、
同時に 命懸けの真剣さが籠っている、
と 私は感じました。

西陣織の【織元】という高い社会的地位のしがらみを乗り越えてでもこの道に飛び込もう、
と 永尾泰徳先生の心を突き動かしたのは、
深谷源次郎先生のそのような決死のおたすけの姿だったんだなぁ…
と、改めて教えて頂いた次第であります。

初期のお道の歴史には、
道の先人先生方の「迫力」といいますか「真剣さ」みたいなものが
満ち溢れていますね。

西陣大教会Googleストリートビューより②
Googleストリートビュー より

また、
大教会昇格奉告祭の準備期間中に起こった
永尾徳三郎2代会長のご身上と、
それを押して つとめ切ろうとする 決死の覚悟、
それに伴う たすかりの話にも
非常に感動しました。

それは、
(大教会昇格奉告祭の)祭典を目前にした (昭和15年) 5月に入った時(のこと)、
(永尾徳三郎)2代会長が、マラリヤ病と診断された(のである)。

役員信者の狼狽は一方ならず、(永尾泰徳)初代会長も、
「お前が出られなければ わしが出てやる」
とまで言った程で、
祭典をつとめることは 医者も無理だと言った。

しかし、(永尾徳三郎)2代会長は
「死んでも勤めさせて頂く」
と 固い決心を示した。

すると、不思議なことに、
祭典の前日には 熱が下がり
平常の健康状態となったのであった。

一同は 喜びとともに、大いに驚いた。
(そして)
神に仕えることの厳しさと、また 有難さを 
身にしみて 知らされた(のであった)。

私達は「決死の覚悟」という言葉を 軽い気持ちで使ったりしますが、
この時の永尾徳三郎先生は、
文字通りの「決死の覚悟」!

その覚悟は神様に届き、
永尾徳三郎先生は、
祭典の前日には熱が下がり 平常の健康状態となられ、
見事に 祭典を勤め切られた。

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】を始めて40回目になりましたが、
お道の初期の先生方の道すがらについての勉強を重ねるたびに、
道の先人先生方の取り組み方の真剣さに心を揺さぶられ、
その度合いは益々強くなっているような気がしています。

物質的な結構さに包まれた現代の私たちとは、
覚悟というか熱量が、
本当に「桁違い」だなぁ…と感じます。

せめて、
事あるごとにこのような史実に触れて、
すなわち、
初期の道の歴史の勉強を続けることを通して、
そのような先人先生方の熱量のお裾分けに預かりたい…
と、信仰落第生のさまよい人は願うのでありました。

西陣大教会Googleストリートビューより③
Googleストリートビューより

その他のことも含め、
今回もまた、本当に知らないことばかりでした。
いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「西陣大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】11回目である今回は、『天理教事典』に記載された「南海大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第12回)【芦津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】12回目である今回は、『天理教事典』に記載された「芦津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第13回)【高知大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】13回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高知大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】14回目である今回は、『天理教事典』に記載された「北 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第15回)【湖東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】15回目である今回は、『天理教事典』に記載された「湖東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第16回)【甲賀大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】16回目である今回は、『天理教事典』に記載された「甲賀大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第17回)【水口大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】17回目である今回は、『天理教事典』に記載された「水口大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第18回)【中河大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】18回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中河大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第19回)【名京大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】19回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名京大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第20回)【中和大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】20回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中和大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第21回)【櫻井大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】21回目である今回は、『天理教事典』に記載された「櫻井大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第22回)【筑紫大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】22回目である今回は、『天理教事典』に記載された「筑紫大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第23回)【越乃國大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】23回目である今回は、『天理教事典』に記載された「越乃國大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第24回)【名東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】24回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第25回)【麹町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】25回目である今回は、『天理教事典』に記載された「麹町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第26回)【日光大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】26回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日光大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第27回)【飾東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】27回目である今回は、『天理教事典』に記載された「飾東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第28回)【東本大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】28回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東本大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第29回)【嶽東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】29回目である今回は、『天理教事典』に記載された「嶽東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第30回)【島ヶ原大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】30回目である今回は、『天理教事典』に記載された「島ヶ原大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第31回)【堺 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】31回目である今回は、『天理教事典』に記載された「堺 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第32回)【御津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】32回目である今回は、『天理教事典』に記載された「御津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第33回)【城法大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】33回目である今回は、『天理教事典』に記載された「城法大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第34回)【生野大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】34回目である今回は、『天理教事典』に記載された「生野大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第35回)【東愛大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】35回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東愛大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第36回)【本島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】36回目である今回は、『天理教事典』に記載された「本島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第37回)【牛込大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】37回目である今回は、『天理教事典』に記載された「牛込大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第38回)【深川大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】38回目である今回は、『天理教事典』に記載された「深川大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第39回)【浅草大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】39回目である今回は、『天理教事典』に記載された「浅草大教会」についての説明を書き写しました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました