天理教 各教会の歴史探索(第44回)【笠岡大教会】『天理教事典』より

「笠岡大教会」事典書写アイキャッチ画像 天理教各教会歴史

Dear everyone,

こちらは、
ふらふら彷徨う「さまよい人」による
『さまよいブログ』
= 彷徨う新米教会長の【自己学習ノート】です。

今回も、
『天理教事典』(1977年版)に記載された
各大教会の歴史、流れをそのまま書き写す
【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】です。

私の教会にあるもの👇(=当シリーズ参考資料)

最新版👇

このシリーズを始めた理由については、
当シリーズ初回記事の冒頭に記述しています。

前回は、
教会番号43番「神川大教会」の『天理教事典』記述を書写して
その歴史を勉強しました。

今回は、
教会番号44番「笠岡大教会」について勉強します。

  1. 笠岡大教会(かさおか だいきょうかい)
    1. 上原一家の入信(明治13年)
    2. 上原一家のおぢばがえり(明治13年〜明治14年頃)
    3. 備中真明組の誕生(明治16年頃〜明治18年頃)
    4. 上原サト初代会長時代
      1. 上原サトの生い立ち(嘉永4年〜明治7年頃)
      2. 大阪時代の上原サト(明治10年頃〜明治18年頃)
      3. 上原サト初代会長の笠岡布教(明治19年〜明治20年頃)
      4. 備中真明組・上原サト講元のおぢば帰り〜「寄所」設置・移転(明治19年〜明治22年頃)
      5. 笠岡の道の広がり(明治19年頃〜明治22年頃)
      6. 笠岡支教会の設置(明治24年〜明治25年頃)
      7. 内部対立の発生〜回復(明治25年頃〜明治27年頃)
    5. 上原伊助2代会長時代
      1. 上原伊助2代会長の就任(明治28年)
      2. 内務省秘密訓令発布下、苦難の移転建築ふしん(明治29年頃〜明治27年頃)
      3. 教師整理の通達〜苦難の道中(明治35年頃〜明治40年頃)
      4. 教祖20年祭〜教勢回復(明治39年〜明治40年頃)
      5. 支教会から笠岡分教会へ(明治41年〜明治42年)
      6. 教会内容の充実(大正元年頃〜大正4年頃)
    6. 上原繁雄3代会長時代
      1. 上原繁雄3代会長の就任(大正10年)
      2. 教祖殿・初代会長室の建築(大正12年)
      3. 教祖40年祭活動〜創立40周年記念祭(大正15年頃〜昭和2年)
      4. 昭和初期の動き(昭和3年頃〜昭和9年頃)
      5. 芦津大教会からの分離、笠岡中教会への昇格(昭和10年)
      6. 笠岡大教会への昇格(昭和15年)
      7. 上原サト初代会長の出直し(昭和17年)
    7. 上原郁雄4代会長時代
      1. 上原郁雄4代会長の就任(昭和26年)
      2. 勇み立つ移転建築ふしん(昭和41年〜昭和46年)
  2. おわりに
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笠岡大教会(かさおか だいきょうかい)

笠岡大教会Googleストリートビュー③
Googleストリートビュー より

上原一家の入信(明治13年)

笠岡の道は、上原家の入信に始まる。

上原佐吉は
明治のはじめ、大阪 長堀川に店舗を構え、
畳表問屋として、全国的な 手広い商いをしていたが、
明治12年 おいの (上原)佐助に 家業をゆずった。

しかし、
畳表と米穀類の暴落により、
商売を整理縮小して、
一時、
谷町9丁目の近くに 仮住まいしていた。

明治13年(1880) 正月、
(上原)佐助は いつもの理髪屋・床駒で、
初めて 
天理王命の神名と「をびや許し」の珍しいお話を聞いた。

(上原佐助は その話に) 感心し、
家に帰って 妻のサトと話合った。
そういう結構な神様なら、一度話を聞いて見よう、
と いうことになった。

隠居の(上原)佐吉夫婦とも相談し、
(理髪屋) 床駒の計らいで、
小松駒吉に来て貰った。

(上原家一同の者は)
(小松駒吉から)数時間 話を聞いて(感銘を受け)
早速、神様を祀り、
翌朝から 礼拝しはじめた。

上原一家のおぢばがえり(明治13年〜明治14年頃)

(上原)佐吉は、
(甥の)佐助の妹・笠原イシも引き取って世話をしていたが、
(笠原)イシが心臓病に苦しんでいたので、
一家揃って 神様にお願いしたところ、
次第に回復し、1ヵ月余で全快した。

(明治13年) 4月に (笠原)イシ
天恵組の人達と共に 初めて おぢば帰りをした。

翌年(明治14年) 4月 
(上原)佐吉夫婦、(上原)佐助、(笠原)イシ達は、
一家連れ立って おちば へ参拝し、
教祖にお目にかかった。

教祖は大層お喜び下さって、
筍や小芋、ごぼうの煮しめなどを お手ずから小皿に盛り、
更に 盃にお神酒を注いですすめて下さり、
いろいろと 有難いお言葉を頂いた。

その後も 家族は 度々 おぢばへ帰り、
その都度、教祖から 結構なお言葉や、種々 品物を頂戴した。
赤衣を賜わったのも、その頃の事であった。

備中真明組の誕生(明治16年頃〜明治18年頃)

明治16年(1883)、
(上原一家は)
本店をたたみ、くろがね橋の支店に移った。

こうして(上原一家は)
天恵5番 講元・小松駒吉から話を聞いて 信仰をはじめ、
更に、
頼まれて (上原佐助が) 天恵2番の講元をつとめた事もあった。

(ただ)
真明組講中との個人的なつながりから、
(上原一家は)
笠岡に帰ってからも、
「備中真明組」と称するようになった。

明治18年(1885) 6月、
(上原)佐吉夫婦、(笠原)イシみつの4名は
出身地・備中笠岡 (岡山県笠岡市笠岡)へ帰った。

(上原)佐助、サト夫婦は 大阪に留まっていたが、
(上原)佐助 (後の東大教会 初代会長) は 東京行きを決意し、
(明治18年) 7月、単身・海路東京へ向かった。

『稿本天理教教祖伝逸話篇』
127.東京々々、長崎

明治十六年秋、上原佐助は、おぢばへ帰って、教祖にお目通りさせて頂いた。
この時はからずも、教祖から、「東京々々、長崎。」というお言葉を頂き、赤衣を頂戴した。

この感激から、深く決意するところがあって、後日、佐助は家をたたんで、単身、赤衣を奉戴して、東京布教に出発したのである。

上原サト初代会長時代

上原サトの生い立ち(嘉永4年〜明治7年頃)

上原サトは、
嘉永4年(1851) 伊賀上野(三重県上野市)西町で、
川合清兵衛、ふみの4女として生まれた。

20歳の時、行儀見習に大阪へ出て 奉公した。

その際、身元を引受けてくれたのが、
川合家と取引きのあった 上原佐吉であった。

その縁から (上原)佐吉夫婦に気に入られ、
(後継者である甥の) 佐助の嫁に と請われて、
明治7年 陰暦2月、上原家の人となったのである。

大阪時代の上原サト(明治10年頃〜明治18年頃)

明治10年 正月、女子(長女・みつ) 出産。

その後、7〜8年の間に 6人の子供が生まれたが、
家業整理の最中の事で、
里子に出したり、あるいは 親族に預けたりして、
(上原サトは) やっと 家の中をきり回してきた。

(商売が行き詰まり)
(舅姑の)佐吉夫婦と (上原佐助サト夫妻長女の) みつ(出身地の)笠岡へ、
(夫の)佐助は 東京へ旅立った。

(そのような状況の中)
(嫁の上原サトは)
一人 大阪に残って、
女手一つで 家計のやりくりに奔走していた。

上原サト初代会長の笠岡布教(明治19年〜明治20年頃)

(その後) 
(明治)19年 5月、
(上原サトは)
(舅の)
佐吉にせがまれて、
(上原家の出身地である) 笠岡で 
家族と 生活を共にする事になった。

(上原)サトが 笠岡へ引揚げて来た日、
旧知の婦人が 挨拶にかけつけて来た。

その夫が持病で困っていると聞いて、
(上原サトは) 早速、御供を与えた。
そうしたところ、
鮮やかに 神様の御守護を頂いた。

これが 笠岡での最初の伝道となり、
このことが 人の口から口へと伝わった。

しかし 
(上原サトが笠岡へ引揚げてきた)翌日、
不幸にも、姑・八重が出直した。

(そのため)
人々は遠慮していたが、
跡片付けが終わると、
(それを)待ちかねたように
たすけを乞うて尋ねて来る者が
後をたたなくなった。

(それによって、上原サトが) 
片手間にはじめようとした小間物屋の方には 
手が回りかね(るような状態になった。)

こうして 1〜2年の内に、
「笠岡」の信仰の勢いは
四方八方に またたく間に広がっていった。 

備中真明組・上原サト講元のおぢば帰り〜「寄所」設置・移転(明治19年〜明治22年頃)

明治19年(1886) 8月、
(舅の上原)佐吉が 病気のため 
おぢばへ願出たところ、
おさしづを頂いて 病気の方はすっきり全快した。

また、明治21年、教祖1年祭には、
(上原)サトは「備中真明組」講元として、
おぢばへ帰り 参拝した。

その年(明治21年) には、
称念寺橋の家 (笠岡市西本町西にあった借家)では狭すぎる有様となったので、
州崎(笠岡市殿川南州崎)に「寄所」を設けた。

しかし、
尚も信者は増すばかりなので、
明治22年 5月、
八幡道(笠岡市川南)の 郷塾敬業舘(江戸時代の塾)跡を買入れ、
「寄所」を移転した。

同年(明治22年) 8月(には)
(舅の上原)佐吉が、
多数の熱心な信者を連れて おぢばに帰り、
「かんろだいのさづけ」を拝戴した。

笠岡の道の広がり(明治19年頃〜明治22年頃)

明治19〜20年には、
主だった人々の入信が相次ぎ、
信者戸数100を越える記録がある。

年と共に(信者は)増加し、
(明治)21年末 400戸、
(明治)22年の半ばには 550戸という状態であった。

明治21年 9月に
正副取締や 周旋方等の役員を互選し、
昼夜の別なく押しかける信者の応対に、
役員、周旋方が交替で当たり、
神様のお話の取次ぎをした。

この頃(明治21年頃)から 月々、
おぢばがえりする者が 続出した。

笠岡支教会の設置(明治24年〜明治25年頃)

明治24年(1891) 9月、
教会設置の気運が起こり、
委員が協議して、設置の願書を提出した。

同年(明治24年) 10月11日、
岡山県備中国小田郡笠岡村大字笠岡863番邸に、
上原サトを担任として、
「笠岡支教会」設置の許しを得た。

明治25年、教勢伸展に伴い、
信者を地区別に統合して、第1号から第10号まで区分し、
これに講元を設けて 指導にあたった。

それが部属教会設置のきざしとなり、
(明治25年) 10月には 4ヵ所の教会が誕生した。

内部対立の発生〜回復(明治25年頃〜明治27年頃)

明治25年、
(上原サト) 初代会長の長女・みつの縁談がととのい、
島村伊助 (高知大教会初代会長・島村菊太郎の弟) を迎えて
養子と定めることになった。

(その当時は)
初代会長が女であったため、
対外的には 副会長が補佐していた。
そのこともあり、
また 後継者問題も絡んで、
翌(明治)26年の役員改選から 
(内部で) 対立が生じるようになった。

主だった者の中からも、
教会から離れ 信仰から遠のく人が相次いだ。

(しかし) 明治27年には
本席・飯降伊蔵を迎え
(一同で教勢の回復に励んだ結果) 
沈滞した教勢も やや復調し、
年末の信者数は 1,000人を数えるに至った。

上原伊助2代会長時代

上原伊助2代会長の就任(明治28年)

明治28年(1895) 4月2日、
初代会長・上原サトが辞任し、
上原伊助が 2代会長に就任した。

内務省秘密訓令発布下、苦難の移転建築ふしん(明治29年頃〜明治27年頃)

ある時、
(上原伊助)2代会長が 歯痛のため 
本席に伺ったところ、
普請(ふしん)の おさしづが下った。

(おさしづを受け、ただちに一同駆け回り)
部内教会から地所の献納もあって、
普請(ふしん)の話は 直ぐにまとまった。

(そして)
明治29年 2月3日、
笠岡町字田頭5077番の670坪に 移転建築の許しを得て、
普請(ふしん)にとりかかった。

(ふしんが始まると)
遠近から集まる信者は 毎日3〜40人は下らず、
遠い者は 近い信者の家に泊まって精を出し、
近い者は 炊出しの面倒も見ながら 普請(ふしん)を進めていった。

だが、
(明治29年) 4月6日、
突如 内務省秘密訓令が発令された。

(それを受けて)
きびしい当局の取調べが始まり、
それは 普請(ふしん)の寄付金の出所に集中した。

(取締当局は)
信者を戸別に訪問して問いただし、
工事は 昼夜警官が見張って取締まった。

(そうした困難な状況となってからも)
(上原伊助)2代会長は、
神様の普請(ふしん)に 何の臆する事があるか と、
堂々と 建築を続けた。

(しかし)
取調べを受けた信者の中には ためらう者もあって、
思うようにならない面が 多々あった。

(そのような困難も 一同の真実で乗り越えて)
神様の普請(ふしん)は、
その年の暮近くに (無事)完成した。

明治29年 12月18日、
上級・芦津分教会長、井筒梅次郎祭主のもとに 遷座祭を執り行い、
翌日(12月19日)から、
開講祭、月次祭、入社祭、神霊祭 と
5日間に亘って 祭典が執行された。

教師整理の通達〜苦難の道中(明治35年頃〜明治40年頃)

明治30年代に入って、
さらに信仰は 各方面に浸透していった。

部属教会15ヵ所、集談所17ヵ所となった。

(順調に教勢が伸展する中)
明治35年、教師の素質向上を計るため(という名目で)
教師整理の達しがあった。

(それを受けて) 笠岡でも、
やむなく 数十名の(教師の)整理を行った。

(しかし) これは
人々の盛上がる気運に水をかけた結果となり、
信者の先々にまで 影響は及んだ。

折から
島根県下の部属教会2ヵ所が、
県令をもって取消しとなった。

死をもいとわぬ役員数名を残し、
他の者は 涙を呑んで離散していった。

この悲報は更に大きな痛手となり、
中には 行先に不安を感じて、
信仰から離れる者が現われた。

こうして
明治40年代まで、
誠に険しい 谷底時代が続いた。

信者の足は遠のき、
行き詰まりは 経済問題と重なり、
苦難の道中となった。

教祖20年祭〜教勢回復(明治39年〜明治40年頃)

明治39年(1906) 教祖20年祭が執行された。

(前述のごとき) どん底にあえぐ中からも、
(やがて) あちこちと不思議な御守護に浴する者が現われ、
300名近い人数が おぢばに帰って、
眼の当たりに年祭を拝し、
その感激を国々へ伝えた。

かくて
年祭を契機に (笠岡支教会にも) 活気が戻ってきた。

支教会から笠岡分教会へ(明治41年〜明治42年)

明治41年(1908) 天理教一派独立により、
笠岡は 支教会から分教会と改称。

翌年(明治42年)の改称奉告祭には
参拝者は 1,000名を越えた。

この時、
部属教会 14ヵ所、 布教所 17ヵ所、信者数 約2,700名
であった。

教会内容の充実(大正元年頃〜大正4年頃)

大正に入って 婦人会、青年会が発会し、
各地の布教活動も活発化して、
部属教会も 次々と設立された。

大正4年 5月、
(上原伊助)2代会長の次女・くにゑの婿として、
大阪から 宮田繁雄 を迎えた。

上原繁雄3代会長時代

上原繁雄3代会長の就任(大正10年)

大正10年、
(上原伊助)2代会長が病の床に臥し(たため)
会長変更の出願手続をとり、
(大正10年) 6月2日、
3代会長・上原繁雄 就任の許しを得た。

(上原伊助2代会長の) 病床に報告したのは (6月)3日の朝で、
その後 (2代会長の)容態急変し 
(上原伊助2代会長は)
遂に 出直した。

教祖殿・初代会長室の建築(大正12年)

(上原繁雄)3代会長は 
(上原伊助)2代会長の遺志と 次男の病気から、
教祖殿と初代会長室の建築に踏切り、

大正12年 1月に 着工した。
(そして)
翌年(大正13年) 4月に 無事竣工。

教祖40年祭活動〜創立40周年記念祭(大正15年頃〜昭和2年)

(そして、笠岡支教会は)
教祖40年祭の教勢倍加の声に遅れじと、
懸命の努力の末、教会数72ヵ所を数えるに至った。

(大正15年の) 教祖40年祭に
はじめて 3回団体列車を出し、
計1,700名が 参拝した。

昭和2年(1927) 5月、
創立40年記念祭を執り行った。

昭和初期の動き(昭和3年頃〜昭和9年頃)

昭和3年、
笠岡青年会機関誌『無垢華』を改めて、
分教会機関誌『国の柱』とし、
部内への働きかけ教是の推進を計った。

また、この3年に (笠岡)分教会史の編さんに取りかかり、
(昭和)7年に 完成した。

参拝者も年々増えて諸行事に差支えるため、
付属建物増築が計画された。

ふしんは付属建物の大半の建直しと、
役員住宅の新築とであった。

昭和6年(1931) 5月、
材木も到着して ふしんも俄かに活気づき、
連日 ひのきしん に勇み、
翌(昭和)7年 3月、無事竣工した。

また、
ふしんの計画と時を同じくして、
昭和5年に おぢば参拝の列車団体が計画され、
2・6・10月の 年3回 実施された。

この列車利用の帰参団体は、
戦中戦後の数年間を除き、
伝統ある行事として、
現在 (=『天理教事典』1977年版 出版当時) も 益々 盛んになっている。

芦津大教会からの分離、笠岡中教会への昇格(昭和10年)

昭和10年 4月24日、
教祖50年祭前の時期であったが、
願出て 芦津大教会より分離し、中教会に昇格。

これにより
丹波市町田16番地に 2,615坪の敷地を購入して 詰所とした。

この時、部属教会は 132ヵ所であった。

笠岡大教会への昇格(昭和15年)

つづいて
昭和15年(1940) 2月10日に、
「笠岡大教会」に昇格したのであった。

上原サト初代会長の出直し(昭和17年)

昭和17年 9月10日、
初代会長・上原サトは、
92歳の長寿をもって 出直した。

当時、(上原繁雄)3代会長は
台湾伝道庁長として 在任中のことであった。

上原郁雄4代会長時代

上原郁雄4代会長の就任(昭和26年)

昭和26年(1951) 1月26日、
(上原繁雄)3代会長・上原繁雄 辞任し、
3代会長の 3男・上原郁雄が
4代会長に就任した。

その年(昭和26年) 12月7日、
2代真柱を迎えて、
就任奉告祭 並びに 創立60周年記念祭が執り行われた。

勇み立つ移転建築ふしん(昭和41年〜昭和46年)

昭和41年、
教祖80年祭の喜びと感激の消えやらぬ 昭和41年 2月20日、
笠岡のふしんが始められた。

移転建築と決まり、
年末の12月5日、
笠岡市用之江377番地に 7,882坪の購入契約。

翌(昭和)42年から 建築設計の具体案が進められ、
その間 敷地への参道工事、井戸掘に着手して完了、
秋には 設計案の大綱が定まった。

昭和43年の年頭会議に、
昭和46年をふしん完成目標の年と定める事に決定。

ふしんの推進と同時に、
この年(昭和43年)は 別席者5,000人達成をスローガンとして、
「推進隊」を結成して 強力な活動を展開した。

昭和44年 6月26日、
移転建築の許しを得て、
昭和45年 5月26日 建築模様替の許しも得、
6月1日 起工式をもって 工事は始められた。

(その後)
ふしんは 予定通り順調に進み、工事完了。

昭和46年 11月10日、
真柱夫妻を迎えて鎮座祭、
翌 11月11日 午前10時より
移転建築奉告祭 並びに 創立80周年記念祭を執行した。

集まった参拝者は 5,000人を越え、
1万坪の広い境内も人波で埋まる程の 盛況であった。

〔現住所〕〒714-0066  岡山県笠岡市用之江377番地 
〔電話〕0865-66-1311 

(昭和50年12月31日調「天理教統計年鑑」昭和50年度版

(『天理教事典』1977年版 P,190〜193)

おわりに

笠岡大教会写真①
GoogleMapより

天理教各大教会の歴史を知りたいとの思いで始めた
天理教 各教会の歴史探索シリーズ】。

44回目の今回は、
「笠岡大教会」初期の歴史を勉強しました。

当シリーズの 参考教材は『天理教事典』の【1977年版】。

とても古い資料なので、
記載内容も 1970年代以前までとなっており、
かなり昔の歴史にとどまっています…

しかし、私が知りたいのは 各大教会の初期の歴史。
十分 私のニーズは満たされるので、
そのまま書写し続けております (^_-)-☆

笠岡大教会GoogleMapより①
GoogleMapより

『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編) という本の中に
笠岡大教会初代・上原家入信に関する記述がありましたので、
『天理教事典』解説文と重なりますけれども、
後学のために書写致します。

大阪 谷町九丁目近くに住む上原家は、
「江戸積みでは備佐が一番」
と はやされた 畳表問屋であった。

が、明治十二年暮れ、
米穀も畳表も暴落し、商売は落ち目となった。

翌年(明治十三年)正月、
養嫡子 佐助は 理髪店 床駒の主人・安藤駒吉より、
をびやの御守護の話を聞き、妻 さとに 感銘深く 話して聞かせた。
さとは 舅の佐吉に伝えた。

十八年、店は いよいよ行き詰まった。

佐吉、八重夫婦と 長女・みつが 岡山県笠岡へ帰郷、
佐助は 東京の同業者を頼って旅立った。

さとは 独り備佐の後始末に心を砕いた。
人生の最も深い悲哀に浸ったのはこの頃で、
芦津の本田寄り所へ幾度も通った。

十九年六月、舅姑のもとへ引き揚げた。
姑・八重は、さとが笠岡へ着いた日の翌日、息を引き取った。

かつての乳母 神保まんが駆けつけた。
まんの夫・庄兵衛が腹痛で悩んでいると聞いた さとは、
芦津で頂いた御供を与え、ともども天理王命に真剣に祈るよう伝えた。

治った噂が 辺り一面に広まった。

さとは 民家を借りて小間物店を開いたが、
おたすけは 一気に燃え盛り、
明確にわかっているだけでも、ニ十年には 三十七戸が入信している。

二十四年に 笠岡支教会を設置した。

『道~天理教伝道史を歩く』(道友社編)P,94

【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】44回目の当記事では
『天理教事典』の中の「笠岡大教会」についての記述を書き写して勉強しました。

笠岡大教会は、芦津大教会から分かれた大教会ですね。
芦津大教会については、以前勉強して記事を投稿しました。

「笠岡大教会」の初代会長は、上原サト先生。

上原サト先生は、「東 大教会」初代・上原佐助先生の奥様。
ご夫婦揃って「大教会」の初代会長なのですね。

この【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】は
天理教直属教会の教会番号順に勉強して、今回で44回目。

その中で、女性が初代会長なのは、教会番号28番「東本大教会」の中川よし先生に続いて お二人目です。

(ちなみに、教会番号41番「大縣大教会」も、増井りん先生が基礎を築き上げられたわけですから、女性が初代会長というイメージ。
…しかし、教会組織化する時点で 増井りん先生はおやしきに住み込んでおられまして、
「大縣支教会」としての初代会長は、息子である増井幾太郎先生です。)

男尊女卑の考え方の強い明治時代に、女性でありながら 組織立ち上げ時のトップに就任するというのですから、東本の中川よし先生もそうでしたが、よほど 人々の強い信頼を得ていたのだろう、と想像いたします。

ご主人・上原佐助先生が 東京の「東 大教会」の道を付けられ、その奥様である上原サト先生は、岡山の「笠岡大教会」の道を付けられた。

東西大きく離れた地で、ご夫婦揃って、それぞれ別々に、天理教の東西の大きな拠点を打ちたてられた‼︎

詳しく調べていないので間違っているかもしれませんが、ご夫婦が、それぞれ別々で「大教会」の【初代会長】になられているのは、上原先生ご夫妻だけではないでしょうか。
(間違っていたらスミマセン)

そのような実績を知ると、当然、そこに至る原点はどこにあるのだろう、と 気になるところであります。

東西大きく離れた地で、ご夫婦がそれぞれ別々に、天理教の大きな拠点を築き上げるに至った原点は何だったのかーー

『天理教事典』1977年版には、
「上原家」がこの道を歩むようになった最初のきっかけは、理髪屋・床駒で、天理王命の神名と をびや許しの珍しい話を聞いたことだった、
と書かれてあります。

そこからお道とご縁ができて、理髪屋・床駒の仲介で、小松駒吉先生から この道のお話を聞いた。
その話を聞いて深い感銘を受け、早速神様をお祀りし、翌朝から礼拝し始めたのだ、と。

床屋で聞いたお話が出発点‼︎  (゚o゚;;

ご夫婦がそれぞれ別々に「大教会」の初代会長をつとめられるほど、人々に大きな影響力をもたらすご家族を生み出した原点は、
奇蹟的な御守護があって…とか、複雑な事情を助けられて…とか、と いうことではなくて、お話を聞いて 深い感銘を受けたことによるものだった。(゚Д゚;)

すなわち、「上原家」の先生方は、
湖東大教会初代の佐治登喜治良先生、牛込大教会初代の古田栄五郎先生、深川大教会初代の木村八十八先生、等のように、身上・事情の節を通してではなく、お話を聴いて感銘を受けて…
というタイプの入信だった、ということですね。

信仰というものに対して、常に 逃げ越しの私などは、
お話を聴いただけで 深いところまで入って行き 揺るぎなき信念を掴むに至られている、という事実に、
ただ純粋に 驚きと感動を覚えるばかりなのであります。

以前の【天理教 各教会の歴史探索シリーズ】の中で「牛込大教会」の勉強をした際、
牛込初代の古田栄五郎先生は、当時 東京で独りで布教中であった上原佐助先生から天理教の話を聞き 深く感じ入り、話を聴き始めて3日目には 仏壇を売り、過去の一切を断ち、信仰に飛びこんだのだ、
と学びました。

その際、私は「おわりに」の中で次のように書きました。

今も昔も、
どれほど尊い真実の話を聞こうと全く心に響かない人がたくさん居る中で、
(古田栄五郎先生は) たった3日間(!) お話を聞いただけで、これこそ「本物」だ!と確信し、
躊躇なく先祖から受け継いだものを全て捨て そこへ飛び込んでいかれた。

その感性――これは、もう理屈ではなくて、
魂の感受性…のようなものがあって そこが強く働いた、
とでも考えなければ 理解できない事象のような気がします。

お道的に言えば、魂の「いんねん」がそうさせた…
と言えるかもしれません。

上原家の先生方の入信も、この感想がぴったり当てはまるのではないか、という気がします。

しかも、ご夫婦揃って、「大教会」の初代会長!
まさしく、そのような魂の「いんねん」をお持ちの先生方に相違ない!
そのように 私は感じます。

笠岡大教会Googleストリートビュー①
Googleストリートビューより

いずれにしても、
今回もまた、『天理教事典』1977年版「笠岡大教会」解説文の書写しを通して、今まで知らなかったことを多く知ることが出来ました。

笠岡初代の上原サト先生は、
伊賀で生まれ育って、行儀見習いで大阪へ奉公に出た際に、身元引受人となったのが、畳表問屋のご商売をしておられた上原佐吉先生だった。

そこから上原家とご縁ができ、気に入られて そこの嫁として 上原家の人となられた、というわけですね。

ご商売がうまくいかなくなり、舅姑である上原佐吉ご夫婦が 娘さんを連れて 出身地である笠岡に帰って行き、夫である上原佐助先生も東京布教へ出発されて、上原サト先生は、一人 大阪に残された。

一人 大阪に残った上原サト先生の心境は どんなものだったのでしょうか。

東京へ布教に行ってしまった夫(上原佐助先生)を追いかけて行くわけにもいかない…
かといって、義理の関係である舅姑のいる、見ず知らずの笠岡へ行くのは気が重い…

私が参考にしているのは『天理教事典』1977年版のみなので、細かい背景事情はわかりませんが、その当時の上原サト先生の心境というのは、もしかしたら、以上のような感じだったのかもしれない…と、勝手に想像するのでありました (^^ゞ

しかし、その後、上原サト先生は、舅の上原佐吉先生にせがまれて、結局、上原家の出身地である笠岡へ赴かれ、夫抜きの家族と 生活を共にする事になられた。

そして、その笠岡の地で、多くの人にこの道の教えを伝え 広め、「笠岡大教会」という 見事な教えの拠点を築き上げられたのでありました。

今回の「笠岡大教会」についての勉強は、
ご主人(上原佐助先生)が東京、そして、その奥様である上原サト先生が岡山西部の笠岡、日本の東西に分かれて、ご夫婦それぞれ別々に「大教会」を築き上げた、
という 上原ご夫妻の偉業を知る機会となりました。

そしてそれは、これまで 夫である上原佐助先生側の視点しかなかった男の私の視野に、妻である上原サト先生側から見る視点を加える機会ともなりました。

大阪に一人残されて、上原サト先生、さぞ心細かっただろう…みたいな感じで。

人間は、知らず知らずの内に、固定された視点からとらえたステレオタイプの認識に囚われがちですから、女性側から見るという今回の学習は、私にとって、複数の視点を確保し 視野を広げる 良い機会となりました。
有難いことでした。(⁎ᵕᴗᵕ⁎)

笠岡大教会Googleストリートビュー②
Googleストリートビュー より

また今回も、ダラダラと「あとがき」を書いてしまいました。お恥ずかしい限りです。
書き写しを通して いろいろと知ることができて、とても勉強になりました。

「人に歴史あり」
組織にも歴史あり…
歴史を踏んで今がある――

だからこそ、
今を輝かせるためには
「元一日」を振り返るということが不可欠なのでしょう。

ということで――
今回は「笠岡大教会」初期の歴史の勉強でした。

人生、死ぬまで勉強。
今後も、勉強し続けていきたいと思います。

ではでは、今回はこのへんで。

天理教 各教会の歴史探索(第1回)【郡山大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】初回である今回は、『天理教事典』に記載された「郡山大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第2回)【兵神大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】2回目である今回は、『天理教事典』に記載された「兵神大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第3回)【山名大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】3回目である今回は、『天理教事典』に記載された「山名大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第4回)【船場大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】4回目である今回は、『天理教事典』に記載された「船場大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第5回)【河原町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】5回目である今回は、『天理教事典』に記載された「河原町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第6回)【撫養大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】6回目である今回は、『天理教事典』に記載された「撫養大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第7回)【東 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】7回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第8回)【敷島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】8回目である今回は、『天理教事典』項目 及び その他ネット上で見つけた「敷島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第9回)【日本橋大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】9回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日本橋大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第10回)【高安大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】10回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高安大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第11回)【南海大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】11回目である今回は、『天理教事典』に記載された「南海大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第12回)【芦津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】12回目である今回は、『天理教事典』に記載された「芦津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第13回)【高知大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】13回目である今回は、『天理教事典』に記載された「高知大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第14回)【北 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】14回目である今回は、『天理教事典』に記載された「北 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第15回)【湖東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】15回目である今回は、『天理教事典』に記載された「湖東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第16回)【甲賀大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】16回目である今回は、『天理教事典』に記載された「甲賀大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第17回)【水口大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】17回目である今回は、『天理教事典』に記載された「水口大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第18回)【中河大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】18回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中河大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第19回)【名京大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】19回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名京大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第20回)【中和大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】20回目である今回は、『天理教事典』に記載された「中和大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第21回)【櫻井大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】21回目である今回は、『天理教事典』に記載された「櫻井大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第22回)【筑紫大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】22回目である今回は、『天理教事典』に記載された「筑紫大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第23回)【越乃國大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】23回目である今回は、『天理教事典』に記載された「越乃國大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第24回)【名東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】24回目である今回は、『天理教事典』に記載された「名東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第25回)【麹町大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】25回目である今回は、『天理教事典』に記載された「麹町大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第26回)【日光大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】26回目である今回は、『天理教事典』に記載された「日光大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第27回)【飾東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】27回目である今回は、『天理教事典』に記載された「飾東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第28回)【東本大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】28回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東本大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第29回)【嶽東大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】29回目である今回は、『天理教事典』に記載された「嶽東大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第30回)【島ヶ原大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】30回目である今回は、『天理教事典』に記載された「島ヶ原大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第31回)【堺 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】31回目である今回は、『天理教事典』に記載された「堺 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第32回)【御津大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】32回目である今回は、『天理教事典』に記載された「御津大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第33回)【城法大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】33回目である今回は、『天理教事典』に記載された「城法大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第34回)【生野大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】34回目である今回は、『天理教事典』に記載された「生野大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第35回)【東愛大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】35回目である今回は、『天理教事典』に記載された「東愛大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第36回)【本島大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】36回目である今回は、『天理教事典』に記載された「本島大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第37回)【牛込大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】37回目である今回は、『天理教事典』に記載された「牛込大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第38回)【深川大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】38回目である今回は、『天理教事典』に記載された「深川大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第39回)【浅草大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】39回目である今回は、『天理教事典』に記載された「浅草大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第40回)【西陣大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】40回目である今回は、『天理教事典』に記載された「西陣大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第41回)【大縣大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】41回目である今回は、『天理教事典』に記載された「大縣大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第42回)【社 大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】42回目である今回は、『天理教事典』に記載された「社 大教会」についての説明を書き写しました。

天理教 各教会の歴史探索(第43回)【神川大教会】『天理教事典』より
この記事は、現在の天理教を支えている天理教各大教会の大雑把な歴史を学ぶことを目的として『天理教事典』の大教会情報を教会番号順に書き写す自己学習の足跡です。 【天理教各教会の歴史探索シリーズ】43回目である今回は、『天理教事典』に記載された「神川大教会」についての説明を書き写しました。

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